116話 焦がす
「うわっ!」
クロルは騎士的反射神経で、見事キャッチ! 右手にモップ、左手にバケツ。しかも、バケツは三つも重なって落ちてきた。重い。
「なんだこれ」
クロルは混乱した。彼女を抱きとめるつもりで広げていた腕が、いい具合にやる気みなぎるお掃除スタッフ感をかもし出す。掃除用具は即座に地面に置いた。なんだったのだろうか。
「おい、レヴェイユ!?」
「はぁい、どんどん行くね~」
「は?」
今度こそレヴェイユだと思って見上げてみれば、続いて降ってきたのはパン生地を伸ばす棒とフライパン。
「うお!?」
ナイスコントロールとナイスキャッチ! 互いの場所は見えていないのに、さすが阿吽の呼吸。しかし、フライパンはちょっと危なかったぞ!?
「なんなんだよ、これ!」
それはグランドのアンテコレクションの一つ。アンテ王女お気に入りのパン屋が使っていた棒とフライパンだ。
彼女は、またひょこっと顔を出して「盗品よ! 金庫に入ってたの」と言う。
「なんでモップやらバケツやら盗むんだよ!?」
「さぞかし貴重な掃除道具なのね」
「こ、これが……?」
地面に直置きしていたモップを眺めてみる。そう言われてみれば、柄の部分がやたらオシャレなような。世の中にはそういう概念もあるのだろうかと思い直し、拾って木に立てかけておいた。
ちなみに、これは展示室『赤の目覚め』を掃除した尊いモップとバケツだ。別に貴重でも何でもないし、柄もオシャレじゃない。
「とにかく金庫を開けて、全部そっちに投げるからキャッチしてね!」
「まじか」
「行くわよ~」
続いて、なんかの布! アンテ王女と懇意にしていた刺繍家の作品たちだ。クロルは「うお!」とか言いながらも、ヒラリと舞う布たちをスーパーキャッチ! とりあえずバケツに入れておいた。バケツが三個もあって良かった!
続いて、まさかの宝石類。金額を考えると気が遠くなる。クロルは降り注ぐ宝石たちを一つも落とさずに掴み取る。
『これはなかなかキツい!』と思ったところで、バサッと大きめのシーツが落ちてきた。それを掴んで広げ、空から降ってくる宝石たちを全部まとめてシーツでキャッチ! 瞬時にバケツに入れる。滑稽だが、ものすごい瞬発力と反射神経だ! あと、滑稽でも美形ってカッコイイ!
しかし、盗品キャッチゲームを楽しんでる場合ではない。着火から数分。クロルが一階を見ると、完全に火が行き渡っていた。白かった煙が少しずつ黒くなっている。酸素が足りていないのだろう。
クロルはそれを見て、声を大きくした。
「レヴェイユ、もういい! 逃げろ!」
「まだよ。屋根裏部屋にも金庫があるの!」
それだけ答えが返ってきて、彼女は全く飛び降りてはくれない。
「もういいって!」
木材、ソファ、そういうものたちが焦げ付くにおいが庭に充満する。庭にいても熱が届いて、目の奥が痛くなる。クロルは少しずつ焦り始めた。
もう証拠はある。向かいの家の軒下にずらりと並んでいるのだから、盗品はなくても大丈夫だ。もう金庫は開けなくていい。物に執着しない彼女にとって、苺色の目覚まし時計だってどうでもいいはずだ。
それよりも、早く飛び降りてきてほしかった。
彼女がソワールだとしても、一階が崩れてしまったのなら無事では済まない。もし、二階にまで火が到達したら。煙を吸い込んで意識がなくなったら。
彼女は、どうなるのだろうか。
焦がす熱。焦燥感が心を黒くしていく。
「レヴェイユ!」
レヴェイユは、クロルの声を聞きながら、屋根裏部屋へと続くはしごを上っていた。二階の階段まで火が到達していたから、もう長くは持たないだろう。そんなことは分かっていた。
―― 見つからない。どこにあるの?
二階には金庫が三つあったが、中から出てくるのは宝石とか布とかバケツだけ。こんな物の為に開けたわけじゃないのに。モップが出てきたときは、思わず折りたくなったくらいだ。
絶対に、この隠れ家のどこかにあるはず。レヴェイユは屋根裏部屋に望みをかけた。
屋根裏部屋に上ると、そこには金庫が二つあった。ピッキング作業に取りかかる前に、開けておいた窓から酸素を吸う。そのついでに、クロルを庭に足止めするために宝石を投げておいた。
―― 鍵を開けなきゃ!
レヴェイユは、大きい方の金庫から開け始めた。彼の声が聞こえるが、返事が出来ない。声を出すと煙を吸ってしまうからだ。
―― 目が痛い
時々、ぎゅっと目を閉じて痛みを逃がす。その間も、手探りで解錠作業を進める。
―― 開いた!
さすが天下の大泥棒ソワールだ。秒で開けるのだから、本当にすごい!
でも、中に入っていたのは、お金や大きな宝石や絵画。『灰になれ』と心で呪って、最後の金庫に向き合った。
盗人の才覚。不思議なもので、金庫に触れた瞬間、この中にあることが分かった。
―― 絶対、開けてみせる
火がすぐそこまで来ているのを感じて、焦りで手が震える。熱くて、熱くて、身体が焦げそう。でも、金庫を開ける手を止めなかった。
煙を少し吸うだけで苦しくて解錠作業が出来なくて、急いで窓から息を吸って止めて、また金庫の前に戻った。
彼が「レヴェイユ! もういいから!」と呼んでいる。きっと真っ青な顔で心配をしているのだろう。
段々と強くなっていく彼の声。「この馬鹿! もういい、そっちに行く!」と怒鳴り声が聞こえてきて、レヴェイユは心配を返す。クロルには見えていないかもしれないが、もう二階まで火がきているのだ。はしごは燃えているし、木に登ったところでここまでは来られない。それでもクロルのことだ、火の中に特攻して迎えに来てしまうだろう。
『生きてるわ。こっちには来ないで!』というメッセージを出したくて、適当なタイミングでお金や宝石や絵画を窓から投げておいた。
当然、クロルは「金なんてどうでもいいだろ!」と、はちゃめちゃに怒る。
そんな彼が愛しくて、やっぱりガラスみたいに美しくて、レヴェイユは少しだけ笑ってしまった。
善いも悪いも、自分が持っているものすべてを捧げたい。彼のためなら、本当になんだってできるのだと思えた。
―― 絶対ここにある。絶対、開ける
霞む目と震える手。喉の奥まで焼けるような熱。それでもレヴェイユは手を止めなかった。身体が焦げて爛れたとしても、苺髪が真っ黒になったって、絶対に諦めないと決めていた。
―― これを開けなきゃ、私が生きてきた意味なんてないじゃない
レヴェイユは思った。きっと、これを開けるために自分は生まれてきたのだと。
たがが鉄の箱に対してそんな大層な、と思うかもしれない。でも、人にはそう思える瞬間が、確かに存在する。そして、そういうときに人は命をかける。
全部、このためだった。両親が早くに死んでしまったのも、小さなブロンが人さらいに遭って、母親と出会ったのも。
そして、心の一部を奪われるような死に方で母親を失い、ぽかりと開いた穴を埋めるように国一番の大泥棒になって、何百、何千という鍵を悪びれもせずに開けてきたのも。
普通の人からすれば、可哀想だと眉をひそめられ、なぜ正さなかったと糾弾されるような人生を、間違ったまま真っ直ぐに生きてきたのは全部、今日という日に、この目の前の鉄の箱を開けるためだったのだ。
そう思ってしまえるくらい、彼のことを愛していた。
カチャリ。今まで聞いた中で、一番良い音を立てて鍵が開いた。
そこには、六年半前の深夜のお茶会で何度も見せてもらった、オルの時計が綺麗に並んでいた。数は少ないけれど、それでも、あの頃と全く同じように美しい姿で待っていてくれた。
―― 見つけた。こんなところにいたのね
レヴェイユはそれを盗って、まとめて布に包んだ。時間がない。もう息が続かない。這うようにして窓に近付いて、溜めていた肺の空気を全部使って叫んだ。
「クロル! 時計! 受け取って!」
そう言って、包みをそのまま投げた。
「……時計だ」
それは、雨が降ってきたみたいだった。白い包みからこぼれ落ちた時計たちが、ぽつりぽつりと落ちてくる。不思議なほどにストンと、クロルの腕の中に落ちてきたのだ。
めったに客の来ない時計店のショーケースに、長年置かれ続けていた時計たち。クロルは、その全てを覚えていたし、その一つ一つに思い出があった。
クロルが生まれた日に作ったと、オルが自慢気に話していた時計。病気になったオルと一緒に作った時計。それは商品だけじゃない、父親と母親が愛用していた時計も、オルのお気に入りの時計も。
あの日、失ったと思っていたものが全部、そのままの姿で帰ってきたのだ。
「このために……」
彼女が突然、隠れ家の場所が知りたいと言い出したのも、グランド相手に本気で潜入をしたのも、それは全部このため。
もう六年半も前だ。本当にあるかどうかも分からない時計を探し出すためだけに、命をかけたのだ。
彼女本人はと言えば、形見なんて持ってもいないし、物に思い入れなんか一つもない。クロルの悲しみの一年半を聞いたところで、少しも理解できなかったくせに。
それなのに、クロルのためにと、全力で探し出してくれたのだ。これまでたくさん重ねてきた『悪いこと』を全部使って。
「本当、バカなやつ……」
彼女を愛しく思いながら、クロルはすぐさま彼女を迎えに行こうと、木に駆け寄った。
呼んでも返事がないのは、ずいぶん前からのことで、返事の代わりに『こっちに来ないで!』と投げられていた札束や宝石も来ない。
ごうごうと音を立てる火は、もう二階を飲み込んでいる。炎は窓や換気口を突き破り、外壁を燃やして屋根裏部屋まで侵食し始めている。でも、まだ形を保ってはいるから、今すぐ火の中に飛び込んで迎えにいけば大丈夫だろう。
皮膚が爛れるかもしれない、髪が焼かれるかもしれない。そんなのどうでもいい。ただ会いたくて、仕方がなかった。
でも、クロルが何かを大切にすればするほど、神様はイジワルになるものだ。両親の死、祖父の死。クロルは、それを忘れてはならなかった。
彼が木に手をかけた瞬間、どこからかギーッと小さな音が聞こえたのだ。髪の先まで震えるような畏怖の音。それは、例えば雨がザーザー降る音とか、ショーケースのガラスを踏む音よりも不快で、誰かがクロルの何かを奪おうとして出した叫び声みたいだった。
「ダメだ、崩れる!」
まるでクロルの声が合図だったみたい。その声で彼女に罰が下ったかのように、隠れ家の一階がグラリと揺れ出した。突然、聞いたこともないような異常な音を立てはじめる。
「逃げろ、レーヴェ!」
クロルが手を伸ばすと同時に、熱風が吹き荒れた。熱の衝撃に一瞬だけ目を閉じて、まぶたを開いたときには、その全ては崩れていた。伸ばした美しい手の先に、家だか何だか形の分からない火の塊が蠢いていた。
ぐしゃりぐちゃり。心が潰れた。
「レーヴェ……?」
クロルは小さく首を振った。違う、と言いたかった。こういうことをしてもらうために、彼女を愛したわけじゃない。
それはもっと純粋な気持ちで、例えば、騎士団本部の廊下ですれ違ったときにニコッと微笑んでくれたら、それだけで幸せになれるくらいの、そういうささやかな愛だったのに。
どうして、またこうなってしまうのか。雨なんて降っていないのに。ここには、水なんて一滴もないのに。
「……そうだ、雨……」
こんなとき、人間は誰しも何かにすがりつく。クロルはすがるように空を見るが、朝からずっと降り出しそうだった雨は一滴も降らない。
なんで降らないんだ。いつだって降っていたじゃないか。バケツをひっくり返したみたいな、土砂降りの雨が降ればいいのに。なんでこんなときに限って降らないんだよ。
クロルは初めて雨を願った。あんなに大嫌いで、一生降らなければいいと思っていた雨なのに。身勝手なことに……いや、過去のことなんてどうでもいいと思えるくらいに、この火を消し去るようなたくさんの雨が降って欲しかった。もう二度と晴れなくてもいいとさえ思った。
でも、そういう願いは大抵叶わない。それを知っていたクロルの足は、自然と火の塊に向かっていく。
まだ間に合う。レヴェイユだけは死なない。彼女だけは絶対に生きている。大丈夫、今すぐ助ければ間に合う。そう思って、屋根裏部屋の残骸みたいな部分に駆け寄ってみると、不思議なことに熱なんか一つも感じなかった。
あぁ、なんだ、大丈夫。これなら死ぬわけない。迎えにいける。クロルは、しっかりとした足取りで赤い塊に入ろうとした。
「クロル~」
のん気な声が、それを止めた。ハッと我に返るとそれは驚くほど熱くて、目の前の炎を自覚して思わず後ずさる。
「……レーヴェ!?」
「ねぇ、時計は大丈夫だったかしら~?」
声の場所が分からなくて視線を彷徨わせる。
「ふふっ、木の上よ。屋根裏部屋から飛び降りたの~。ドキドキしちゃった!」
木の上にぽつんと苺があった。茶色の葉っぱの木に、可愛い赤。
「レーヴェ!」
思わず両手を広げると、彼女は「クロル~」と笑いながら腕の中に飛び降りてきた。情けないことに、もう膝がガクガク。受け止めきれずに、背中からドサッと倒れてしまった。
そこには茶色と赤色の葉っぱがたくさん落ちていて、偶然にも、二人が初めて出会った路地裏のレンガと同じ色だった。
クロルはギュッと彼女を抱きしめた。抱きしめてみたら、あぁ、もう全部どうでもいいやと思えた。
「クロル、時計は無事?」
「うん」
「証拠はあった?」
「うん」
「クロル?」
「……死んだかと思った」
クロルの胸に顔をくっつけた状態でおしゃべりしていた彼女は、「わたし?」と言いながらひょこっと顔を上げた。
同じ茶色の瞳と目が合った。
おっとりとしたタレ目。軽くウェーブがかかった髪がふわふわと舞う。赤というより、熟した苺色。大好きなショートケーキみたいな甘い声。
「ふふっ、変なの。私、死なないわよ?」
「うん」
「クロルのためなら、命だって盗んでみせるもの。神様からだって盗めるわ」
「……うん、そうだよな」
ぽつり。
そのとき、唐突に雨が降ってきた。その雨はすぐに量を増やして、あっと言う間に土砂降りに。本当に見たこともないくらいの雨で、まさにバケツをひっくり返したみたい。
あぁ、雨ってすごい。二人が全く太刀打ち出来なかった火の塊は、みるみるうちに小さくなっていった。
地面に転がったまま、二人は呆気に取られて、その様子を見ていた。そして、火が消えた瞬間、クロルは「ぶふっ」と吹き出してしまった。もう大笑い。
「今更かよ。どこまでもタイミング悪いな」
「もっと早く降ってくれたら良かったのに~」
土砂降りの雨に、彼も彼女も泥だらけ。せっかくの正装も髪もボサボサのグチャグチャで、でも煤だらけだった顔だけは、雨で少し流された。
ひとしきり笑って、もう一度確かめるようにレヴェイユを抱きしめた。あぁ、生きている。もうそれだけでいい。何もいらない。全部どうでもいい。心ごと、全部盗られた。クロルはそう思った。
「……レーヴェ、ご褒美は何がいい?」
土砂降りの中、クロルは少し声を大きくして言った。レヴェイユは相変わらずクロルに乗っかったまま「え?」と首を傾げる。
「何が欲しい? 思ってたこと、言っていい。なんでもあげる」
レヴェイユは彼の声を聞いて、そこにあるものを感じ取った。下から覗き込むように彼を見ていたが、なんだか真っ直ぐに見たくなってしまい、せーので一緒に起き上がる。同じ高さにある茶色の瞳をぶつけて、今、二人が向き合っていることを確かめた。
濡れた指先で、彼の泣き黒子にそっと触れる。
頭を撫でてほしい、キスをしてほしい、ギュッと抱きしめて、熱っぽい手で触れてほしい。
そうじゃない。
何度も何度も言いたかった。でも、どうしても心が止めるから一度も言えなかった言葉が、自然と出てきた。まるで縛られていた手綱を解かれるように、するりと。
「……クロルが欲しい」
彼は泣き黒子をキュッとあげた。
「許可する」
そう言って、二人は土砂降りの雨の中でキスをした。
泥だらけのタキシードと煤だらけの白いドレスで。
天国から降ってくる、ライスシャワーみたいな雨に祝福されて。
クロルは、溺れるほどの幸せをやっと受け入れたのだった。




