親鸞と「悪」を批判的に検討しまふ
浄土真宗の僧侶である親鸞という人には本当に考えさせられるというか、逆に細かいところまで調べていけば、矛盾のようなものも感じたりしてきました。その肯定感と批判点を少し自分の狭量さで論じてみようと思います。まず、親鸞といえば、いや私の個人的なイメージ像になるとは思うのですが、言ってみると親鸞という人は結論から言うと「よいことをするより、悪いことをした方がいい」と言い切った人なんじゃないかなぁという気がします。
でも、これはあくまで私の結論づけ方なので、知識のある人には、そうは言ってないんだよとお思いになるかもしれません。ただし、私が調べたうえでは親鸞は微妙に「悪」を肯定している人なんじゃないかなと思うわけです。非常に大雑把に拡大して取り上げているにすぎませんが、その部分が私が非常に気になった、悪く言えば理解不能だった箇所なのかもしれません。
なぜなら、人間が皆、「悪いこと」をするようになれば、今の社会は犯罪だらけになり、国が退廃し、滅亡に向かうことは間違いないからです。つまり、何が「悪いこと」なのでしょうか? 一つは犯罪を犯すことです。もう一つは犯罪として罪にはならない、もしくはなりにくいですが、「差別」をすることです。そして、私が知りうる限りの親鸞に共感している人たちはこの「差別」という考え方に安易が故の「生きやすさ」を感じているのではないでしょうか。この「差別」心にやきもちを焼いたり、好んだりしている人たちはヤンキーとか半グレ集団とかクラブミュージック系のDJなどが該当すると推測いたしますが、私はどうにもこうにもこの「悪」では世の中はやっていけないと思うのです。
親鸞について、良い点を挙げてみたいと思います。例えば親鸞は「念仏をいっぺんでも称えたら天国へ行ける」と言っています。優しい人ですね。だって、一回でいいんですからね。これは簡単だし、「誰でも」どんな境遇にいる人にもできることだからいいなぁと思うわけです。そして、もう一つ。「善より悪が往生できる。なぜなら、阿弥陀仏の第十八願にそう書かれているからだ」と答えています。これは親鸞の何の罪もおかしな所もない「悪」の実践ではないかと思われます。別に自分で考えてそう言ってるんじゃない。教義である第十八願にそのことが書いてあるからだということなのです。たぶんこれは現代で言うと、ドゥルーズの本にそう書いてあった、とかまたはデリダはそんなことは言っていないとか、そういうポストモダンにまつわる言説の類によく似ているところがあります。そういったことが、親鸞の良い点だと思います。
とにかく、親鸞が言っている「悪」というのは犯罪のことを主に言っているんじゃないかということ、それと現代の親鸞に惹きつけられている人たちはその逆でいじめ差別などの罪にもならず、警察沙汰にもならない、しかし重たいという、そういう人の心を傷つける「悪」について共感を持っているのではないかということを思うのです。それを履き違えるととんでもない事態になるように感じるんですよね。つまり、私はまだ「善」を信じている。しかし、「悪」を必要とするヤンキーなどのワルたちにとっては親鸞という人はどれだけ救いになっていることだろうと思うと、やっぱり立派だなぁと思うことがあります。