16話 真っ白なシーツが落ちてきた
潜入中の事件発生は非常に困る。レヴェイユを確認すると、彼女はのんびりとイチゴジュースを飲んでいた。スリには気づいてない様子。
―― よし、見て見ぬフリだな
ここで一つ重要なことを言ってしまえば、クロルは志高く騎士になったわけではない。単純な話、長続きしそうな就職先が騎士団しかなく、抱えた借金を手っ取り早く返すために潜入騎士になっただけだ。正義感の強さは一般人と何ら変わらない。
借金を返済後も騎士職を続けているのは他に職がないというのが大きな理由だが、意外にも悪人を捕まえてみたら超快感だったというのも一つある。最低なド変態だ。いやいや、仕事は真面目にやってるから結果オーライ。
というわけで、騎士ではあるが、困っている人がいても見て見ぬフリをすることは多々あるタイプ。
ほら、あるじゃない? 首をつっこまない方がよさそうだなーって時とかさ。あるでしょうよ。大事の前の小事ってやつとかさ。事件に大きいとか小さいとか、あるでしょうよ。
ソワールという大事を抱えているクロルは、スリなんて小事は見て見ぬフリをしようと思った。しかし、出来なかった。
―― あれは……おじいちゃん……!
そう。財布をスられた哀れな被害者が、なんとおじいちゃんだったのだ! なんたる偶然!
見知らぬおじいちゃんは孫にジュースを買ってあげようとしていたのだろう、搾りたてのリンゴジュースを店員から受け取ろうと財布を探り探り。あらら、ポケットを探すも財布がないぞ。そうなんだよ、財布はすでにスリ野郎の手の中だ。おっと、ようやくスられたことに気付いたようだ。あぁ、孫が泣き出した! おじいちゃんがしょんぼりしている!
「スリだ。捕まえよう」
なんということだろうか。クロルはうっかり立ち上がってしまった。おじいちゃんに弱い美形男。これは善き美形。
「え? なぁに?」
「そこのじいちゃん、財布を盗られたみたい。あそこの雑貨屋の前を歩いてる黒い帽子のやつが最低なスリ野郎」
「すりやろう?」
レヴェイユはまるで初めて見たとでも言うように「すりすり?」と言いながら目をこすりこすり、雑貨屋付近を見ていた。
―― 犯罪とは無縁の世界で生きてきたんだろうなぁ
ちょっと羨ましいくらいののんびり感だった。
「俺、追いかけて捕まえるからレーヴェはここで待っててくれる?」
「え、クロルがスリさんを捕まえるの?」
「まぁ……おじいちゃんが可哀想じゃん」
「かわいそう?」
レヴェイユは何かを考えるように頬に手を当てる。その顔には『はて?』と書いてあった。
「レーヴェ?」
「なんか分からないけど、クロルが行くなら私も行くわ!」
「は? いいよ、俺一人で。危ないし」
「ううん、クロル一人じゃ危険よ!」
何故かやる気満々のレヴェイユは、イチゴジュースを一気に飲み干す。クロルも一気飲みしようとしたら、飲んでる途中で彼女に手を引っ張られてしまった。
「ちょ、レーヴェ! イチゴが!」
「スリさんがどこかへ行っちゃう」
「イチゴが」
「行こっ!」
残り少ないイチゴジュースを片手にスリを追いかける羽目に。普段、おっとり顔である彼女のたれ目は、いつになくキリリとしていた。
―― おー、すげぇ正義感
「よし、追いかけるぞ」
「角を曲がったわ。見失っちゃう!」
「おっけー」
レヴェイユの一声でクロルは足を速めようとした。……が、しかし。
―― あんまり速く走ったらマズいか
クロルは潜入騎士として、そりゃもう厳しい訓練を受けている。任務の合間に訓練を詰め込まれ、へとへとになりながら騎士団寮に帰るのが日常だ。
しかも一般的な騎士とは異なり、剣を持つことは認められていない。剣技ではなく身体能力の向上だけに特化した訓練だ。職業柄、足はめちゃくちゃ速い。だから本気で走ったらかなりマズい。
―― とりあえずレーヴェに合わせるか
レヴェイユはなかなか良いスタートダッシュを切っていた。タタタタッと軽快に速度を上げる。
―― へー、割と速いな
そう言えば、運動神経は良い方だと豪語していた。あながち嘘ではないのかも、と思って観察をしていると、突然、「きゃっ!」と声を零してバランスを崩した。
「うわっ、あぶな!」
クロルはグイッと彼女を引き寄せ、なんとかセーフ。
「大丈夫か?」
「あぁびっくりした~。うん、ありがとう」
「つまずいた?」
レヴェイユの足下を見ると、淡いベージュのヒールが折れていた。
「あらまあ、大変。走る用のヒールじゃなかったから折れちゃったのね」
「走る用? そんなのあんの?」
「うん。あのね、ヒールが太くて強いの。あ! それより、あぁ、だめ。逃げられちゃう!」
スリ野郎は、角を曲がるところだった。
「やば、見失う」
「私、後から追いかけるから先に行ってて」
「一人で大丈夫か?」
「へいき~。でも、スリさんは私がやっつけるから、絶対に無理しないでね」
「ははっ」
クロルは彼女の茶化しに軽く笑って、すぐさまスリ野郎を追いかけた。
一般的な速度で走り、スリ野郎まで十メートルのところで、速度を緩める。ここからは歩いて距離を詰めよう。スススと音もなく歩いていると、後ろから「お待たせ~」とのん気ボイスが。
「レーヴェ!?」
「ふぅ、追いついた~」
「早くね!?」
「クロルのためだもの、当然よ~。すごくがんばって、たくさん近道したの。さすがに息切れが、ふぅ」
クロルがチラリと足下を確認すると、先ほどは淡いベージュのヒールだったのが、赤いヒールになっていた。この短時間で靴を買って近道をしながら必死で追いかけてきたということだろうか。彼女は息を切らしていた。なるほどなるほど。
しかし、クロルは感動していた。見ず知らずのおじいちゃんのために、ここまでするだなんて! なんて良い子なんだろうか……! 女に関する勘の良さが突然の迷子になっているが、気のせいだろう。
「えっと、スリさんは……あの黒い帽子だったかしら?」
「あぁ、うん。っつーか、大丈夫? 少し休む?」
「おかまいなく。よぉし、スリさんに声をかけてみましょ」
「待て待て。それじゃ逃げられるだろ」
「そうなの? じゃあどうするの?」
普通だったら金色の胸章を見せて現行犯で即捕縛だ。しかし、そうはできないこの状況。
「……そうだな、後ろから近付いて縛り上げるか」
「え、縛る? 捕縛するってこと?」
「ほばく!? いやー、間違えたわ。縛りはしないかなぁ」
「そうよね、想像するだけで武者震いしちゃう」
「普通ならどうすると思う?」
「そうねぇ、スリ返すんじゃないかしら?」
「スリ返す? ははっ! 相変わらず返しが面白いな」
そんな危うい会話をしながらも、十メートルあったスリとの距離は残り三メートル程度となっていた。
スリ男は他のターゲットを物色しているらしく、またギラギラとした目で通行人を見ている。
「あの男、また盗ろうとしてんなー」
すると、レヴェイユは「イイコト思い付いた~」と無邪気に作戦を立案する。
「クロルが道を尋ねるフリをして気を引いて、私が後ろから殴って気絶させる作戦はどうかしら?」
「逆じゃね?」
「あ、前から殴る派? 意外と積極的ね~」
「ちげーわ。俺が殴る役ってこと」
「クロルが? うーん、クロルって人を殴れるような腕力が、その、えっと~薪割り姿も見たけど非力そうな……うーん、なんて言ったらいいかしら。あんまり頼りにならない感じ? ごめんね?」
「言いにくそうにしながら全部言うなよ。逆に傷つく」
実際のところ腕力ならあるし、肉弾戦であればハチャメチャに強い。薪割りも力仕事もふらふらしながらやっているわけだが、そんなのぜーんぶ演技だ。
「よし、安全策を取るか。このまま見張って、騎士を見つけて通報するっていうのはどうだ?」
「通報。なるほど、逆に騎士団を頼るのね! 斬新な発想~」
「斬新か?」
なんて、スリリングすぎる会話をしていたが、事態はより一層スリリングを極めていく。またスリ男が人にぶつかったのだ。しかし、今度は被害者が先に気付いてしまった。
「待ちなさい! あんた、スリね!? 返してよ!」
被害者の女性が大声で叫ぶものだから、スリ男は大慌て。
「うるせぇ、だまれ!」
「私の財布とったわよね~!? 返せ、この悪党!」
「この女、離せ!」
「離すもんか!」
被害者の若い女性はものすごく負けん気が強かった。スリ男の腕にしがみつき、全力で引っ張っている。
―― うわ、面倒そう
クロルは関わり合いたくなくて、そっと気配を消した。最低だと思うなかれ、美形も色々と大変なのだ。助けたら助けたで別のトラブルを生むのが美形の定め。
そう。冒頭で『見て見ぬフリをすることも多い』とふんわりとお伝えしたが、明確に言おう。クロルは、見知らぬ女性は一切助けないと決めている。これは十代の頃からずーっとそう。
クロルの祖父には『女性を助けないとはけしからん!』とよく怒られていたが、規格外の美形にとっては身を守る術だ。仕方がないだろう、後々大変なことになるのだから。
「あらまあ、大変。はいはい、落ち着いてくださいね」
しかし、ここで誤算。あろうことかレヴェイユが割って入ろうとするじゃないか。なんでそんな度胸があるんだ、この娘は。
レヴェイユが仲裁したところで火に油を注ぎかねないと判断したクロルは、仕方なしに「おい、やめとけよ」と仲裁役を買って出た。
すると、スリ男が「なんだてめぇ!」といきなり殴り掛かってくるではないか! 短気な野郎だ。展開が早い。
「おっと」
ここで、さらに問題が発生する。殴りかかられたクロルは、スリパンチを難なく避けてしまったのだ。レヴェイユが見ているのに、うっかりと避けてしまった。こつこつ頑張っている非力キャラがブレてしまうじゃないか!
「ぉおっっとぉお!」
クロルは避けた勢いを殺さずに、そのまま地面にズザーーっと倒れこんでみせた。痛かった。
さぞかし非力感が出ていたのだろう、周囲の見物人が「美形なのに弱っ」「ださっ」「でも美しい」と生温い目で見ていた。どうにか誤魔化せたようだ。痛い。
しかし、またもや思わぬ事態が発生する。
「!? よくもクロルを! 万死に値するわ!」
美形の砂まみれ姿がレヴェイユの闘志に火を付けてしまったようだ。燃えやすい闘志だ。
クロルが「は? 万死?」とレヴェイユを見ると、彼女はダッと駆け出してスリ男に突進していくではないか!
―― おいおい、なにやってんだよ!
焦りに焦った。そこで手に持っていたイチゴジュースの存在を思い出す。すっかり忘れていた。というか、まだ持っていたのか。よくこぼれなかったな。体幹がすごい!
クロルは、イチゴジュースのコップを思いっきり投げた。それはレヴェイユを追い越して、彼女よりも先にスリ男にヒット&ガッシャーン! 全財産の重みを思い知れ!
「うぎゃあ! いってぇ! な、なんだこれ!?」
「イチゴだ」
スリ男が怯んだところで、騒ぎを聞きつけた騎士がサクッと登場。
「騎士の方々! この男を捕まえて! 私の財布を盗ったのよ」
「なんだと!? おぉ血まみれ……あぁ、イチゴか。よし、現行犯で捕縛する!」
スリ男は無事に捕縛され、一件落着。しかし、人通りの多い場所での捕縛だ。人々の「怖いわね」「スリだって」と言い合う声が伝播していき、騎士が目撃者を募り始める。
ガヤガヤと嫌な喧騒が、クロルの耳を占有していく。
―― ……レーヴェ……
クロルは服に付いた砂や汚れを払うよりも先に、レヴェイユに駆け寄った。怪我はない様子に、ふぅっと一息吐いた。
「レーヴェ、こっちきて」
事件に巻き込まれたら面倒だと判断したクロルは、彼女の手を取って静かな路地裏に連れ出す。
「……クロル?」
「なにやってんだよ、突進するなんて……あぶねぇだろバカ!」
路地裏に入ってすぐ、正直な言葉が出てしまった。思いのほか荒くなってしまった言葉に「あ、ごめん」とすぐに正す。
それでも毛羽立つ心。風が強く吹いて、すぐ上に干してある真っ白なシーツがバサバサと音を立てた。
「……何もなかったから良かったけど、スリ野郎に殴られてたかもしれないだろ。危ないことすんなよ」
「え、大丈夫よ?」
「大丈夫じゃない。すごく……焦った」
のんびり屋の彼女は、きょとんとした顔でクロルを見ていた。そして「あ」と言って、可愛い鞄の中からハンカチを取り出す。
「クロル。ほっぺのところ、怪我してる」
「あぁ、さっき地面にぶつけたかも」
「大丈夫?」
レヴェイユは優しい手付きでハンカチを頬に当ててくれた。真っ白なハンカチに赤い血が少し滲んでいく。
二人の頭上では、相変わらず大きなシーツがゆらゆら揺れていた。
「……かすり傷だから全然平気。可愛いハンカチが汚れるからいいって」
「ふふっ、だーめ」
頑なに手当てをやめようとしないレヴェイユ。彼女はぽつりと言った。
「クロルも、危ないことしないでね?」
その心配そうな声に、クロルは祖父のことを思い出した。
いつもは大雑把なのに、クロルが怪我をしたとか風邪を引いたとか、そういうときだけは心配そうにしてくれていたな、って。
もう大人と言える年齢になったときだって『クロルが怪我をするのは、いくつになっても慣れんなぁ』なんて言いながら、しわしわゴツゴツの手で大切そうに手当をしてくれた。
「クロル? いつも以上にぼんやりして、どうしたの?」
「……サラッと悪口言うのやめてくんね?」
「ふふっ。ほっぺ、痛い? もう帰ろうね」
「ううん、大丈夫」
頬に当てられた彼女の手を包み込むように、クロルは優しく手を添えた。走ったからだろうか、二人の手は幾らか熱を持っていた。
「……デートの続き、したい」
クロルの手の中で、彼女の小さくゴツゴツした手がキュッと縮まった。
ジュースを飲んでスリを捕まえただけ。それで彼女の人生初デートが終わりだなんて許されない。
だって、クロルはまだ何も引き出せていない。もっと楽しませて、もっと夢中にさせて、深くまで潜り込まないとならない。
さて、この手に帯びた熱はどちらのものだろうか。彼か彼女か。演技か本音か。
「レーヴェ……、!? うわっ!」
「きゃっ!」
その瞬間、強い風が吹いて二人に大きな布がバサッと被さった。路地裏でやたらバサバサしていたシーツだ。もう! 風が強いのに干しっぱなしにしておくから!
「なんだこれ?」
「これは……あらあら、シーツね~」
突然、クロルに落ちてきた大きな白いシーツ。シーツの中には二人きり。溶けあう熱が解かれて、代わりに近付く距離にお揃いの茶色の目を合わせる。
布一枚なのに音も視界も遮られ、まるで世界中に二人だけ……みたいな。
「こんなことあるか?」
「ふふっ、こんな偶然初めて~」
クスクス笑いながらシーツから顔を出すと彼女の赤い髪がぐちゃぐちゃで、また一つ笑った。「苺髪がぐちゃぐちゃだよ」と言いながら触ったら、やっぱりふわふわで癖になる。
「ありがとう」
「いーえ」
「あ、頬の手当をしないと」
「もう大丈夫。そういや、今何時だろ?」
手当がしたいから帰ろうと言いそうな彼女の雰囲気を察して、クロルが話題を変えると、流されやすい彼女は「えっと」と言いながらワンピースの袖を少し上げて腕時計を見せてくれた。
―― この腕時計……!
「十時ちょうどね」
「……その時計、キレイだね」
クロルはレヴェイユの腕時計に目が釘付けになった。普通のレディースの時計、どこにでもあるような物だ。
でも、一つだけ、特別な時計である証が刻まれていた。文字盤の隅っこに、『オル』と小さい字が彫られているのだ。知らなければ気付かない。でもクロルは知っていた。いや、文字なんて見なくたって分かる。
すると、レヴェイユは少し迷うように俯いた。「レーヴェ?」と声をかけると、三拍置いてスッと顔を上げる。
「クロルに聞きたいと思ってたことがあって……。でも、記憶喪失だから、混乱させちゃったらいけないかなって、黙ってたの。ごめんなさい、聞いてみてもいい?」
「何を?」
「オル・ロージュ。この名前、覚えてる?」
心臓がドクンと跳ね上がった。
クロルのことを愛してくれた。大好きで仕方がなかった、たった一人の家族。
オル・ロージュ。
それは、祖父の名前だった。




