20話 落とす
『クロル。お前、十七にもなってキスもしたことねぇのか!? ぶちゅっとやっちまえ! なんっつーか、いいんだぞ!? いいか、やり方はー』
祖父はそんなことばかり言っていた。孫になんてことを吹き込むんだ。やめておけ。
◇◇◇
時刻は夜の十時。宿の客室には、可愛い時計が置いてあった。コチコチカッチンと、音も可愛い時計だ。
部屋に戻って、ホッと一息。クロルは椅子に腰掛けた。今日はこのまま風呂に入って普通にベッドで寝て、明日は王都に帰る。これで平穏な潜入生活に戻れるはずだ。平穏な潜入とは何だろうか。
そんなことを考えていたら、ガチャっと浴室のドアが開く。レヴェイユはバスローブに身を包み、ほかほかツヤツヤのニッコニコ。お風呂が好きなのだろうか。
「はぁ、さっぱり~」
「良いお湯だった?」
「とっても」
先程とは打って変わってクロルは余裕だった。レヴェイユに手を出さなくていいのだから。
ビジネス的に軽薄な女たらしなだけで、プライベートのクロル・ロージュは非常に淡泊でドライであっさりとした恬淡男だ。プライベートで誰かと寝たことなんてあったかなと思って、クロルは半生を振り返ってみた。
―― あれ? 無いな
無かった。どういう人生を歩んできたのだろうか。クリーンなクズだ。
というわけで、シないでおねんねするなんてクロルにとっては容易なこと。トランプとか持って来れば良かったなぁ、なんて下らないことを考えるくらいには余裕だった。
「クロルも、お風呂どうぞ」
「あ、その前にレーヴェの髪を乾かしていい?」
「え?」
「いいから座って座って」
「え」
小さな暖炉の前に椅子を置いてレヴェイユに座るように促した。これは彼女を落とす作戦というわけではない。単純にレヴェイユの髪を乾かしてみたかったからだ。
レヴェイユは戸惑いながらも座ってくれた。座り方が浅く遠慮がちなものだから、クロルは少し笑いそうになる。
「アメニティにヘアオイルがあったよな? それを付けてタオルで拭いて暖炉の熱で乾かせばいい? やってみたい」
「う、うん。ありがとう」
早速、オイルを取ってレヴェイユの髪に付けていった。とろりとしたオイルが彼女の髪に艶を落とす。ふわふわのタオルで優しく拭いてあげると、何だかクロルも優しい気持ちになってしまう。『昔、じいちゃんに髪を拭いてもらっていたなぁ』なんて思ったりもした。
「苺みたいな色だな」
「うん、父親譲りなの」
「美味しそう」
「どうぞ召し上がれ~」
「ははっ、煽るの上手いじゃん」
いつもの調子で茶化してくる彼女の口調が可愛くて、クロルはクスクス笑いながら髪を梳かした。赤い髪の上を、クロルの手が滑り落ちていく。
カチカチと時計の音。パチパチと暖炉の音。会話のない二人の間に、彼女の髪が赤い糸みたいに渡っていた。
―― なんでだろ、不思議な感じ
どういうわけか、彼女といると潜入騎士であることを忘れてしまう瞬間がある。当然ながら、その事実にクロルは気付いていた。
駄目だ、職務放棄になると気合を入れ直し、誰がソワールなのか、そもそもに宿屋『時の輪転』にソワールがいるのかを少し考える。クロルはレイだと判断しているが、トリズはレヴェイユだと言うし、デュールは宿屋にソワールはいないと言う。でも、どのみち……
―― レーヴェともお別れだな
いつだって潜入騎士は関係を断って次へ進んでいく。今までも任務完了と共にお別れをしてきた人生だ。紡いだ繋がりをスッパリと切るところまでが仕事だから。
潜入騎士であるという蓋を取り去って心の内側を吐露してしまえば、彼は確かに彼女のことを可愛いと思っていた。もっと言ってしまえば、誰かを可愛いと思ったのは初めてだった。
でも、それだけ。まだ大丈夫、別れが寂しくなるほどではない。例えば苺を食べるときなんかは、きっと彼女のことを思い出すだろう。路地裏を通れば屋根の上を確認してしまうかもしれないし、白いシーツを見れば思い出し笑いをして、馬車の中ではサンドイッチを半分だけ食べたくなるかも。
でも、それは毎日じゃない。それくらいの切ない名残惜しさだ。
淡々と、髪を梳かしてタオルで優しく乾かしていく。
―― うん、こんなもんかな。ふわふわ~
仕上げにこめかみのところから髪をすくって整える。触り心地が最高、ショートケーキのスポンジみたいにふわふわだ。クロルの美しい指の間に何度も彼女の髪を滑り込ませ、ふわふわ具合を味わった。
あまりにも好みの触り心地で、『時の輪転に滞在している間は毎日乾かしてあげようかな』なんて思ったりもした。どれくらい滞在しているか、わからないけれど。
そうやってぼんやりと考え事をしていると、いつもは髪で隠れているレヴェイユの小さな耳が見える。『ん?』と思った。だって、耳が赤かったから。彼女の顔色を確認したら、顔もいくらか赤いような。『そう言えば、薪が落ちてきたときも赤かったな』なんて思い返す。
「レーヴェ?」
「なぁに?」
「耳が赤い」
何の気なしに指摘してみると、レヴェイユは「え」と言って耳を隠すように手を当てる。
「なにその反応」
「私も初めて知ったんだけど、耳を見られて心を暴かれると恥ずかしいものなのね」
「ふーん? レーヴェにも恥って感情があったんだな」
「心外~」
クロルはレヴェイユの可愛らしい耳が見えるように赤い髪をかけ直して、特等席を確保。
「うわ、真っ赤じゃん」
「恥ずかしい~。これで閉店。おしまいです」
レヴェイユが髪を戻そうとするものだから、クロルは彼女の手を取り上げた。触れた瞬間に、ピリッと勘が働いた。
―― うーん、純愛……かぁ。手を繋いで頬にキス、ね
靴底でトンと軽く床を叩いて、胸章を揺らす。さぁ、仕事の時間だ。ここから、驚くほどに勢いを増して甘い空気が部屋を占有していく。
クロルは、取り上げた彼女の手に美しい指を絡めはじめた。絡め方がえげつない。この時点で純愛のはき違えが発生している。
「待って、もう少し可愛い耳が見たい。これってドキドキしてるってこと? それとも恥ずかしいだけ?」
「……えっと……」
「教えて?」
そう言って、赤くて可愛い耳にチュッとキスをする。
「ドキドキしてくれてる?」
「早死にしそうなくらいには」
被せ気味に茶化してくる彼女。クロルは少しだけ闘争心に火がついた。
そして、また一つ耳にキスを落とす。その熱を確かめるように、少し長く。唇を離さずに「耳が熱いね」と囁くと、彼女はとうとう何も言わずに、少し俯いた。
「レーヴェ、こっち見て」
視線を絡めて微笑めば、彼の泣き黒子はキュッとあがる。絡めた手と視線をそのままに、頬にキスをする。鼻先が赤い髪に掠めて、甘い香りが立ち込めた。
次に目じりにキスをして、そのまま少しずつ唇に近付くようにキスを落とし続ける。まるで距離を測るみたいに。
落とし続けてきたキスがとうとう唇の端に辿り着いてしまったから、純愛ストップ。彼女の赤い耳に軽く触れながら表情を確認する。見た瞬間に理解した。
―― 完全に落ちたな
ものの数分。これがきっと初恋。『あなたに恋を教えてもらいました』と、彼女の瞳が揺れていた。美形って本当に怖い。
「……レーヴェは、俺にどうして欲しい?」
「え?」
「キスしたい?」
彼女はこくんと素直に頷いた。
コチコチカッチンと時計の音が響く。触っていた赤い耳からスルリと顎先まで手を滑らせて、彼女の顎を少し上に向かせた。
元々近かった顔をもっと近付ける。彼女が茶色の瞳を目蓋にしまい込むのを見ながら、ゆっくりゆっくり近付く。でも、唇が触れるまで、あと一センチ。クロルはそこでピタッと止まって、口先でフッと息をかけた。
「ここまでだな」
「え!」
「風呂入ってくる。先寝てていーよ」
そう言ってクルリと背を向ければ、背中の向こうで彼女は「え、え?」と戸惑っている様子。
「な、なんでしてくれないの……?」
なかなか素直な質問だ。チラリと見ると、レヴェイユは切なそうに眉を下げている。『うーん、まあまあかな』と思って、親指で彼女の唇に触れてあげた。まだちょっと固い。
「もっと欲しがってくれないと、できないかな」
だって、これは純愛。心を繋ぐのであれば、恋に突き落とすだけじゃ足りない。その谷底でクロルを欲しがるくらいに、もっと夢中にさせないと。
クロルが意地悪にニヤリと笑えば、夜空に浮かぶ一番星みたいな泣き黒子がキュッとあがる。
これぞツァイガルニク効果? 美しきクロル・ロージュは、そのまま彼女を残して浴室のドアをバッタンと閉めてやった。バッタン、キュッとね。




