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28話 春の日、雨の路地裏で



 そうして、時は動き出す。まるで目覚まし時計が鳴った朝のように、唐突に。


 『目覚まし時計っていうのはな、昔は水で作られていたんだ。水を溜めて、容器から溢れ出したときに音が鳴る。何事もいつかは溢れ出すもんだ。それが始まりの合図ってことだな』

 祖父だって、時にはそんな話をするときもあった。決まって、寝坊した日の朝にこういう時計の蘊蓄(うんちく)が垂れ流されるのだ。


◇◇◇


 約束の金曜日だ。


 フライデーマーケット当日。残念ながら天気が悪く、今にも雨が零れ落ちてきそうな空だった。


 クロルは雨が嫌いだ。だから、宿屋の窓から顔を出して空を見たときに、とても嫌な感じがした。出掛けたくないと思ったけれど、仕事は真面目に。時計の針が、正午まであと二時間を切ったときに部屋を出た。


 階下にいくと、カフェスペースには掃除をしているレヴェイユの姿が。キッチンを見れば、トリズが珈琲を淹れていた。レイは朝早くに出掛けたようで不在。マスターはずっと腰が悪い。


 クロルは少しだけ迷った。レヴェイユと一緒にいるべきか。いや、今日はトリズが宿屋にいるのだから、アリバイ証明は任せて出掛けるべきだろう。目配せすらせずとも、トリズとは意思疎通が取れていた。


 そこでレヴェイユがパタパタと駆け寄ってくる。


「クロル、おでかけ? ふふっ、髪がはねてるわよ?」

「ホントだ」


 柱時計のガラスに映った自分を見て、前髪をぐしゃぐしゃとテキトーに直した。直しながらも、クロルは今日の予定を告げる。ぐしゃぐしゃでも美しい。


「ちょっと気晴らしに街歩きでもしようかなーって。何か記憶が戻るかもしれないし」

「ランチはどうする?」

「何時に戻るかわかんないし、用意してくれなくて大丈夫。ありがと」

「お、お金はあるの……?」


 レヴェイユがポケットからお金を取り出そうとしたので、クロルは「ごめん、これ」と言って、荷物の中からパンを取り出してみせた。


「キッチンにあったパンをソワった……」

「ふふっ、可哀想な人ね」

「笑うな。……レーヴェの予定は?」

「お買い物で少し出掛けるかも。でも、なるべく早く帰らないとね。今日はレイもマスターもいないもの。急にお客様が来たときに困っちゃうでしょ?」

「お客様? カフェは休業日だろ?」

「実はね、ここは年中無休の大人気宿屋なの~」

「あ、そうだった。忘れてた」


 そこで柱時計を見ると、フライデーマーケットの開始時間が迫っていた。


「っと、いけね。そろそろ行かないと。いってきまーす」

「いってらっしゃい。馬車に気をつけてね。暗くなる前に帰ってきてね」

「子供か」

「そんな子供のクロルに朗報。今日は夕食のデザートに苺のショートケーキを作ってあります」

「早めに帰る」


 思わず瞳を輝かせて返事をする。子供だった。

 


 そうして、顔面芸術品のクロルは、当然のようにヒッチハイク的なことをして王都の北通りまでやってきた。顔が良くて本当に良かった。無一文で投げ出されたところで、どうにか食いつないでいけるのだから。顔パス決済。


 ―― 本当にソワールが出没すんのかなー


 クロルは移動しながらも、潜入してからのことを思い返していた。


 ―― 宿屋に潜入してから、ソワールが出没した窃盗事件はたぶん二件だけ。大粒エメラルドのやつと、高級レストランから赤ワインが盗まれた事件の二つ。どっちも夜中で、レーヴェもレイもアリバイがない


 しかし、今日は昼間。絶好のアリバイチャンスだ。


 ―― どうか今日、ソワールが出没してくれますように


 なーんて、ついつい願ってしまう。騎士にあるまじき願いであるという自覚はあった。




 さすが国で一、二を争う大商会であるグランド商会主催のフライデーマーケットだ。賑わう人々。そりゃもう美形のクロルは目立ってしまう。早めに宿を出ておいて良かった。

 新しい帽子を目深に被り、今まで着たことのないジャケットに着替えて、朝の格好とは印象のことなる衣服に変身。ちなみに、全て近所のマダムから貰った衣服だ。マダムに感謝。デュールもトリズも衣類くらい恵んでやってくれ。


 そして向かうは、コーヒーの出店(でみせ)付近の路地裏。ソワールの逃走ルートだと予測されている。


 ―― デュールが言ってたのはこの路地裏……スタンバイおっけー


 ジャケットの内ポケットには金色の胸章を、靴底には隠しナイフを、心臓の奥底には緊張感を忍ばせて、建物の陰に隠れるように立った。

 足下に砂が広がり、踏みしめるとガリガリと音を立てる。暗い空と暗い路地裏。嫌な雰囲気に少し喉の奥がヒリヒリする。雨が降らないことを祈った。


 しばらく待つこと、正午よりも少し早い時間。表通りの方が少し騒がしくなった。クロルはその気配を感じ取る。悪人が来る気配だ。


「きゃー! 泥棒! コーヒー泥棒よ!」

「捕まえろ、路地裏に逃げたぞ!」


 ―― うわ、本当に来た! すっげぇな、予想ピッタリ!


 こうなるとやはり思わずにはいられない。予測が出来るならば、捕縛することだって簡単にできそうだなって。でも、その考えはすぐに捨て去ることになる。


 ひら、ふわっ、ひら。黒い蝶が頭上を舞った。灰色の雲が敷き詰められた空を、ちょうちょが跳ねるように飛び越えていく。

 風を受けて舞い上がるなんてものではない、彼女を舞い上がらせるために風が吹き上げているようだった。


 ソワールは、クロルが潜んでいる建物の屋根から跳ね上がり、そのはす向かいの建物の屋根に飛び移っていく。まるで空中のでんぐり返し、クルッと身体を一回転させながら路地裏の地面に影を走らせる。

 黒い外套が太陽の光を遮り、落とされた影。それは黒いのに暗くはなくて、異常に眩しかった。


 ―― 速い


 次に、屋根から飛び降りて塀にストンと降り立ち、高いヒールをカカカカッと響かせながら彼女は走り抜けていく。クロルの目測で、塀の幅は二十センチもない。そんなトップスピードで走ったならば、踏み外して大変痛いことになるのが普通だ。


「……すっげぇ」


 いつの間にか、クロルの頬は紅潮していた。耳の後ろがキーンとして、ドクンドクンと跳ね上がる。言いようのない熱が、心臓から顔までせり上がってきた。

 その熱は……そう、これは嗜虐(しぎゃく)心だ。最高峰とも言える悪人を前に、絶対に捕まえたいという嗜虐心と血液が混ざり合い、彼の体温をあげていた。


 ソワールの目撃証言が二十年間、ずっと変わらず、しかも熱烈なファンがいる理由。一目見ただけで、クロルにもそれが分かってしまった。


 彼女は、人々に衝動を引き起こす。クロルの場合はそれが嗜虐心であったが、人によっては憎しみだったり憧れだったりするのだろう。彼女の放つ狂気に触れると、そこに『何か』を見出さずにはいられない。人間の本質的な衝動を引き起こすような、そういう存在だ。

 あんな風に駆け回りたい、人間はあんなに自由に飛び回れるんだ。そう思わせる何かがあった。


「っくそ、わかんねぇな」


 しかし、ファンタジーに片足突っ込んだレベルの動きに目がいってしまい、顔も仕草も分からなかった。大きく舌打ちするほどに苛立つ。


「よし、追いかける」


 仕事をしなければと思い直し、デュールから予め聞いていたソワールの逃走ルートを思い出す。ソワールは入り組んだ道や人混み、他人の家の中、そういった場所を逃走する。通称、ソワール走法だ。

 とは言え、予測されたルートも途中まで。急がねば全てが無駄になる。


 ふーっと一つ呼吸をしてから全速力。先回りできる場所を思い浮かべて、膝を高く動かした。


 ―― 絶対に、正体を掴む



 この日、王都の街では多くの人間が走っていた。

 彼女を追いかける青い騎士たち、自由に逃げるソワール、彼女の正体を見極めるクロル・ロージュ。そして、彼女の絶対的味方である情報屋ブロン、宿屋でレヴェイユを見張っているはずのトリズ、本来ならランチタイムを過ごしているはずのデュール。


 運命とか宿命とか、そういう神様から与えられる(たぐい)のものに、誰もが走らされていた。まるで時計の針のように、抜いて抜かれて。



 そうして、クロルは運命の路地裏に辿り着く。いつの間にか、春の雨がシトシトと降っていた。嫌な空気がまとわりつく。


 泥棒にも騎士にも雨なんて関係ない。遠くから激しい怒号が聞こえ、それらが急速に近付いてくる。走っていたせいか緊張のせいか、心臓がドクンドクンと鳴る。急いで物陰に隠れて息を整えて、視線だけを向けた。


 ―― 来る


 ふぅっと一呼吸。高揚をいくらか抑え込み、集中力を高めて視線だけを強くした。


 リーンゴーン リーンゴーン


 そこで噴水広場にある大時計の鐘の音が鳴り出す。正午だ。頭が割れるような音は、まるで目覚まし時計のようだった。鐘の音が鳴り始めて三回目、騒々しい怒号と叫び声が間近にきた。


 その怒号を浴びながら、ソワールは楽しそうに塀の上を走っていた。また跳んで屋根の上。ひょいと地面に降り立って、隠れているクロルの二メートル横を通り過ぎていった。


 目元は帽子で隠れていたし、口元は赤いストールで覆われてほとんど見えなかった。外套が邪魔で上半身は確認できない。


 まさに噂通りのソワールそのものだった。長くスラッとした脚、妖艶さが滲み出る美しい仕草、少し紅潮した頬。


 ……いや、そうじゃない。


 ベッドで絡まっていた柔らかい脚、茶化しながら見せる可愛い仕草、目尻から口元までキスを落とし続けた頬、そして赤くなりやすい小さな耳。


 きっと彼でなければ分からなかっただろう。過去、こんなにも彼女に近付いた人間はいなかったから。


 ドクドクと心臓が嫌な音を立てる。鐘の音が十二回鳴り終わると共に、地面が突然なくなって、地の底まで落ちていく心地がした。


「レーヴェ……」


 季節は春。雨の日の金曜日。その呟きは、後から追いかけてくる騎士たちの怒号にかき消された。




 





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マシュマロ

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