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私、あなたに出会えて幸せです

《幾多の手紙》


 氷の国(シュネー)から帝国(ディナス)へ花嫁行進が出発してより七日。

 無事護衛の任を終えて帰って来た灰色狼のごとき男は、呼び出しを受けて執務室の重たく黒い扉をノックした。

「お呼びでしょうか」

「ああ、入れ」

 雪花城(シュロス)の主、雪輝王。彼の兄の返事が返る。

 雪輝王はたまに意味なく弟を呼びつけて一緒に酒を飲ませたりする男だ。緊急の呼び出しと称して街へ忍んで遊びに行くこともざらにある。

 けれど今は帝国(ディナス)との調整が立て込んでいて忙しい時期。何か重大な問題が起きたのかと、ベルクは普段から険しい顔をますます険しくして扉を開く。

 赤々と燃える巨大な暖炉に、重厚な色合いの壁。剣を持ち武装した運命の女神(マレウス)のタペストリーが掛かった部屋に、彼の兄は居た。

 がっしりした造りの執務机にはいつも書類が山と積んであるが、今日はその数がやけに多い。

 普段はせいぜい処理済みの山と未処理の山がひとつづつ、といったところだが、今日広々とした執務机の上には、六つと半分の紙の山が、所狭しと積み上がっていた。

「これは……?」

 もしや事務仕事が大変だ、という愚痴だろうかと、既に手伝う気になっているベルクが、雷鳴のごとき低い声で問う。

「よく来たな弟よ。まあとりあえず俺の愚痴を聞きつつ意見を聞かせろ。面倒なことになったぞ」

帝国(ディナス)から、何か?」

「ああ。……帝国(ディナス)、完全にこっちの財政状況を見抜いて来たな。居丈高な調子で、罪人を姫と称して寄越すとは腹立たしい、この婚姻なかったことにして貰おう、と言って来たぞ」

「……それでは、支援の話は」

「ああ。当然なしだ。ここまで喧嘩を売ってくるということは、完全にいつか戦をするつもりだな。それまでになるべく国力を削いでおこう、という腹なんだろう。本当可愛くないぞあっちの皇太子。うちの弟とは大違いだ」

「……俺に可愛げがあるとは思いませんが。しかし、どうしますか陛下。どれ程腹立たしくても、帝国(ディナス)からの支援をあてにして国庫は動いています。氷の国(シュネー)は今、帝国(ディナス)と戦って勝てる状況では……」

「ああ、そこだ。問題はそれだ。読んでみろ。遠い親戚から大博打に誘われたぞ」

 雪輝王は、机に肘をついたまま、ベルクに一枚の紙を差しだした。

 言われるままに素早く紙面に目を走らせた彼は、やがて目を見開き、そして懐疑に細めていった。

「陛下、これは……」

 雪輝王は深くため息をつき、組んだ手の上に顎を乗せた。その眉間には、弟と同じ様な皺が浮かんでいる。明朗快活と評判の雪輝王だが、そうやっていると、この兄弟はよく似て見える。

「そこに積んである山、全てが同じような内容だ。無視出来ない数だろう? しかも、送って来た相手が凄まじい。聞くか? 聞くだろ? むしろ聞かせる為に呼んだんだ。聞け」

 重ねて繰り返す兄に、ベルクは簡素に応じた。

「はい」

 いつもは面白味ない返答をからかう雪輝王も、今回ばかりは何も言わない。深いため息をまたひとつつくと、指を折って数えだした。

「武器を造るのを拒み追放された、百年に一度の天才大工、白輝の都(ヴァイスリヒト)の親ペッテル翁、海の国(ミル・イスラ・メア)との貿易で大成功した有数の大富豪、女傑ロッタ。大海烏(ワイマーヌ)使いの国家名誉局創立者、元近衛隊長ガイツ。帝国立最高学府を次席で卒業した後、亡命した子爵家の末子、イスハーク」

 流石のベルクも目を見開いた。

「それに、マルグレートの定理を発見した、数学界の女帝マルグレート! その他有名な医者、学者、研究者、技術者! 者を数えればきりがない。勲章で花畑が出来るぞ。そいつらが全員、あの手この手で署名を集めてきているんだ、しかも日に日に嘆願書の量は増えている!」

 叫ぶなり、雪輝王は両手を挙げたまま仰け反って、頭を椅子の背の向こう側にだらんと垂らす。

「陛下。行儀が悪いです」

「今更だろ。諦めろ」

「何度でも言います。陛下こそ諦めてください」

「嫌だ。俺は、お前の分まで行儀悪く生きると決めたんだ。この決意はお前が両手を組んで微笑み愛らしくおねだりをするまで揺らがんぞ」

「……御命令とあらば」

「誰がそんな気色悪い命令をするか、馬鹿」

 首を元に戻して、雪輝王は渋い顔で呻いた。 

「大人しいと見て油断したな、あの娘。風車の街(レガレイラ)にこれだけの、往年の重要人物が集っているだなんて、誰も把握していなかった。……やはり、小動物に見せた猛禽だったな。どうやって動かしたんだ、この人数。もしかしたら俺より影響力あるんじゃないのか? 俺、そこそこ評判良い王の筈なんだがな?」

 ぶつぶつと愚痴る雪輝王に、ベルクが手紙を返し、直立不動のまま問うた。

「どういたしますか、陛下。この話、信じますか」

「……まあ、信憑性は高いだろう。何せ言い出したのは、風車の街(レガレイラ)出身の宝石の眼(ジェマ・オルクス)だぞ。どちらか片方だったら信用せんが、両方だとなぁ……」

 お前はどうだ、と問われて、ベルクは少し悩んでから生真面目に答えた。

「……彼女は、根拠のないことでここまで人を巻き込むような人間では、ありません」

「あー、そうか。お前は人に甘いが、まあそうなんだろうな……。なるほどな……」

 顎をみっしりと覆う茶色い髭を撫でながら、雪輝王がベルクから返却された紙をもう一度睨む。

「つっぱねようにも、街の人間を巻き込んでるのはやっかいだ。風車の街(レガレイラ)からの税収は、最近じゃ赤の港(ガルネーレ)を押しのけて氷の(シュネー)最大だぞ。しかも、あの娘は宝石の眼(ジェマ・オルクス)だ。周りの奴らは失敗なんかする訳がないと思ってる。報われると信じてる奴らが起こす行動ってのはな、勢いがある。中々止められるもんでもない。こっちとしても、渡りに船ではあるんだが……。問題は、身内だな。どう雪花城(シュロス)に蠢く利権の亡者共を動かすか……。あいつらは頭が固いからな。確信が持てるまで絶対動かないぞ」

 ふーむとため息をついて、手紙を裏返す。

「あー、嫌だ嫌だ、どうして王ってのはこういう板挟みの処理ばっかりさせられるんだ。華やかに見えて地味極まりないぞ。こんな役職欲しがる奴は、全員頭がおかしいか馬鹿かのどっちかだ」

「陛下。……どうされますか」

「そうだな。お前の意見を聞いてから決めようとは思っていたが、まあ顔を見て分かった。これは乗ってもいい船だ。少し不安ではあるがな」

 雪輝王は、手紙をつまんでいた指先を離し、大きく伸びをする。手紙は、ひらひらと執務机の上に落ちて、滑らかな机を滑って、床に落ちて行く。

 騎士が紙を拾った時、王は姿勢を正していた。

「ベルク。軍の編成だ。お前に一任する。俺はあのねちっこくて臆病な貴族共の首根っこを掴んでくる。オティーリアにも、また世話になるだろうな。それが終わったら、親書を書く。一等高速獣(アンファング・テイア)風車の街(レガレイラ)に届けさせろ」

 雪輝王は、灰緑色の瞳を剣呑にきらめかせ、茶色い狼のように、獰猛な笑みを浮べた。

「有能であらせられる帝国(ディナス)の若き皇太子殿下に、一泡吹かせてやるとしよう」

 王弟は、指先まで神経のとおった騎士の礼をし、重々しく従った。

「仰せのままに」





私は憶えています 





 その日、風車の街(レガレイラ)ではちょっとした騒ぎが起きていた。

 半年以上もずっと行方不明で、ありとあらゆる所で捜索をされていた、一人の娘が帰って来たのだ。

 彼女は帰るなり街役場に頼み込み、街中のテオの掲示板に手書きの紙を貼って回った。

 いつもなら難問を提示し続けていた廉価品のざらざらした紙には、風車の街(レガレイラ)の人全てに敬意を払うような、丁寧な文字の礼儀正しい文体で、とある仮説が記されていた。

 それは風車の街(レガレイラ)の人間にとって、今までの常識を覆すような、驚くべき提案だった。

 簡潔にわかりやすく記されてはいるが、話は実に壮大で、一見すると夢物語だ。

 末尾には、詳細の全てはここに書き切れないので、もしも信じてくれる人が居るのなら、街役場の前の時計塔広場を借りたので、この日付の日に話を聞きに来て下さい、と記されている。

 もしもこれが、見も知らぬ者の名前で提唱されれば、人々は酒場でつまみのひとつにでもして笑いながら流したであろう。

 けれど、掲示文の最後に刻まれた名前は、この風車の街(レガレイラ)ではある意味、雪輝王よりも力を持つ名。

 街はざわめき、浮き足立ち、そして春を待つような心地で囁き合う。

 ――もしも、これが、本当なら!

 ――風車の街(レガレイラ)の歴史が変わるだろう!

 その掲示板を読んだとある青年は、記された日付を待ちきれずに、とあるパン屋へと足を運んだ。

 そして、店の老女に散々からかわれながら描いて貰った地図を頼りに、一面雪の積もった丘をいくつも越えて、街外れのとある家を訪ねたのだった。

 風車の街(レガレイラ)で最も古い風車を持つ、三階建ての家。

 ノックの音が響いた時、メアは居間の大きなテーブルで書き物をしていた。

 これから集ってくれる筈の人達に、しっかりと納得の出来る、根拠ある説明が出来るようにと、アウルとカロラに協力を仰ぎ、行って貰った実験結果を表にしていたのだ。

 丁度昼頃である。

 適当に作ったシチューが暖炉でぶくぶくと吹いているのにも気付かず、指先をインクで真っ黒にしながら、メアはひたすらに羽ペンを走らせていた。

 その集中力たるや凄まじく、何度か叩かれた扉の音に、全く気付かない程であった。

 けれどノックの音の方も中々根性があった。何度無視されてもめげず、飽かず、むしろここまで来たのだから何の成果もなく帰りたくない、という気持ちが滲む勢いで、扉を叩き続ける。

 じゅわぁっ! とシチューが吹き零れて薪の上から盛大に水蒸気が上がった。

 野菜の焦げる匂いでようやくメアは正気に返り、そしてヤケのような勢いで叩かれ続ける扉の音に気が付いた。

「は……はい?」

 メアは鍋を火から降ろし、扉に駆け寄ってそっと開けた。表には、ぺらっぺらの黒いコートを纏い、寒さで鼻を真っ赤にした、陰気だが強気そうな青年が立っていた。彼は、扉が開くなり、

「遅っ……」

 い、と文句を言おうとして、絶句した。

 メアは小首を傾げ、短い髪が揺れる。その顔にいつもかけていた分厚い眼鏡はなく、深く深く透き通った宝石のごとき瞳があらわになっていた。

 二、三歩後ずさった青年の顔が、みるまに真っ赤になっていく。家の中から流れ出す熱気の影響だけでは説明出来ない、見事な茹であがりっぷりだ。

 しかし、メアはそんなことに頓着せず、ああ、と両手を合わせて頷いた。

「イスハークさん、お久しぶりです」

 かつてメアに拾われて介抱された青年は、メアを指さしてひっくり返った声で絶叫する。

「お、お、お、お前! 宝石の眼(ジェマ・オルクス)だったのか!」

 天地が逆さまになったかのように驚嘆する彼に、メアはあっさり頷いた。

「あ、はい。もう私、隠すのやめたんです。使えるものは使おうと思って。イスハークさん、もしかして、テオの掲示板を見て……?」

 ぱあっと嬉しそうに顔を輝かせると、イスハークはメアの瞳の輝きに熱中症を起こしたかのごとく、冷や汗をかいてよろめいた。

「あ、ああ……。お、お前なら、適当なことは描かないだろうから……。その、なんだっけ、ええとつまり……興味があって……その……」

 目をぐるぐるさせてしどろもどろになっているイスハークの焦りに微塵も気付かず、メアはきゅっと両手を組んで、切実な声色で訴える。

「お願いが……お願いが、あります。あの説を唱えたのは、本当は、風車の(レガレイラ)の為だけじゃないんです。私の個人的な、我儘の為なんです。でも、私は一人では何も出来ません。沢山のことに、負けてばかりです。だからどうか、力を貸してくださ……」

「わかった」

「え?」

 食い気味に即答されて、メアまで目を白黒させた。

「あの、すみません。聞き間違い……?」

「そんな訳ないだろ。わかったって言ったんだ」

「でもまだ、何をして欲しいかも、言って……」

 わざわざ家まで訪ねてきてくれたのだ。是非とも味方になって欲しくて、彼が頷いてくれるまで、何度だってお願いをするつもりだったメアは、あっさり頷かれて困惑した。

 けれどイスハークは、きょろきょろ目を左右に動かしながら、早口でもごもごと言う。

「ど、どうせあれだ、そんな無茶でもないだろ。全財産賭けろとか研究の全部賭けろとかだったら嫌だけど、お前はそういうんじゃないだろ」

 そう言って貰えるのは嬉しいが、彼をそうさせる理由がメアには全く分からない。

 メアの提唱したことに興味があるのなら、きちんと根拠を見付けてから了承する筈だ。何せ、絶対的な安全は保証されていないのだから。

 戸惑ったまま、メアは問う。

「どうして……助けて、くれるんですか?」

 だって、とイスハークは答える。

 きょとんとして。無垢な子供のように。

 当然の様に、言うのだ。

「お前は、僕を助けてくれたから」

 これからメアの家に次々とやって来る、沢山の街の人と同じように。


         *


 本当は長いこと時間を掛けて実証実験をしたかったが、事態は刻一刻と変わり続ける。

 帝国(ディナス)は、氷の国(シュネー)から嫁いで来た花嫁が砂漠の国(サーラー)の元女王であったことを公式に発表した。

 かつてはどうあろうとも、今は砂漠の国(サーラー)で罪人である為、彼女は一定期間の拘留の後、砂漠の国(サーラー)に引き渡されるという。

 この報せはメアの顔を強張らせたが、砂漠の国(サーラー)の今の王は、神話の時代から伝わると言われる神具の錫杖を持たないことは有名だ。

 だからこそ、正式な王族であるにも関わらず、二年経った今ですら、代理の王としてしか君臨できないのだ。女王が錫杖の在処を教えない限り、彼女の命は保証される。

 死よりも辛い責め苦に遭うかも知れないが、それでも彼女は、安易に辛さから逃れる為に神具を叔父に渡すことも、死に逃げることもしないだろう。

 無駄に出来る時間は欠片もない。

 メアは、悲壮な顔で繰り返し街の人に呼びかけ、いくつもの説明を繰り返し、そして雪輝王に手紙を書き続けた。

 雪輝王は連日送られてくる無数の嘆願書を重く受け止め、風車の街(レガレイラ)にとある約束をくれた。

 かくして、春とは名ばかりの、小雪のちらつく寒い日に、風車の街(レガレイラ)の港は大小合わせて四隻の軍艦を出迎えたのだった。

「……久しぶりだな」

 石角鹿(ゲムゼ)のコートに身を包んだ、軍服姿のベルクがそう言った。

 港の最も大きな波止場で、メアは彼達を出迎えた。

「はい。お久しぶりです。ベルク様。街の代表として歓迎させて頂きます。ようこそ風車の街(レガレイラ)へ来てくださいました」

 空は暗く、そのせいかやつれたベルクの顔が、よく見えない程に暗く見える。

 彼は、深い苦悩を生まれながらに背負ったような顔で、メアに尋ねる。

「約束通り、大海烏(ワイマーヌ)達を置いて来たが……。本当に、大丈夫なんだな」

 メアはにっこりと頷いて見せた。

「はい。私達風車の街(レガレイラ)は、魔の海(トード・メア)を抜ける海路を発見しました」

 メアの書いた嘆願書の要求は二つ。

 砂漠の国(サーラー)の女王を支援し、彼女を復位させること。

 雪輝王は、親戚である彼女を正式に支援し、海軍を動かして欲しいこと。

 そうすることによって得られる利益は三つ。

 砂漠の国(サーラー)の女王が即位すれば、氷の国(シュネー)は、風車の街(レガレイラ)を交易地点として豊かな貿易が出来る。

 あの黄金鉱脈から湧き出る富を、謝礼という名目で支援に回して貰うことも可能だろう。

 更に、砂漠の国(サーラー)氷の国(シュネー)は、帝国(ディナス)を挟む位置に存在している。両国が手を結べば、いかに技術の発展がめざましい帝国(ディナス)であろうとも、容易に動くことは出来なくなる。

 問題はひとつ。

 魔の海(トード・メア)を渡れなければ、大陸をぐるりと一周するような形で、大回りしなければならない。そうなると、今後貿易が出来たとしても、道中に存在する海の国(ミル・イスラ・メア)で何度も関税を掛けられ、利益はしぼむ。

 けれど風車の街(レガレイラ)の人間は、魔の海(トード・メア)を抜けることが出来ると、告げたのだ。

 もしも魔の海(トード・メア)を突っ切れれば、通常七日間かかる航路を、三日間に短縮出来る。半分以下だ。

 その画期的な話を現実のものとする為に、風車の街(レガレイラ)の人達は、雪輝王が軍を編成する間に、何度も繰り返し船を出し、正確な海図を書き上げた。

 やがて安全な海路を発見したと告げられ、指定された大きさの軍艦を率いて、彼らはやって来たのだった。

 その行軍の性質上、派手な歓迎会は行われない。

 ただ、日々行き来する貿易船に紛れて、王弟ベルクの率いる軍艦はひっそりと現われた。

 風車の街(レガレイラ)は静かな情熱に包まれていた。

 この街に暮す者であるならば、誰もが水面下で行われてきた、この日の為の準備にどこかしらで関わっている。

 彼らは、自国から花嫁として送られた、氷の国(シュネー)王家の血を引く女王を罪人として扱った帝国(ディナス)に激しい反発を抱いていたし、同時に風車の街(レガレイラ)が新たな貿易相手を得ることを期待していた。

 皆大騒ぎすることはなくても、こっそりと港付近の酒場や食事処に詰めかけ、彼らの街の代表が挨拶をする姿を見詰めていた。

 一番最初に、魔の海(トード・メア)を渡る事が出来るとテオの掲示板に書き、見事それを証明して見せた娘を。

 無数の視線を感じながら、メアは赤い腕章のつけられた腕で、背後を示した。

風車の街(レガレイラ)から乗り込む航海士達や、船員達を紹介いたします。彼らは全員、腕に腕章をつけています。特に、赤い腕章の者は海路の責任者、青い腕章は操舵の責任者ですので、分からないことがあれば、彼らに聞いて下さい。全てを教えてくれるでしょう」

 ずらりと並んでいた屈強な海の男や、生真面目そうな航海士達が敬礼する。

 彼らの挨拶を受けて、ベルクの連れて来た海軍の将校達も敬礼を返した。

 彼らの中の、年のいった幾人は、赤い腕章をつけた船員の中に、かつて大海烏(ワイマーヌ)に乗らせたら無敵と称された近衛隊長が居ることに気付いて、息を飲む。

 ベルクの前ですっと背筋を伸ばし、メアは堂々と挨拶をする。

「我ら風車の街(レガレイラ)を信頼し、こうして来て下さった全ての人達に、街の代表として深く感謝いたします。また、その聡明さで英断を下された雪輝王陛下にも、重ねて御礼を申し上げます」

 そう言ってメアは、風車の街(レガレイラ)で誰よりも優雅だと思わせるような、素晴らしい宮廷作法で一礼した。

 それは、まだ若年である彼女に、威厳を与えるのに一役買った。

「こちらこそ、王家の代表として、風車の街(レガレイラ)のめざましい発見と提案に、感謝をする」

 ベルクはそれに、騎士の一礼を返した。二人はまたいくつかの言葉を交わし、公式的な挨拶を終える。

 メアが軍艦に乗り込む直前、街の人間の何人かが、メアを取り囲んで手を握った。

 頑張るんだよ、待ってるからね、大丈夫だよ。

 温かな言葉は、メアを心から案じているのが滲み出ている。メアは、彼らに涙ぐみながら頷いて、繰り返し御礼を言っている。

 ベルクは、そんなメアの後ろ姿を見て、ぽつりと彼らに尋ねた。

「何が、貴方達をこうまで動かしたのですか」

 筋肉で出来た岩山のごとき将校を見上げた彼らは、その顔の恐ろしさに身体を強張らせた。

 しかし、ベルクが、かつてメアを連れ去った張本人だったということを聞いていた彼らは、いかにもただの町人だという風に口を開く。

「あの時街に居た奴は、残らず予防薬か治療薬のお世話になってんだ。私達はね、血は繋がってなくても、同じもんがね、流れてんだよ」

 もう若くない太った女性がふんと鼻を鳴らす。

「この街で、この子が泣いて困っているのを見捨てる奴は軽蔑される。誰にでもだ。そういうことだ」

 杖を持った白髪の老人が、ベルクを睨む。

「この子はねぇ、頑張って頑張って、それでも親亡くしちゃってねぇ、辛いだろうに毎日毎日笑顔でね、こんなババアの店にしょっちゅう顔だしてくれてんだよ。え? どんだけ救われてるか分かるかい」

 派手な色合いのコートを着た老女がまくし立てる。

 励まされていた方のメアが、かあっと顔を赤くして恐縮するような勢いだ。

「あ、あの……皆さん。この方は……」

 ベルクはそんなことを根に持つような人ではないが、王弟にそのような口を利いたら色々とまずい。

 メアが何とか彼らを宥めようとしたが、ベルクは静かに首を横に振って、彼らを咎めなかった。

「良い街だな」

 一言そう告げて、ベルクは軍艦へと歩いて行く。

「あ……ありがとうございます」

 ぱっと頭を下げたメアは、その後街の人達に改めて御礼を言うと、彼を追って走って行った。

 氷の国(シュネー)の東側の海は寒流が流れているが、それは風車の街(レガレイラ)近海で暖流とぶつかり、複雑な潮目を生んでいる。また細かに突き出た岩礁も複雑で、メア達を乗せた軍艦は、航海士達の細かな指示と、よく訓練された熟練の船員達によって、繊細に船を操りながら、南へと進路を取った。

 風車の街(レガレイラ)を出た時にちらついていた雪は、海上に出ても降り止むことはなく、むしろますます強くなっていった。といっても、嵐になることはなく風は程よい。海士達は足下に気をつけながら甲板を駆け回り、船内の者達は羅針盤を睨み、進路が逸れていないのを確認した。

 メアはベルクと同じ一番大きな軍艦の、かなり大きな個室に通されたが、その部屋にはほとんど居らず、航海士達と海図を見て、随時届けられる見張り達の情報と合せ、現在の居場所を確かめた。

 そして時折甲板に出て、ピュウィと甲高く口笛を吹くのだ。

 軍に籍を置く者達はそれを不思議そう遠巻きに見てはいたが、メアの宝石の眼(ジェマ・オルクス)に気圧されてか、話しかけはしてこなかった。

 緊張の多い岩礁海域を半日掛けて抜け、夜。

 軍艦はゆっくりと、魔の海(トード・メア)と呼ばれる海域へと入っていった。

 海軍の兵士らしく、乗組員達はてきぱきと動き、見張りや帆の上げ下ろしを行っていたが、やはりその顔はどこか強張っている。

 氷の国(シュネー)に暮す者ならば、誰もが必ず聞く、魔の海(トード・メア)の呪いの話。この海に入った者は生きては帰れないと言われ続けてきた海だ。いくら正しい海図があると、風車の街(レガレイラ)の者が何度も往来したと言われても、感情だけはどうしようもない。

 不安そうな顔を見せないながらも緊張の続く船内に、異変が起きたのは夜半過ぎだった。

 低い、低い唸り声が、船全体を揺らしたのだ。

 ばたばたと船員達が甲板へ上がる。メアもそれを追って、外に出る。

 きんと冷たい空気がメアの鼻を刺す。外は曇天。月の見えない真夜中、雪は止んでいた。

 びりびりと周囲が震えている。

 船員達は持ち場を離れないが、怯えた表情で、外に出て来たメアを縋るように見ていた。

「これは……一体……?」

「やはり……ここは、魔の海(トード・メア)……っ」

 ベルクは既に、船員達に指示を飛ばして、彼らのやるべきことを思い出させていた。ベルクの巨体が動き回ると、怯えていた船員達は気力を取り戻し、目の前の自分の仕事に集中し始める。

 甲板の縁に手をかけて、身を乗り出さんばかりに海を見詰めているメアに、ベルクは渋い顔で歩み寄り、周囲を確かめながら言った。

「やはり、この海は普通の海ではない。今からでも、戻った方がいいと思うが」

 唸り声はまだ続いている。地鳴りのような恐ろしげな声に混じって、風もないのに、不意に海が波立ち始めた。海の上で地震にでも遭遇したかのような、あまりに不自然で、大きな揺れだった。

 あちこちに吊された角灯がゆらゆらと揺れ、兵士の間から悲鳴が上がる。

 ベルクはしっかりと立っていたが、それでも顔は青ざめていた。

「この船が沈んでしまっては、元も子もない。今日はまた日を改めて、もう一度試していけないのか」

 ベルクはメアを説得しようと言い募るが、メアにその話を聞く様子はなかった。

 ひたすらに真っ暗な海を覗きながら、角灯を手に持って水面を見詰め、何かを探している。

ざざっと、再び海が大きく揺らぐ。船が弄ばれ、乗組員達の悲鳴が上がる。甲高い口笛が鳴り響く。

 凄まじい勢いで真っ白な波が立ち、飛沫が散り、そして人々の見守る中、海に何かが出現した。

 船と同じ程の大きさの、巨大な丸い塊。

 それは、巨大な、あまりにも巨大な大海豹(セラ)だった。

 樹木であれば、時を経て大樹になることもあろう。けれど、その大海豹(セラ)は、一体どれ程の時を過ごしてきたというのだろう、と疑問に思う程、圧倒的な大きさで出現したのだ。

 巨大な丸い目は侵入者をじっと見詰め、喉の奥から再び低い低い唸り声を出す。

 海全体が、震えるような。

「メア・カテドラーレ!」

 ベルクが鋭く名前を呼ぶ。その恐ろしげな顔に、常人ならば怯えきって何も言えなかっただろうが、メアは案外冷静に首を横に振れた。

「大丈夫です」

 ほのぼのと笑んで、メアは請け負う。

 ピュウイ、と甲高い音で口笛を吹く。低い低い唸り声が、僅かに揺らいだ。

 メアはなおも口笛を鳴らし続ける。陽気に、楽しげに。まるで生きているのが嬉しくて仕方無いかのように、明るい音を奏で続ける。

『こんにちは、ご機嫌いかが? こんにちは……』

 もしも、大海豹(セラ)の鳴き声を少しでも研究した人がその場に居たら、メアがそうやって宥めるように口笛を吹いていたことがわかっただろう。

『何もしないわ。通して。あっちへ行きたいの』

 澄んだ音色だった。

 親しい隣人に話かけるような、柔らかな。

 巨大な大海豹(セラ)は、何度かゆっくりとまばたきをしたが、メアの奏でる穏やかな口笛に、やがて唸り声をだんだんと低めていった。

 ピィッと甲高く、メアが踊るような音を出す。一拍置いて、巨大な大海豹(セラ)は、ビィィーーッと、魔の海(トード・メア)中に響き渡るような鳴き声を発した。

 メアの口笛に対する、挨拶の返答だった。

 そして、ふいっと、興味を失ったかのように頭を巡らせる。それだけで、軍艦はゆさゆさと小舟のように揺れたが、乗組員達は必死に船にしがみつき、振り落とされまいとした。

 巨大な大海豹(セラ)は、現われた時とは逆に、何の音も出さず静かに、静かに海へと消えていく。

 その巨体が黒い水面に沈んでいくのを、船にしがみついていた船員達は、声もなく見守っていた。

 メアの口笛だけが、柔らかくその背中にかかり、巨大な大海豹(セラ)への挨拶を返している。

 やがて、再び静かになった海で、もはやしがみつく必要のなくなった船員達は、ゆっくりと、震える息を吐いたのだった。

「まだ大騒ぎしないでくださいね。あの大海豹(セラ)もちょっと眠そうな声してましたから。きっと、気持ちよく寝てたのに気になる匂いがしたから、ついつい見に来ちゃったんですねぇ」

 のんびりと指示を出すメアに、思わず快哉を上げそうになっていた一人が口をつぐむ。

 まだ震えの収まらない一人は、メアに恐る恐るといったていで声を掛けた。

「あの……。まさか、あれが……魔の(トード・メア)の……」

 メアはあっさりと頷いた。

「はい。ここは、巨大な大海豹(セラ)の巣なんです。大海豹(セラ)手漕ぎ船(ゴンドラ)を牽いて貰うのは、ここ数十年で始まったこと。その前は、ずっと船を牽くのは大海烏(ワイマーヌ)だったじゃないですか。天敵が巣のど真ん中を通ろうとしていたから、攻撃してきた……。それが多分、魔の海(トード・メア)の始まりだったんです」

 メアが魔の海(トード・メア)を通れると思ったのは、メディクスの『ある季節に大海豹(セラ)が群れを成して帝国(ディナス)の前を通る』という言葉からだ。

 帝国(ディナス)の前を通る海流に乗るということは、必ず魔の海(トード・メア)を通過する。

 そして、大海豹(セラ)が通り抜けられるということは、必ず人だって抜けられるのだ。

 メアは帰って来るなり、風車の街(レガレイラ)の人に頼み込んで、少し大きな船を出して貰い、アウルとカロラに牽いて貰って魔の海(トード・メア)に行って帰って来た。

 そして、ここが暖流と寒流がぶつかり合う豊かな海である為、渡りをしない、街に来るのとはほぼ別種の大海豹(セラ)の縄張りになっているということを突き止めたのだ。

大海豹(セラ)は、繁殖期以外は同族と争いません。あそこまで大きいのは今日初めて見ましたけど、ちゃんと挨拶が出来れば、ここはいつだって通れる航路なんですよ」

 にこにこと告げたメアは、ピュウイィ、とさっきの音に比べれば大変可愛らしい鳴き声が海から聞こえてきたことに、さっと喜色を浮べた。

 ぱっと海面を見れば、メアの弟妹たるアウルとカロラが、嬉しげに軍艦を見上げている。メアはその声に耳を澄ませると、また楽しげに口笛を吹いた。

 そして呆然とする軍人達に向かって、ほのぼのと微笑むのだ。

「もう大丈夫です。この先は、海流が安定していて海も深い。アウルとカロラが、危ないことはないと教えてくれました。ここを抜けたら、砂漠の国(サーラー)まではすぐですよ」

 宝石の眼(ジェマ・オルクス)、と誰かが小さく呟いた。

 それをきっかけに、感嘆に似たどよめきが、打ち寄せる波のように、甲板を包んだ。

 

          *


 航海は順調に進んだ。

 時折、最初に見たのよりは小さいが、巨大な大海豹(セラ)が近くを通ることがあったが、そのたびにメアが挨拶を交わして、ことを荒立てることなく通り過ぎた。

 主に大海烏(ワイマーヌ)と時を過ごして来た兵士達は、大海豹(セラ)が来るたびに怯えてはいたが、それでも表に出すようなことはせず、またベルクの的確な指示の元、きびきびと働いた。

 そうやって難所を乗り越え、二日目の夜。

 メア達を乗せた四隻の軍艦は、銀の月に輝く大砂漠の王国、砂漠の(サーラー)の大地を見たのだった。真夜中であっても海はまだ昼間の熱を残して温かい。寒さに慣れた氷の国(シュネー)人とって、その海は暑い程だ。

 砂漠の国(サーラー)氷の国(シュネー)とは比べものにならない程巨大な国土を有している。王都、黄金の都(ザハブ・アルジャンナ)に最も近い砂の港(レマール)に着いた時には、夜明けの青白い闇の中だった。その時の乗組員達のその感動と喜びようは、ただごとではなかった。

 最初こそ、風車の街(レガレイラ)の人を「所詮町人」とどこか見下した態度を取っていた兵士達も、共に苦難を乗り越えたことで連帯感が生まれ、そして生きて共に黄金色の大地を見たことにより、その結束は深まったのだった。

 雪輝王がひそかに送り込んだ間諜から、アズラクが砂の港(レマール)に送られたという話は掴んでいる。

 メアは、逸る心を抑えながら、朝靄に紛れ小舟で偵察隊を送る事を、ベルクに進言した。

 苦悶を堪えるような顔で考え込んだベルクはそれを了承し、そして偵察をメアに命じる、と重々しく告げたのだった。

「……いいんですか?」

 アズラクを早く助けたい気持ちだけでここまで来たメアだ。もう間近にまで近付いた今、今すぐアウルとカロラに船を牽いて駆けていきたい。

 けれど、メアが行くよりも、屈強な兵士達が向かった方が、確実に役に立つだろう。

 心配そうなメアに、ベルクは軽く頷いた。

「女王が、突然現われた俺達を信用するかどうか、怪しい」

「あ……」

「それとも貴女しか、大海豹(セラ)を操れないか?」

 操っているんじゃありません、と言いたいのをぐっと堪えて、メアは首を横に振る。

「いいえ。確かに私が一番多くの言語を知っていますけれど、元々風車の街(レガレイラ)では大海豹(セラ)に皆乗せて貰います。街の人なら全員出来ます」

 メアひとりが、魔の海(トード・メア)を渡る秘訣を持っていたとしたら、メアの身に何かがあったら海の上で置き去りにされてしまう。元から貿易を目的として海図を書いたのだ。情報は常に公開して共有している。

 魔の海(トード・メア)を抜ける時にメアばかりが大海豹(セラ)を鎮めていたのは、主に兵士達の為だ。宝石の眼(ジェマ・オルクス)を持つメアならば大丈夫、と信用し、安堵して貰うことが必要だと、街の人の間であらかじめ決めていたのだ。

 メアの答えにベルクは頷いた。

「そうか。俺も、兄の親書を預かっている。……護衛は任せろ」

 相変わらずの、苦渋に満ちた声で、ベルクは言った。真昼の太陽が、真っ黒に影を作っていた。

 小舟を出して貰ったメアは、自分達が居ない間の指示を済ませ、アウルとカロラに牽いて貰った。

 本当は、もう何人か船に乗せようかという話もあったのだが、ベルクの身体が大き過ぎて、これ以上は乗らないという判断が下されたのだ。

 いつもよりすごく重たいと文句を言うアウルと、むしろその重さに燃えているカロラに牽かれ、メア達は砂の港(レマール)へと向かって行った。

 二頭は、メアが両親や祖母を亡くしてから、真冬になってもメアの傍を離れなくなった。けれどその前は、毎年群れで砂漠の国(サーラー)に来ていたのだろう。夜明けのまだ薄闇に沈んだ海を、戸惑うことなくすいすいと進んでいく。

 砂の港は二つの岸壁に挟まれた巨大な入り江だ。その出入り口を通った時、メアは、壁面に生えていた海際の藻が、あちこち削り取られているのを見た。

 あれは、大海豹(セラ)の牙の形だ。やはり彼らはここに暮していたのだ。

 大海豹(セラ)は音を立てずに泳ぐ。船は微かな水音をさせる以外は、静かに進んでいく。まだ夜明けは来ない。砂の港(レマール)は微睡みに沈んでいる筈だ。

「…………?」

 けれどメアの鋭い耳は、岸壁に挟まれたその奥に見える港が、こんな時間からざわめいていることを捕らえていた。

 しかも、早朝から漁師が出て行くような、日常の中の音ではない。もっと激しく、騒がしく、熱に浮かされたような喧噪だ。メアは用心の為に、目立たない壁際を進んでくれと二頭にお願いした後、じっと砂の港(レマール)を睨んで目を細め、彼らの騒動の元を探ろうとした。 

 お祭りのような人出だ。爪の先程の大きさの人が、真っ黒に見える程、港に集っている。彼らは口々に興奮した口調で何かを叫び、それをまた別の誰かが押しとどめている。

 港に詰めかけた人は皆、一箇所を見て騒いでいる。

 それは海に突き立った一本の棒だった。少し歪で、海面付近のあたりが膨らんでいて――

「……っっ!」

 その意味を理解した時、おぞましさに全身を蛆が這うような心地がした。次いで、身を焦がす激しい怒りが突き上げる。

 あれは人だ。

 人が縛り付けられ、満潮と共に沈められるのだ。

 まさか。

 次の瞬間、メアは鋭く口笛を吹き、二頭に船を停めて貰っていた。

「どうしたんだ」

 低い雷鳴の声が問いかけても、答えなかった。

 メアは素早くアウルの手綱を外すと、らんらんと燃える瞳で振り返り、ベルクに告げた。

「カロラとここで待っていて下さい」

 それだけ言うと、船から外されて不思議そうな顔をしているアウルの傍へ、躊躇いなく飛び込んだ。

 ばしゃん、と小さな水柱が上がる。

「おい!」

 ベルクの制止を聞く暇があればこそ。

 メアは水のぬるさを全身に感じながら両手で水を搔くと、アウルの手綱を引く。船の為に作られた革紐をしっかりと握って口笛で告げた。

『カロラはここで待っていて。アウルは、私をあの棒のところに、運んで!』

 アウルは軽いものを運ぶ方が好きだ。やっかいな船の重みから解放され、機嫌良くピュウィと鳴くと、身体をうねらせて、弾丸のように泳ぎ始めた。

 凄まじい水の圧力に吹き飛ばされそうになったメアは、大きく息を吸って目を閉じ、ぴったりと身体をつけた。そうすると逆に、今度は水流がアウルの方へ身体に押し付けてくる。海に抱き締められているような心地だ。

 氷の国(シュネー)に住んでいる者は泳いだことがない者も多いが、メアは比較的温暖な港町、風車の街(レガレイラ)の生まれだ。短い夏には海で大海豹(セラ)と泳いだりする。

 しかし、水中でじゃれるのではなく、船の手綱を直接掴んで乗せて貰うのは、流石に初めてだった。

 息が苦しくなって、肺が限界を訴え始めた頃、メアは手綱を使って、アウルに跳躍してもらうようにお願いした。船に乗っている時と同じ動作だ。

 途端、ぐねっとアウルの身体がうねり、一旦深い場所に潜ると、そのまま勢い良く水面に踊り出した。

 飛沫が割れ、真っ白な泡に包まれる。

 メアはその一瞬の跳躍で、既に自分が砂の港(レマール)の目の前に居ることを知った。港に詰めかけた人の顔が、はっきりと見える。その、驚愕に見開かれた目すら。

 大きく息を吸い直した直後、メアは再び水中にあった。水に身体が押し付けられるのを感じながら、体勢を整え、再び手綱で、今度はゆっくりと、水面の間際を泳いで欲しいとお願いをした。

 軽いメアを乗せて思いっきり泳ぐのが楽しかったらしいアウルはちょっと渋ったが、目的の棒がすぐ近くにあるのに気付くと、速度を落とした。

 ふわっと浮き上がり、メアは自分の身体が重たくなったのを感じた。水面に出たのだ。

 アウルは、綺麗な円を描きながら杭の周りを回り始めている。手綱から手を離せないので、頭をぶるっと強く降り、メアはぽたぽたと海水を滴らせる髪の間から、その杭を見た。

 そこに縛られた人を。

 幾度も波にさらされ水を被り、既に顎の下にまで水位が迫ってなお、誇りを失わない瞳。

 メアは、海水ではない塩辛い水が、頬を伝うのを感じた。冷えた頬に、熱い程の筋が流れる。

 ゆっくりと手綱を離すと、メアは、ぽしゃんと海中へと滑り込んだ。

 痛むのも構わず水中で目を開けて方向を見定め、足で水を蹴る。水面に浮上がり、両手を広げ。

「蒼の姉様……っ!」

 ぼろぼろと涙を零しながら、杭ごとその身体を抱き締めた。

 長い間水に浸かり、ひんやりと冷たくなった身体は、哀れな程にやせ細り、硬い骨の感触がした。

「ごめんなさい……。遅くなって、ごめんなさい」

 驚愕に染められた顔の、その半開きの唇から、小さな砂漠の(サーラー)語が零れ落ちる。

(ワフーム)……?」

 メアはアズラクに抱きついたまま、ぶんぶんと首を振った。

「幻ではありません、姉様。メアです。貴女の妹です。遠い約束を守りに、彼方の風車の街(レガレイラ)からやって参りました……っ」

 涙でぐしょぐしょの顔で縋り付くメアを、アズラクはまだ信じられないような顔で見詰めている。

星空を孕む母神よ(ヌト・ナ・ジューム)……。私は夢を見ているのか(アルネグマ・ア・ルコ・マシーア)

 そう呟いた彼女の空色の瞳が、感情を抑えきれずに揺れている。

「夢じゃありません。姉様。待っていて、今助けますから……!」

 メアは杭の後ろ側に回ると、彼女を捕らえている縄を懸命に解こうとした。けれど縄は水を吸って固く、メアの細い指では一向に緩む気配がない。

 焦るばかりで指の動かないメアの背後で、ピュウッっとアウルが鳴いた。魚と違って、大海豹(セラ)は尾びれを器用に操りながら立ち泳ぎが出来る。彼女は、メアが遊んでいるものだと思い、自分も構ってくれと背中に鼻を押しつけた。

「ああ、違うのアウル。そうじゃなくて……」

 言いながら、メアは閃光のように閃いて、口笛に切り替えてアウルへと告げた。

『一緒に遊ぼう。先に縄を切った方が勝ちよ』

 アウルは、喜び勇んで杭に向かって体当たりをした。ぐらぐらと、大きく杭が揺れる。アズラクの顔がほとんど水中に没してしまう。

 メアが悲鳴を上げかけた時、アウルは、岸壁にへばり付いている藻をこそげ取るのと同じ要領で杭に鋭い牙を立て、あっさりと引き千切ってしまった。

 ばらっと縄が四散し、背後から押し寄せて来た波に攫われて消えていく。メアは、縄と共に押し流されかけているアズラクの手を取って、水を蹴った。

 アウルが、自分の勝ちだとばかりにメアに身体をすり寄せてくる。メアは立ち泳ぎしながらその首筋を優しく搔いてやると、手綱を捕らえてアズラクに手渡した。

「姉様、この、手綱、に……っ」

 水が口に入ってきて上手く喋れない。アズラクは、頷いて手綱を掴もうとしたが、手が震えて上手く持てなかった。

 メアは、今にも沈みそうな彼女を抱き寄せると、腕と腕の間に入れて、自分で手綱を掴んだ。

『アウル、沖へ行こう。船へ戻ろう!』

 告げながら、水面近くを泳いでくれるように、同時に手綱で指示を出す。アウルは、ちょっと重たくなったことに不満そうだったが、アズラクは船に比べたらそんな大した重さではない。

 仕方無いな、というように一声鳴いて、また滑らかに力強く、泳ぎ始めた。

 びゅうびゅうと風を切る大海豹(セラ)の上は身を斬るように冷たい。身震いをしたメアの耳に、その頃になってようやく、砂の(レマール)に詰めかけた民衆の、地をどよもす歓声が聞こえてきた。今まで夢中で、周りの音が聞こえていなかったのだ。

 手綱を操り、なるべく身体を伏せるようにしながら振り返ると、一面みっしりと広がった人達が、歓喜に叫び、繰り返しているのだった。

 

 ――蒼の女王(マレカ・アズラク)! 蒼の女王(マレカ・アズラク)

 

 そう叫ぶ民衆達を、黄金の鎧を着けた兵達が打ち倒している。けれど、彼らの熱狂はもはやそれだけでは収まらず、逆に素手で兵士に殴りかかり、多勢の勢いで押しつぶしている。

「姉様……あれは?」

 小さな声で尋ねると、大海豹(セラ)の短い毛に頬をつけ、倒れ込むように乗っていたアズラクが、ようやく身を起こした。

 疲労困憊したていでちらりと背後を見ると、皮肉っぽく笑って、自分が今乗っている大海豹(セラ)を撫でた。

砂漠の国(サーラー)で、大海豹(セラ)は、海を守護する女神(イシスレイティ)の使いじゃからの……。一瞬、妾も……」

 言いさして、アズラクは視線を彼女の妹に向けた。

「メア」

 その声が、未だ信じられぬような色を帯びて、ため息のようになる。

「本当に……メアか」

 よろよろと伸ばされた手に頬をすりつけ、メアは涙目で頷いた。

「はい。メアです。姉様……」

 その拍子に、また涙がこぼれ落ちた。

「よく……」

 それ以上は、告げられなかった。息を詰まらせたアズラクの瞳に、透明な涙が盛り上がる。

 痩せた頬に、その雫が零れ落ちる。いくつも、いくつも。瞬きするたびに、それは輝きながら落ちていった。その瞳を見て、メアははっと息を呑む。

 アズラクがまばたきをし、その瞼が動くたび。

 瞳を隠し、また現すたびに、空色のくすんだ瞳は、靄が晴れるかのように色を変えていくのだ。

 血によって穢れ、愛によって澄む宝石の眼(ジェマ・オルクス)

「姉様……!」

 メアが驚嘆の声を上げた時、その瞳は、恐ろしい程に深い蒼へと、色を変えていたのだった。


           


 軍艦に戻った時、アズラクはがたがたと震え、兵士達に抱え込まれるようにして医務室へと運ばれた。

 メアは、医者の指示に従いながらつきっきりで彼女を看病し、やがてうとうとと眠り始めた。

 狭い小さなベッドに突っ伏し、寝息を立てていたメアは、ふと物音に気が付いて目を擦った。

 窓から差し込む光から、もう夕方なのだと気付く。誰か見舞いに来たのだろうか。

 ノックに目を擦りながらどうぞと応じると、入って来たのはベルクだった。

 彼は、アズラクを起こさないように、そっと医務室へ入ると、椅子から立ち上がりかけたメアを押しとどめた。

「……様子は、どうだ」

「お医者様が、安静にしていればすぐ回復するだろうって、言っていました」

「そうか。……今、砂漠の国(サーラー)側の使者が、この船に到着した。サッギールという男で……女王の帰りを待っていた一派だそうだ。厳重な身元確認をして、彼女が目覚めたら、見張りの中で会わせようということになった……だが、まあ。しばらくは休ませるよう、指示をしてきた。そんな顔をするな」

 そう言われてメアは胸を撫で下ろした。

 ベルクの目元には、珍しく柔らかな笑みが浮かんでいて、彼がずっと、ルークと名乗っていたアズラクを部下として付き従えていたことを思わせた。

 メアは部屋の隅から椅子を持って来て近くに置く。

「あの……。ありがとうございました。ずっと、蒼の姉様を守っていてくれて……」

 気を遣って小声で、しかし心を込めて告げると、ベルクは軽く頭を振った。

「いや……。謝らないでくれ。俺は、貴女に懺悔しなければならないんだ」

 きょとんとするメアに、ベルクはぽつりと、掠れた声で告げた。

「……俺は、貴女を殺すつもりだった」

 言われた意味が分からず絶句しているメアに、ベルクは淡々と、静かに問うた。

「真珠姫を、知っているか」

「は……はい」

 まだ聞き間違いを疑っているメアが頷くと、ベルクは眠り続けるアズラクの頬を見詰めながら、ゆっくりとメアの持って来た椅子に腰掛けた。

「……彼女は、俺を、昔ルークと呼んでいた」

「それじゃあ……。もしかして、蒼の姉様をそう名付けたのは……」

「ああ。俺だ」

 頷くベルクの前に、メアも元から置いてあった椅子に座り直した。

氷の国(シュネー)砂漠の国(サーラー)が同盟を組むという話を嗅ぎ付けた帝国(ディナス)は……真珠姫の墓を、暴いたんだ」

 メアははっと息を呑んだ。死後に辱められるというのは、ある意味死罪よりも恐ろしいことだ。

 そんなことをされれば、|冥府の神の子供(シュヴァイスザムカイト)となって炉端で微睡んでいた魂達は、灼熱と極寒の混ざる鍋に入れられて、永遠の責め苦を味わうことになる。

「もしも、風車の(レガレイラ)の代表を亡き者にすれば、遺体は、帝国(ディナス)王族の墓陵に埋葬してくれると。……正直、迷ったんだ。彼女はずっと、帝国(ディナス)の神を信じ、見たことのない祖母の故国に行ってみたいと、常々言っていたから……」

 その呟きを聞いてようやく、メアはベルクと真珠姫が、従姉同士にあたるということに気が付いた。

「あの、真珠姫と、ベルク様は……」

「何もなかった」

 問いかけの先回りをして、ベルクが答える。けれど、納得していないメアの視線を受けて、とうとう、

「……しかし。大きな存在ではあった。彼女を喪った後、こんな髪になる程度にはな」

 と、その灰色の髪をつまんで苦笑いをした。

「もしかして、私と二人で船に乗ったのは……」

 ベルクは頷いた。

「ああ。帝国(ディナス)砂漠の国(サーラー)に圧力をかけて、女王の処刑を早めていたんだ。砂の港(レマール)で上陸し、女王が死んだという話を聞いたら……俺は、貴女を手に掛けていたかも知れない」

 顔色をなくして話を聞いているメアに、だが、とベルクは続けた。

「迷わず海に飛び込んだ貴女を見て……。俺は自分が恥ずかしくなった。まだ生きている人を必死に助けようとしている貴女と、死者の為に人を殺そうとしている俺……。どちらが正しいかなど、火を見るよりも明らかだ」

 帝国(ディナス)に帰ったら、兄に全てを告白して、断罪を乞おうと思っている。そう告げたベルクは、何も言えずにいるメアを、ちらりと見て問うた。

「メア・カテドラーレ。……神は居ると思うか」

 唐突な質問に、メアは目を白黒させたが、彼が黙って待っているので迷いながら答えた。

「え、ええと……。色んな不思議なことは、あると思いますから……。私達が神と呼んでいる、私達の分からない存在も、居たっていいと思います」

 そうか、とベルクは否定も肯定もせず頷いた。

「……俺は、神が居るかは分からんが……自分に都合の良い神など、居ないと思っている」

 その瞳はここではないどこか遠くを眺めているようだ。王弟は、次世代に諍いを残さない為にと独身のままでいるという話を聞いたが、メアは理由はそれだけではないような気がした。

「……聞いてくれてありがとう。こんな話をして悪かったな」

 ベルクは立ち上がると、ほんの微かに微笑んで、

「……貴女は後悔しないようにな」

 そう呟いて、扉を閉めた。

「…………まあ」

 一人残されたメアは、ため息交じりに、ベルクがあまり鈍い男ではないことを知った。






 後に「砂の港(レマール)の奇跡」と呼ばれるこの事件は、女王の即位と共に歴史に刻まれ、やがて奇跡は時の流れと共に、海を守護する女神(イシスレイティ)が使者を使わし彼女を救ったという伝説になる。

 錫杖を手にした美しき眼を持つ女王の絵画。

 復権を果たした後に描かれたそれは、後に美術品収集家の間で垂涎の的となる程の美しさと歴史的価値を持ち、彼女の治世の時代に拓かれた華のごとき栄華の片鱗を知ろうと黄金が注がれた。

 絵画は幾多の人々の手を経た後、最後は風車の街(レガレイラ)の美術館へと収められることになる。


         *

 

 けれど、メアはまだそんなことなど知らず。

 また未来にそれを知ることもなく。

 今年もまた美しい、華のような風車の街(レガレイラ)の夏を堪能していた。

「はいよメアちゃん、お待ちどお」

「ありがとう、ロッタお婆ちゃん」

 バターの香りがたっぷりと香るパンの袋を抱えながら、メアはにこにこと微笑んだ。

 砂漠の国(サーラー)風車の街(レガレイラ)との貿易が始まったとて、メアは別に商人ではないので生活は変らない。

 相変わらず、テオの掲示板で問題を解き、出題し、自分に出来る範囲でお金を稼いでいる。

「はい、これついでに持ってきな」

 最近砂漠の国(サーラー)から安く仕入れられる、肉桂(シナモン)たっぷりの渦巻きパンや、珈琲の練り込まれたパンなどをぽんぽん放り込まれてメアは眉を下げる。

「ロッタお婆ちゃん。こんなに毎回おまけくれなくても、私ちゃんとまた来ますよ?」

 老女は欠けた歯を見せながらカカカカと大口を開いて笑い、何言ってんだよぉと肩をすくめた。|

「あたしゃメアちゃんのお陰で人生二度目の大儲けさせて貰ってんだからね。これで何にもせずにあんたを店から出したら、そぉれこそ健康と愛の(ヴァルトラウテ)の罰があたるよお!」

 数多の貿易商船を支配し、今や大陸有数の大富豪の名家。その影の支配者たる老女は、狭苦しいパン屋のカウンターで粉塗れの手をはたいた。

「それにホラ、あの甘党爺も帝国(ディナス)から来る新しい声の箱(リトムス)だの光の球(イルミナーレ)だの炎の空気の管(イニィス・アエル)だの組み込んだ新しい家造れて、二十年は若返ってんだから! もしこれで店に来たメアちゃん、なーんもせず返したとか聞いたら、あいつの杖でぶん殴られらぁね」

 天才大工は、老年になってなお元気だ。このままだと、生涯現役を貫くに違いない。

「じゃあ、ありがたく頂きますけど……。私、もしかしたら全部食べられなくて、マルグレートおばさんにあげちゃうかも知れません」

「ああ、いい、いい! 別に街役場の暗算娘だろうと本屋の筋肉小僧だろうと、誰でも好きな奴と食べりゃいいんだから!」

 数学界の女帝や往年の名将も、彼女にかかればかたなしである。

 それじゃあ、お言葉に甘えようかなと頷きかけた時、からんとベルの鳴る音がして、パン屋にもう一人の来客を告げた。老女が、にやああと口が裂けんばかりに笑って、ああ、と意地悪くため息をつく。

「丁度良かった、メアちゃん。こいつと一緒に食べればいいんさぁ」

「なっ!」

 来て早々腹に渾身の一発を食らったかのような声を出して、イスハークがぼふっと顔を赤らめる。

「なっ……! い、いきなり何言うんだババ……」

「おぉぉんやまあ。アタシにそんな口利いていいんかぁい? ねぇねぇメアちゃん聞いておくれよぉ、このハナタレ小僧ってば、毎日毎日向かいの喫茶に入り浸ってねぇ、窓際の席でこっちじーっと……」

「わーーーーー!」

 絶叫するイスハークに、ロッタがまた腹を抱えて大爆笑している。

 まあ賑やか、とにこにこしていたメアは、ふと外の雲行きが怪しいことに気が付いてはっとした。

「ロッタお婆ちゃん、ごめんなさい、私もう帰らなくちゃ。洗濯物干しっぱなしなんです」

「あらぁ。本当だわね、一雨来そうだわ」

 言いながら、老女が尖った肘でごすっとイスハークの太ももを突き刺す。彼は痛みを堪えながら、

「おい!」

 半分ひっくり返った声で、扉に手を掛けたメアを呼び止める。

「お、お、お、送って……いってやろうか?」

 メアはほのぼのと微笑んだ。

「大丈夫ですよー。私、大海豹(セラ)二頭牽き船(ゴンドラ)で来てますから!」

 ありがとうございます、とぴらぴら手を振って扉を潜ったその背後で、ロッタお婆さんの「めげるんじゃないよ!」という大声が響いていたが、メアは小走りで走っていたので気付かなかった。

「ただいま、アウル、カロラ。お待たせ、雨が降る前に帰りましょう」

 ピュゥイ、と弟妹達が嬉しげな声を上げる。

 メアは桟橋に留めてあったロープを外し、二頭に牽かれて街を後にした。

 幸いにも、曇天から雨粒が零れる前に、メアは家に帰り着けた。二頭を家に入れてから、慌てて洗濯物を取り込んで、と忙しく働いていると、ふいにばさりと大きな羽音がした。

「あ!」

 見上げれば、足に金の筒をつけた極彩鳥(ラウンタイル)が舞い降りて来ている。メアはぱっと微笑んだ。七日前に書いてアウルに託した手紙の返事だろう。

 アズラクは、女王となった今も、まだ何気ない日常の話を綴って、メアに送ってくれる。

 彼女が忙しいせいで中々会えないが、せっかく日に何本も砂漠の国(サーラー)行きの船が出ているのだから、そのうちこっそり会いに行ってやろうと思っている。

 女王の側近であるサッギールは、去年船の上で「アズラクの可愛いところ」を言い合って先に詰まった方が負け、というゲームで白熱した戦いを交わした仲だ。彼に言えばきっと何とかしてくれる。

 にこにこしながら極彩鳥(ラウンタイル)をねぎらい、一晩羽を休めさせる為に、家へと誘う。

 メアは、長旅を終えてきた色鮮やかな鳥に、新しい水と穀物を分けてやってから、テーブルの上に乗った、大きなパンの袋を見て小首を傾げた。

「どうしましょう。一人で食べきれるかな……」

 まあ、頭を使ったらお腹が減るし、食べられるだけ食べてから、本でも読もうか。

 そう決めてメアは、お気に入りの、恐ろしく分厚い鈍器のごとき本を持って来る。

 暖炉の前の長椅子に置いておいて、さあいざ食べようとした瞬間、扉が叩かれてメアは顔を巡らせた。

「はーい」

 ぱたぱたと玄関まで走って、扉を開く。

 メアの宝石の眼(ジェマ・オルクス)が、驚愕に見開かれる。

「どうして……?」

 開け放した扉から、温かな夏の風が吹き込んで来て、長椅子の上の本に当たる。

「それは、今からお話しますよ」

 

 『植物全図大図鑑』メディ・イクス著

 暖炉の前に置かれたお気に入りの本の表紙には、そう金文字で刻まれていた。


           *


 風車の街(レガレイラ)に収められた『蒼の女王』の絵画には対となる『碧の姫君』と名付けられた絵画がある。

 こちらは大商業都市にして賢者の楽園(ジークルーネ)と称される風車の街(レガレイラ)の画家によって描かれたと言われている。

 蒼の女王と違い素朴な筆遣いで描かれたそれは、歴史的価値においてはあまり重要ではなく、風車の街(レガレイラ)に美術館が作られた時、ひっそりと飾られただけであった。

 けれど、『蒼の女王』がやがて風車の街(レガレイラ)の美術館へと運ばれた時、二つの肖像画は出会い、そして隣に飾られる。

 外の国から尋ねてきた者は、大抵その二枚の絵画が並んでいる姿を見て、驚く。

 こんなにも有名な絵画が隣にあるというのに、『碧の姫』は欠片も見劣りすることなく、むしろしっくりとお互いの魅力を引き出しているのだ。

 美術館の説明文は、諸説あるひとつの決まり言葉の発祥はこの街であると記している。

 

 『蒼の女王 碧の姫君』


――遠くにあっても縁が続くことをさす、古い氷の国(シュネー)語である。



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