10.vsモンスター
まるで時間が止まったようだった。山口の母親の上半身はすっぽりと熊の口の中に入ってしまっている。
「え」
山口の声が聞こえた。そして数十メートル先で下半身だけになった山口の母親がバタリと倒れた。
「山口!」
「――うそ。やだよ……」
「山口!」
もう一度名前を呼ぶ。しかし山口は……。
「なんで、なんで、なんで、お母さんなんで……」
壊れた機械のように母に対する言葉を繰り返している山口は、涙を流しその場に座り込んでしまった。
俺は唇を噛み締め、いろんなモノを抑え込む。今は逃げるべきだ。山口の母親が娘の為に稼いでくれた時間を無駄にしてはいけない。彼女のおかげで熊はまだこちらに意識を向けていないのだから。
急いで山口を抱きかかえようとした時、俺達の後ろから悲鳴が聞こえた。振り向けば建物から出てきたOL風の女性達が、この光景を見てしまったらしい。当然巨大熊もこちらを向く。
「くそが」
巨大熊は、今まで聞いた事もないような大きな咆哮を上げ、こちらに向かって走り出した。
仕方がない。
俺は覚悟を決めて熊を見据える。先ほど同様に腕を上げて作り出した重力球を熊に向かって弾いた。しかし残念ながら威力が足りない。集中する為の時間が足りず、中途半端な状態で打ち出す事になってしまったからだ。重力球は熊の肩に命中するが、僅かに肉を抉る程度に留まった。
しかしそのおかげで熊の足が止まった。俺は急いで山口を抱き上げると同時に、その場を離脱した。
一度の跳躍で近くにあった建物の上に降り立った。空を自在に飛ぶにはまだ足りないが、身体能力を引き上げる事には成功していると言っていいだろう。五階建て程度のビルの屋上から下を見下ろせば、俺を見失った熊がキョロキョロと視線を彷徨わせている。
好都合だ。
あまりのショックで気を失ってしまった山口をその場に寝かして、熊を狙う。今度はしっかりと時間をかけて作り出した重力球を屋上から熊に向かって弾き飛ばした。だがそれは突然現れた巨大な盾によって防がれた。盾に当たった重力球は僅かにヒビを入れただけで霧散してしまった。
「えっ」
驚いている俺を真っ直ぐに見つめるのは、宙に浮いている盾の上に立つ一人の男。
「なかなかやるじゃないか。でもこの熊は俺のペットでね。殺さないで貰えるかな?」
やや長めで癖のある茶髪を風になびかせながら、彼が盾から飛び降りた。すると同時に盾が消え、彼は空中に着地した。良く見れば足元に障壁を展開しているようだ。ゆっくりとこちらに近づいてくる男に警戒を強める。見るからに体に纏う零の密度が違う。総量は俺達よりはるかに上だ。相手が本気になったら俺達はあっさりやられてしまうだろう。横目で山口を確認するが、今の状態で上手く逃げ切る自信がない。
結局何も出来ないまま、男がすぐ目の前にやって来た。俺達との距離はわずか数メートルだ。
下から悲鳴と咆哮が聞こえてくるが、残念ながら動く事はできない。目の前にいる人物は、熊なんて比じゃない程にヤバイ。
「何か御用ですか?」
平静を装って声を出すが、流れ出る冷や汗を止める事はできない。
「さっきも言ったように、俺のペットを殺さないで欲しいってお願いをしに来たんだよ」
「わかりました。でも何もしないで食べられる気はないですよ」
俺の言葉に男は笑った。
「まぁそうだろうね。でもここに避難出来たんなら問題ないだろ?」
「そうですね。でも大切な人があいつに食べられちゃったんですよ。仕返ししたかったんですが……」
「それは申し訳ない。でもペットを殺させる訳にもいかない。なんなら君たちも同じ所に送ってあげようか?」
「それは勘弁願いたいですね。復讐より大切なモノがありますし」
言外に見逃してくれるなら、あの熊には手を出さないと告げる。
「なるほど。どうやら頭も悪くないみたいだ。どうだい。一緒に革命をする気はないかな?」
男が両手を広げるような動作をした。
「せっかくのお誘いだけど申し訳ない。それに参加すると大切な人に嫌われかねないので」
「それは残念。じゃあ俺は帰るよ。そうそう。その建物三秒後に爆発するから」
次の瞬間男は俺の目の前から消えた。
ほんの僅かに固まってしまったが、すぐに俺は動き出した。三秒後に爆発する。それが事実とは限らない。しかし嘘であるとは思えなかったのだ。山口を抱き上げ、全力でビルから跳んだと同時に轟音と共にビルが爆発した。
まるでスローモーションのように破片や熱風が押し寄せてくる。俺は障壁と重力球を形成し、こちらにせまる脅威を必死になって軌道を逸らせた。
どうにか難を逃れた俺は先程のビルから数百メートル程離れたビルの屋上にいた。爆発したビルの周辺を見れば広範囲に渡って黒い煙が上がっている。あれでは熊も巻き込まれたように思うのだが、いいのだろうか?
幸いな事に山口も俺も怪我はない。しかし山口は未だに気絶したままで、俺の方は全力で能力を使用してしまったせいで満身創痍だ。もしここでモンスターが現れたら正直ヤバイ。
そんな考えがフラグとなったのだろうか。
空を飛んで真っ直ぐにこちらに向かってくるのは、翼をを生やした鰐だった。その翼は鷲等の翼を強引にとって鰐に付けただけのように見え、妙にアンバランスに感じられた。
俺は急いで重力球を作り出し、鰐に向かって打ち込んだ。しかし奴はそれをあっさりと躱して俺達の前へと降り立った。絶体絶命ではあるが、突っ込んでこなかったのが幸いだ。おそらく、こちらが打った重力球を警戒したからだろう。
鰐と相対する俺はどうするべきかを必死で考えた。正直言えばすぐにでも逃げたい。
しかし問題は、自在に空を飛ぶ相手から満身創痍のこの状況で山口を抱えて逃げられるかという事。不可能ではないだろう。チラリとビルの下を見る。熊や狼、猪にライオン等をベースにしたであろう様々なモンスターがうようよいる。どうやら逃げる内に駅の方に近づいてしまったようだ。
建物の上では空を飛ぶ相手からは逃げられない。かと言って地上に降りればさらに大量のモンスターがいる。
では建物の中はどうだろうか。周りにある建物の中から不安そうな顔でこちらを見ている人達が見える。俺達が入っていけば彼らを巻き込む事になるだろう。
「仕方ないか」
大きく息を吐き出して目の前の鰐を睨みつけた。
山口から距離をとるようにゆっくりと鰐を誘導する。山口を闘いに巻き込むわけにはいかないのだ。俺は覚悟を決めて使い慣れた重力球を自らに展開した。同時に高速で鰐の横っ腹に接近し、重力で何倍にも増した威力の拳を叩き込んだ。
「固っ」
僅かに体勢を崩した鰐は声を上げ、翼を使って俺から距離をとった。どうやら多少は効いているようだ。それにしても奴の身体は異常な程に硬かった。障壁で拳を覆ってなければ、逆に攻撃を仕掛けたこちらが怪我をしていた事だろう。
「やるしかないよな」
意を決して再び鰐に接近した。今度の場所は鰐の上顎の上。眼球目掛けて拳を叩き込んだ。鰐は悲痛な声を上げて俺を振り落そうとするが、必死で堪える。眼球に突っ込んだ手をそのままに不完全ではあるが、直接体内に重力球を打ち込んだ。
先程以上に大きな声が上がると同時に、非常に強い力で振り落された。障壁を張ると同時に、なんとか受け身をとろうとしたが足を捻ってしまった。苦痛を堪え、鰐を見れば残った片目でこちらを睨んでいるように見えた。
「マジかよ」
渾身の一撃だっただけに、あれで倒せてないのは辛い。
正直、体力も零も残りはほとんどないと言っていいだろう。さらに足を捻ったせいで高速移動はもう出来そうにない。一か八か新しい能力に賭けるしかないだろう。幸いな事に一回だけなら能力を使う事が出来そうだ。
しかし残念な事にこの能力には問題があった。形になったと言っても、今はまだ能力の成功率は三割に満たないのだ。しかも失敗しても零を消費してしまう。
「ギャンブルは好きじゃないんだけどな」
ため息と共に愚痴がこぼれる。
俺が動けないと思ったのだろうか。鰐がこちらにゆっくりと近づいてくる。一歩、また一歩と近づく鰐は座り込んでいる状態ではさらにでかく見えた。ゆっくりと時間をかけて集中を行い、能力を発動させた。それは鰐が俺に辿り着くほんの数瞬前の事だった。これで失敗したら助からないだろう。そんな事を考えながら俺の視界は暗転した。
どうやら賭けに勝ったようだ。なんとか無事に能力を発動させることに成功した。俺がいるのは五つの扉が並んだ薄暗い部屋の中だ。それぞれの扉の上にはモニターがあり、外の景色を映している。ただしどの景色も写真のように微動だにしない。現実世界では時間が止まっているからだ。だが残念な事に、この部屋で多少回復しても意味がなかったりする。
この部屋は俺が転移を行う為に作り出した空間だ。転移を発動すると一度ここに飛ばされる。そして行きたい映像のある扉を開けばそこに辿り着く。扉の上の映像は、俺がマーキングした場所を示しており、五つというのはマーキングできる上限である。
新たにマーキングしたければどれかを消さなければならない。また他にもいくつか条件がある上に能力自体の難易度が高い為に、自由自在に使えるまでには至っていない。先ほど山口を連れて転移できなかったのもその条件が関係していたりする。
とにかく成功した事を喜ぼう。覚悟を決めて新たにマーキングした場所へと転移した。
扉を潜った先は、鰐の上顎の上だ。突然現れた俺に驚いている鰐の残った目に向かって、先ほどの空間から持ってきた包丁を突き刺した。一度目よりも大袈裟に暴れる鰐によって簡単に振り落されて地面にぶつかった。障壁を張る事に失敗した上、まともに受け身も取れずに全身を痛みが襲う。それでも這いずりながら鰐から距離をとった。
とにかく鰐の視力を奪う事には成功した。これでなんとかやり過ごせれば良いのだが、そんなに甘くはないだろう。数メートル先では、俺を見失った鰐が闇雲に暴れている。しかも少しずつこちらに近づいてくるのだから、最悪だ。
体力も零もほとんど使い切り、地面に打ち付けられた身体は思うように動かない。この状況で後何ができるだろうか。徐々に近づいてくる鰐を見ながら必死になって考えるが、焦るばかりで何も浮かばない。せめて少しでも距離をとりたい所だが、すでに背中が壁に付いてしまっている。最後の足掻きと、残った零を手に集める。もう能力は使えないのでただ放出するだけだ。
死ぬかもしれないのに妙に冷静だ。鰐との距離が一メートルを切った。俺は心の中で山口に謝罪して、覚悟を決めた。暴れている鰐の口先が目前に迫る。横にスイングするような鰐の巨大な口が俺の脇腹を捉えた。せめてもの抵抗で吹き飛ばされる寸前、口内に零を打ち込んでやった。僅かに舌を怪我した程度だろうが、これが限界だ。
これは死んだな。そんな言葉が頭を過る。しかし俺は宙を舞いながら、それでも生きる事を諦められなかった。着地に合わせて体内の残りカス程度の零を集めて体を覆い、首を曲げて頭を守った。強い衝撃で地面にぶつかったが、悪運が強いのか何なのかまだ生きている。
しかし鰐の直撃を受けた脇腹からは大量の出血があり、どんどん身体から何かが抜けていくように感じる。このままでは間違いなく死んでしまうだろう。俺を吹き飛ばした鰐は血の匂いに気づいたのか、暴れるのをやめた。ゆっくりとだが、確実にこちらに近づいてくる。
そして全く動けない俺の前で鰐が大口を開けた。