7.雨の日には
春が終わり、ゴールデンウィークが過ぎ、梅雨がやってきた。
「また雨だー」
ベランダのある大きな窓の前に立って山口が外を眺めている。
「梅雨だからなー」
「分かってるよー。でもさすがに飽きた。外に出たい!」
「また、てるてる坊主を作るのか?」
俺の言葉に山口が明らかに落胆の表情をする。山口が外を眺めていた窓の上、カーテンのレールには十を超えるてるてる坊主達が飾られているが、彼らの力が発揮された事は一度もない。
しかし子供のように駄々をこねる山口を見ていると、どうゆう訳か甘やかせたくなってしまう。これが惚れた弱みというやつのだろうか。仕方ない。偶にはお出かけするのも悪くないだろう。
「本当に良いの!?」
「うん」
「やったー!石田ありがとう!」
俺の提案を聞いた山口の顔はこれでもかという程に素晴らしい笑顔に変わった。使い古された表現で花が咲くようになんて言葉があるが、それはまさにこんな感じなんだろうなと思わせるような笑顔だった。
俺達が向かった先は水族館だった。別にどこでも良かったのだが、映画は最近見たばかりだし、食べ物系も近くの有名どころは制覇した。となると良い所が思い浮かばなかった。頭を捻った俺が最初に思いついたのが、水族館だったという訳だ。とは言え、俺の住んでいる所のすぐ近くに水族館なんてモノはない。そんな訳で高速に乗って車を走らせる事二時間ちょっと。
助手席では、山口が鼻歌を歌っている。この車のナビに入っている音楽も随分と山口の趣味に染まってしまったなと思わずにはいられない。少し前までは俺の好きな少し昔の曲がほとんどだったのに、山口と一緒に過ごすようになって、最近の曲が次々とナビに入るようになった。
それは別に山口が勝手に曲を入れている訳ではない。俺自身が少しでも山口の気を惹きたくて、話題に上ったアーティストを逐一チェックしていった結果がこれなだけだ。俺自身の趣味とは若干違うが、こうゆうのも悪くないなと最近は思い始めている。
目的地である水族館についた俺達は人の多さに驚いた。雨の高速道路はガラガラで大して時間が掛からなかった癖に、水族館前に出来ていた渋滞で一時間近く待たされてしまったのだ。
「雨だからねー。みんな考える事は同じなんだろうな」
「うん、そうだね。あっイルカショーがもうすぐ始まるみたい」
イルカショーの時間が書いてある看板に向かって山口が駆けていく。その後ろ姿が何とも可愛らしく、人混みで少しだけ堪ったストレスが一瞬にして消えてなくなった。
日頃の行いが良かったのだろうか。俺達は運よく空いていた席に座る事ができた。俺達よりほんの少し後に来た人達は立ち見を余儀なくされている。
山口とそんなくだらない話をしながらショーが始まるのを待つ。こういった待ち時間は、普通なら退屈なはずなのに山口が一緒だと全く苦にならないどころか妙に会話が弾んでしまう。始めの話がなんだったのか分からなくなる程に俺達の会話は発展して盛り上がった。
ショーが始まりイルカが様々な芸を見せてくれる。ボールに向かってジャンプをしたり、輪の中を潜ったり、人を乗せて泳いだりと、それはとても素晴らしかった。俺の隣でいちいち歓声を上げ、拍手をする山口と共に存分に楽しむことが出来た。これを見ただけでも来た価値はある。そんな事を思いつつ、ショーが終わって移動する人の波が引くのを待つ。しばらくして随分と人が減ったのを確認してから俺達はゆっくりと歩き出した。
「金魚だってー」
山口が指さす先では金魚の展示を行っていた。どうやら金魚イベントを行っているらしく、一つの部屋が様々な種類の金魚で埋め尽くされていた。
「結構いろんな種類がいるんだな」
「ホントだねー」
俺達はのんびりと金魚を見ながら歩く。赤に黒、白に金、縁日でお馴染みのやつから初めてみるやつまで実に様々で俺達の目を楽しませてくれた。隅っこの方ではまるで縁日のように金魚すくいが出来るようになっていた。さすがに館内を金魚を持ったまま移動する事が出来ない為、すくった数によって景品が貰えるという仕組のようだ。
「やってみる?」
「うん!一緒にやろうよ!」
嬉々としてはしゃぎながら、スタッフから山口がポイを受けとった。
「勝負しようか?」
俺の言葉に山口の口元が上がる。どうやら俺に勝てると思っているらしい。山口同様にスタッフからポイを受け取り、俺達は真剣な顔で水面を見つめた。
結果は残念ながら俺の惨敗。別に手加減したわけではない。山口の秘めたる才能が発揮されただけだ。
「私の勝だねー」
山口は嬉しそうに景品の金魚のぬいぐるみを抱きしめている。
「参りました。さすがに五匹もとるとは思ってもみなかったよ」
「石田も二匹とったのは凄いと思うよ」
俺が景品で貰った金魚がデザインされたバッジは山口が持つ金魚のぬいぐるみに付けさせて貰った。だっていらないし……。
「ところでお願いは何にするか決めた?」
「うーん。実はまだなんだよね。帰るまでに考えるから楽しみにしてて」
勝負をするなら何かを賭けるべきだと思うのだが、どうなのだろうか。そんな訳で俺達は金魚すくいに勝った方のお願いを負けた方が何か一つ聞くという特に捻りもない取り決めの元で勝負をした。
負けた以上、無理な願いでなければ聞くつもりだ。一体どんなお願いをされるのだろうか。ちょっとだけ不安だ。
金魚すくいの後、いろんな所を見て回った。ただ、水族館に来ている癖に、この魚は今が旬だとか、煮付けが良いだとか、刺身が良いだなんて話で盛り上がる俺達は何かがズレている気がする。すぐ隣で楽しそうに鑑賞していたカップルが俺達の会話を聞いて笑っていた。でもさすがに伊勢海老を見て食べる事を考えないのは逆におかしいと思うのだが、どうだろうか。
そんな俺達もグロテスクな深海魚のコーナーやペンギンの所ではさすがにそんな話をしなかった。子供連れに紛れてペンギンの可愛さにしっかりと癒された。ただ人が多すぎたせいで山口を胸の前に抱えるようにして鑑賞した。その為に、自分の大きすぎる心音が山口にバレたりしないだろうかとか、山口の髪の匂いが思った以上に良い匂いだとか余計な事ばかりが頭を過ったせいで、さっぱりペンギンに集中出来なかった。
「ペンギンってずっと膝を曲げてるんだね」
ペンギンコーナーから脱出してようやくゆっくりと話せるようになった事で、山口は凄い高いテンションで話かけて来た。俺としては残念なようなホッとしたような複雑な心境で山口の話に耳を傾けた。
「どうゆう事?」
「えー。見てなかったのー!?あっ!あそこにも書いてあるよ」
ペンギンのコーナーから少し離れて、剥製なのか人形なのか判断に迷うモノのが置かれているスペースがあった。そこにはペンギンの生体などが色々と書かれていた。山口の指さす先には図解で分かりやすく説明があった。山口が行った通り、短足だと勝手に思っていたペンギンたちはずっと膝?を曲げているだけだった。骨格標本が飾ってあったが、どう見てもあの可愛らしい姿が想像できなかった。
もしかしたら、現在図鑑などに載っている恐竜たちも実は滅茶苦茶可愛かったなんて事があるのかもしれない。
全てを回り終わった俺達は最後にお土産コーナーを訪れた。二人で色々と見て楽しんだ後、山口の母親へのお土産を二人で買った。
「お母さんに買うなら食べ物が良いと思う!」
自信満々に豊満な胸を張る山口に従い、俺達は水族館のイラストがデザインされたゼリーを買った。どうやらこのゼリーは、中で魚が泳いでいるように見えるのだそうだ。もちろん本物の魚ではなく、何かのフルーツや着色料のような物だとは思う。見本として飾られていたゼリーの中では、見事にイルカが泳いでいた。
「これならお母さんもきっと喜ぶよ」
「本当は山口が食べたかったんだろ?」
「えっ!?そんな事ないよー」
あからさまに視線を逸らす山口にでこピンをして俺達は帰路についた。
「お願いは決まった?」
帰りの車の中で山口に尋ねる。
「うん」
「何?」
「あれ」
山口が指さした先ではサービスエリア内にある観覧車がゆっくりと回っていた。
俺は山口のお願いを聞くために、サービスエリアに立ち寄った。観覧車は思ったよりも遠くにあり、雨の中を少し歩く事になった。荷物になるから。そんな理由から一本しか持ってこなかった傘。
当然のように俺達は相合傘で観覧車まで歩いた。俺は山口が濡れてしまわないように、出来るだけ多くの面積を山口の方へと移動させた。雨に濡れる自分の肩が何だか誇らしかった。
雨の観覧車からの眺めは想像通り大して良くない。それでも山口が一緒に乗っているというだけで、どうしてこうも楽しいのだろうか。子供のようにはしゃぐ山口は、小さなゴンドラの中をあっちに行ったり、こっちに来たりと落ち着きがない。
「揺れるから」
俺の一言でようやく落ち着きを取り戻した山口が少しだけ恥ずかしそうに、俺の隣に座った。当然のように俺達の乗っているゴンドラが僅かに傾く。俺は別に高所恐怖症って訳ではない。だけどやっぱり、こんな高い所でギシギシと揺れていたら落ち着かないのだ。
「あっ」
恥ずかしさからか、静かになっていた山口から急に声が上がった。何かと思って山口の視線の先を見る。
「うわー」
そこには俺達の前に乗ったであろうカップルがキスをする姿があった。山口の方を見れば耳を赤くして下を向いている。こんな空気はどうしたらいいのだろうか。俺も困ってしまう。もし俺達が恋人同士ならば、勢いに任せてキスをしてしまうのだろうが、俺達は友達同士。今日一日一緒にいた癖に手も繋いでいないのだ。キスなんて、幾らなんでもハードルが高過ぎる。でも……出来るならしたいと思うのは俺が男だからだろうか。
「俺達もしてみる?」
場の空気を変えるように、少しふざけて提案してみた。山口が顔を上げてこっちをみる。
「――うん」
予想外の返事に俺は戸惑った。耳だけでなく顔まで真っ赤にした山口が再び下を向いてしまう。こんな時、どうするのが正解だろうか。本音を言えば勢いに任せてキスをしてしまいたい。でも、何か違う。山口とはしっかりと順序を守りたいと思った。
「わかった」
俺は下を向いてしまっている山口の頬っぺたを両手で包むようにして顔を上げさせた。山口と目が合った。その目には僅かに怯えの色が見て取れて……。
俺は山口に出来るだけ優しく微笑んで見せた。そしてゆっくりと口づける。ただし、キスする場所は山口のおでこ。軽く触れるだけのそのキスを山口はどう思っただろうか。恥ずかしくて俺の視線は宙を彷徨う。
「やっぱり恥ずかしいね」
わざと声に出して恥ずかしさを誤魔化す。そして山口を見る。
「うん……」
俺の方を見ないで返事をした山口の口元が少しだけ上がっていた。どうやら嫌われていないようだ。内心で安堵の溜息を吐きながら、関係が少しだけ前進した事に小さく、本当に小さくガッツポーズをした。
帰りの車の中、山口は来た時以上にご機嫌だった。鼻歌を歌うだけじゃなく、次から次に話題が出てくる。今日の水族館が余程楽しかったのだろうか。イルカに金魚、ペンギンや他の魚たち。おみやげや途中で見た面白い家族連れやカップルの事など話題は多岐に渡った。そして観覧車の話になった時、山口は何かを思い出したように顔を赤くさせて、すぐに話題を切り替えた。
脈がある。そう思ってもいいのだろうか。俺は少しだけ自信を持つ事が出来た。近いうちに告白しよう。俺は強く決意した。
雨の高速道路をご機嫌な山口を助手席に乗せて走る。どんな天気でも俺の隣で山口が笑っていてくれれば、俺の心は驚くほど簡単に晴れ渡る。まるで俺にとっての太陽のようだと臭い事を考えてしまう格好悪い自分に、思わず苦笑した。
どうゆう訳か山口を家に送り届けた頃、雨は上がっていた。
「どうして今更やむかなー」
「でも晴れてたら水族館行ってなかったな」
「あっ!じゃあ雨で良かった」
頬を膨らめていた山口の顔が一瞬で笑顔になった。
「おかえりー」
玄関を開けて山口の母親が出て来た。
「ただいまー」
「ただいま帰りました。あっ、お土産ありますよ」
「ほんとに?ありがとう」
嬉しそうに、本当に嬉しそうにお土産を受け取ってくれた。そんな所が山口にそっくりでお土産を買ってきたこっちまで嬉しくなってしまう。
いくつか適当な雑談を交わして俺は二人に手を振った。
「おやすみなさい。気を付けて返ってね」
「石田おやすみー。帰ったら連絡してねー」
暖かい見送りにほっこりして俺は車を発進させた。こんな当たり前の事がこれ程までに嬉しい。きっと山口と一緒にいれば、これから先も当たり前のように続いていく。少しだけ先の事を想像して俺は頬を緩ませた。
雨上がりの道を俺は一人で運転する。いつもなら寂しい癖に今日は不思議と心が暖かい。もうすぐ梅雨が明ける。そしたらきっと……。
山口との未来を思い描きながら、俺はアクセルを踏んだ。
雨に濡れた色んな物が、車のヘッドライトに照らされてキラキラと光り輝いて見えた。