104話 彼女のこういうところを、
ランプ片手に忍び足。キッチンで「あちあち」と言いながらミルクを温め、そこに椅子を持ってきちゃって、お行儀悪くホットミルクを囲った。
「ふ~ふ~、ごくり。わぁ、これが真夜中のホットミルクの味なのね。感動しちゃう」
「へー、昼間のホットミルクと違うんだ?」
「うん、すごく同じ味ね」
「同じなのかよ」
先ほどまで灯していた鍋の火は消えていて、少し離れたところにランプは置きっぱなし。真っ暗なせいで、表情はあまり見えない。ふんわりと輪郭が見えるくらいだ。
レヴェイユは「ふ~」と息を吐きながら、まるで天気の話をするみたいな声のトーンで続けた。
「さっき、オルさんの夢を見てたのかしら? じいちゃんって呼びながら泣いてた」
ホットミルクを飲み込んで、ゴクリと鳴った。喉がカーッと熱くなる。
「……待って。うわ、やば。めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど。っつーか、そこ触れる?」
クロルは、暗闇に感謝した。熱い。
「え? 話題にされるのイヤだったかしら?」
「……まぁ、イヤではないけど」
「ふふっ、知ってる。ねぇ、どんな夢だったの?」
彼女の顔をチラリと見る。どういう気持ちで、こんな話をするんだろうか。でも、やっぱり表情までは分からない。
「見たのは……じいちゃんが病気で倒れたところから、死ぬまでの間のこと。今の俺がふわふわ宙に浮いて、昔の俺を眺めてるみたいな感じだった」
彼女は「へ~」と言って続けた。
「オルさん、クロルが配達中に倒れたんですってね。そこで余命宣告。十八歳の春に、また入院することになって、盗賊団サブリエが店を荒らして、オルさんの死に目に会えなかったのよね~」
「待て待て待て。悲しみの一年半が、サクッとダイジェストでお送りされてたけど、なんでそこまで知ってんの?」
「え? ブロンにできる限り事細かに調べてもらったの~」
ナチュラルに悪い。
「……前も思ったんだけど、そういうプライバシーに関わることは『彼が言ってくれるのを待つ』とか言って、普通は詮索せずにいるもんじゃね?」
「ぇえ!? そ、そうなの……? 誰から聞いても事実は同じなのに、普通って回りくどいのね~」
クロルは引いた。人間は合理的であり過ぎると、良識を失うのだろうか。まじでやばい。
「ソウデスネ。俺が悪かった、忘れていい」
「う~ん。クロルは、私に詮索されるのイヤ?」
「……正直、嫌じゃない」
「そうよね。じゃあ、忘れまぁす。ぽいっと~」
また一つ、あるべき良識が忘却の彼方にポイッと飛ばされた。彼女の良識は、とても軽くてよーく飛ぶ。ひゅーん、さようなら良識……。
「真夜中。ホットミルク。二人きり。うん、なんか良いシチュエーションね~」
「気に入った?」
「うん、気に入ったわ。じゃあ、ここでご褒美を頂こうかしら」
彼女は、まるでショッピングでもしているかのように言う。『この店、気に入ったわ。この服を頂こうかしら』みたいな。
「……なんのご褒美?」
「ぇえ~? ひどい。クロルのカンニングを手伝った件ですぅ~」
そこでハタと気づく。展示室の下見終了後、こじれてしまった二人の関係。だから、あのときのご褒美は請求されていなかったのだ。
「あー……普通に忘れてた」
「む~、頑張ったのに」
「ごめんごめん。で、なに?」
クロルの頭に、苺の花の髪飾りが過る。高価なものだし、そんなに人気があるようなデザインでもないだろう。明日、お店に行っても置いてあるはずだ。
しかし、彼女のご褒美は予想外のものだった。
「クロルの一年半の話が聞きたい。出来事は知ってるから、どうでもいいわ。それより、クロルがそのときにどう思ったか。そういうのを全部教えて? それが、私のご褒美」
表情を見なくても分かった。彼女は今、常識のない天然娘のレヴェイユではなく、常軌を逸した狂気女のソワールだ。
どうでもいいなんて、彼を前にしてよく言えるなと誰もが思うことだろう。でも、彼女はそんな人間だし、クロルはそんなことすでに知っている。二人の世界では、そんなワードは問題にならない。
いつだったか、彼女が言っていたことを思い出す。泥棒は近付いて触れて隠し事を暴く。そして、盗むのだと。
「ふーん、それに触れるわけか」
彼女が触れるのは、身体とか物とか情報だけじゃないのだろう。形のない……例えば、心みたいな。そういうものに触れようとしている。
もうお互いに隠しているものなんてないからこそ、ここから先は、盗られることをどこまで許すか。そういうことだ。
「私に話すのは、イヤ?」
「……嫌じゃない」
クロルは『困ったことに』という序詞を外して、そう言った。ホットミルクを一口飲んで、喉に熱を灯す。
「どう思ったかを言えばいいんだよな。まずは……じいちゃんが初めて倒れたとき。ドーナツなんか買わずに、真っ直ぐ帰れば良かったって後悔した。そしたら、もっと長く生きられたのかなって」
「へ~。あら? ねぇ、そのドーナツって、結局どうしたの? そのまましばらく病院にいたのよね?」
「は? ……あれ、どうしたんだっけ」
シリアス展開だというのに、なんというどうでもいい質問。とはいえ、聞かれてしまうと思い出したくなる。
「あぁそうそう! 駆けつけてくれたじいちゃんの友達に押し付けたんだ。そしたら、退院祝いにショートケーキをホールで返してくれてさ。じいちゃんと奪い合って食べた。うわ、なつかしー」
「オルさんって、案外、譲らないのよね、ふふっ」
「そうなんだよ。あのクソジジイ、難癖つけて絶対譲らねぇの」
「わかる~」
そこからしばらくオルの悪口大会。あーだこーだ話して、手を叩いて笑い合った。オルが楽しみにしていたソワールとのお茶会も、まさにこういう雰囲気だったのだろう。クロルは、なんとなくそう思った。
しばらく話したところで、レヴェイユが「あ」と気付く。
「ついつい、ご褒美を忘れちゃった。えっと……じゃあ長く生きられないって聞いたときはどう思ったの?」
「あー……俺は、現実味なかったな。でも、じいちゃんと話してたら、一年半後は本当に一人なんだって実感しちゃって……すごく怖くて泣きたかった。それを我慢してた」
レヴェイユは「へ~」と、単調な音声を口から出していた。
「おい、興味なさそうだな?」
「も~、違います。結局、一年半後はどうだったのかなぁって」
「天涯孤独で王都に来てた。客の時計を盗まれたせいで借金を背負ったから、返すために職探し」
レヴェイユは「え!」と驚く。
「なに驚いてんだよ? 前も言ったはずだけど」
「それは知ってるわ。でも、じゃあサブリエがオルの時計店で泥棒をしてなかったら、クロルは王都に来なかったってこと?」
「……まぁそうなるな」
「騎士にもなってなかったの?」
「そりゃそうだろ」
「じゃあ、私はクロルと会えなかったのね。そう考えると、この出会いにちょっと身震いしちゃう~」
クロルは一瞬だけ『確かに』と思ったが、『いやいや』と思い直す。そこは運命だとか何だとかで会えるって思っとけよと、何となくイラッとするクロル。ぬるいホットミルクをグイッと飲み込んでおこう。
「その『if』をするなら、お前だって泥棒じゃなかったかもしれないじゃん」
「そうね~。私って何やってたのかしら? あ、レストランで苺髪の人気ウェイトレスをやってたりして~」
「うん、即クビになってたな」
彼女の数ある失敗を思い浮かべれば、即答できた。当然ながら、そこからまたお互いの悪口大会。クロルが女性問題で職を転々としていたことや、レヴェイユの失敗談が、冷めたホットミルクの上を通過する。
「ハッ! いけない、またご褒美を忘れていたわ!」
「もういいんじゃね?」
「まだまだ、お腹いっぱいにはなりません。二杯目いきしましょ~」
「はいはい」
またアツアツのホットミルクを注ぎ、向き合った。
「えっと、十八歳の春に、オルさんがまた入院したのよね。泥棒のせいでお店がめちゃくちゃになったときは、どう思ったの?」
「すごい明け透けに聞いてくるけど、お前も泥棒だろが」
「ふふっ、そうね。だからこそ、聞いてみたいのかもしれないなぁ」
クロルは「なるほど」と一言。
彼は、彼女にとっての自分の価値を、よく理解していた。ここで話すことは、彼女の糧になるのではないかと思ったのだ。
いや、糧というと言葉が綺麗すぎる。別に、彼女が改心することを期待しているわけじゃない。残念ながら、そこはもう諦めている。一般人とはベクトルが真逆の方向ではあるが、彼女は芯が強いのだ。メンタル剛の者。残念だ。
だから、これは糧というよりも、彼女の枷になり、檻になるのではないか。クロルはそう思った。
頭の中にある記憶というよりは、心の真ん中に散らばったままの、ガラスの欠片みたいな物を拾い上げる。それを、そのまま言葉にした。
「……例えば、このカップをさ、誰かに割られたとするじゃん? そしたら、ミルクが無くなるだろ。壊れたのはカップで、無くなったのはミルク。でも、そうじゃなくて……汚れた床を拭くとき、そのタオルを捨てるとき、破片で切った指に絆創膏を巻くとき、それが治っていくとき。そういうのが……きつかった」
「うん」
彼女は小さく相づちを打っていた。聞いているんだか聞いていないんだか分からないけど、クロルは続けた。
ぽつりぽつりと、当時の気持ちを話す。両親の遺品を踏み荒らされたときの気持ち、目覚まし時計を見つけたときの気持ち、店の真ん中で泣いたときの気持ち。
途中から、相づちも返ってこなくなって、「寝てる?」と聞くと、「ふふっ、起きてます」と彼女は笑う。
大体のことを話し終わって、もう話すことはないかなとも思った。
でも、不思議なもので、少し開いた口から言葉が出てきてしまった。きっと真夜中のホットミルクのせいだろう。こういう場合、口を閉じるのは、案外難しいものなのだ。
「……一つだけ」
「うん?」
「病院の人にも、じいちゃんの酒飲み友達にも、……誰にも言えなかったことが……一つだけあって」
「なぁに?」
「客の時計を全部盗られたこととか、じいちゃんにどう言えばいいか分かんなくて。聞いたらショックで死んじゃうかもって思ったら、どうしても言えそうになくて……。あの日、雨の中、誰もいない深夜の路地裏で突っ立ってたんだ。一時間、ぼーっと。何もせずに、雨の音だけ聞いて」
「うん」
「じいちゃんが死んだのは、俺が病院に着く二時間前だから、一時間早く着いたところで、結局何も変わらなかったんだけど。なんか……そうなんだよなぁ……うん、誰にも言えなかった」
このとき、クロルは『全部話した』と思った。そして、カップに残った冷めきったホットミルクを、全部飲み込んだ。
「へ~。それで、雨とか水の音が嫌いだったのね」
平坦な声で指摘され、クロルは「え」と声をこぼす。
「気付いてたのかよ」
「ふふっ、もちろん。それだけじゃないわ。馬車に乗ってるときはね、指先をこすり合わせてそわそわしてるの。あれは、馬車の事故を思い出すからかなぁ。それから、白いシーツを見るとね、一瞬だけ空気が沈む。路地裏に入るのも、本当は苦手でしょ? 私、ちゃんと全部見てるから」
「……ストーカー女」
「あら、ごあいさつね。『クロル・ロージュ学』の権威と呼んで?」
「出たよ、お茶化しレーヴェ」
彼女は「ふふっ、お茶化しレーヴェ? それいいわね」と笑っていた。
「まぁ、ざっとこんなもんか。ご褒美は、これでいい?」
「うん、ホットミルク二杯分。お腹いっぱい~。満足したわ」
「元泥棒のご感想を聞きたいとこだけど?」
「う~ん、そうねぇ。私は、なんて答えると思う?」
「……『ちょっとわかんなかったかな~』だと思う」
「すごい! 正解~。さすがレヴェイユ・レイン学の権威ね!」
「不名誉」
なんという奥が深い学問だろうか。底なし沼だ。
「そうね。色々感想はあるけど、まとめるとちょっとわかんなかったかな~」
「だろうな。今の俺の気持ちは、『じゃあ聞くなよ』だ」
「でもね、収穫もあった。クロルのこと、なんでこんなに好きなのか。よーく分かっちゃった~」
「へー、なんで?」
「クロルってね、美しいの」
「知ってる」
知ってた。
「ふふっ、顔もだけど、顔以外もね」
「顔以外?」
「まるでガラスみたい。透明でつるつるしていて、触っても押しても手応えがなくて平らなまま。だから、形を変えたくて傷をつけてみるとキーって鳴いて、割ると散らばってキラキラ光る。でも、元に戻らないの」
クロルは『なるほど。苺の対局にあるのは、ガラスなわけだ』と思った。
鮮やかで毒々しいほどに赤く、ゴツゴツしているのに触るとやわらかい。一口食べると形が変わって、ジュワっと瑞々しさが広がる。甘さと酸味が、体内に残って染み込む。
「それが、俺のことを好きな理由?」
「うん。そんなの誰だって欲しくなるじゃない? だから、守りたくなる。助けたくなるし、捧げたくなるし、壊して奪いたくなる。神様がクロルにイジワルなのも、そのせいね」
「まじ迷惑」
少しずつ外が明るくなってきて、彼女の「ふふっ」と笑う口角がうっすらと見える。薄暗いキッチンで、二人の視線がカチッと合う。それを合図に、レヴェイユは立ち上がった。
「ねぇ、ご褒美の前借りができるって、小耳に挟んだの。そういうシステムって、知ってるかしら?」
「昼間導入された最新システムな。なに? 苺の花の髪飾り? 別に買ってやってもいいけど」
「ううん、いらない~」
「……あっそ」
彼女はとことこ歩いて、クロルの真後ろに立った。
「お前に背後に立たれると、ゾワッとすることを今知った」
「失礼な殿方~。では、秋の園遊会を頑張るために、ご褒美の前借りを要求します」
「……まぁ、聞いてやるか。なに?」
せっかく聞いてあげようと思ったのに、彼女は背後に立ったまま、十秒くらい何も言わなかった。クロルが『なんだよ?』と振り向いて立ち上がる寸前、彼女はやっとご褒美を要求した。
「クロルのこと、抱きしめていい?」
出会ったときから分かっていた。女に関するクロルの勘は、怖いくらいに良く当たるから。あぁ、きっと、彼女のこういうところなのだろう。神様は本当にイジワルだ。
クロルは、持っていたコップをキッチンに置く。キュッと高い音が鳴った。
「許可する」
彼女は「クロル」と一言添えて、他は何も言わずに後ろからギュッと抱きしめてくれた。
視線の先で、ランプの火がゆらゆら揺れていた。




