佐貫の代償
まさに四面楚歌とはこのような状況のことを言うのであろう。
しかし、時として人間という生き物は窮地に追い埋められたとき、別の能力を発揮することもあるのだろうか。
それから四半時ほどの時間がすぎた頃になると、少しずつこの現実からどのように回避するべきかを考え始める者も出始めた。
土岐政道は梅王丸の命と引き替えに、自分達の罪の赦免を考えついた。
多賀是之も似たようなものである。使者の板倉実臣を殺害した若侍の首を持って、義頼に謝罪を願い出ようというのである。
いつの世でも、人間の器の違いというものは窮地に立たされたときに、大きくその行動に差が現れ出るのかも知れない。
しかし、この時の政道らにいくらそのことを説いても始まらない。ましてや兵卒や女子、子供などは言わずもがなである。
よって城内にいる誰もが自分の身の保身のため、ある者は逃げ支度をし、またある者は飯を食らっている。責任転嫁のためだろうか、大声をあげ辺り構わず他人を罵る者もいた。
いずれにしても、佐貫城は義頼の軍勢と一戦も交える前からすでに敗北が決定していたことになる。
さらに数日がたとうとしていた。
そんな中、城の大手門を開いて単身義頼の元へと向かう武将がいた。そう、加藤伊賀守信景である。
彼はことの仔細を城主梅王丸に報告すると、梅王丸の使者として義頼の陣へと向かう許可を取りつけた。月代を整え、上下を着けたうえで、供の者を一人も伴わずに佐貫城を後にしたのである。
この場合、一度は狼狽したものの、未だに城内で右往左往している武将達よりも、やはり加藤伊賀守の方が一枚も二枚も人間的に上であると見るべきであろう。
一方、義頼の陣内でも先に述べた正木憲時の安房撤退の知らせは届いていた。
同じく、佐貫城内の異変についても複数の間者より情報がもたらされた。
義頼は単身使者として城を出た加藤信景の姿に、さらにそれを強く確信していた。と同時に一抹の不安が頭をよぎる。
こちらの使者として、先に佐貫城へと使わした板倉実臣のことがである。
もしも、交渉が成立したというのであれば、まずは実臣がそれを伝えに来るはずである。ところが意に反してやって来たのは敵方の、それも梅王丸からすれば第一の側近でもある加藤信景であるというのだ。
義頼はいらだちを隠さなかった。彼は掌の中で何度も采配を打ち付ける。
まもなく、義頼の前には梅王丸の使者として加藤伊賀守信景が引き立てられてきた。信景は初老であるものの、背筋は凛と伸び、代わりに白くなり少し丸まった顎髭が特徴的である。
最初に口を開いたのは信景の方であった。
「こたびは、如何なる所存にて里見家七代当主梅王丸様が城に、このような軍勢を率いて参られたのか。義頼殿お答え下され」
これはまた、意外な切り口である。
義頼にしては、伝えられてくる状況からみて、降伏を願い出に来たのかと思ったからである。この期に及んで、あくまでも強気な姿勢をとるこの老将に少しの可笑しみと供に哀れさも感じずにはいられなかった。
それでも義頼は努めて冷静に言葉を選ぶ。
「先にこのわしの使者として送りし、板倉実臣という者は如何いたしたか?」
義頼はあえて信景の質問には答えず、まず実臣の安否について確かめた。
「斬り申した」
加藤信景はいくぶん表情を強ばらせる。
勿論、信景自らが手を下したというわけではないが、この場合、誰がどうやって斬ったかと言うことなど問題ではないのだ。
「斬った?・・・。死んだと申すのか」
采配を持つ手が小刻みに震える。
「何故、切り捨てたのか?」
義頼は床几から立ち上がると、二歩三歩と信景に歩みを進める。すかさず秋元弥七が後ろ向きに自分の身体を二人の間に割って入れた。
義頼は弥七の胸ぐらを彼の肩越しに掴むと、自分の後ろへと突き放す。まさに、阿修羅のごとき形相である。
加藤信景が斬り捨てた理由を言うよりも、義頼の采配を振るう手の方が早かった。
「信景が―――――っ!」
怒号と供にガツンという鈍い音がした。頭を割られた加藤信景の額は見る見る真っ赤に染まっていく。
義頼がもう一度采配を振りかぶったとき、後ろから秋元弥七が抱きついた。
「殿、加藤殿も梅王丸様が使者でございまする。どうかご辛抱を!」
上半身の動きを弥七によって封じられた義頼は、残った足で信景の左の肩を蹴り飛ばした。信景はカメムシがひっくり返ったような格好で仰向けになる。
それでも信景は、今度は伏せたそれのように深々と頭を下げひれ伏した。
額から次々と流れ落ちる血が、乾いた砂にいくつもの赤い紋様をつくっている。
「某の、某の命と引き替えに、どうか、どうか幼き梅王丸様のお命だけはお救い下されっ・・・」
もともと義頼には梅王丸を殺してしまおうなどという気持ちは微塵もない。
むしろ、如何にして、この老臣達によって囚われの身となっている梅王丸を救えるかと言うことに心を砕いてきたのだ。信景が改めて言わずとも、はじめから義頼の心は決まっていたのである。
「たわけっ、明日の日の出まで待ってやるうえ、落ちる者は落ち、投降する者は速やかに我が陣まで来るよう伝えよ」
さらに、義頼は吐き捨てるように言葉を繋ぐ。
「ただし、土岐政道、多賀是之以下重臣どもは落ちることも、我が傘下に下ることもまかりならん。梅王殿を誑かし、里見家を分裂させた罪は死を持って償うより他になし」
「ははーっ」
加藤信景は額を地面に擦り付けるほどに頭を垂れた。
こうして、里見義頼による一種のクーデターはあまりにも呆気なく、その第一幕を閉じようとしていた。
後世の記述によると、この時、佐貫城は無血開城を遂げたとあるが、義頼側からは板倉実臣が、そして梅王丸側でも複数の重臣がその命と引き替えであったということはあまり知られていない。
いずれにしても、里見義頼は房州統一に向けた第一の基盤を築いたと言うことだけは紛れもない事実であった。