17.貪るように
俺達が里紗の家に帰り着いた時、時刻はすでに夕方の五時を回っていた。途中で昼飯を食べるつもりだったが、いろいろあり過ぎたせいで飲み物くらいしか口に出来なかった。
「すぐにご飯作るからね」
「よろしく」
里紗が玄関の鍵を開けるのを待ちながら、俺は何となく顔を上げた。見上げた先には見慣れたベランダがあり、いつものように里紗の母親が顔を出すのではないかと思ってしまう。花火大会の日もここからベランダを見上げて会話をした。あの時はこんな日が来るなんて思ってもみなかった。臆病なりにもちゃんと里紗に告白して、付き合って……。そしていつか里紗と一緒に挨拶に来る日が来ると思っていた。
何気なく交わしたあの日の会話が頭の中で蘇る。
「洋一、どうしたの?」
里紗に呼ばれて我に返る。どうやらボーっとしてしまっていたらしい。
「なんでもない」
首を振って里紗と共に家に入った。
里紗が夕飯の準備をする間、俺は再び家族への連絡を試みる。昨日の夕方の時点では問題ないようだったが、今朝はすでに連絡が取れなかった。向こうで何かあったのだろうか。そんな不安が胸を過るが、ただの電波障害だと自分を納得させた。そして繋がりますようにと、願いながら見た携帯には圏外を示すマークが点っていた。
俺は溜息を吐いて顔を上げる。普段なら新幹線で二時間程度で行ける距離も交通機関が麻痺してしまった今では、簡単にはたどり着けない。どうしたものかと考えを巡らせるが、結局直ぐにはどうしようもないと諦めた。
夕飯を食べ終えた俺達は昨日同様に一緒に風呂に入った。電気はソーラー、ガスはプロパンという環境が、こんなにもありがたいと思える日が来るとは思わなかった。温かい湯に二人で浸かりながら何でもない話をした。
風呂から上がった俺達は里紗のベットに並んで座り、今日の出来事や明日からの事を話し合った。
いつからか話は逸れ始め、里紗の母親の話題になっていた。途中互いに気まずさを感じて、少しの時間俺達の間を沈黙が包んだ。
「ねぇ洋一」
「ん?」
不意にギュッと抱き付かれた。突然の事に驚いたが、俺は里紗の背中に腕をまわして頭を撫でる。しばらくそうしていると顔を上げた里紗と目が合った。しばらく見つめ合った後、どちらからともなく唇を重ねた。里紗の唇は柔らくて暖かい。
僅かに触れるだけの口づけをして再び見つめ合う。何となく照れくさくてコツンとおでこを合わせて微笑んだ。
そして二度目の口づけは一度目よりも少しだけ長かった。
三度目はついばむように、四度目は上唇の先を僅かに付けたままに静止して互いの口から漏れる温かい吐息が交差する。
五度目。顔を横にして口づける。それまでとは違い、深く、長く。
そこから先は数える事なんて到底出来ないない程、何度も何度も、情熱的に、貪るように。
ゆっくりと唇を離した時にキラキラと輝く銀のアーチが二人を繋いでいた。それはとても幻想的でありがながら、同時に生々しくて背徳的だった。途端に恥ずかしくなり、俺達は誤魔化すように再び唇を重ね合う。
どれだけの時間をそうしていたのだろう。
俺達は互いに強く抱きしめ合い、唇を重ね、お互いを求め続けた。どれだけ強く抱きしめてもまだ足りないと感じてしまう。ほんの一ミリの隙間だって開けたくなかった。どんなにピッタリと密着しても、まだまだ足りなかった。出来る事なら本当の意味で一つになってしまいたいと思う程に。
そうしてようやく少しだけ落ち着いた俺達は、おでこをくっ付けて見つめ合う。少し照れくさくてどちらともなく笑ってしまった。
再び唇を重ねる。何度しても、し足りない。これは何よりも神聖で、何よりも尊く、何よりも得難く、それでいて何よりも身近で、何よりも……。俺達にとってこれ程までに価値のあるモノが他にあるのだろうか。
里紗の唇から離れ首筋へと移動する。それと同時に里紗から漏れる熱い吐息が俺にかかる。
その後でゆっくりと着ているパジャマのボタンを外す。外しながらも俺は攻める事をやめない。一つ、また一つと外れていくボタン。捲れたパジャマから覗く白く綺麗な肌がカーテン越しの月明かりに照らされて、ひどく儚げに見える。急に何とも言えない寂しさに襲われて、俺は里紗の頬に手を添えて再び唇を重ねたのだ。
「里紗」
至近距離で名前を呼ぶ。
「なに?」
「愛してる」
自然と言葉がこぼれた。
「私も愛してる」
里紗は僅かに目を潤ませる。そんな里紗がどうしようもなく愛おしくて、俺はまた強く抱きしめた。
愛してる。そんな言葉が口から自然と出る日が来るなんて思ってもみなかった。もしかしたら、そういった言葉は自分で言おうとしなくても自然と零れ出てくるものかもしれない。
人はなぜ身体を重ねるのだろう。子孫を残す為?性欲を処理する為?愛を確かめる為?きっとどれもが正解なんだろうけど、今の俺達が身体を重ねるのはもっと違う理由だったりする。
突然変わってしまったこの世界で、頼れるモノは自分たちの力だけだというのに、その力さえも俺達には足りていない。いつどうなってしまうか分からない中で、何か一つでも確かなモノが欲しかったのだ。だから……。
だから俺達は何度も何度も何度も何度も唇を重ね、抱きしめ合う。例え明日、全てが終わってしまうとしても、今この瞬間だけは確かに俺達は繋がっているのだから。
里紗が傍にいてくれるから俺は俺でいられる。こんなクソみたいな世界で、少しでも気を抜けばおかしくなってしまいそうな、そんな世界で俺は自分を保っていられている。里紗に触れ、抱きしめ、唇を重ねる。そうする事で俺は確信できるのだ。
里紗さえ傍にいてくれたら俺はきっとどんな過酷な世界でも生きて行ける。どんな悲しい事があっても笑顔を取り戻せる。どんなに辛くても乗り越えていける。
だから……。
だからもっと。もっと里紗が欲しい。
俺は里紗の全てを覚えて忘れないように、ゆっくりと時間をかけて愛撫する。唇で舌で手で全身で。俺が動く度に里紗の口からは甘く熱い吐息が漏れ、俺の脳を痺れさせる。
時に優しく、時に強く、指を絡め、唇で触れ、証を残し、言葉を交わし合う。
里紗の肌は白くてスベスベしていた。とても綺麗な肌を俺の舌が侵食していく。里紗の口から漏れる吐息は実に淫らで官能的だ。初めて聞くその声に俺の浸食は加速していった。
里紗は今、何を思っているのだろうか。ちっぽけな俺はもうずっと前から里紗の事でいっぱいで、苦しくて悲しくて寂しくて、でもそれ以上に愛しくて。狂おしいまでのこの気持ちが少しでも伝わればいいと思ってやまない。
「ねぇ洋一」
「ん?」
「実は私、初めてなの」
お互いに長い愛撫を終えた後で里紗から告げられた言葉には、緊張の色が見て取れた。
「そっか……。大丈夫そう?」
「うん。頑張るから……」
「なに?」
「ギュッてして」
黙って微笑んで、強く抱きしめた。
そこから先は、それまでよりもずっと丁寧に俺は里紗を愛撫した。唇を重ねればそこから里紗の緊張が伝わって来るようにさえ感じた。
正直、初めてと聞いて嬉しかった。大好きな里紗の初めてを俺が貰えるという事実が本当に嬉しかった。でもそれは同時に俺の緊張を大きくした。それが里紗にバレないように平気なフリを装って先に進んで行く。
そして……。
俺達の初めては失敗に終わった。痛いという里紗の言葉が俺の胸に突き刺さり、情けない事に力を失ってしまったのだ。
「ごめん。里紗の緊張がうつったみたい」
里紗はゆっくりと首を振る。
「洋一は大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「本当に?男の人って最後までしないと辛いって聞くけど?」
「そうだね。そうだけど……今はいいや」
俺はそっと里紗を抱きしめる。
「本当にいいの?」
「うん。今はこうして抱き合えるだけで良いよ」
「そっか。ありがとう」
何に対してのありがとうなのか分からなかったけど、里紗に頷き唇を重ねた。里紗の身体は小さくて暖かい。布団の中でイチャイチャしていたはずがそのまま眠ってしまったらしい。
翌朝、俺達は激しい雨音で目を覚ました。
「雨だね」
「うん。今日どうするの?」
俺は里紗を抱き寄せ、額にキスをする。
「このままってのは?」
里紗の頬が朱に染まる。
「えっち!なんか悪い事してるみたい」
「どうして?」
「だって朝からそんな……」
「良いと思うけどな。ずっと張り詰めてたから。今日はこのままゆっくりしよ?」
俺は里紗の返事を待たずに、強く抱きしめ口を塞いだ。
昨日より丁寧に、それでいて大胆に俺達は求め合った。唇を重ね、抱きしめ合い、全身を愛撫して、指を絡め合う。昨日と同じ工程を昨日よりも多くの時間を費やした。
いつしか時間の感覚は曖昧になって、どんどん頭の中が真っ白になっていく。何も考えられない。ただひたすらに、貪るように求め合った。これほど幸福な時間があるのだろうか。大好きな相手と抱きしめ合う。夢のような時間。俺はただひたすらに里紗を求めた。
そしてようやく俺達は結ばれた。里紗の目から流れる涙は何を意味しているのだろうか。俺はそれをそっと指で拭って里紗に微笑む。里紗の腕が俺の首の後ろに回されて引っ張られる。そのまま里紗に導かれ、またも唇を重ねた。
随分と時間が掛かってしまったが、無事に最後までやり遂げた事に俺は内心で安堵の溜息を吐いた。
最初、腕枕に憧れがあると言った里紗のリクエストに応えたのだが、どうも落ち着かないらしかった。結局いつも通り。里紗は俺の胸に頭を押し付けている。
「里紗」
「なに?」
「里紗はこれからどうしたい?」
俺は優しく里紗の頭を撫でる。
「わからない。でもあいつに勝てるくらい強くなりたい」
「そっか。俺も同じだよ」
「洋一は強いよ」
里紗が顔を上げた。
「いや、俺は弱い。昨日もその前の日も、もっと上手く立ち回れたはずなんだ。そうしたらあんなに危ない目に合わなくて済んだ」
「でも何とかなったよ」
「うん。だけど、これからもそうだとは限らない。だから俺は強くなりたい。強くなって里紗を守りたい」
再び里紗が俺の胸に頭を押し付ける。
「そっか。でも守られてばっかりは嫌。私も強くなるよ」
「わかった。一緒に強くなろう」
ギュッと里紗を抱きしめれば、頭を押し付けたままで里紗は頷いた。
再び眠ってしまったようだ。気が付けば、いつの間にか雨の音が聞こえなくなっていた。里紗は俺より先に起きていたようで、こちらを見ていた。特に意味もなく頭を撫でれば、里紗は猫のように目を細めた。
ベッドから出て服を着る。昨日も今朝もあんなに積極的だったくせに、急に恥ずかしがるのだがら女心は難しい。
里紗が服を着終えたのを確認してカーテンを開けた。外を見れば雲一つない青空が広がっていた。軒先には水滴がいっぱい付いた蜘蛛の巣が、太陽の光に照らされてキラキラと輝いていた。何でもないその景色が、今の俺にはとても綺麗に見えた。