決別
この宴席での件より程なくして、久留里城にて評定が開かれた。もちろん、今回は義頼をはじめ上総、安房の家臣団も一様に顔を揃えている。
そのうえ義弘の右隣には梅王丸までもが座しているではないか。
義弘はその細くなった腕で身体を支えるように胡坐をかくと、懐より一通の書状を取り出し無造作に放った。近習の者はその書状を拾い上げ加藤伊賀守へと手渡す。
加藤信景は一歩前に進むと、義弘に背を向け家臣団を見回すように、その書状を高々と読み上げた。
「ひとつ、今後我が子梅王丸には上総八郡を与え、佐貫城主とする。ただし、梅王丸が元服するまでのあいだ加藤信景、土岐政道、多賀是之を補佐役とする」
「ひとつ、義頼には安房一国と下総二郡を与え、改めて岡本城主とする」
「ひとつ、もしわしが死することがあらば、その時は里見家の当主を里見家一門、および大多喜城主正木憲時、千本城主東平安芸守らによって協議するものとする。なお・・・」
この時、にわかに場内がざわめいた。
安房の国人の一人が刀を手に立ち上がったのである。
「おぬし、ここをどこと心得る。評定の場ぞ!」
ひときわ野太い声で、土岐政道が吼える。
「拙者、安房の国は館山の出で、名は竜崎六郎太と申す者。只今述べられし下達、合点がいきませぬ」
そこには真っ黒に日焼けした年若い侍が、眼だけ爛々と輝かせ立っている。
勿論、手にした刀を振り回そうというわけではない。それが証拠に、竜崎六郎太は太刀を自分の後ろに置くと、その場で蟹のごとく床に這いつくばった。
彼は擦り付けた頭の前で両手を合わせると、床が響くほどに大きな声で唱える。
「以前、大殿は義頼様に家督をお譲りになると申されたはず。しかしながら、これでは家督を梅王丸様にお譲りになったも同然。さらに・・・」
「えーい、若侍の分際で何をほざいておる!」
多賀是之が割って入る。
「さらに・・・」
竜崎六郎太はことさら声を大きくした。
「さらに、義頼様に与えられし下総二郡はすでに北条の手の内。我らを安房へと封じ込めるおつもりか!」
これには上総の侍達が一斉に立ち上がった。と同時に、安房の国人達もすでに六郎太を挟んでこれと対峙している。
中には刀の鯉口を切っている者までいる。場内はまさに一触即発の事態となりかけた。
里見義弘はこれをうるさそうにただ眺めている。まさかお家が分裂の危機に瀕することになろうなどと、夢にも思わないといった表情である。
「ええーい、やめぬか!」
不意に上総の侍が竜崎六郎太の襟首を掴むや、仰向けにひっくり返した。これをきっかけに上総、安房双方の侍達は肩を前に二歩三歩と足を進める。と、その時である。
「方々、梅王丸様が御前でござるぞ。どうしても血を見たくば、この正木憲時がお相手致そう」
それは、まさに場内を引き裂かんばかりの大声である。
一同が振り返ると、そこには幼い梅王丸の肩を抱いた大多喜城が城主正木憲時のしわがれた顔があった。
憲時の一喝に、刀を投げ出す者、素早く鞘に収める者との差こそあれ、皆一様に上座に向かい平伏し頭を下げる。
憲時は家臣の首座に悠然と座る義頼にも、いっそう低い声で尋ねた。
「義頼殿、安房国人のこの不始末、如何するおつもりか?」
義頼はしてやられたと思ったが、それを顔に出すほど器量が狭いわけではない。むしろ、加藤伊賀守に加え、今回その首謀者の一人が安房の国人から成り上がった正木一族のひとりであったことに可笑しささえ込み上げてきた。
義頼は家臣達が見守る中、義弘の前へと歩み寄ると深々と頭を下げた。
「大殿、安房の守りはこの義頼がしかとお受け申しまする。何卒、大殿様もお身体をお労り下さいますよう」
義頼は目を合わせようとはしない義弘に対して、さらにもう一度深く頭を垂れた。その目には、義頼が義兄でもあり父でもある里見義弘に初めて見せる涙が見える。
義頼にしてみては、これが父義弘との最後の別れになることを悟ったのであろう。義頼はまた、梅王丸には心からの笑みをつくって見せた。
「梅王殿、わしはいつでもそなたの見方じゃ。忘れるではないぞ」
梅王丸はこくりと首を傾けると、義頼以上の笑みを返した。
義頼の中ではやるせない悲しみが込み上げてき、それは彼の顔から笑みを奪った。
当主義弘のそばを下がろうとする義頼に、正木憲時がさらに声をかける。
「あの若侍の処分は何と致します」
義頼は憲時の方を振り返ると、憲時だけに聞こえるほどの声で言い下した。
「おぬしの勝手にせえ」
歴戦の強者として名の知れる正木憲時でさえも、この時の義頼の形相には返す言葉を失ったほどである。
それから程なくして、里見義頼をはじめとする安房の侍達は、岡本城以下安房国の各城へと戻っていった。
そしてあの日、評定で諫言したとして罪に問われた安房国の国人竜崎六太郎は、東平安芸守が居城の千本城地下牢へと幽閉されることなった。
義弘の側近らは即座に彼の首をはねよと叫んだが、正木憲時が最後までそれを許さなかったのである。
憲時にしてみれば、これから先、義頼ら安房方に対する人質という意味もあったのであろうが、むしろあの時の義頼の眼光が今でも脳裏から離れないでいたせいでもあった。
このように、里見家にとっては外敵北条との和議を取り付けたものの、天正五年の冬は上総と安房が二分するという形で閉じようとしていた。