102話 焦がす
二つの存在に、熱を与えてみよう。それらは激しくぶつかり合い、それがある境界線を超えたとき、二つの存在は結びつく。そうして、それらは激しく燃えるのだ。
でも、そのうち片方がなくなってしまうと、残されたもう片方はどうしようもなくなって、最終的には黒く焦げてしまう。
この場合、二つの存在とは、パンと酸素のことを言っている。
彼と彼女のことを言っているように聞こえるのは、なぜだろうか。
「クロル、火! クロル~!?」
秋の園遊会まで残り四日。その日、コゲ色アジトには焦げた匂いと煙が漂っていた。
「ちょっとクロル! 焦げてるって!」
「……え?」
トリズにフライパンを取り上げられ、そこで目の前に煙りが充満していることに気付いた。フライパンに視線を向ければ、炭みたいな何かが入っていた。
「うわっ、なんだこれ。真っ黒」
「ずいぶん前から声かけてるのに、ぜんっぜん聞いてないんだもん。このうっかりクロル! この前もお皿割ってたし、ちゃんと寝てる~?」
「悪い。考え事してた」
「考え事しながら料理? ……え、待って。さっきランチ食べたよね? これ、何を焼いてたの? 真っ黒すぎてわかんないんだけど」
「……なんだったかな。忘れた」
「ぽんこつ~」
そこでレヴェイユが、とことこと階段を下りてくる。
「コゲコゲの香りがすごいわね~。私の鋭い勘によると、火事がおきてる気がする」
「火事だと思うならもっと慌てろよ。ちょっとフライパン焦がしただけ」
クロルの発言を聞いて、トリズがフライパンの中身を見ながら「ちょっと?」と首を傾げていた。
レヴェイユは焦げなど気にならない様子で続ける。
「あ、そうそう。あのね、秋の園遊会も近いでしょ?」
「うん……あと、四日だな」
「ドレスも靴も武器も用意されてるんだけど、うっかりと髪飾りのことを忘れてて~。当日、ドレス工房にもあるかもしれないけど、お高いと思うの。リーズナブルで気に入るデザインのものを選んでいいかしら? これも税金だからね、ふふっ」
「確かに税金だな」
フライパンを見て、ちょっと反省。
「だから、今から少し出掛けたいの。一人で行ってもいい?」
「いや、俺が一緒に行く。ついでにフライパンを買わないとだしな。……ははは」
焦げすぎて使い物にならなくなったフライパンは、トリズが無言で捨てていた。ポイッと。
そうして、クロルとレヴェイユは店へと向かった。伯爵令嬢が入っても大丈夫そうな、ジュエリーショップだ。
「いらっしゃいま……美形!」
「どうも。彼女の髪飾りを見たいんだけど」
誉め言葉、当然すぎて、流される。全く褒めがいのない男だ。
レヴェイユも慣れた様子で「お願いします~」と入店。カップルでの来店かと思いきや、入店後に即バラける二人。
レヴェイユがショーケースを順々に見ている一方で、クロルはソファに腰掛けた。仕方なく付き添ってます感がすごくて、店員もノー接客。遠目から美顔を鑑賞されるだけだった。
クロルがぼんやりとしていると、少し離れたショーケースの上に、苺のオブジェが飾られていることに気付く。なんとなく気になって、そのショーケースを覗き込んだ。
てっきり苺のモチーフのアクセサリーでもあるのかなと思っていたが、そこには白いカラーでまとめられた髪飾りが置いてあった。小さな花々をイメージした台座に、宝石が埋め込まれている。使われているのはパールとダイヤモンドだろうか。
「……すみません、これって何の髪飾りですか?」
クロルは苺のオブジェをチラリと見ながら、そこらへんにいた男性店員に聞く。
「い、いらっしゃいませ! えーっと、あぁ、これは苺の花でございます。白く小さな花弁で可愛らしいでしょう?」
「苺の花」
クロルは愛想もなく「どうも」と一言お礼を告げて、レヴェイユのところに戻った。
「レヴェイユ。決まった?」
「それがね、店員さんに聞いたら、秋の園遊会ではロイヤルガーデンに敬意を示して、髪飾りに生花の薔薇を使う人が多いんですって。薔薇なら宝石より安いし、そうしようかな~と思って」
「なるほど。ロイヤルガーデンは、薔薇で埋め尽くされてたもんな」
「でも、私って髪が赤いでしょ? 赤い薔薇だと何が何だか分からなくなっちゃいそうだから、白い薔薇にしようかしら」
「ふーん。白い薔薇……いいかも」
「じゃあ、ドレス工房で手配してもらうね。付き合ってくれたのにごめんね」
「フライパンのこともあったから、それは別にいいけど。あ、それよりこっち来て」
クロルはレヴェイユの手をグイっと引っ張って、先程のショーケースの前に連れていく。
「どうしたの?」
「見て、これ。苺の花の髪飾り」
「わぁ、可愛い! 苺の花なんてめずらしい~」
「気に入った?」
悪い男は、そこでじっと彼女の瞳を見る。さらに繋いでいた手を少し緩め、代わりに軽く指を絡めた。顔が良すぎて大変だ。
「く、くろるぅ……本当に顔が良いわぁ……」
「秋の園遊会、頑張れるか?」
「え? もちろん、がんばるわ!」
「ヘマは?」
「しません」
「やることは?」
「頭に叩きこみました」
レヴェイユの返事を聞いて、クロルは「ははっ」と小さく笑った。
「上等。なら、ご褒美前払い。欲しかったら買ってやってもいいけど、どうする?」
「え!」
以前の彼女は、値札なんて見たことはなかった。……というか、お会計をすることもなく盗んでいたわけだが、今の彼女は違う。
レヴェイユは瞬時にショーケースを見た。可愛い。しかも、まさかの苺の花。でも、お値段は可愛くないと思われる、たぶん。ダイヤモンドにパール。ノーリーズナブル。
「……えっとぉ、」
「レヴェイユ」
「なぁに?」
クロルは色気たっぷりに、美しい前髪をかきあげた。
「俺がこんなことをするのは、今だけだ。今後はしない、今だけ」
「今、だけ」
セールスマンがよく使う、胡散臭い台詞第一位。今だけ。
「あと五秒で決めて」
「え!」
「五、四、三」
「ぇえ、えっとえっと」
「二、一」
レヴェイユは迷った。正直に言えば、欲しい。物が欲しいわけじゃない。『彼がプレゼントを選んで買ってくれた』という事実が欲しい。事実とは、普通の人が言うところの思い出ということだ。
彼女は、理解していた。カーテンで仕切られたフィッティングルームで、どうにか勇気を出して未来の話をしたときに、彼との未来がないことを知った。
約束なんて、やぶるのは簡単なことだと心底思っている悪女のレヴェイユが、すがるように未来の話をしたのだ。守ってもらわなくたっていいから、毎日を生きる糧をもらいたかった。彼との約束が、どうしても欲しかった。
でも、約束はもらえない。クロルに大切にされていることは知っている。でも、それ以上にはなれない。
王城の侍女とのことは、きっと何でもないのだろう。彼の端々から、それは……レヴェイユも分かってはいた。
でも、とけた誤解は、絡まった心まで解いてくれない。
あの日、ドアという境界線の、あちら側の会話を聞いたとき。レヴェイユは、黒く焦げそうなほどに嫉妬してむかむかして、目が真っ赤になるまで泣いて、悟った。その事実を、受け入れてしまった。
この先、レヴェイユは、ずっとクロルだけを想って生きていく。この半年間の出来事を死ぬまでの間に何度も何度も思い出して、彼がくれた全ての感情と思い出を抱きしめて生きていく。
でも、きっとクロルの気持ちは変わっていくのだろう。レヴェイユはそう思ってしまった。
半年後は、偶然会えばニコッと微笑んで「最近どう?」なんて、おしゃべりくらいは付き合ってくれるかもしれない。
一年経っても、遠くから「クロル~」と呼んだなら、軽く手を振り返してくれるはず。
でも、三年経ったなら、すれ違ったときに会釈をするだけになっていて、五年経ってしまえば、彼にはきっとレヴェイユよりも大切な……家族とかそういうものが出来ているのだ。
そうして十年離れていたならば、もう知り合いでも何でもない。すれ違っても気付かれない。ただの、他人。それを想像した。
そんなとき、自室に飾っているだろう苺の花の髪飾りの輝きが失われて、かしめが緩まり、ダイヤモンドが取れてボロボロになっていたら、きっと心がぐしゃりと潰れてしまいそう。また悪事に陶酔しちゃいそうだな、と思った。
物は風化するから嫌だ。心の枷を、苺の花の髪飾りに委ねたくはない。彼女の枷は、いつだってクロルだけ。
ちょうど五秒。レヴェイユは、首を横に振った。
「ううん、クロルからの贈り物はいらない。一つも欲しくない。大丈夫、ありがとうね」
「……そっか……まぁ、そうだよな。わかってる」
二人はそのまま店を出て、あと四日しか使わないフライパンを選んでお買い上げ。すると、もう夕方だ。帰り道はザーザーの雨。傘の分、いつもより離れて歩いた。
クロルは、傘の柄をぎゅっと強く握りながら思った。『心を焦がす』なんてよく言うけれど、幸せな熱とそうではない熱で、こんなにも焦げ方は異なるのだ。
フライパンよりも、暗く黒く。心が焦げそうだった。