8.花火大会
夏がやって来た。
相変わらず俺達の関係は嬉しいのか、悲しいのか、これまで通りだったりする。もちろん零の練習は続けており、新しい能力もつい先日形になったばかりだ。
まだ未完成とは言え新しい能力を得た俺達は少しだけ浮かれていた。折よく近くで花火大会が開かれる事を知り、お祝いも兼ねて二人で出かける事になった。
山口の家の前に車を停めた俺は車から降りると強い日差しに目を細めた。すでに夕方の五時だというのに未だに照り付ける日差しは衰えを知らない。
「おーい!洋一くーん!」
声がした方を見れば山口の母親がベランダから手を振っていた。俺は軽く頭を下げて挨拶をする。
「こんにちは。娘さんを迎えに来ました」
「こんにちは。もうちょっと待っててね。里紗が準備に手間取っちゃって」
時間にキッチリしている山口が遅れているとは珍しい。
「準備ですか?」
「そう。楽しみにしててね」
「わかりました。すっごい楽しみにしときます」
「あれ?ハードル上げちゃったかな?」
楽しそうに笑う山口の母親は今日も絶好調のようだ。こうして下から見れば、強い日差しのせいか普段以上に綺麗に見える。山口も歳を重ねたら、あんな女性になるのだろうか。
「ねぇ洋一君」
「何ですか?」
山口の母親はベランダから身を乗り出すようにして、少し声のボリュームを下げた。
「まだ里紗に告白してないの?」
「――はい。まだです」
好きだと言葉にしていないだけで、俺の行動は山口に対する好意が溢れ出ている事だろう。もちろんそれについては山口に気付かせるようにわざとやっているわけだが、当然のように周りの人にも気づかれてしまう。
「やっぱりそうなのね。今日はせっかくのチャンスなんだから頑張ってね!」
「はい……頑張ります……」
「頼りないなー。私は洋一君が息子になってくれるんなら大歓迎なんだから。早く里紗を貰いきてよね」
「ありがとうございます。頑張るので気長に待っててください」
俺の頼りない返事に山口の母親は苦笑いしている。
「洋一君なら大丈夫!里紗だって……あっ里紗の準備が終わったみたい」
山口の母親が室内に戻って行った。少しして玄関のドアが開いて母親に隠れるようにして山口が出てきた。
「お待たせ」
恥ずかしそうに、手首に引っかけた巾着袋の紐を弄っている。
「似合ってる」
「ほんとに?」
「本当だって。とっても可愛いよ」
山口は耳を真っ赤にして下を向いてしまった。花火大会という事で山口は水色の浴衣を着ており、それは本当に良く似合っていた。
「あらあら。ただでさえ暑いのに、そんなに熱々な所を見せられたら困っちゃうなー」
「えっ!違う」
母親の言葉に慌てる山口はいつもながら可愛らしい。だからついつい意地悪したくなってしまう。
「あっ……違うんだ……」
「えっ!違う。えっと、そうじゃなくて……」
さらに慌ててしまう山口を見て俺は思わず笑ってしまった。
「ごめん。冗談だよ」
山口の頭を撫でようとしてやめる。普段はおろしている髪が編み込まれていて可愛いリボンまで付いていたから。
「いじわる」
「ごめん。髪型似合ってるね。自分でやったの?」
「ありがと。お母さんにやって貰ったの」
あからさまに話題を逸らしたが山口は機嫌を直してくれたようだ。山口の母親の方を向くとウインクをされた。お膳立てはしたから頑張れ!という事だろうか。困っちゃうな。
「いってらっしゃい。お土産は綿菓子で良いからね」
「いってきまーす」
ちゃっかりお土産を要求する山口の母親に二人で手を振って目的地まで車を走らせた。とは言っても花火大会という事もあり、交通規制もされている為に車ではあまり近づく事が出来ない。しかしそれについては当然解決していたりする。実は花火大会の会場が俺の家から歩いて行ける距離にあるのだ。自分のアパートの駐車場に車を停めて、俺達は並んで会場へと歩き出した。
花火大会というのは手を繋ぐには最高の条件だったりする。そんな事は俺だって承知している。でもいざ繋ごうとして、それがなかなか出来ないのだ。
すぐ近くで楽しそうに話す山口を見ながら俺は手を伸ばしたり、引っ込めたりを繰り返している。そんな事をしているからか、時折手の甲が山口に触れる。その度に俺の心臓は高鳴って山口の反応を伺ってしまう。でも何もなかったように話す山口を見て、俺はホッとしたような残念なような不思議な気持ちになるのだ。
花火が始まるまでの時間、様々な夜店を見て回る。
「あっ、これ可愛い!」
無邪気な表情一つで俺の心臓は再び大きく跳ねる。見慣れているはずの表情が、いつもより一段と可愛く見えるのはなぜだろう。俺はそんな山口をもっと見ていたくて、可愛いと指さした人気キャラクターのお面を買って山口に付けてあげた。
せっかくの髪型が崩れないように注意して、お面は山口の頭の斜め後ろに納まった。
「ありがとう」
「うん」
正面から見つめられて、なんだか照れ臭かった。その時、ドーンっと腹に響く音がなった。慌てて見上げれば花火大会の始まりを告げる大きな一輪の花火が夜空に咲き誇っていた。
「きれい」
声に反応して視線を戻せば、山口の顔が花火に照らされていた。
「うん、キレイだ」
俺の声に反応した山口もこちらに視線を戻した。俺達は互いに見つめ合って笑った。
さすがに人混みの中で、立ったまま花火を見るわけにはいかない。本当なら花火が始まるよりも早く場所取りをして座っているつもりだったのだが、失敗してしまった。花火が始まったせいで、夜店の前を歩いていた人々が時折立ち止って空を見上げる。そのせいか人の流れは滞り、更なる混雑を招いている。
俺達は人混みから抜けようと移動していると、山口が人の流れに飲まれそうになった。それはあまりに突然の事で、何かを考えるよりも早く俺の手が伸び山口の手をしっかりと掴んだ。
「はぐれるなよ」
「――うん」
山口を引っ張るようにしつつ、自分が出来るだけ人波の盾になるように気を付けて歩く。そうして人が減り始めて来た頃、俺はようやく自分のした事に気が付いた。だからと言って今更手を離す訳にもいかないし、離したくもない。こうなったら自棄だと、知らんぷりして手を繋ぎなおし、指をしっかりと絡ませる。
今になって気づいたが、山口の手は思ってたよりもずっと小さくて柔らかい。強く握れば壊れてしまいそうなその手を俺は大事に大事に握りしめた。すると何を思ったのか、山口の方からも握り返してくれた。それを合図に俺の心臓はそれまで以上に加速していく。今日だけで、いったい何度この感覚を味わうのだろうか。
気づけばいつの間にか人混みを抜けていた。夜店の明かりが少し離れた所に見える。
「もう少し歩こうか」
「うん」
俺はまだ手を離したくなくて、そんな事を口にした。どうして?と聞かれたら座るのに丁度いい所を探そうと言うつもりだったが、山口は何も言ってこなかった。だから俺も余計な事は言わずに、二人で花火を眺めながらゆっくりと歩いた。
この街の花火大会は河原で行われている為、俺達は堤防に沿って進んで行く。歩いては止まってを繰り返す俺達の歩きは本当にゆっくりとしていて、遅々として進んで行かない。それでも歩けば少しずつ進んで行くわけで、いつの間にか周りは暗くなり他の人とすれ違う事もなくなった。
そんな時河原に続く石段が目に留まり俺達はそこに座る事にした。着慣れない浴衣の山口が転んでしまわないようにエスコートして、手を繋いだまま石段に腰を下ろした。本当なら手を離すべきかもしれないとも思った。でも山口が何も言わないなら、このままでいようと俺は黙っていた。
手を繋いでいるからか山口との距離はいつもよりずっと近い。ちょっとした流れで何度か抱き締めてしまった事があるくせに、肩が当たる程度の距離で俺は緊張してしまっている。なんて情けない事だろう。
「今のハートだったね」
山口が楽しそうに笑えば、それに釣られて俺も笑う。二人であれが好きだとか、これは渋いだとか、勝手に花火の批評をして楽しんだ。その間ずっと手は繋いだままで。
人間というのは大抵の事に慣れてしまう生き物だ。俺も例に漏れず今の状況に慣れ、胸の高鳴りも随分と落ち着いた。ようやくいつものペースで話せる事に安堵しながらも、さっきまで感じていたどうしようもない程の胸の高鳴りがなくなってしまった事に寂しさを覚えたりしていた。
何となく時計を見ればもうすぐ花火が終わる時間だった。ついさっき来たばかりだと思っていたのに、いつの間にか時間は過ぎ去ってしまっていた。俺の知らない所で、誰かがこっそり時間を進めているんじゃないかと思える程にあっという間に感じたんだ。
花火の終わりに告白しよう。来る前にそんな事を考えていた事を思い出し、チラリと山口の方を見る。山口は相変わらず花火に夢中で、その横顔は花火の光に照らされて驚くほど綺麗に見えた。俺はそれを見る度に、胸の奥の方を何かにギュッと締め付けられるような気がしていた。
未だに昼の熱さが抜けきらない夏の夜風が頬を撫でる。風と共に運ばれてきた山口に匂いに俺の心臓は再び高鳴った。正直この歳になってこんな恋愛をするとは思ってもみなかった。こんなにも誰かを好きになれるなんて思ってもみなかった。山口の何が、俺をこんなにも惹きつけるのだろうか。
再び時計を見れば残りは五分を切っていた。花火が終わってしまう前になんとか気持ちを伝えたくて、でも伝えようとする度にバクバクと五月蠅い程に鼓動が早まるせいで結局言えない。そんな事を繰り返していたら花火大会の終わりを告げる大輪が咲いた。それは今日一番の大きさだった。ゆっくりと消えゆく花火を見ながら、結局俺は告白を諦めた。
「綺麗だったね」
「そうだね」
今日何度目になるかわからないその会話をしながら俺達は来た道を手を繋いで歩く。
「あっ、綿菓子買わなきゃ」
山口の母親が好きだと言うキャラクターがデザインされた袋を選んで買った。
「山口はなんか食べたい物ないの?」
「食べたい物?」
「うん。こうゆう時しか買えない物ってあるからさ」
「うーん。あっ!リンゴ飴食べたい」
山口の言葉に頷いて俺はリンゴ飴を一個買って山口に渡した。さすがに買い物の時には手が離れてしまうけれど、買い物を終えれば俺は知らんぷりして再び手を繋いだ。だから当然のようにお互いに空いている手は片手になる。俺がお土産の綿菓子を持ち、山口がリンゴ飴を持って食べながら歩いた。
「石田は何か食べたい物ないの?」
俺は現状に満足してしまっていて特に何も思いつかない。だからって特にないって答えはダメな気がした。
「んー。リンゴ飴ちょっとちょうだい」
特に考えずに口に出して、言った瞬間に少しだけ後悔した。断られたらどうしよう。でもそんな心配は山口の笑顔と共にすぐに消え去る。
「はい」
両手が塞がっている為、差し出されたリンゴにそのまま噛り付く。甘さと共にリンゴの僅かな酸味が口いっぱいに広がった。初恋は甘酸っぱいモノというのが定番だけど、初恋じゃなくてもきっと恋は甘酸っぱいんだと思う。リンゴ飴を食べながらそんな事を思った。
「ありがとう。間接キスだね」
「うん……え?」
暗くても山口の耳が赤くなるのがわかる。耳だけじゃなくて顔まで真っ赤だ。間接キスくらい何度もした事あるくせに、こうして口に出すだけで何か意味のあるモノに感じてしまうから不思議だ。
完全にテンパってしまっている山口をそのままに俺達はゆっくりと帰路に着いた。
山口を助手席に乗せて通い慣れた道を走る。見慣れた景色を眺めながら、俺は何事もなかったかのように山口と話をしていた。対する山口も同様に全く持っていつも通りで、寂しいようなホッとしたような何とも言えない気持ちになってしまう。
今日だけで何度告白のタイミングを逃しただろうか。何度もしようと身構え、そして諦めた。結局俺は臆病なのだろう。たった一言伝えるだけなのに、その一言が出てこない。どうでも良い言葉はいくらでも出てくるのに、好きだという言葉だけが出てこないのだ。それはまるで俺の知らない大きな力が堰き止めているのではないかと疑ってしまう程に頑として言葉になってくれないのだ。
結局いつも通りに送り届けた俺は、一人になった後で振り返り、情けない自分に嫌気が差してしまった。しかし同時に手を繋げた事を思い出し、勝手に頬が緩んでしまう。そして手に残る感触を思い出そうとして失敗した。それはまるで生き物のようにスルスルと俺の手から逃げて行ってしまったのだ。
誰もいない我が家に帰り着き、何となく寂しい気持ちで手洗いとうがいをする。そして鏡を見て舌にリンゴ飴の色素が付いている事に気が付いた。たったそれだけの事で俺の気持ちは再び浮かび上がる。
もう完全に、俺の中心には山口がいるようだ。