蟾蜍(ひきがえる)
それからひと月が経ち、ようやく佐貫の城も落ち着きを取り戻してきた。先に千本城攻めで功を立てた岡本頼元、堀江頼忠も戻っている。
さらには、眼の治療のため、一時上総と安房の国境付近で養生していた、あの竜崎六郎太も浅黒い元気な顔を見せた。彼も今では義頼の近習の一人として常に義頼の側にある。
それでも二年にもおよぶ地下牢生活のせいだろうか、視力は回復したものの、足の甲を患った。
そのため、成人の男に比べると歩幅を大きく取ることができず、いつも歩くときは小走りしているように見える。
義頼はまた、佐貫城よりさらに西の、海が一望できる丘の上に墓を建てた。そう、あの板倉実臣のものである。
「実臣、海からの備えはおまえに託すぞ。わしらはもうひと働きせねばならん。残っている東の鼠を捕まえてくるゆえ、安心いたせ」
そう言うと、義頼は静かに掌をあわせた・・・
さらにひと月が経ち、房州にも初夏の香りが漂い始めてきた。
義頼は甲冑を着けたまま城を出ると、佐貫城の北側に位置する小高い丘を目指している。彼の後ろからは竜崎六郎太がついて歩く。
草むらを抜けると、すでに十分に昇りきった朝日が眼にもまぶしい。
その朝日が、義頼の兜にある二つ引両の前立てに反射し、それはいっそう目映いほどの金色に輝いて見える。
義頼は先ほどから東の空と山裾との境界線をじっと見つめている。そう、この東の空の下には、あの正木憲時が構える大多喜城があるのだ。
城は義頼が佐貫城を落として以来、一万五千の兵で囲んでいる。今も安西忠正と秋元弥七がその指揮を執っているところであろう。
さらにこのころには、今回里見家が分裂の危機に瀕した、このお家騒動の影の首謀者が正木憲時本人であり、彼の計略によって始まったことが明らかになってきた。
義頼は改めて、ここまでの年月を思い返していた・・・
それにしても、丘を通り抜ける風のなんと心地よいことか。その中、義頼と竜崎六郎太は二言三言、言葉を交わす。
「憲時めが、騙しおってからに・・・」
もう一度そう呟くと、義頼は怒りを込めた大きな眼でさらに東の空を睨み付けた。
足下では、自分の巣から落ちた蜘蛛が、無数の蟻にその身体を任せようとしていた。それは、天空にある時の蜘蛛とは思えないほど、実に弱々しく惨めな姿を晒している。
蜘蛛は数匹の蟻を道連れにしただけで、あとは蟻の長い隊列の一部となった。
その傍らでは、今まさに生を受けた一匹のキリギリスが、身体を左右に揺さぶるようにゆっくりと歩き始める姿があった。
キリギリスは残った方の脚を伸ばしてみた。羽根を広げてみた。
それは生きている証でもあり、今自分ができる精一杯の営みでもあった。
キリギリスは確かに見た。
一瞬でも眼の前に広がる真っ青な空を。とその刹那、草むらから顔を出した一匹の蟾蜍が、そのキリギリスをパクリと口へと運んだ。
蟾蜍は二度三度口を動かすと、その太い喉を少しだけ膨らませる。それから左の頬を舌でひと舐めすると、何事もなかったかのようにまた草むらへと消えて行った。
立ち枯れしたつつじの枝には、ただ蜘蛛の巣が初夏の風にゆらゆらと揺れている。
「六郎太、こたびは大多喜城の正木憲時を討つ! しかと、忠正に伝えよ」
「御意」
義頼が振り返ったそこには、すでに竜崎六郎太の姿は無かった。
この一年ほど後に、大多喜城の正木憲時は自分の家臣でもある佐々木久山によって殺害されることになる。
憲時を失った上総勢は一気にその勢力を弱め、残党は下総をはじめ武蔵や常陸へと落ち延びて行ったという。
房州は事実上、里見義頼が統治することとなり、その年の暮れには、里見家第八代当主となった。
その後、義頼は時の絶対的な権力者豊臣秀吉に対し臣下の礼を尽くし、上総、下総、安房を有する戦国大名として君臨することとなる。
しかし、それもほんの束の間の出来事であった。
家督をその子義康に譲ると、義康は海上より対岸の三浦へと進軍し、これが当時秀吉の惣無事令違反ということで反感を買ってしまったのである。
さらに、天正十八年、秀吉による小田原城の役への遅参を問われると、里見家は上総、下総を没収され、安房一国のみに封印されてしまう。
まさに里見家にとっては青天の霹靂、戦国大名も束の間の夢と化したのである・・・
その後も里見家は、ついに天下の日の当たる表舞台に現れることはなく、天下の経世を受け継いだ徳川政権によって長く太平の世を迎えることとなった。
幸いにして小田原の役の三年前、天正十五年にこの世を去った義頼は、この里見家の末路を見ずに済んだことになる。
それにしれも義頼は、あの初夏の日、あの丘の上で真っ青な空を見上げることができたのだろうか。
それを知る者は、今はもう誰もいない・・・




