再会の約束をしましたね
落ちた衝撃で、気を失っていたようだった。
がつん、と頭をぶつけ、メアの意識は覚醒した。
同時に、鼻に、口に苦く生臭い水が入り込んできて、がぼっと泡を吐いた。
全身が痺れるように冷たい。重たい水を蹴っても、蹴っても、身体がちっとも浮上がらない。
闇雲に手を振り回したら、何か硬いぬるりとしたものにぶつかって、傷がつくのも構わず死に物狂いで縋り付いた。
びきりと肩の筋がつったが、痛みよりも恐怖の方が強かった。頭が水から上がると、新鮮な空気が身体に甘く染み込む。
がたがたと震えながら、メアは何度も水を吐いて咳き込んだ。水の流れはゆるやかだったが、顔だけが出ている今、水がぐいぐいと全身を押して、ともすれば流されそうだ。
まばたきをして目に染みる水を追い出した後、メアは周囲を見回した。しがみついているのは、桟橋の柱のようだった。
真夜中の黒い水で周囲は暗く、何も見えない。肩の方でぱきぱきと音がするので振り返ったら、凍り付いた川の薄氷が割れているのだった。
メアは震えながら息を吐くと、届く範囲の氷を、割っていった。少しずつ体重をかけて、ばきばきと叩いていくと、幸運なことに急に頑丈な氷へと行き当たった。割れるかもという躊躇いはあったが、桟橋の支柱を登ることなどメアには出来ない。
両手を離して、今度は氷の方に縋り付くと、爪先が何かを蹴った。浅いのだ。ぎりぎりで足がつく。
メアは大きく息を吸うと、氷のへりを掴み、一度水に沈んだ。踵で水底を踏みしめて足をたわめ、渾身の力で蹴って、上半身を持ち上げた。
ざーっと水飛沫を立てながら、メアの身体が氷の上へと転がった。ぜいぜいと荒い息のまま、力を使い果たして、どうと氷上に倒れる。
どくっどくっと耳元で血の流れる音がして、ああ生きているのだと思った。
鼻に張り付いた髪を耳にかけた時、眼鏡がなくなっている事に気が付いた。それから、手袋も片方ない。親指の付け根に裂傷が走り、たらたらと血が落ちている。だが、それだけで済んだなら僥倖だ。
ぎしりと氷の軋む音がして、メアは慎重に身体を転がした。一部に体重を掛けたら、ばりんと氷が割れてまた水中に逆戻りだ。
転がったまま周囲を見ると、すぐ傍になだらかな坂があった。大海烏が陸地に上がれるように、水と陸を繫いでいるのだ。浅い場所の氷は硬い。メアは今その上にいるらしかった。
何度か慎重に転がって、絶対に割れないだろうという確信を覚えてから、ゆっくり立ち上がった。一瞬立ちくらみがして目の前が真っ黒になったが、息を詰めてやり過ごす。
立ち上がった途端に、寒さが身に染みた。石角鹿のコートと手袋が水を弾いてくれたのが幸いして、上半身は芯まで濡れていない。ただ、ブーツと、スカート、その下に仕込んだズボンはびしょ濡れだ。
ぐしょぐしょと靴を鳴らしながら、メアはゆるい坂を登って道に出た。爪先が芯まで冷たい。
かちかちと歯を鳴らしながら、ふふ、と可笑しくもないのに笑った。
「……家まで……歩いて帰れるかしら。凍針連山があるから、ちょっと無理そう……」
行く時は半日で着いてしまったけれど、メアの故郷はあまりに遠い。
「……でも、自由ですし」
そうだ。もうメアを縛る鎖は切れてしまった。
帰ろう。
もう、帰れるのだ。風車の街に。
「生きてるだけで、めっけものですねー」
歩き始めたら、右足がずきんずきんと痛み出した。夢中で気付かなかったが、落ちた時に捻ったらしい。
ここはどこだろう、と周囲を見ても知らない建物が広がるばかりだ。民家なら一夜の宿を求める、という手もあるが、残念ながら倉庫ばかりだ。貿易品を収める倉庫の通りらしい。試しに扉を押してみたが、当然ながら施錠されていた。
メアは片手で倉庫に手をつきながら、ひょこひょこ片足で歩く。あの高さから落ちたのに、これだけで住んだのは本当に幸運だった。髪を切られたのも不幸中の幸いだ。髪が水を吸って重くならない。
ただ、こうしている間にもぱきぱきに凍っていくから急いだ方がいい。猛烈な寒さで骨まで凍りそうだ。楽しくものないのにくすくす笑みが漏れる。
「せっかく拾った命、こんなところでシャーベットにしたらもったいないですよねー」
だから、人の居るところに行かなければならない。
こんなところで、眠ってはいけない。
薄ぼんやりと霞みゆく頭を、唇を噛むことで覚醒させる。一歩一歩、右足を庇いながら歩いて行くと、ふっと賑やかな笑い声が聞こえた。
「……誰か居る?」
こんな人気のない倉庫通りに笑い声なんて、何かの幻聴だろうか。それとも、倉庫の管理人が家族で近所に住んでいるのだろうか。
何にせよ、人が居るのはありがたい。
幻聴ではないことを祈りながら、メアは声のする方へとよたよた歩いて行った。
疲れ切って凍えた身体と、鈍くなった頭には、倉庫の群れは永遠にも思われた。けれど、引きずるように足を進めるうちに、声は確実に近いものになっていく。幻聴ではないようだ。
角をひとつ曲がると、一筋灯りが道に投げられた倉庫があった。声の元はそこだろう。
声はまだ若いようだった。祝い事でもあったのか、大騒ぎしている。
助かった、と思わずメアは息を吐き、倉庫に近付いて、階段を数段登ってから、扉を叩いた。ぺしぺし、と間抜けな音がする。
「すみません、すみません、あの……」
中の笑い声が一旦静まって、それからざわざわと話し合う声がする。メアはもう一度扉を叩いた。
「お祝いごとの時に、すみません。扉を開けてくださいませんか?」
がたがたと大きな扉が揺れて、横に滑る。
現われたのは、頬がこけて無精髭を生やした、長身の若者だった。酒を飲んでいたのか、息は酒精が濃く、唇の端がひきつったように笑っている。
「あの……。水路に落ちてしまって。……暖炉にあたらせて貰えませんか?」
かたかたと震えながら申し出ると、男は突然メアの手を掴んで、後ろをぐるっと振り返った。
「おい、女だ!」
なんだって、と色めき立った若い男の声がする。椅子を蹴ったような音。高い口笛。ひひひ、と下卑た笑い声。彼らは口々に何か言っている。
「何?」「水路落ちたらしいぜ」「うわ、ばっかじゃね」「いいじゃん馬鹿なら。俺達に丁度いいじゃん」「おい連れて来い」「そこ片付けろ」「誰から」
――早い者勝ちだからな。
ぞっと、今までとはまったく別物の寒気が背筋を走った。
手首を掴んだ男の手から、毒素が肌に直接這い上ってくるように、怖気が走る。
「あ、あの。あのすみません、間違えました」
細い声で謝って、メアは自分の手を奪い返そうとしたが、疲れ切った身体で勝てる訳もない。
ぐいと乱暴に手を引かれ、地面に踏ん張っていた踵がたたらを踏む。わらわらと、無数の手が伸びて来て、メアを倉庫の中へと引っ張り込んだ。
むっと熱い空気と湿っぽい息がかかる。がしゃん、と背後で扉が閉まった。部屋の中央で焚かれた火の近くまで、猟銃で撃ち殺した獲物のように引きずられる。転がった酒瓶が、爆ぜる炎の光を弾いていた。
嫌、とメアは甲高い悲鳴を上げた。
自分が出したとは思えないような、怯えた大海豹のような声だった。
「イヤー、だってぇ」「かーわいー」「暇してたんだよなぁ」「つめた」「いいじゃん、どうせすぐ」
足を引っかけられ、転ばされた。
仰向けになると、剥き出しの梁と、影になった幾人もの人影が覆い被さっているのが見える。
「ひゃー、すっげえ目!」「本当だ、こんな色見たことねぇ」「アタリじゃん?」「どけよ俺がやる」
誰のものかも分からない手が、身体がのし掛かって来て、ばりばりに凍った石角鹿のコートをはぎ取った。手袋も。厚手のブラウスに、手がかかる。
やめてそれルークが買ってくれたのに。フリルついてて可愛いのに。
小さな木のボタンが弾け飛んで、温い空気が喉元から流れ込む。押し返そうとする腕をざらついた指が捕らえる。硬い床に押し付けられる。ブーツのかかとが滑り、ひゅう、とメアはひきつけのように息を吸った。
「……っ!」
お婆ちゃん、お母さん、お父さん。
蒼の姉様。
怖い、よ。
その時つんと鼻に刺さるような異臭がした。同時に、ばんばんばん、と激しく扉が叩かれる。
メアの身体をまさぐっていた手が止まり、誰か一人が怪訝な声で呟いた。
「なんか……焦げ臭くね?」
その言葉に呼応するかのように、黒い煙が扉の向こう側から溢れてきた。扉を叩く音はますます大きくなっていく。鋭い、腹の底から響く声がした。
「火事だ! 火事だ! ここはもう危ないぞ!」
ほとんど同時に、扉の反対側の壁が、大きく震えた。爆発に巻き込まれたような音。焦げ臭い匂いと共に、大きな穴が開き、冷たい風が吹き込んで来る。
メアを抑えていた人影は、その瞬間うわあと叫んで走り出した。メアには目もくれず、我先にと扉へ走り出す。ばたばたと土煙が上がり、メアは口の中がじゃりじゃりして、吐き気を堪えて唾を吐いた。
一人残された倉庫に、煙は次々入ってくる。いがらっぽい匂いが喉を刺す。
のろのろと引きちぎられたブラウスの前を合わせて、メアは身体を起こした。腕や手の甲の擦り傷が痛む。けほけほと咳き込みながら、逃げなくてはとびしょ濡れの石角鹿のコートに手を触れて。
「…………。」
そこで、ふと動けなくなってしまった。
ぺたんと足を折り畳んで座り込み、泥に汚れたコートを、静かに撫でる。
店で一番高いやつ。ルークが買ってくれたもの。
掠れた声で呟いた。
「……くたびれちゃった」
煙が扉から、悪夢のように静かに忍び寄ってくる。
しかし煙には目もくれず、メアは細いうなじを晒してうなだれた。ぼんやりと、何もかも忘れたように、水に濡れたコートを撫でる。
何故か、黒の港で見た男のことを思い出した。
ああ、彼もこんな気持ちになったのかな、と。
全てどうでも良くなって、何かに抵抗する気力が萎えて、荒れ果てた気持ちで思考を止めるような。
がたがたと倉庫の壁が震えている。
靴音がした。誰かが帰ってきたのだろうか。
メアは、ぱたんとコートの上に身体を横たえた。倦怠感が身体中を包んでいる。これから来るものが人でも、炎でも、そんなものは見たくなかった。
夢を見られたらいいな、と思った。
風車の街の夢。両親が居て、祖母が居て、蒼の姉様も居て、一緒に夏の陽射しの中で街を歩く。
そんな幸せな夢を見られたらいいなと、そう思って目を閉じた。
限界を訴えていた身体が、メアを眠りの闇へと誘ってくれる。耳の端で靴音がする。
「いやー、労働って得意じゃないんですけどねぇ」
どこかで聞いた声。
どこだったかしら。
そう思いながらメアは意識を手放した。
*
夢の中で、メアは雪花城の大広間に立っていた。裸足で、髪はざんばら。粗末な布を纏っている。
――まあ、何てみっともない娘。
――やだ、何あれ。きっもちわるい、恥ずかしい。
――早く出て行って欲しい。身の程知らず。
美しく着飾った令嬢達がさざめく。
大広間は無数の星に彩られ、美しいが闇に沈んで、誰の顔も見分けられない。皆、みんな、同じ顔。
闇の中から何かが飛んでくる。鋭い氷の礫だった。
――出て行け。
痛みは感じなかった。けれど衝撃と共に、腕や、頭や、足が削り取られていくのが分かった。
――出て行け、でていけ、デテイケ。
ぼろきれと変らない服のまま、メアは茫洋と自分が抉られるのを見ていた。痛みはなかった。ただ身体が軽くなっていくのが虚しかった。
「……私、一度でも」
重たい、鉛のような唇を動かして、メアは呟く
「ここに居たいと言ったことが、ありますか」
貴方達の望むように踊らなければならない理由が。
どこにあると、いうの。
闇の向こう側から飛んでくる礫は消えない。一際大きな、氷の塊が飛んでくる。
胸の中央に大きな穴が開く。もう、身体は半分も残っていない。それなのに倒れられない。
礫の向こう側に、無表情の青ざめた娘が立っている。美しい真珠色のドレスを纏っていて、メアとは対照的に、周囲から喝采を受け、傅かれている。
――真珠姫。美しき真珠姫。貴女こそ、貴女こそ。
周囲の囁きに包まれながら、令嬢はメアを見ている。肌は白いのに、身体中から血を流していて、泥にも汚れていて、赤と茶の斑に汚れていた。
空色の瞳がまばたいて、赤い唇を震わせる。
――皆が了承してくれましたよ。
ルーク。
――隊長も、メディクスも。
何であなたが泣いてるの。
ルークは答えず、じっとメアを見詰めている。メアはその瞳の奥に揺らぐ何かを掬い上げようとした。
「あなたを知っている気がするの」
その時、ぱちん、と何かが爆ぜる音がした。
額に柔らかく、ぬるいものが当たる。手で払いのけようと思っても、身体は動かない。
ふっとメアは、インクの匂いがする、暖かい空気を吸い込んだ。メアにとって慣れ親しんだ匂いだ。いつも居間や両親の部屋に、この匂いが静かに満ちていた。それに混ざって薪の爆ぜる香ばしい匂い。
お婆ちゃんが暖炉の前に居るんだとメアは思った。火搔き棒を片手に、鍋の面倒を見ているんだと。
あっつ、と声がする。手慣れていないということは、お母さんだろうか。足がすうすうする。それが寒くて身じろぎをする。
腕を持ち上げた触れた手が、骨張った男の人。ああ、お父さんが脇の下にタオルを入れてくれているのだ。時間を忘れて雪遊びをして、震えながら帰って来た時と、同じ様に。
いい夢だ、と思った。
そしてもう一度深く眠ろうと寝返りを打って、
「おっとぉ」
父のものではあり得ない、若い声にぎょっとし、一気に意識が覚醒した。
ぱっと目を開けると、暖かい色味の灯りに照らされた、木組みの天井が見えた。それから、メアを覗き込んでいる、彫刻のように整った顔。もはや、物理的にぴかぴかと輝いてるようにすら見える美形。
「…………メディクス様ぁ?」
正直、とても微妙な夢だな、と思ってしまった。
「何ですか、その微妙な顔は」
しっかり表情に出てしまっていたらしい。
メアは何度かまばたきをして、身体を起こそうとしたが、物凄いめまいに襲われてすぐ枕に頭を戻した。頭の芯が鈍く痛み、身体がすかすかになったように力が入らない。
ゆっくり顔だけ動かして周囲を眺めると、そこは古い倉庫の地下のようだった。窓はないが、あちこちにタペストリーが掛かっていて、絨毯も敷かれていて、落ち着く雰囲気だ。
部屋に不似合いな程大きな暖炉があって、そこで薪が燃えていた。古そうな椅子が入った机には、書きかけの手紙らしきものが置いてある。立派な羽ペンと、高そうなインク壺。
「ここは……?」
メアは、そろそろと上掛けから手を出すと、顔の前で握ったり開いたりしてみた。
痺れは少しあるが、ちゃんと動く。親指の付け根にある裂傷は、きちんと清潔な布が巻かれ手当してあった。腕がひりひりしたのでまくって見たら、そこには薬がすり込まれ、べたついていた。
夢にしては、現実感のありすぎる感触だ。
「こめかみも少しぶつけていたので、頭はあまり動かしてはいけませんよぉ」
キョキョキョキョ、と夜に鳴く鳥のような笑い声。
あ、現実だ、とその笑い声を聞いて何故か確信を持った。
一気に力が抜けて、腕を倒した。
「今はいつ……ここは……雪花城ですか……?」
だとしたら、地下の倉庫でも改造したかのような、狭苦しい場所だ。ただ、庶民としてはこのくらいの狭さが落ち着くし、部屋の趣味は悪くなかった。
起きてくれて良かった、と呟きながら、メディクスは、暖炉の方へ歩いて行った。薪の上に渡された金網の上で、しゅんしゅんとヤカンが吹いている。
「まだ同じ日の夜で、ここは私の隠れ家ですよぉ」
「……雪花城自慢の客室をあれだけ改造しても、まだ足りないんですか?」
「あれはあれ、これはこれ。別物なんですよぉ」
じょぼぼぼぼ、と陶器の深皿に熱湯を注ぎながら、メディクスが肩をすくめる。
「つまり、ここにもまた標本王国が広がるってことなんですか……」
「いえ、ここは別に……。ああ、でも地下は気温も湿度も安定しますし、お気に入りの一本を持ってくるというのは大いにアリですねぇ……!」
身悶えしたせいで熱湯が漏れ、メディクスは爪先をかばって飛び退る。その背中を見ながら、メアはぽつりと呟いた。
「……宝石の眼の、標本も」
薄く微笑み、穏やかに問う。
「もうすぐ、貴方の部屋に飾られるんですか」
ヤカンを水平に持ったメディクスが振り返る。
彼は、メアをしばらく見詰めた後に、ふっと悲しみと暖かさを混ぜたような目で、微笑んだ。そうしていると、作り物のような綺麗な顔が、ちゃんと人に見えるのだな、とメアは思った。
「……そんな風に思われているなら心外ですねぇ」
彼は、壁に作り付けられた棚から、取っ手のない木のマグと、蜂蜜に漬けた檸檬の瓶を持ってくると、テーブルに並べた。匙で一枚檸檬をマグに入れ、熱湯を注ぎ、蜂蜜を更に垂らして掻き回す。
「違うんですか?」
「違いますよぉ」
彼は、ヤカンを鍋敷きの上に乗せると、熱湯の入った深皿に水差しで水を足し、温度を確かめた。それから深皿とマグを持ってメアのベッドの傍に来ると、背もたれのない椅子に座る。
「私、これでも命の恩人ですよぉ」
文句ありげな言い方のわりに、その顔も、声色も、穏やかで優しかった。
「これだけしっかり話せるなら大丈夫そうですね。……起きられますか?」
頷いて、メアは今度はゆっくりと身体を持ち上げた。喋っているうち身体が目覚めたのか、今度はめまいはしなかった。メディクスが枕の位置を調節してくれたので、それを背中にあてて、上体を起こす。
ふと身体を見下ろすと、千切れたブラウスの上から、暖かくゆったりした寝間着を着せられていた。
びしょ濡れだったブーツもズボンもスカートも脱いでいた。そこまではいいが、問題は下着もないことだ。すうすうする。
メアの視線に気付いたのか、メディクスはぶんぶん左右に顔を振りながら弁明する。
「き、緊急的措置ですから! そ、それに一応上を着せてから脱がせましたから、実際全然見ていないんですよ! 本当ですよ!」
何と言って良いのか分からず、じっとメディクスを見詰め続ける。
「いや、私だって健康な男です! まったく下心がなかったとは言えません! けれどですねぇ、流石に低体温症の怪我人相手にそういうことは!」
言葉を探して、じっとその顔を見る。
視線に耐えきれなくなったかのように彼は叫んだ。
「…………ふ、ふとももは許容範囲でしょう!?」
「いえ、それはどうでもいいんですけど」
「え」
「私、どうしてここに?」
「あ、そ……。そうですよね、普通そっちですね」
はいはいはい、とメディクスが何度も頷き、マグを手渡した。両手で受け取ると温かさが手に染みる。
メアは湯の中でお湯が渦巻き、細かい泡が縁についているのを眺め、ぽつっと呟いた。
「……火事は」
あちちち、と呟きながら、メディクスは湯に浸したタオルを絞っていた。それを更に乾いたタオルにくるんで、メアに差し出して、脚の付け根に乗せて下さい、と指示を出す。
「ああ、あれは火事なんかじゃありませんよぉ。外で角灯に布突っ込んで煙焚いて、火事だって叫んだだけですってぇ。手持ちの爆薬で壁を壊して、あとはその穴から中に入って貴女引っ張り出したんですよぉ。殴り込んで立ち回りなんて、私みたいなひょろひょろには出来ませんからぁ」
それはつまり爆薬を常に携帯しているということなんだろうか。
物騒な、とメアは思ったが、乗せたタオルが暖かかったので口には出さなかった。
血が巡ってきて、こめかみや後頭部、親指の付け根などの傷を負った部分がじんじんする。
メディクスは、また新しくタオルを絞って乾いたタオルで包んで、メアに差し出し、微笑んだ。
「はい、これを首筋に当てますから、頭を下げて。そうしたら、全ての質問にお答えいたしましょう。ちょっと長い話になりますけど、いいですか?」
「はい、構いません」
メアは頷くと、ざんばらに切られた頭を伏せて、熱いくらいのタオルを肩の回りに乗せて貰った。
両手に持ったマグから、蜂蜜の甘い香りが湯気と共に上ってきて、顔を撫でる。
その途端、メディクスに御礼も言っていなかった自分に気付いて、恥ずかしく思った。祖母が聞いたら呆れて悲しげにため息をつくだろう。
けれど、いざ動かそうとすると舌が絡まって、上手く言葉が出てこなかった。
――皆が了承してくれましたよ。
まだ凍り付いた頭の隅が、彼への疑いが、感謝する言葉が出てくるのを妨げている。
だからメアは小さな声で、
「……貴方の飲み物もあると良いです」
と付け足した。メディクスは、くすりと眉を下げてから、そうした。
「どこから話しましょうねぇ……」
メディクスは、メアと同じ様にマグで両手を暖めていたが、やがて吹き冷まして飲むと、隠し事はなしにしましょう、と前置きして話し始めた。
「そもそも、帝国は氷の国の財政を探らせる為に私を送り込んだ、ということはご存知ですか?」
「はい。それで、早く帰って貰えるように私を代役に立てると打診して、帝国は私が宝石の眼の孫だからそれを了承したんですよね」
「そうなんです。まあ、代役を立てて来たということは、ほぼ睨んだ通りなんだろうということは分かりますが、確固たる証拠は欲しいので。互いに事情を分かりつつ、表向きはにこやかに知らんぷり、です。しょうもないですが、まあこれも国をやっていくには必要なことですからねぇ」
その他人事めいた言い方に、メアは首を傾げた。
「……メディクス様、巻き込まれたみたいな言い方をするんですね」
「貴女よりは当事者ですけどね、宝石の眼。でも残念ながら、使命感と理想に燃えて、絶対に氷の国全土を支配し鉄を掘り放題、帝国に永遠の栄光あれ、なーんてことを願っている訳じゃないんですよ。生まれた国ですから、嫌ってはいないんですけどね。……帝国の皇帝と後継者争いの話、どこまで氷の国に流れてます?」
「……え、ええと。第一皇子殿下が皇太子として任命されたので、彼が後継になるだろう、ということくらいしか。公式発表されたことだけですよ」
メディクスは、深いため息をついて遠い目をした。
「まあ、普通そうですよね。内情は凄いですよ」
「どろどろなんですか?」
「どろっどろなんですよ。これがもう。祖父の代には二人、父と僕の代には一人、王位継承争いで死んでますからね。あ、勿論表沙汰にはなってはいないんですけど。公式発表、病死か事故死ですけど」
「まあ。大変そう」
適当に相槌を打ったら、凄い勢いで頷かれた。
「そうなんです! もー、本当大変なんですよ帝国宮廷って。妃多いから親戚も多くて競争相手も多い。その上腹違いなら兄妹とかでも結婚してるんです。だから顔も似てて、新年の挨拶とか従姉だか叔父だか分からないのがわらわら居るんですよ。名前と顔と関係覚えておかないとすっごい冷たい空気になるから必死で覚えなくちゃいけなくて、私これがまた嫌で嫌で。紙に似顔絵描いて裏に詳細記して、それ使って寝る前に暗記してましたけど面倒で」
眉間に皺を寄せて思いっきり愚痴るので、メアはちょっと話が逸れているような気がしていたが、黙って頷いてあげた。
「そりゃ、努力の成果はちゃんと出て、ちゃんと親戚全部覚えましたけど、興味のないことを記憶するってどうしてああも苦痛なんでしょうね。あ、ちなみに宝石の眼。貴女の曾祖母は私の祖母と実の姉妹です。はい、私から見て貴女は何でしょう」
「え……? ええと」
「正解は、はとこの娘です。面倒臭いでしょう? 覚えなくていいです。……ええと、どこまで話しましたっけ」
「ええと……。帝国宮廷内が、どろどろして、とても面倒臭い、ということはわかりました」
「あ、はい。ありがとうございます。そんな訳で、ですね、宮廷には皇帝の座を狙う親戚が沢山蠢いていたんですよ。帝国は実力主義ですから、長男だからってすんなり跡継ぎになれる訳じゃないんです。宮廷には、全員母親の違う皇子が、私を含め三人。あと生き残った叔父が何人か。けれどそんな中、私の長兄は、とてもとても頭の切れる、かつ冷酷な人でありまして。野心家だけどちょっぴり頭の悪い次兄を暗殺して、見事皇太子の座を射止めたんです。まあよくある話でしょう。それで、一部始終を見ていた私は、『ああ、彼には勝てない』としっかり悟り、研究への道をひた走り、皇帝の座には興味ありませんよ、と全身を使って表現して、命を繫いだわけなんです」
大人しく頷きつつ話を聞いていたメアは、ふと気になって口を挟んだ。
「……ということは、メディクス様。その研究が好きで仕方無い、という姿は……」
メディクスは気まずそうにお茶を飲んだ。
「全部が演技……という訳では勿論ないんですが。まあ、少し大袈裟にはしてますよ」
「……大変、ですねぇ」
メディクスは、大人びた目で軽く微笑んだ。
「生きているのに大変じゃない人なんて居ませんよ。さて、彼はまあ、私の演技に気付いていたんでしょうね。野心はなくても、馬鹿ではないと。遠ざける意味もあって、氷の国に行ってこいと命じました。私が兄に逆らえる訳もなく……。あとは、本物の生きた宝石の眼が見られたら嬉しいな、という期待もあって、この国に来た訳です。勿論、役に立たないまま素直に嫁を連れて帝国に帰ったら、後が恐いですからね。何だかんだと宝石の眼……貴女の準備を邪魔して、滞在期間を長引かせて貰いました」
メアは、軽く目を見開いて、一瞬息を止めた。冷たい氷をころんと飲み込んだような心地がする。
「そう……ですか」
透かし、葉、が。
嬉しかったのは、きっと、私だけで。
なんて、滑稽な、姿を。
「……そう、ですよね」
ほんの微かなため息を静かにつくメアに、メディクスは慌てて腰を少し浮かせた。
「あ、いえ、すみません。宝石の眼。違うんです、違います。ええ、確かに私はその、邪魔を目的にしてお呼び出ししていました。けれど、そうですね」
「いえ。お気を使わせてすみません」
仕事や使命を背負って来ている彼に、理不尽な期待をしてしまったのはメアだ。メアが子供で、甘ったれていただけ。勝手に傷ついているだけだ。
けれど、遮ろうとするメアを押し切って、メディクスは続ける。
「お話を、するのは、ええ。楽しかったです。宝石の眼にとっては、突然で、戸惑うばかりで、辛いことの方が多かったでしょうが……。その」
メディクスは、一瞬何と言うべきか悩んだのか口ごもり、枕のあたりを凝視した。
それから、一息分の間の後、きちんとメアの顔に視線を戻し、ぽつりと言う。
「私、相手が貴女で良かったと思いました、よ?」
メアはぽかんとメディクスを見た。彼もまた、メアのことを見ている。目が合ってしまう。
何か、妙な空気が漂ってしまった。
くすぐったいような、居心地の悪いような、けれど別に不愉快ではない、腹の底がもぞもぞする感覚。
メディクスは、ずれてもいない片眼鏡の位置を直しながら、すとんと椅子に座り直した。
「……本当に、綺麗な碧をしてるんですね」
「はい?」
「いえすみません! 口に出てましたか!?」
「ええ、まあ」
「忘れて下さい! 忘れて下さい! 話を続けますから! ええとそんな訳で氷の国の長期滞在を目論みつつ、この部屋で報告書とかをしたためていた私なんですけど、ところが帝国への出発も迫ったある日ある時ある瞬間! 運命を変えるお話が!」
メディクスが、うっかりこの部屋が氷の国への諜報行為を纏めていた部屋だと暴露する程度には動揺していたので、可哀想になって追求するのをやめてあげた。それに、メアも何故だか頬が熱かったので。
「とある、氷の国王家の血を引く方が、私に取引を持ちかけました。彼女の要求は、宝石の眼、貴女と自分の立場を入れ替えたい、ということ」
ルーク。
メアは強く唇を噛んだ。一気に全身を強張らせたことに気付いていて、メディクスは少し黙る。
「……真珠姫、ですか」
ぎゅっとマグを握りしめているメアに、メディクスは申し訳なさそうに首を横に振った。
「残念ながら、口止めされておりまして、正体は言えません。けれど、まあ結果として私は、その申し出を受けました。詳細は言えませんが、その取引はいくつか帝国に利益がありましたし、何より宝石の眼を連れて帰ることは、私の身を危険に晒すことになるので」
「……宝石の眼を連れて帰ったら、手柄になるんじゃないんですか。帝国を、栄光に導くと。何より、貴方は見たかったんでしょう……?」
「ああ、宝石の眼を見たかったのは本当なんですけれどね。不慮の事故が起きたら未だに眼球は保存したいことこの上無いですし」
さらりと不穏なことを言われたが、メアは流した。
「けれど、宝石の眼は『手に入れた者に栄光を約束する』んですよ。つまりそれは、私が皇帝になるなり、他の方法で圧倒的大成功を収める、ということじゃないですか。もしも貴女を素直に連れ帰ったとしたら、兄は何としてでも私を殺し、そして宝石の眼を新たなる妃に立てようとするでしょう。私は、殺されるのは御免です」
転ぶ、とか、ぶつける、といったような言い方で、メディクスは殺される、という言葉を使った。お茶を飲みながら、本当に何気なく。
それは、彼が今までいかに命が軽く扱われる世界に居たかを現しているようで、メアはぬるいと思って触れた水がひどく冷たかったように、はっとした。
「その点、話を持ちかけてきた……まあ、共犯者ですね。彼女は、宝石の眼ではない。そして私はある程度、氷の国の財政を報告出来ました。これなら、そこそこ安全に帝国に帰れると思ったんです」
なるほど、と頷きながら、メアはとうとう我慢出来なくなり、それで、と核心に触れた。
「どうして、私を助けたんですか」
わざわざ真夜中に、火事を起こす真似事までして。こんな風に手ずから、治療までして飲み物を出して。
全てを話して。
メディクスは、苦笑いをしてマグにお湯を足した。
「……私も、小さい頃はですね。兄二人に遊んで貰ったりとか、したものなんですよ」
どういうことか分からず怪訝な顔をするメアの前で、メディクスは湯気の立つマグに口をつける。片眼鏡が、蒸気で真っ白になった。
「結構、好きでした。長兄はしっかり者だったし、次兄は力持ちだった。自慢でしたし、甘やかして貰えて嬉しかった。けれどまあ、成長するにつれて互いに疎みあい、手駒を使って争いあい、臣下が死んだり政敵が死んだりと、私の中でも命が軽くなって。……だけど、雪輝王とベルク殿って、本当に仲良いじゃないですか。珍しいですよ、そういうの」
メアはこくりと頷いた。
ベルクの心情は聞いたことがあるし、雪輝王の方も、軽い口調ながら、弟を心から大切に思っているのが見る者に伝わって来るのだ。
メディクスも、それが分かったのだろう。
「ここでしばらく暮していたら、なんだかそういうの、羨ましくなってしまいまして。こう、私にも、まだまともな感性が残っているんだってことをね、きっと、見せつけたかったんですよ。何かに。自分に。……そんな訳で、共犯者殿の目をかいくぐり、宝石の眼を探したんです。つまりは……まあ、私の自己満足です」
ひょいと肩をすくめて、メディクスは飲み終えたマグを、腰を捻ってテーブルの上に置いた。
「本当はもっと早くに回収したかったんですけどね、水路が思いの外暗くて、貴女が流れて行くの、見落としてしまったんです。おかしいなと思って倉庫沿いを歩いていたら、倉庫の壁を叩いている音を聞いたんです。……肝が冷えましたよ。駄目じゃあないですか、あんなところで夜中にたむろしているなんて、ろくな人じゃありません」
少し口調を強めて叱るメディクスに、メアもうなだれた。風車の街は治安が良い上に、そもそも暗くなった街なんか一人で歩いたことがないのだ、などというのは言い訳にはならないだろう。
寒くてたまらなくて頭が回っていなかったとしても、そこだけはしっかりと考えるべきだった。
彼が来てくれなかったら、本当に危なかったのだ。
「……はい。ごめんなさい」
しゅんと小さくなったメアに、メディクスは語調を和らげた。
「まあ、無事だったのなら、いいです。私も……貴女を助けると決めたわりに、遅れてしまってすみません。怖かったでしょう」
しばらくじっとした後、こくん、とメアは頷いた。
その手に持ったマグが細かく波紋を作っているのを認めて、メディクスはメアの上掛けを肩にまで引っ張り上げてくれた。
「これで、話は大体終わりです。長い話を聞いて、疲れてしまったでしょう。もう少し眠っていていいですよ。あ、着替え持って来ますからちょっと待ってて下さい。かなり大きいでしょうが……」
言いながら、メディクスは扉の方へと歩いて行こうとする。メアは、何故かとっさにその背中の裾を掴んでしまった。
くん、と引っ張られてメディクスが足を止める。
「……何か?」
困ったように振り返られて、メアはきょとんと彼の服を掴んでいる手を見た。自分でも、どうしてこんなことをしたのか分からなかったのだ。
不思議そうな顔のままメディクスを見上げると、彼は頬を掻きながら、
「いや、そういう顔をされましても……」
と呟いた。
確かにそれはそうだ、とメアは手を離す。解放されて、メディクスが歩き出す。メアは、その背中を見詰めながら、小さな声で呟いた。
「……御礼」
ん? とメディクスが振り返る。
自分がどうしてこんなことを言っているのかよく分からないまま、メアは続けた。
「御礼に、宝石の眼について、私が知っていることを教えましょうか?」
「本当ですかーーーー!?」
凄まじい目の輝きっぷりと、踵から煙が出そうな勢いの回転に、メアは『保身の為に研究に没頭している姿を大袈裟にしている』というのは嘘なのではなかろうかと思った。
「……はい。祖母は死ぬ前に宝石の眼の知っている限りのことを教えてくれました。私に答えられることなら、何でも教えます」
そうだ、御礼をしないと。こんなに良くしてくれた人に何もしないなんて、冥府の神の元で暮している両親や祖母に叱られる。だからなのだ。
命を救って貰ったのだ。これくらいは当然だ。
自分に納得出来る理由を思い付いて、メアは少し落ち着いた。
「なんと……なんとなんとなんと! 是非!」
メディクスは子供のように目を輝かせて、がたがたと椅子に座り直している。
「そんなに気になりますか?」
メディクスは大きく頷くと力一杯拳を握って、考えてもみて下さい、と力説した。
「もしも空想上の生き物が本当に目の前に居たら、普通解剖したくなるでしょうぅぅ!」
なるほど、自分は珍獣と同じ扱いなのか、と納得しながらメアは釘を刺した。
「折角助けたんですから、どんなに気になっても解剖は我慢して下さいね」
「分かってますってぇ」
彼は頷いたが、目はちょっと残念そうだった。メアは、短くなった髪を揺らして苦笑する。
「いいものではありませんよ。宝石の眼なんて」
言いながら、自分の眼のことをどう思っているか、他人に話すのは初めての経験だな、と思った。
「そうですか? 私としては、宝石の眼を得たからこそ風車の街は素晴らしい街になり、それこそが宝石の眼の伝承が、現実のものであるという証明だと思っているのですが……」
大好きな街を褒められて、メアは少し顔をほころばせた。
「ありがとうございます。確かに、風車の街は祖母を得て豊かになりました。知ってますか? 祖母が来る前、あの街は極寒の貧しい村だったんです」
今、風車の街は氷の国のどこよりも温暖な気候をしている。しかしそれは、数十年前に海底火山が爆発し暖流の流れが変わったからだ。
それ以前の、まだ風車の街と名付けられる前の小さな村は、周囲の土地も痩せ、冬には毎年餓死者の出る、あまりにも貧しい村だった。
何より、近海は、呪われし海、魔の海。
通った船は帰って来ず、そこで獲れた魚を食べれば骨の人魚が現われて、悪夢を見たまま目覚めなくなると言われている。呪いを恐れるあまりに、近隣の村へ魚はまったく売れず、土地も痩せて、冬には毎年餓死者が出た。
テオという名の青年が、宝石の眼を持つ皇女ヴィリディスと駆け落ちして故郷に帰るまでは。
「祖母が来てから、街の気候は変わり、港は凍らなくなりました。祖父の仲間は船を造り、痩せた土地に強い植物を輸入して育て、加工して、貿易船で商売をして街を発展させました。父は水路を敷き、風車を普及させ、道を整備して街を整えました。……一見、宝石の眼を得てから、何もかもが上手くいっているように思えるでしょう?」
「ええ。確か砂漠の国でも、宝石の眼の姫君が生まれた年に、黄金の大鉱脈が発見されましたね。やはりそこには何かしらの偶然ではない因果関係があり、それを解き明かしたいと思うのはもはや衝動、本能、知識欲を持つ生き物の性といいますか……!」
だんだん興奮してきて腰を浮かせたメディクスに、水を注ぎ込むようにメアは言った。
「でもね、揺り返しが来るんですよ」
「……揺り返し?」
すとん、とメディクスが椅子に座ったのを確かめて、メアは続ける。
「砂漠の国では、二年前、黄金の大鉱脈を巡って、王家縁者で内戦が起こりました。女王は行方不明になり、今はその叔父が王の代行をしているそうです。同じ時期、風車の街では、輸入した植物を羊の餌にしたことで、羊の病が大流行しました。宝石の眼の祖母は失われ、氷の国の財政は逼迫しました。そういう……手に入れた栄光全てを奪い取るような事件が、必ず起こるんです。いつかは分からなくても、必ず」
メアの祖母は、羊の病が流行した時、ずっと気にしていた。自分のせいだと。この眼が病を連れてきたのだと。
メアはぼんやりした眼差しで、謡うように呟いた。
「呪いからは逃れられない。いつか迎えがやってくる。呪われし、宝石の眼……。華を咲かせ血に染める、歓喜と絶望の贈り物……」
メディクスがひょいと眉を上げる。
「エヴァン・ジェリウムの『宝石の謡』ですね。帝国始皇帝時代の。まさか氷の国語で聞くとは思いませんでしたけど」
「興味があって、原文で読んだんです。宝石の眼は、元々帝国が発祥ですし、資料も多いから」
「流石。風車の街育ちは違いますねぇ。いやはや、私も彼の地で生まれたかったものです。そうしたら、宝石の眼の呪いが一体何なのか、もっと間近で、細かに、はっきりと観察出来たでしょうに……!」
メディクスはぐっと拳を握って熱っぽく語っていたが、メアの表情が暗いままなことに気付き、手を下ろす。
「いえ、その……。すみませんね、私はこういうことになると、少し周りが見えなくなります。軽率でした。貴女にとっては、呪いは……ない方が勿論、良いですよね。ええ」
「……そうですね。呪いなんて、嘘だと思いたいです。だって、魔の海の近海で獲れたお魚を食べて、私は育って来たんですよ? 骨の人魚なんて迷信だって分かっています。きっと、魔の海を船が通れないのだって、潮目が複雑だとか、岩礁が多いとか、そういう別の理由があるんですよ……」
つるつるしたマグの表面を撫でながら、だけど、とメアは吐息をついた。
「同時に、全てを理屈で解決することも、出来ないと思うんです。私達がどう足掻いても分からない、神々の守護や精霊の住処、妖精の悪戯……。そういうのを否定する気もありません。全てを呪いと片付けてしまうのは簡単だけど……それでは何も分からないままです。でも逆に、呪いも祈りも全てまやかしで、伝承の全ては迷信だと思えば、いつか足下を掬われる……」
「意外です。……風車の街に生まれても、そういうことは言うんですね」
メディクスの戸惑った顔を見て、メアは、彼は伝承の類いを信じる気持ちが薄いのだろうと思った。帝国は、氷の国よりも様々な技術が発展し、今まで闇の中に込められた伝承が白日の下に晒されている。
だからこそ、宝石の眼が気になるのだ。未だ解明されていない、生きた神秘として。
「新しい発見をして技術を高めることは、伝承の住処を荒らすことではないんですよ」
メディクスは、少し困った顔をしている。
メアの心に、小さな悪戯心がむくりと沸いた。彼を驚かせてみたい。
「秘密ですよ」
前置きして、メアはちょっと口の端を吊り上げる。これは、宝石の眼当人でないと、分からないことだ。
「私はたまに、私に害を為す人は薄暗く靄がかって見えるんです。逆に、私を助けてくれる人は明るく輝いて見えます。必ずではないし、その時の光の加減だろうと思ってしまえば、気付かないままの時もありますけれど。私に強い影響を与えたりする場合は、結構な精度で当たるんです」
メアが、魔の海の魚を食べて何ともないのに、言い伝えや不思議なことを頭から否定しないのは、ここに理由がある。
人が解明出来る謎は、ある。
けれど、どんなに理屈で考えても分からないことだって、また存在しているのだ。
「祖母は、風車の街に大量に人が入ってくる時期に立ち会いました。その時も、祖母があの人は危ないと言う人は、大抵、事件を起こしたそうです。祖父は彼女をとても信用していました。だから、警告に従って注意し……どれも大事にならなかったと聞いています。逆に、祖母が信頼しても良いという人は、一生を共に過ごす程気の合う人ばかりでした。……周りからは、ただ人を見る目がある、と言われる程度のものですけれど」
メアが今まで一番輝いて見えたのは、初対面の蒼の姉様の時だった。
そしてその後、彼女は確かに、メアの親友となり心を支え、独りぼっちになった時に、闇の底に居たメアを掬い上げたのだ。
「……なるほど。初代皇帝が望む訳です。それは確かに、宮廷では最も必要な能力と言っても過言ではありませんからねぇ。幸福の予言者というのは、そこから来ているんですかね、面白い……」
それじゃあ、と彼は身を乗り出して尋ねる。
「あれは本当なんですか? 愛によって澄み……」
「血によって穢れる、という一節ですね。さあ……。祖母が恋をしていた時代、私は生まれていませんでしたから。……他の人が、その手を血で汚した後どうなったかは、私にはわかりません」
「ふむ……。当人ですら分からないことも、やはりあるんですねぇ……」
しきりに、面白い、面白い、と繰り返しながらメディクスを顎を撫でた。その手元から、じょりじょりと音がする。
そうか、美形にも無精髭は生えるのか。
当たり前と言えば当たり前のことだが、彼は別に銀で出来た彫刻ではないのだった。メアにとっては、メディクスだって空想上の珍獣に近い所にある存在なのだな、としみじみしてしまった。
そして、その音を聞いているうちに、髭が生える程に長い時間、話してしまったことに気が付いた。
メアが目覚めたのが夜半過ぎだったとしたら、もしかしたらもう、夜明けが近いのかも知れない。
そう思った瞬間、はっとしてメアは叫んだ。
「ごめんなさい! こんなに長いこと話させてしまって。寝てください。あの、明日、なのか今日なのか、分からないんですけど……その、式典……。」
途中から勢いがなくなって、もごもごと口ごもるメアに、メディクスがあっさり首を振った。
「大丈夫ですよ、徹夜は慣れてますから。今は、宝石の眼の話を聞くことの方が、私にとって遙かに有益かつ重大なんです」
メアはむっとして口を尖らせた。
「そう言って自分を過信していると、やがて手痛いしっぺ返しを貰うんですよ。ちゃんと食べて、眠らないと、どこかで身体が必ず軋むんですから」
言い終わってから、それが祖母と同じ口調で、抑揚までそっくりだったことに気付いて、メアは自分自身で驚いた。
そうだ、こんな風に、薪とインクの匂いのする暖かい部屋で、祖母は唇を尖らせていたのだ。
イヤだまだ本を読むんだと聞かない娘の首根っこを捕まえて、さあもう寝る時間ですよと寝室へ引っ張って行っていた。父は、その姿を見て自分の身も危ないとばかりにそそくさと実験器具を持って逃げようとしていたが、祖母の口真似をするメアに捕まって、ああ見付かってしまったと眉を下げていた。
まざまざと脳裏に浮かぶ、ほんの数年前の光景。
つきん、と胸が痛みメアはつかの間息が出来なくなった。鈍い冷たい痛みが、突然心臓を鷲掴みにして、揺さぶってくる。
それは、食べ物が変な所に入った時の咳と同じように、自分ではどうすることも出来ないものだった。
「……どうしました?」
気遣わしげなメディクスに、急いでメアは首を横に振った。
「いえ……ごめんなさい。その、何でも……」
必死に腹に力を込めたが、駄目だった。どうあっても語尾が震えてしまう。
ぱちぱちと薪が爆ぜる音と、温かなマグ。人の話し声と、インクの匂い。
そんな小さなものに、ずっと自分は飢えていたのだと、今更ながらに思い知る。
メアは、大きく息を吸ってから、ようやく言った。
「……私、が、まだまだ子供だって、気付いて」
寂しいと、思い知ってしまう。
親を恋しがって泣く程度に、自分が子供なことが分かって、メアは何だか可笑しくなった。
どんな勘違いをしていたのだろう。
たった一人で生きていけるなんて、偉そうに。
大きく息を吸っては止め、震える息を吐き出しているメアを見て、メディクスは何を思ったのだろう。
かたん、と椅子を動かすと、大きく伸びをした。
「……いやあ。何だか疲れがどっと出てしまいました。ちょっと待っていて下さい。貴女に寝間着を持ってきたら、私は寝るとしますよ」
言いながら立ち上がり、メアを振り返らず、足早に扉へと歩いて行ってしまう。
彼に感謝する心の余裕もなく、メアは扉が閉じた瞬間から強く目をつむり、膝に額を擦り付けた。両手にマグを持ったまま歯を食いしばり、微かな唸り声を漏らして震える。
蒼の姉様に会いたい、と焼け付くように思った。
たった一人、メアに残された家族。
砂漠の国の内戦の話は、羊の病の対応にかかりきりだったメア達には届かなかった。
アズラクの窮状を知ったのは、羊の病が収束し、葬儀を終えた夜、手紙を受け取ってからだ。
届けられた手紙には、メアを労る言葉と、簡潔な砂漠の国の内戦の話。自分は無事であるから心配しないように、ということ。
それから、今からしばらくは手紙は出せないけれど、寂しがるなということが書かれていた。遠い昔、メアな行かないでと泣き喚いた時のように。
――必ずまた、会いに行く故、泣くな。
彼女の文字はいつも流麗で、力強い。
――苦難は今、我が身を襲っている。そなたの心も悲しみの淵にあろう。けれどメア、お前はまた私に会うために生き続けなければならない。
燃える意志で前を見て、傲慢で強かな言葉を紡ぐ。
――生きることは戦い。そなたも戦え。戦って、勝て。その時こそ、妾とそなたが再びまみえる時。
「戦って……勝て……」
小さく呟いて、メアは自嘲の笑みを唇に刷いた。
「私は……負けっぱなしです。姉様……」
羊の病にも、出生にまつわるいくつもの柵にも、王族達の思惑にも、どれも巻き込まれ、振り回されるばかりだ。
それでも、彼女が遠い空の下で強くあり、理不尽な運命と戦うのならば、メアは微笑むことですっくと立っていようと決めていたけれど。
恨むことなく暮すことこそを戦いにしようと思っていたけれど。
それこそが、両親や祖母の望むことだと、信じて。
でも。
「……それが、何になったんでしょう」
ただ流されてへらへらしていただけで、メアは何を手に入れたと言うのだろう。
徐々に震えが収まり、呼吸が安定してきた時、遠慮がちに扉がノックされ、返事をすると寝間着を持ったメディクスが入って来た。
メアはぱっと顔を上げ、無理に微笑んだ。
「あ、おかえりなさい。すみません。あの……家族が居た頃のことを思い出して……情けないですね」
気を遣わせてしまったことが申し訳なくて、細い声しか出なかった。
けれどメディクスは同情めいたことは言わず、ただメアの枕元に寝間着を置き、穏やかに言った。
「……誰でも、そうです」
メアの肩に乗っていた、すっかりぬるくなってしまったタオルを回収して、テーブルに置いて呟く。
「……いつまで、経っても、きっと」
そうだろうか。
メアが子供だから、情けないから、弱いから、いつまで経っても辛いままなのではないのだろうか。
皆そうなのだろうか。
どんなにしっかりした大人だって、誰かが傍に居てくれないと、寂しいのだろうか。何歳になっても。
その言葉は、穏やかにメアの心を揺らして、やがてすとんと、温かいままお腹の底に落ちた。
「……ありがとう、ございます」
感謝の言葉はするりと出て来た。
メディクスは下手くそな口笛を吹いて、
「なんのことでしょう? 私は何もしていません」
などと嘯いた。
メアはにっこり笑うと、ぬるくなったマグの中身をごくごくと飲み干して、空にして言う。
「美味しい飲み物をありがとうございます。タオルを乗せてくれてありがとうございます。手当をしてくれてありがとうございます。私を助けてくれてありがとうございます。ああ、それから寝間着を持って来てくれてありがとうございます」
怒涛の勢いでにっこり御礼を投げまくるメアに、メディクスは目を丸くしてぼそっとぼやいた。
「貴女、意外に負けず嫌いですね」
聞かなかったふりをして、メアは少しはにかんでから、付け足した。
「私に……おかえりなさい、を言わせてくれて、ありがとうございます」
メディクスは、虚を突かれた風情でメアを見た。
「おかえりなさい、なんて言ったの……。久しぶりで。何だか嬉しくなってしまって」
これは少しやりすぎだったかしら、と照れ隠しに眼鏡をずらそうとして鼻の頭に指をぶつけ、今は何もかけていないことに気付く。
誤魔化すように鼻を搔いているメアをしばらく見ていたメディクスは、そうですか、と
「私は初めてですよ。言われたの」
今度はメアが驚く番だった。
ぱっと顔を上げたメアに何か言わせる前に、メディクスは、ぱん、と手を叩いて遮った。
「それでは、私は隣の部屋に行きますから。発熱はないようですけど、まだ油断は出来ません。何かあったら呼んで下さいね。こうなったからには、最後まで面倒は見ますから、安心してください」
「でも、明日からメディクス様は、帝国に帰らなくてはならないんじゃ……」
ここがどこだかは分からないが、白輝の都であることは間違いない。物理的に、彼が直に面倒を見るのは不可能だ。信頼出来る部下にでも任せると思っていたのだが。
けれど、メディクスは手をひらひら振って、こともなげに言った。
「ああ、大丈夫です、そんなの。どうせ鳥車の中から手だけ出して振るしかやることないんですから。誰にでも出来ます。見世物なので進みも遅いですし、一等高速獣で追いかければ、二、三日の遅れなんかどうにでもなります」
どうやら行進の方を替え玉にするつもりらしい。
「でも……」
それは色々とまずいのでは。
「私を徹夜させたくなければ、はいと言って下さいね。言い忘れていましたけど今は夜明けです」
完全に言い返せなくなってメアは黙った。
物言いたげな眼差しで睨むメアに、メディクスは勝ち誇った顔で笑ってから、小さな袋を手渡す。
メアはきょとんとして両手で受け取った。
「これは……?」
手に持つとかさりと音がして、とても軽い。鼻を寄せると、上品な香りがふわりと立ち上っていた。
「野薔薇の匂い袋です。あげますよ。僕が一番好きな香りです。良い夢が見られることを祈って」
「え、いえ。そんな。頂けません」
帝国ではどうだか知らないが、氷の国では咲く次期が一瞬しかない花は貴重品という意識が強い。その上、繊細な手入れが必要な薔薇だ。絶対高価い。
ぶんぶん首を横に振るが、メディクスはいいんです、と肩をすくめるだけだ。
「あなたは僕に形のない贈り物をくれました。だから僕もあなたにこう告げましょう」
ひょいと腰をかがめてメアに視線を合わせると、彼は帝国の皇子殿下らしい、美しい発音の帝国語で告げた。
「|おやすみなさい、善い夢を(ボナーム・ノクテーム)」
メアはゆっくりと微笑むと、深窓の令嬢のような、彼に相応しい発音で応じた。
「|おやすみなさい、愛しい子」
《憶えていますか》
約束を、した。
そう、ここだったとアズラクはゆっくりと歩みを止めた。
十年の時が流れれば、街はすっかり様変わりしてしまう。風車の街と呼ばれる程に風車を持つ家並みが増え、踏み固められただけの土の道には煉瓦が敷かれ、畑だった場所は家になった。
けれど、街役場の巨大な時計塔と、まろやかな屋根の灯台は、街の象徴的な建物なのだろう。十年前と同じ形のまま、そこにあった。
時計塔は街のどこからでも見える。
待ち合わせ場所としてもよく利用されるようで、広場には何人か人待ち顔の青年や、首から下げた時計を見ている老人などが立っていた。
皆、待ち合わせをしているというのに、どこか顔色は暗く、沈んでいる。
氷の国人らしからぬ彫りの深い顔立ちと黒髪に、何人かはちらちらと視線を送ったが、人の出入りの激しい港町らしく、そこまで注目を浴びることはなかった。アズラクは、時計塔前広場の、一番古いベンチに、静かに腰掛けた。
記憶よりも、幾分小さいような気がする。
勿論、ベンチが小さくなったのではなく、アズラクが大きくなったのだ。
十年前も、ここに座っていた。
メアと二人きり、涙目になりながら、大人が見付けてくれるのを待って手を繫いでいた。
メアと、メアの両親と街まで買い物に出掛けていた時だった。好奇心に負けて、大人に声を掛けるのも忘れて勝手に店に入り品物を見ていたら、子供二人はすっかりはぐれてしまったのだ。
アズラクにとって、庶民の暮しを直に見たのは、故郷黄金の都ではなく、風車の街だった。熱気の溢れる人々の暮しは何もかも物珍しくて、随分メアを引っ張り回して自分勝手したものだ。
その結果が、迷子。あの時はアズラクも内心物凄く焦ったし、心細かった。
けれどメアが、どうしましょう、どうしましょうとぐすぐす泣きべそをかくから、泣くな妾がついておる、と不安を押し殺して叱っていた。
二つしか年が違わなくても、子供の頃はその二つの差が絶大なものだ。
自分はお姉さんなのだから、彼女を守ってやらなければならないと使命感に燃えていた。
実際、メアは危なっかしい所が多分にあった。ふわふわと微笑む姿はとても愛らしいが、何も無い所で転ぶし蝶々を追いかけて水路に落ちかけるしで、そのたびにアズラクはすっ飛んでいったものだ。
メアはアズラクの腕に縋り付いて、怖い人に誘拐されたらどうしよう、とべそべそ泣いた。
彼女が言うと、本当に道行く人が皆二人を狙っているような気がして恐ろしくなった。
だから、わざと強がって、自信たっぷりに言い切ったのだ。
――そんなもの、妾が退治してくれるわ。
――本当ですか?
頼られるのが嬉しくて、アズラクは随分とお姉さんぶっていた。小さな碧の瞳の妹に頼られると、何でも出来るような気になっていた。
――勿論じゃ。そなたは私の妹故、特別じゃ。いつだって、呼べば助けてやろうぞ。
メアが、心底感嘆した憧れの目で見てきてアズラクはくすぐったくなる。いつの間にか、その目から涙は乾いていた。
――それじゃあ、姉様。私も姉様をたすけます。困っていたら、呼んでください。
――そなたに出来るのか?
からかうように尋ねたら、メアはほっぺたを林檎のように赤く、膨らませて頷いたのだ。
――がんばります。とっても、すごく、がんばりますから、きっと大丈夫です。
本当は知っていた。メアはぼんやりしているように見えて、賢い子だ。
迷子になったら目立つ場所で待っていればいい、と言って時計塔を指さしたのはメアだったのだ。
――よし。では約束じゃ。
――はい、お約束ですね。
そんな子供の口約束など、憶えている訳がない。
分かっていても、このベンチに座っていると、人生で最も楽しかった夏のことが蘇ってくる。
その後、子供が泣きそうな顔で時計塔のベンチに座っているという報せを受けて、大人達が息を切らして駆けてきたことも、不安と緊張の糸が切れて、情けなくも二人で大泣きしてしまったことも。
腫れぼったくなった目で、手を繫ぎながら歩いて帰った煉瓦造りの小さな家に、アズラクは十年を経た今であっても迷わず辿り着くだろう。
形の良い唇から、ため息めいた声が落ちる。
「……もし」
羊の病が、この地を襲わなければ。
アズラクはあの家を訪ねていた。全てを話して、協力を仰ぎ、メアにかつての約束を憶えているかと問うただろう。
かん、かん、かん、と短く三回。
遠くで、葬儀の鐘が鳴っている。
アズラクは、いつの間にか地面を彷徨っていた視線を上げた。葬儀の行われている神殿は、小高い丘の上にあり、ここからでもよく見える。
玩具のような大きさの、緑の屋根の神殿の周囲に、黒々とした点のような人々が散らばっている。
豊穣と結婚の神の妹は、冥府の神の花嫁だから、二柱の神は同じ神殿に祀られることが多い。人々は、結婚と葬儀を同じ神殿で行うのだ。
そしてもう長いこと、あの神殿は喪服の人ばかりが訪れる場所となっているのだと、街役場の戸籍係の男は深いため息をついていた。
――知り合いがこの街に居る。羊の病のことも知らず、はるばる長旅をして来てしまった。何も知らぬまま家を訪ねれば辛い思いをさせるだろう。どうか、生死を教えてくれないか。
そんなアズラクの頼みを、慣れた様子で対応してくれた、初老の男だった。
彼は、分厚い紙の束を取り出しながら、老眼鏡を掛けて言ったのだ。
あんたも花を手向けてやってくんないかね。今日は、風車の街の宝石と、恩人が旅立つんだ……。娘さんも可哀想に。一人残されちまって……。
その言葉だけで、アズラクは全てを悟った。
男に一言礼を告げ、嵐のような胸を抱えて役場を出て、静かにベンチへ座ったのだ。
「……おじさん。おばさん。ヴィリーおばさん」
優しくして貰ったことを、憶えている。
出来れば葬儀に参加したかった。彼女達の旅立ちを見守り、今までの礼を言いたかった。
しかし、葬儀に参加すれば、アズラクに見付かってしまうかも知れない。
「……メア」
一人で、泣いているのだろうか。あの子は。
いいや。泣けてすら、いないのかも知れない。
側に行って抱き締め、もう泣くな、妾が守ってやるからと、言ってやりたかった。
アズラクの中の、生身の人間である部分は、そうせよ、今すぐ駆けていって支えてやれと叫んでいる。
しかし、彼女は女王であった。
じりじりと、爪を剝がれるような痛み。喉を焼かれるような焦燥。胸の肉を鉄の爪で掻きむしり、抉られるような喪失感。
それらを感じてなお、眉ひとつ動かさなかった。
親しき人の死を知ってなお、彼女はこれから取るべき行動を冷徹に考え続けた。何を利用し、何と手を組み、いかにして砂漠の国へ帰るかを、己の感情を一切排除して考えた。
アズラクの手には鍵がある。
王にしか伝えられぬ、錫杖。それを持たぬ者は王として認められぬ。その在処を今知っているのは、この世でアズラク一人のみ。
この錫杖を手にしない限り、叔父は王の代行の立場に甘んじ続けるしかないのだ。
砂漠の国の王は王でありながら神の代行者であり神官だ。汚い金で王宮内を掌握したとて、神に認められた証である錫杖がなければ王たりえない。
翻って、宝石の眼を持つアズラクに対しての国民の信仰心は厚い。叔父さえ排除出来れば、再びアズラクが女王として君臨するだろう。
――だが、その道のりは険しきを極める。
アズラクは、ふっと瞳をひらき、立ち上がった。
玉座は必ずや奪い返す。
忠誠を誓い待ってくれている臣下の為にも、叔父によって税を搾り取られ、金が払えなければ黄金鉱脈に強制労働へと送られている民の為にも。
だが、それは彼女を巻き込んで良い旅路ではない。
ひとつ大きく息を吸い、心を決めた。
「すまぬな。メア。葬儀には行けぬ。大海豹に手紙を託す故、許せ」
女王は、丘の上の神殿を一瞥すると、決意を秘めた目で、時計塔広場を後にした。
再会の約束
とろとろと眠りながら、メアは身体の燃えるような熱さに、喘いでいた。
頭痛がひどい。身体がめり込むように重たく、喉がからからに渇いていた。変な夢を何度も見た。
歯を食いしばって痛みに耐えていると、ひんやりとしたものが額に乗せられ、すうっと苦しさが遠のいた。上品な花の香りが身体を通り抜ける。
メアはふっと力を抜くと、そのままもう一度、今度は夢も見ない深い眠りに落ちていった。
目が覚めた時は、随分身体が楽になっていた。
首筋に溜まった汗が冷たく、身動きすると身体を滑り落ちる。まだ身体の芯はだるかったが、頭はすっきりしていた。枕元の匂い袋が、良い香りを零している。
メアは、まばたきをしてから、ゆっくりと身体を起こした。途中、生温いタオルが額から枕へ落ちる。
メディクスの姿は見えなかったが、テーブルの上にはどこから調達してきたのか、着替え一式が置いてあった。メアは、ぐっしょり濡れた寝間着を脱ぎ、額に乗せてあったタオルで軽く身体を拭うと、ありがたくその着替えを使わせて貰った。
部屋の中は、昨日とあまり変わりなかったが、机の上の紙類だけは全て綺麗に片付けられていた。メディクスも、そんなに長い間ここに居る訳ではないのだろう。
隣の部屋に居る筈の彼を呼ぼうかとも思ったが、頭にタオルが乗っている以上、メアが眠っている間も看病してくれていたのだろう。もしも寝ているなら、起こすのは可哀想な気がした。
それに、あまり勝手に動き回られては迷惑になるかもしれない。
花嫁の入れ替わりがどの程度周囲に認知されているかは知らないが、メアの顔を知る護衛などが外に居たとしたら、面倒なことになるだろう。
メアは、ベッドの上で膝をかかえて頭をつけた。
「……どうしよう」
暇になってしまった。
ころんと膝を抱えたまま横になると、ふと机の下に本棚があることに気が付いた。メディクスのことだから、見られて困るものは全て隠してあるだろう。つまり、外に出してあるものは全て見て構わない筈。
興味を引かれてベッドから降り、中を覗いてみた。
中には、帝国語を氷の国語に訳す辞書や、氷の国の歴史書、貿易や経済に関する本、文化や風土を紹介した本、気候や植生の本、王家に関しての事件を纏めた本などが並んでいた。しかも全部氷の国語だ。
「……勉強家」
メアは、真夜中に机に座って角灯を灯し、本の頁をめくっているメディクスを想像した。
形の良い額に柔らかな光が当たり、重要な事項を書き留めるたび、羽ペンを持った指の影が踊る……。
何故だか温かな気持ちが込み上げてきて、メアはそのうちの一冊を抜き取って、ぱらりとめくってみた。王家に関する本だ。
一番最初の頁に、連綿と連なる家系図があった。
当然のように、翡翠姫たるメアの祖母は未婚のまま失踪扱いになっているので、そこにメアの母や、メアの名前はない。
王家の人間は、基本的に名を明かさず、公的な資料にも異名で記される。
砂漠の国へ嫁に行った青玉姫という表記を見て、モリーおばさんはそんな名前で呼ばれていたのか、と新鮮な驚きを感じていたメアは、ある一点で目を止める。
真珠姫。
白輝王の孫にあたる人。
「…………」
考えても仕方のないことだ。もう、メアに出来ることなど、何もない。
メアは、ぱたんと本を一度閉じ、別の本に手をのばそうとして、ふと違和感に眉をひそめた。
もう一度同じ本を開き、今度は本の最後の方にある、詳しい年代表をめくってみる。
大きな事件が起きた年などに、簡潔に事件の名前を記しているその表は、当然の様に王族の出生日にも言及している。
メアは、指先でつーっと滑らかな紙をなぞると、真珠姫の生まれた年を確かめた。
「…………?」
おかしい。
そうだ、よく考えたらおかしかった。
メアは、白輝王の曾孫にあたる。しかし、真珠姫は孫だ。つまり、メアより一世代前の人。
身投げをしたと言われているのが十三年前。
もしも、真珠姫が生きていたとしたら、彼女は今、三十二歳。
どう考えても、ルークと年が合わない。ルークは、メアと同じか、少し年上くらいだ。
「それじゃあ……」
あの人は、誰。
呆然としていた時、扉をノックされてメアは慌てて本を戻した。何とはなしに後ろめたい。
「はい。どうぞ」
ノックの音に答えると、メディクスが顔を出した。
「よかった、起きてたんですね」
ほっとした風情でそう言うと、一旦姿を消し、しばらくしてからお盆に湯気の立つ深皿をふたつ乗せて戻って来た。
「朝食……といってももう、昼過ぎですけど。まあ、とにかく何かお腹に入れましょう」
皿の中身は、蜂蜜とベリーのたっぷり入った赤麦のミルク粥だった。とろんとして赤い粥には、茶色い砂糖がたっぷり掛かっている。
よく氷の国で食べられている朝食だ。思わずメアは、それを両手で受け取って御礼を言いながら、
「詳しいですね……」
と呟いてしまった。
今メアが着ている淡い緑色のエプロンドレスだって、氷の国でありふれた庶民の格好だ。一体どうやって手に入れたのかと尋ねると、
「そりゃ、自分で買いに行きましたよぉ」
メディクスはそう言って肩をすくめた。
「帝国じゃ私、ちょっとした名物の変わり者でしたからねぇ。いやぁ、変な物ばっかり買ってるせいか、部下達、皆私の買い物引き受けるの嫌がって。それじゃあ自分で買いに行きましょうかね、ってこっそり外出して以来、なんか癖になっちゃいまして。いいですよねぇ、店で何買うか迷いながらうろつくの。気分転換になります」
「叱られませんか……?」
「最初のうちはね。何回言われても私が止めないんで、今は皆諦めてますよ。私がしばらく姿を消したら、外への買い物か、怪しげな実験しているんだと思ってくれてます。いいもんですよ、身軽で」
「目立ちませんか……?」
奇行のせいでわりと忘れそうになるが、彼は銀の塊を芸術の神が彫刻したような、とんでもない美形なのだ。絶対、目立つ。
「そんなもん、ちょっとカツラを被って顔を汚して色の濃い眼鏡を被ればなーんてことないですよぉ」
キョキョキョ、と得意げに笑うメディクスが手招きをする。メアはそれ以上の追求を諦めてテーブルに着くと、麦粥を食べ始めた。
流石に料理は凄く上手い訳ではなかったが、温かく甘い食べ物は、何であれとてもありがたかった。
「気分はどうです? 随分顔色が良くなってますが、今日はもう外に出られそうですか?」
「はい。お陰様で……。看病、していてくれたんですよね。ありがとうございます」
「いえいえ。なぁーんにもしていませんよぉ」
また誤魔化された、とメアはむっとした顔をしたが、メディクスは下手くそな口笛を吹いているだけだった。
しばらくして、二人が麦粥を食べ終わった後、メディクスはからんと匙を置くとメアに向き直った。
「さて、宝石の眼。花嫁行列が白輝の都を賑わしているうちに、貴女を脱出させてしまいたいんですけども……大丈夫ですか?」
メアは慌てて頷いた。
「は、はい。願ってもないことです。ありがとうございます。風車の街はとても船の出入りが激しいですし、私が突然帰って来ても、そんなに目立つことはないと……あ」
「どうしました?」
「本が……」
皿を重ねて片付けているメディクスに、メアは泣きそうな顔を向けた。
「持って来た本……全部雪花城に置いて来てしまいましたぁ……っ!」
帝国でもこれだけは絶対に傍に置こうと思っていた厳選の本達。それらに二度と会えないかと思うと、メアは喪失感に胸を抉られるようだった。
「……また買えばいいんじゃないですかねぇ?」
「そういうことじゃないんですっ!」
買いに行った思い出までもが大切なのだ。
いくつかは、両親や祖母から受け継いだものもあった。それに、実質的な問題として、本は基本的に高価なので、買い直すとしたら相当な出費になる。全て買い直せるのはいつになるやら。
特に、買ったばかりのあの本。
「植物全図大図鑑、半分も読んでなかったのにっ」
がっくりと肩を落とすメアに、メディクスがちょっと目を見開いた。
「植物全図大図鑑って……」
「今年の夏に帝国で出版された図鑑です……。偏執的で芸術的で大好きだったのに……! 今までの論文、全部読んでたのに……っ」
わあっとメアはテーブルに顔を伏せる。普段から笑顔を崩さないメアにしてはあり得ないような珍事に、メディクスが慌てて腰を浮かす。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫……大丈夫では……ありませんっ……!」
メアは本気で落ち込んでいた。もしかしたらルークに突き落とされた時より素直に落ち込んでいたかも知れない。メアにとって本は魂の一部である。
メディクスはおろおろと手を彷徨わせた。
「そ、そんなに嘆かないでください。宝石の眼。僕が雪花城まで行って……いや、行ってももうありませんね。きっと持っていってますね。それじゃあ、花嫁行進を追いかけて、取ってきてあげます」
一瞬、力一杯「お願いします!」と叫びそうになったが、限界まで精神力を使って、メアは地の底で這いずるような声を出した。
「そ……そこまで……。そこまで、ご迷惑を……おかけする、訳には……っ!」
「……いえ。無理しなくていいんですよ?」
テーブルに突っ伏して拳を握って震えている姿には、まったく説得力がなかったらしい。
「……そうだ。では、こうしましょう。貴女は私と一緒に変装をして、ついてきて下さい。どうせ私は追いかけなければいけないですから」
ぽん、と手を叩くメディクスに、メアはようやく突っ伏していたテーブルから顔を上げた。
「そんな……申し訳ないです。それに、そんなことをしたら、部下の方にばれてしまうのでは……?」
「ああ、大丈夫です。私は同じ人間を長いこと使ったりしませんから。氷の国でも、大体七日を目処に半数を入れ替えていましたよ」
こともなげに言う彼に、メアはふっとまた冷たい手で撫でられたような気がした。
のろのろと椅子に座り直して、恐る恐る尋ねる。
「あの、裏切り、対策……ですか?」
長いこと使えている部下ならば、重要な情報を沢山持っていることだろう。そういう相手を意図的に作らず、出来ることを自分で全てやってしまえば、確かに安全を確保はしやすいかも知れない。
「まあ、それもありますけど……。失礼」
言い置いてから、メディクスは机の方へ歩いて行った。その下にかがんで、本棚から何かを取り出そうとしている。
「あまり思い入れをすると、死んでしまった時辛いじゃないですか。……ああ、あったあった」
カップを割ったら困るというような、口調。やはり本当に何気ない声だった。
メディクスは、苦いもどかしさを抱えながらも、何も言えずにいるメアに気付いた様子はない。彼にとって、それは当たり前のことなのだ。
戻って来たメディクスは、テーブルの上に地図を広げて、白輝の都から一番近い港を指さした。
「今日、花嫁行進は赤の港に宿泊する筈です。そこで私は、手近な者に命じて貴女の荷物を持ってきて貰い、貴女に用事を言い付ける形で手渡します。そうしたら、赤の港から出る船で、直接風車の街にお帰りなさい」
「いえ……ですから、そこまでご迷惑は……」
ごにょごにょと口の中で呟き俯くメアに、メディクスは少しかがんで視線を合わせると、苦笑した。
「言ったでしょう。最後まで面倒を見ると。私の為にも、後味の悪い思いをさせないでください」
メアは、不思議な心地で彼を見詰めた。
部下に思い入れをしない為に、何度も入れ替える人。つまり、そういうことをしないと、誰かに肩入れをしてしまうことを、自分で分かっているのだ。
それは、どうしてもという状況であれば、部下を見殺しにしなければならない人の防衛対策だ。
そんな暮しに慣れてしまっている彼が、ふととても遠く、悲しい人のように思えたのだ。
「……私の顔に何かついていますか?」
「いえ」
メアはふるふると首を横に振る。胸の底に、生温い水のような悲しみが溜まっていた。
この人は、ずっとそういう風に生きて、これからも同じ様に暮すのだ。
「……よろしくお願い、します」
気が付けば、メアはそう頼んでいた。
「よかった。……それじゃあ、準備しますね。髪を整えなければ」
「あ、はい」
そう言えば、まだざんばらに切られたままだった。
「大したことは出来ませんが、揃えるくらいなら。隣の部屋に道具がありますから、行きましょう」
そう言って、麦粥の皿を片手に扉へ歩いていくメディクスの背中を、メアはじっと見詰めた。
何の気負いもなさそうな、飄々と好きなことをしていると言わんばかりの背中が、何故だかとても悲しかった。
*
赤の港の名産は、海老である。
漁業の盛んな港町なのだ。一抱えもある巨大な、しかし甘みと旨味の詰まった海老は、火を通しても硬くならず、果物のようにぷりっと瑞々しい。
名物のスープは、色鮮やかに蒸した野菜の上に、内臓と足を取った殻付きの海老を、ちりちり焦げがつくように焼いて乗せ、じゅわっとスープを注ぎ込んで作る。器の上に巨大な海老が蹲っている姿は圧巻だ。スープ用には小さい海老を使っているが、それでも人の顔くらいの大きさがあるのだ。
「これ、美味しいですねぇ」
そんな訳でメアとメディクスは、がやがやした下町で海老のスープを食べていた。
スープ自体も殻で出汁を取っているのか、透明だが濃厚だ。テーブルにはスープの他に、お酢と香草を絡めたほくほくの茹で芋と、ぺたんこの丸いチーズを焼いたものが乗っていた。
メアがするっと匙で切れる人参をすくって感嘆すると、メディクスもくすくすと笑った。
「でしょう? 前こっそり来た時にね、ここのスープが一番だと思ったんですよ」
二人とも、カツラを被って髪の色を変え、帽子と色の濃い眼鏡をつけて、変装はばっちりである。簡単にまとめた手荷物は、椅子の下に入れてある。
白輝の都で経営している貸し大海烏屋に行って、一等高速大海烏を借りたら、花嫁行進を追い越してしまい、時間が余ったのだ。
風車の街行きの船は、最終便の一番安い席がひとつだけ空いていたのでそれを取った。
店は丁度夕暮れ時の賑やかさ。給仕のお姉さんが泳ぐようにテーブルの隙間をすいすいと抜けている。
蒸留酒をジョッキで飲み、大声で笑い合っている漁師らしき赤ら顔の男達に混じって、抜け目無さそうな商人達が葡萄酒瓶の影でひそひそと商談をしていた。彼らの手から立ち上る煙草の煙が、むき出しの梁を撫でる。
赤の港は、漁師町であると同時に、帝国や海の国との重要な交易地点なのだ。
風車の街がしていない帝国との交易を、この街は一手に引き受けている。港町であるところの活気は風車の街と一緒だったが、何とはなしに赤の港の方が猥雑で、きびきびした印象だ。
「酒場なんて来たの、初めてです」
「あまりきょろきょろすると、目をつけられますよ。見るならこっそり、です」
はい、と頷いてメアは炭酸水を飲むふりをして店内を見回した。
店は繁盛しているのだろう。細い窓に掛かった格子模様のカーテンは清潔だし、カウンターでは大きな花のような金属の筒がついている機械が歌っている。帝国製の新しい、高価な機械だ。
「あれ、凄いです。中で歌好きの妖精が歌っているんですか?」
メディクスは笑いを押し殺すのに失敗してむせた。
「違います、あれは細い針を使って音を……まあ今説明すると長くなるんですけど。あれくらいで驚いてちゃ、帝国ではやっていけませんよ。あれでも旧式ですから。最新式っていうのは、こういうのを言うんです」
言いながら、メディクスは鞄の中を漁って、ずんぐりした筒状の金属の箱を取り出した。
横に取っ手がついていて、一見すると蓋のないオルゴールのようである。
「何ですか、これ?」
「これは、この取っ手を回しながらここに声を吹き込むと、後から同じ様に声を返してくれる機械ですよ。まあ、原理はあそこで歌ってるのと一緒です。『声の箱』って言いまして……。私は、誓約書を書くつもりがない口約束を押し付けてくる人相手に、よく使います」
「へぇ……。凄いです。こういうの、ペッテルお爺ちゃんに見せたら大喜びしそう……」
興味津々で蓋を撫でるメアに、メディクスが嬉しげに、そしてあっさりと言った。
「あ、欲しいなら差し上げます」
「え」
持っている手が硬直した。
「いえ、いえいえいえいえ。駄目です。駄目」
帝国の最新機器なんて、もしも買おうと思ったらどんなとんでもない値段になるか分かりはしない。
ぶんぶん首を横に振っても、メディクスはまったく気にした様子はなく、海老のスープを飲んでいる。
「いいですよ、これ、もともと使い捨てです。一度声を記録したら、消したり新しく記録したり出来ないんで、沢山持ってるんですよ。こういうのを作っている研究機関にお金出してるんで、黙っても大量に送られてくるんです」
「でも、いえ、でもその……」
わたわたしているメアの言葉を塞ぐように、メディクスは、その代わり、と付け足した。
「風車の街でこういった技術を持った帝国のことを、うんと宣伝しておいてくださいね。帝国との交易が、王家直轄の赤の港で一括管理されているのは勿体ない。宝石の眼の居る街との交易なら、きっと帝国にも喜びを運んでくれるでしょう?」
そう言われてメアは二の句が継げなくなった。
しばらく、声の箱とメディクスの顔を見比べていたが、やがてゆっくりと頷き、
「わ、かりました……」
と呟く。のっぺりとした、何の装飾もない金属の箱は、まだまだ試作品なのだろう。
それでも、この中に沢山の技術者達の試行錯誤や心が沸き立つようなひらめきが詰まっているのかと思うと、メアは胸が熱くなった。
「ありがとう、ございます……」
白い花のほころぶように笑うと、メディクスもくすぐったそうな顔をした。
「いいえぇ。喜んで頂けて光栄です、姫君?」
道化師のように笑って、メディクスは座ったまま大仰に一礼した。メアはころころと鈴のように笑って、きちんと整えられた短い髪を揺らす。
その時、外の通りでわあっと歓声が響いた。
前から騒がしくはあったが、店の前の道に入ってきたのだろう。店の客達が振り返る程に大きな歓声が湧いている。
花嫁行進だ。何人かは、華やかな行列を一目見てやろうと、席を立っ会計している。
行ってはならないことは重々承知しているが、どうしたって顔は強張った。
和やかだったテーブルの空気が、ぴんと張り詰めてぎこちないものになる。奇妙に落ちた沈黙が、周囲のざわめきすらも押しのけて重たくのし掛かる。
何か言わねばならないのに、何の言葉も出てこない。メアが、暗い顔を誤魔化すように、匙をスープに入れた時だった。
地響きと大きな悲鳴が上がった。
店の食器がぶつかり合い、飲んでいた客達がよろめく。人の叫び声に混ざって、もっと甲高い、金属同士を擦り合わせるような音。
――大海豹の鳴き声!
それも、尋常な声ではない。
ぱっと顔を上げたメアは、思わず椅子を蹴って立ち上がり、店の外へと駆けた。
メディクスの制止する声が聞こえた気がしたが、ざわざわと波立つ胸は止められなかった。人混みを掻き分け、もがくようにして店の外へ出る。
外は不気味な程に赤い夕焼けだった。
表通りから一本入った裏道でも、人通りは凄まじかった。店という店から人が出て来て、水路のある中央通りへ向かおうとしている。
見物に向かおうとする若者に突き飛ばされながらも、その人混みの流れに身を投じようとした時、ぐいと腕を引かれた。
「こっちです!」
メディクスが、メアの手を取って、抱え込むように引き寄せる。たたらを踏んで、彼の腹に背中を付けた。メアの手を取って、彼はあえて人の流れとは逆の方向へ走り始める。
店の裏へと回ると、嘘のように人通りはまばらになった。大きな手でしっかりとメアの手を取ったメディクスは、そのまま狭い裏通りを、表通りと平行になるように駆け抜ける。
「ごめんなさい、分かってます。避難します、ごめんなさい!」
悲鳴のように謝罪すると、メディクスは、
「まあ本当はその方がいいんですけどね!」
と叫び返しながら、角を曲がって大通りに繋がる道へとへ飛び込んだ。そちらは、先程よりも格段に密集した人混みだ。
もはや一度入ったら身動きも取れなさそうなそこに、メディクスはメアを片腕で抱き寄せると、残りの手で人を掻き分けながら進んでいく。
「メディクス様……?」
彼の胸元に捕まり、半分浮いて爪先しか道に触れていない足を動かして尋ねると、メディクスは視点を前に向けたまま言う。
「正面に、回り込み、ますから。遠くから、見る、だけですよ」
目をまん丸くするメアをちらっと見ると、メディクスは薄く汗の浮いた顔で笑った。
「大丈夫、赤の港で襲撃された時の避難経路くらい、頭に入っています。人混みの方がむしろ安全です」
眩しかった。やたらと。
メアは、この人はこんな顔だったろうかとまばたきをした。
胸の奥がきゅっと握られたように苦しい。こんな短い距離を走っただけなのに。
むしろ、彼の方が運動に慣れていない様子で汗をかいているのに。
メアが混乱しているうちに、メディクスは僅かな隙間を見付けると、するすると前へ進んでいく。
人の死角になるような位置を見付けては、肩で軽く押して、水のように流れて行く姿は、人混みを歩き慣れている印象だ。帝国は大陸中で最も人口が多い。庶民の街を行き来するらしいメディクスは、むしろこんなに人の密集することが珍しい氷の国人なんかより、余程人混みに慣れているらしかった。
メディクスが泳ぐようにして大通りへと抜け出た時、ぷんと水に棲む獣の匂いがした。
水路の脇には転落防止の柵が張り巡らされている。
夕空の赤みに照らされて、水路の下流側に、華やかに飾り付けられた鳥車の行列が浮いていた。
周囲は激しく波立って、先頭の大海烏が短い翼を大きく広げている。ギャアッギャアッと激しく威嚇音を立て、首を水中に向けて大きく嘴を開けている。
ずぅん、とまた大きな地響きがして、水路際で大きな水柱が上がった。
高い波が立ち、道路に水路の水が押し寄せる。
密集した人々の間から悲鳴が上がり、鳥車が大きく上下する。御者達は大海烏を宥めて口笛を吹くが、彼らは全身の羽毛を針のように逆立てている。
真っ白い飛沫に混ざって、灰色の尾びれが見えた瞬間、メアは血の気が引くのを感じた。
大海豹だ。
しかも、その尾びれの根元には、小さな色つきの環が付いている。メアはあの大海豹を知っている。
彼らの生息海域は、もっと南下した温かな海だ。風車の街は近海に暖流が流れ込んでいるから大海豹も居るが、冬が一番厳しい時は、暖流に乗ってどこかに消えていく。
冬の間は砂漠の国に居るという話を聞いたメアは、彼らの通る海域が知りたくて、野生の大海豹に口笛で頼み込んで環を付けさせて貰ったのだ。
その環を付けた大海豹が、何故こんな時期に、こんな所に。
再び大きく水柱が立った。甲高い大海豹の鳴き声。
一瞬水面に出たその巨体は白目を剥き、口から泡を吹き、明らかにまともな状態ではなかった。
その無残な姿に、メアは泣きそうになった。
苦しそう。苦しそう。こんな遠いところに来て、悲鳴を上げて。訳がわからないまま、暴れて。
怯えているんだ。どうして誰も分からないんだろう、あんなに辛そうに鳴いているのに。
雷鳴のように鋭い声で、指示が飛ぶ。
その頼もしい声に弾かれたかのように、兵達は統制を取り戻して弓を構えた。
水路に潜った大海豹に狙いをつけ、再び水上に現われた時こそ、針山にしようと背筋を伸ばす。
メアは全身がぞっと総毛立つのが分かった。
こうしなければならないのは分かっている。だが、この時期の大海豹の脂肪は冬越えに向けて分厚く、持ち運び出来る大きさの矢程度では心臓まで届かない。激痛に苛まれ、混乱と不安、怒りを撒き散らしながら、大海豹は死に物狂いで暴れるだろう。
水路を叩き壊し、大海烏に襲い掛かり、人が落下したらその牙で噛み裂くだろう。
そしそれは、水路を真っ赤に染めながら、息絶えるまで終わることはないのだ。
大海豹が再び、水路に身体をぶつける。どすん、と大きく地響きがして、地面から揺れが伝わる。
メアは、大海豹が一度深く潜り、大海烏に襲い掛かる体勢になったことを見て取って悲鳴を上げた。
「駄目!」
大海豹が上げられぬそれを代わりに叫んでいるような、甲高く短い、悲痛な叫び。
メアは思わず、メディクスに抱えられていることも忘れて指を噛むと、思い切り息を吹き込み、大海豹の鳴き声そっくりの甲高い口笛を鳴らした。
『潜って!』
口笛は、人の声と音域が違う。どんなにざわめきが大きくても、その音は耳に届く。
大海豹は、水面を割るその直前、口笛の音に弾かれたかのようにびくっと身体を震わせると、ぐうっと向きを変えて反対側へと泳ぎだした。
メアは再び大きく息を吸って、今度は調子を変えて長く長く口笛を吹く。
『逃げて、逃げて。深く水に潜って。南へ向かうの。大丈夫、君なら振り切れる。大丈夫』
激しく波立っていた水路が、やや穏やかになる。大海豹が、身悶えするかのような泳ぎ方を止めたのだ。水路の壁にも身体をぶつけず、躊躇うように底の方を四角く泳ぐ姿が、水面から透けてうっすらと見える。
メアは、もう一度息を吸うと、最後に鋭く高く、ピュウイイッ、と口笛を吹いた。
『さあ。行きなさい!』
途端、弾丸のように大海豹は泳ぎだした。
水路の一番深い位置に沈みながらも、尾で力強く水を押し、身体をうねらせ泳いでいく。
さっと木々の間を渡る鳥のように一瞬で、大海烏の真下を通っていき、姿を消す。
大海豹が一際大きく、華やかな鳥車の傍を通り過ぎる。波立った水面に弄ばれ、大きく上下するその鳥車の窓から、人影が見えた。
内側の小さなカーテンがめくれて露わになる、窓硝子に手をついた、美しい娘。
一瞬で隠れたその顔を、メアははっきりと見た。
ざわりと胸が波立って、唇が震える。
けれどそれも一瞬のこと。
周囲の人々は、ざわめきながら口笛を吹いた者の行方を探っている。メアはさっと青ざめた。
後悔はしていない。けれど、とんでもないことをしてしまった。よりにもよって、こんなところで。
硬直するメアの後頭部を、メディクスが軽く広げた手で包み込んで胸に抱え込んだ。
彼は、身動きの取れない人混みの、僅かな隙を見付けて、そちらに身体をするりと移動させてゆく。
周囲の人々は、いつの間にか消えていたメアに気付かず、二人が裏路地の方へ消えた時ですら、未だに水路際を探して声を交差させていた。
裏路地に入り人混みから抜け出せても、メディクスはまだ警戒を解かなかった。メアの手を引いて、すたすたと厳しい顔のまま早足で歩き続ける。
「あ、あの……。ごめんなさい……」
小走りで速度を合わせ消え入りそうな声で謝ると、彼は一度振り返ってから、唇の前で人差し指を立てた。それから、ちらっと周囲を見回してから、もう少し先で、と指を使って合図する。
頷いて、メアはそのまませっせと歩いて彼の後に続いた。今更になって、しでかしてしまったことのとんでもなさが身に染みる。
彼にどれ程迷惑を掛けているかと思うと、メアはこのまま煙になって消えたくなった。
けれどメディクスは、人通りがほとんど絶えた道に至ってから、メアの手を離し自分の横に歩かせると、こともなげに肩をすくめた。
「どうして謝るんですか? 本当なら、これはお手柄ですよ」
その顔は厳しいままで、汗も浮いていたが、口調は本当に何も気にした様子はなかった。戸惑って、メアは、だって、と反駁する。
「こんな所で、目立ったら、ご迷惑になります」
言いながら、ぱっとお店で会計をしていないのを思い出して顔を覆う。
「それから、食い逃げを……させてしまって……」
戻らなければ、と恥ずかしさに打ち震えるメアに、メディクスが肩をすくめた。
「ああ、そっちは大丈夫です。お代、テーブルに置いて来ましたから」
「本当ですか? あの、ごめんなさい。ありがとうございます……。その、私……何から何まで……」
多分今メアは、メディクスに生涯頭が上がらないくらいの迷惑を掛けているのだろう。
しゅんとうなだれているメアを、どう解釈したのか、メディクスはひらひら手を振った。
「違います、貴女には怒っていませんよ、宝石の眼。ただ、少し……色んな理不尽に、腹を立ててるだけなんです。怖い顔をしてすみませんね」
逆に謝られてしまい、メアはぶんぶんと首を横に振った。ちょっと笑ってから、メディクスはようやく歩く歩調を緩めた。
「あれも、宝石の眼の力なんですか? 文献にはありませんでしたが」
「いいえ。私は生まれた時から家に大海豹が居るから、声を掛ける方法を知っているだけです。……それに、風車の街では、口笛で大海豹と意志創通をするなんて、普通ですよ。白輝の都では大海烏に乗ってますけど、私の街では、断然大海豹です」
「へえ! 帝国では馬車ですら旧式だと蔑まれますけど、やっぱりいいですねぇ、そういうの。帝国で手に入る文献には、あまり風車の街のこと書いていないんですよ。白輝の都ばっかりで。……そうですか、あの大海豹に……遠くから群れを見たことありますけど、へぇ、大海豹も人に懐くんですねぇ」
「ええ。野生でも懐くには懐きますけど、やっぱり子供の頃から育てれば、ずっと二本足の友人の匂いを覚えて、忘れません。……帝国に大海豹が生息しているって話は聞きませんけど、居るんですか?」
「ああ、生息はしていませんよ。もう少し寒くなってから、群れになって帝国の港の前を通り過ぎるだけです。その時期だけの名物ってやつですね」
ふいに、メアは目を見開いた。
がしっとメディクスの腕を掴んで、声を震わせながら見上げる。
「……寒い時期に、通り過ぎるんですか? 帝国の前を? 群れを成して……?」
「え? ええ……。そうですが?」
目を白黒させ、メディクスがメアの剣幕に数歩引く。それにすら気付かず、メアは一転、メディクスの腕を手放すと、耳元に髪をかけながら、唇を微かに動かして、無声音で何かをぶつぶつと呟いた。
そう。メアは知りたかった。
ずっと知りたかった。最も過酷な冬の間だけ砂漠の国へ向かう大海豹。彼らはその強靱な肉体で、大陸をぐるりと一周近くすると言われているのが定説だが、果たして本当にそうなのか。
「宝石の眼?」
メディクスがメアの前でひらひらと手を振ったが、メアは気付かない。色の濃い眼鏡の向こう側の瞳は一点に定まっているが、明らかに景色ではない、どこか別のものを見ている。
「これは……仕方ありませんねぇ」
メディクスはちょっと頬を掻くと、再びメアの手を握って、路地を歩き始めた。
素直に手を引かれながらも、メアはぼそぼそ口の中で何かを呟き、心ここにあらずといった様子だ。
その頭の中では、風車の街の位置と帝国の位置、そして砂漠の国の位置がくっきりと浮かび上がっている。その地図の中に、めまぐるしく大海豹の移動する時期や群れの速度、そしてつい先程見た大海豹の尾びれの根元についていた環の色が書き込まれ、次々と真っ黒に埋まっていく。
メアの研究対象は大海豹とその生態だ。
風車の街の足でありメアの家族である彼らを愛していたからこその選択だ。しかし、もしかしたらそれは、やがて風車の街の大きな転換期に関わってくるかも知れなかった。
当然の様に頭に叩き込まれているあらゆる情報を、濁流の速さで掴み取り処理していたメアは、メディクスはしばらく黙って歩いていてくれたことにも、食事をしていた酒場に手荷物を取りに行ったことにも、店を出てやがて滑らかに磨かれた白木造りの建物の前に立ったことにも気付かなかった。
ぽんぽんと肩を叩かれたが、無反応。
メディクスが辛抱強く叩き続け、声を掛けてくれて、ようやくはっと意識を取り戻した。
「はい、此方側の世界におかえりなさい」
楽しそうに微笑まれ、メアは顔から火を吹くかと思った。
「ごめんなさい! あ、あら。ここは……?」
気が付いたら景色が一変していたことにおろおろするメアに、とうとうメディクスが吹きだした。
キョキョキョ、と相変わらずの特徴的な笑い方をしつつ、失礼、とその合間に謝る。
「ここは、花嫁行進が取っている今晩の宿ですよ。緊急時のね。恐らく、襲撃を受けたことで宿泊先は変更になります。あの位置でなら、ここに来ることでしょう。先に入って待っていましょう」
メアはぎゅっと唇を噛んで、頷いた。
「あの大海豹は……。明らかに普通じゃありませんでした。きっと、何か……餌に薬を混ぜて、混乱させて、その上で天敵の大海烏の群れへ突っ込ませたんです……っ」
怖かっただろうに。
苦しかっただろうに。
それが必要だったとか不必要だったとかはどうでもいい。誰が襲撃しようとしたかすら、今は問題ではない。ただメアは、愛する大海豹を道具のように扱った誰かを、絶対に許さない。
大海豹の巨躯だった為、薬の量が足らなかったのだろう。まだ微かに正気が残り、メアの口笛に気が付いてくれたのは本当に幸運だった。
暗い顔で唇を噛みしめているメアの背中を、ぽんぽんと慰めるように叩いて、メディクスは言った。
「……貴女を連れて来て良かったです。大事故になるところだった。……行きましょう」
その顔を見て、あれを襲撃した人が誰かを、メディクスは知っているような気がした。口の中に針を隠したような、苦い顔。
誰なのか聞きたかったが、聞いてはいけないこともわきまえていた。
何も気付かなかったふりをして頷いて、メアは彼と連れだって、立派な白い宿屋に入っていった。
*
メディクスが取った部屋は大きな窓のある部屋だった。美しい部屋だ。白いカーテンと空色のベッド、落ち着いた薄黄色の壁には時計が飾ってある。掃除が行き届いて清潔で、明るく広々としていた。
面倒な挨拶をしてから荷物を持って来るので待っていて下さいねとメディクスは言い、メアは了承して大人しく椅子に座って待っている。
緊急避難用の宿は、いくつか取ってあり、今日の為に全てを貸し切っているという。灯りを節約する程の財政難なのに、こういう対策はきっちりとしてあるあたり、雪輝王は有能らしい。
窓の向こうに、水路から宿まで至る大きい通りと、僅かに残る日をはらんだ海が広がっている。
ざわめきが徐々に近付き、陣形を組み直して厳格に護衛された花嫁行進が近付いて来る。
警戒は強いが兵達は冷静できびきびとしていて、一際巨大な人影を中心に、海を渡る鳥のように美しく整然とした隊列を組んでいる。
「…………。」
遠くなったな、とメアは感じた。
ほんの昨日まで、あの中に居ただなんて、もう信じられない。
きっとメアはこのまま風車の街に帰れば、この半年のことを、一瞬で過ぎ去った夢だと思い、そのまま思い出にしていくだろう。それくらい、今までの日々は現実感がなく、地に足の付かない毎日だった。
所詮、分不相応な居場所だった。
そしてまた、何かの思惑が絡んで、王族として雪花城で暮すことが出来ると言われても、メアは何の感慨も湧かないだろう。大きな流れに押され弄ばれる石ころにも、心を閉ざす権利くらい、あるのだ。
「もうすぐ、帰れる」
静かに口に出してみた。
匙を持ちくすくす笑っていたメディクスの顔がちらりと浮かび、心が振り子のようにゆっくりと揺れたが、メアはそっと手で押さえて落ち着ける。
これでいい。大丈夫。
もう一人の、何もなければ自分が居た筈の場所に居る人の事は、意図的に頭から押しのけた。
どんなに足掻いてもどうしようもないことを、メアは考えないことにしている。辛くなるだけだ。
何も考えてはいけない。
その可能性があることにすら気付いてはいけない。
コンと扉が叩かれて振り返った。メディクスが戻って来た時には、ノックを大きく一回と決めている。
「あ、おかえりなさい」
ぱっと立ち上がって駆け、扉を開く。
現われたのは、もう変装を解いて皇子に相応しい装いをしたメディクスと、その背後に立つ巨大な岩山のような騎士の姿。
メアはびくっと肩を震わせて、思わず扉を閉めたくなった。脳裏に、彼の後ろをちょこちょことついて歩き、ほがらかに笑っていたもう一人の騎士の姿が鮮烈に閃き、微かに息を止める。
しかし、メディクスが口の端を少し上げて、大丈夫、という仕草をしてみせたので、メアは警戒しながら客を見上げる犬のように、そうっと扉を引いて、その灰色の狼のような男を招き入れた。
「ベルク様……」
お久しぶりです、と挨拶をするのも躊躇われて、メアは相変わらず野獣のように恐ろしげな顔をしている王弟をそっと見上げた。ベルクは前より少しやつれているようだった。頬がそげ、目の下は薄く隈が窪んでいる。しかし、厳格なその立ち姿には、他者を寄せ付けない力を感じさせた。
「メア・カテドラーレ」
彼は、戸惑っているメアの短い髪を見て、微かに痛みを堪えるような顔をすると、膝を落とし、正式な騎士の礼をした。
「まず、あのような形で貴女を雪花城の外に出したことを、謝罪させてくれ。すまなかった。そしてまた、襲撃者から隊列を守ってくれたことに、感謝をしたい。……ありがとう」
ベルクは、メアが口笛でアウルやカロラと触れあっているのを見ている。メディクスがこの宿に居ることを知って、メアの所在を知ったのだろう。
何と言って良いか分からず立ちすくんでいるメアの前で、ベルクは静かに立ち上がると、腰に付けていた布袋を持ち上げた。
「こんな形でしか現すことが出来ないのが心苦しいが、僅かなりとも貴女の働きに報いたい。受け取ってはくれないだろうか」
それは、メアの両手に余るような、膨らんで重たそうな袋だった。中に入っているのが例え銅貨だったとしても、相当な額になるだろう。メアは、その布袋の大きさに怯えるように、首を横に振る。
「……それは、全て、メディクス様に。私がここに居るのは、全て……メディクス様のお陰ですから」
メディクスが、ひょいと眉を上げて苦笑する。確かに、彼の立場を考えれば、この程度の金品は貰ったところで何の感慨も無いのかも知れない。
「だが、大海豹を操ったのは、貴女だと聞いた」
重々しいベルクの言葉に、メアはからからになった喉でねばつく唾を飲み込みながら、何とか言った。
「もしも……メディクス様も、それを受け取られないというの、でしたら。国庫に戻し、国民の苦難の為に、役立てて下さい」
言いながら、操る、というのは嫌な言葉だと思った。メアは、あくまで混乱している大海豹に助言をして、逃げ場所を示しただけだ。
「……不快だっただろうか」
ベルクが、ひどく申し訳なさそうに、低い雷鳴のような声で呟いた。
「ある方……いや、雪輝王が、言葉だけの謝礼では何も産まぬと言って、俺を使者とした。だが、それで誇りを傷付けられたと感じたなら、すまない」
ぴん、と何か弦のようなものが頭の隅で弾かれた気がした。直感的に、ベルクは嘘をついていると感じる。いいや、全て嘘ではないが、何かを隠している。その正体を探りたくなくて、メアはもう一度首を横に振った。
「いえ……いいえ。違うのです」
言いながら、背中を冷や汗が伝う。血が足下に流れていくのを感じる。紙のように白くなっていくメアの顔色に、メディクスがふっと眉を曇らせる。
「……どうした?」
ベルクの気遣わしげな声が鼓膜を揺さぶる。
メアは恐怖が吐き気に似た感覚で迫り上がってくるのを感じた。痛々しく傷ついた小動物を見るような目で、ベルクはこちらを見下ろしている。
――そんな目で見ないで。
「そんなつもりは……ありませんでした。謝ってもらおうと思った訳では、ないのです……」
喘ぐように応じたメアに、ベルクは心配そうな顔で、唇をひらく。
「俺がこんなことを言える立場ではないと、分かっているが。……貴女を心配している人が、俺以外にも居る。どうか、健やかに暮して欲しい」
――貴方の姿が透けて、誰かの影が見える。
たらたらと冷や汗をこめかみから滴らせたメアは、自分の唇が他人事のように動くのを感じた。
「その、心配している人は……」
心の中の誰かが、尋ねてはいけないと叫ぶ。
「女性ですか?」
ベルクの目に一瞬動揺が走り、ふっと消える。
「……いや。兄だ。雪輝王だ」
メアはその言葉を嘘だと悟り、そしてひとつの可能性に至った。それは、メアにとってはあってはならないものだった。
何故なら、ほんの微かな可能性であれ、もしも気付いてしまったら、確かめなければならないからだ。
彼女が、もしも――。
「……っっ!」
激しい衝動が突き上げてきて、メアは両手で口元を押さえる。鮮やかな黒髪が瞼の裏で揺れ、その華奢な背中が振り返り、メアは己の敗北を悟った。
「大丈夫ですか、気分が……?」
メディクスの声が、ちかちかする白い視界の向こうから聞こえる。メアは微かに首を横に振った。
「ごめん、なさい……。少し、気分が悪いので、申し訳ありませんが……席を、外しても……? 外で風に、当たりたいです……」
息も絶え絶えの様子で頼み込むメアに、ベルクが頷いた。
「ああ、勿論だ。突然訪ねて、申し訳無いことをしたな。もう、貴女に危険はないだろうが……誰か、付き添おうか」
まだ心配そうなベルクに、早鐘のように乱れる心臓を宥めながら、メアはまた首を振る。
「大丈夫です、一人で大丈夫です。すみません、あまり、人に見られたく、ないです……」
ああ、と頷く二人に一礼して、メアは小走りで扉に辿り着き、廊下に出た。近くに館内の案内図はないが、メアは少し走ってから、使用人用の階段を見付けて迷わずそれに飛び込んだ。
階段を駆け下りて裏口を出ると、中庭だった。中央に井戸があり、洗濯物を干すロープが張ってあった。壁に、へばり付くように造られた、細く長い梯子が伸びている。
雪下ろしの時に、屋根に上る為のものだ。メアは梯子に取り付くと、迷わず屋根まで上っていった。
今日は晴れている上、きちんと雪下ろしをされているようで、屋根に雪はなかった。
激しく動悸がして息が上がったが、気にならなかった。メアは小さな虫のように、両手両足を使って傾斜のきつい屋根を上る。天辺に着くと、今度はくるりと反対向きになり、宿の正面側の傾斜を降りた。
表側の屋根の縁は、白い石に繊細な蔓草の意匠が刻まれた装飾がされていた。裏側では剥き出しだった雨樋を、装飾で隠しているのだ。
メアはしゃがみこんだまま、屋根の縁からそっと顔を出した。表側の壁を見下ろすと、等間隔に並んだ窓の半数以上から明かりが漏れていた。一階はほとんどの窓が光を落としていたが、最上階は灯りがまばらで、三つしかない。風に弄ばれた髪を耳に掛けながらしばし考え込み、身体を戻す。
それから、しゃがんだまま屋根に手を触れつつそろそろと歩くと、灯りがついているだろう部屋の真上で膝をついた。邪魔なので色の付いた眼鏡を外して服の内側に引っかけると、床に耳をつける。
しばらくは、自分のどくどくと鳴る血脈の音しか聞こえていなかったが、やがてじわじわと、真下の音が聞こえるようになってきた。
一番端の部屋からは、壮年の男性のぼそぼそとした話し声。真ん中の部屋からは、若い男が上司らしき男に叱られている声。反対端の部屋からは、何も聞こえない。
メアは冷たい海風に晒されながら辛抱強く待ったが、結局、一度微かに足音が聞こえただけだった。
それだけ確認して、メアはゆっくりと立ち上がる。
日はすっかり暮れていた。
眼下に、闇の間から零れる赤の港の街明かりや、漁り火がちらちらと光る真っ黒な海が広がっていた。
足下から風が吹きつけ、ばたばたとスカートを踊らせる。大きく息を吸って、吐く。かたかたと足が、背骨が震えた。胃が震えるような恐怖がせり上がる。
――賭に、出るつもりだった。
これで負けたら、メアはお世話になった人に、メディクスにもベルクにも、多大なる迷惑がかかる。
いいや、例え勝ったとしても、むしろ勝った方が、迷惑の度合いは大きいだろう。
けれど、メアはやらないという選択肢を持たない。
今動かないというのは、メアを形作っている人格を、もっと言うと魂を、ねじ曲げ跡をつけ、二度と同じ形に戻さないということだ。
静かな瞳のままで、メアはおもむろにエプロンドレスの、意匠化されたエプロンの縫い目に噛みついた。その下の生地であるスカートの部分を掴むと、思いっきり引っ張って切れ目を入れる。
布地を持ち直し、切れ目を広げるように力を込めると、びりびりと布を引き裂く音がして、エプロンの部分が縫い目から千切れた。
メアは、それを蔓草の装飾の、穴が開いた部分に通すと生唾を飲み込み、くるりと屋根側を向いた。
エプロンの両端をしっかり掴み、片足ずつ壁面に投げ出し、ずりずりと下半身を降ろす。
屋根は外側に張り出しているので、足がぶらんと頼りなく揺れた。足を持ち上げて壁を探り、靴の裏をつけたメアは、最後にもう一度深呼吸をすると、上半身を後ろに傾けた。
一瞬の浮遊感。びんっとエプロンが壁とメアの手の間に張られる。
震える息をふーっと鋭く吐いてから、靴の裏を壁に押し付け、小刻みに動かした。じりじりと足を下へずらしていくと、やがて窓の縁の装飾部分に踵が引っかかった。爪先だけが微かに乗るような、ほんの小さな段差だ。そちらに体重を掛けようとした時、がくっと身体が傾いた。あっと思う間もなく、腕に痛みが走った。ぐらんと、身体が大きく揺れる。
一枚のエプロンを命綱に両手でぶら下がったメアは、窓越しに、明かりの灯った部屋を見た。
その、窓際に立ち尽くす、一人の娘の姿を。
突然屋根の上から降って来たメアに、驚愕を隠せぬその顔が動く前に、メアは思いっきり身体を揺らした。一度目は微かに爪先が触れただけだが、二回目はがつん、と音を立てて窓が揺れる。
メアば足の裏で思いっきり窓を蹴った。勢いをつけたメアの足が、窓を叩き割ろうとする。その直前、内側から大きく開かれた。驚きにメアの手が緩む。
掌に火のついたような痛みが走り、身体が浮き、斜めに落下する。
鈍い音がして、メアは柔らかな絨毯に尻餅をついた。メアの通された部屋と同じ色合いの、高価そうな調度品が置いてある一室だった。
痛みを無視して拳を握り、立ち上がる。
メアは確かめたかった。
どんな手を使ってでも、確かめたかった。
窓際に佇む、メアよりも少し背の高い娘。彼女をゆっくり振り返り、メアはぐしゃりと顔を歪めた。
「どうして……」
拳が震えるのが止められなかった。
明るい所で、間近に顔を見れば、もう間違いはなかった。記憶が逆流する。濃密に過ごした夏が蘇る。
メアは砕け散りそうな声で絶叫した。
「どうしてここに居るの、蒼の姉様っ!!」
華やかな氷の国風のドレスに身を包んだアズラクが、紙のような顔色でメアを見ていた。
「それとも、ルークと呼んだ方がいいですか? そうでなければ、メアとでも? 今はそう呼ばれているのでしょう? 私、もう貴女を、何て呼んだらいいかわかりません! 貴女は、ずっと私の傍に居て、何も言わないで、蒼の姉様、貴女を……っ!」
激情にかられてまくし立て続けていた舌が、真っ白に高ぶった感情に追いつけず絡む。ひゅうっと息を吸うと、メアは絞り出すように呻いた。
「貴女を、ずっと……心配していたの……!」
二年前から、ずっと。
王座を追われて行方不明になった時から、ずっと。
「心の支えで、無事を祈って、心配で……なのに、ねえ、どうして貴女は……!」
私を真珠姫の塔から突き落としたの。
声を詰まらせるメアに、アズラクは冷酷に告げた。
「必要だったからじゃ」
眉ひとつ動かさないその口調は、今までの人懐っこい従者を演じていたものとはまったく違う、威厳に満ちた王の声だった。
そして同時に、その古臭くも尊大な言い様は、メアの知る彼女のものでしかありえなかった。
十二年ぶりの、邂逅だった。
いいや、違う。正確には、もうメアの家に二人の騎士が尋ねて来た時に、再会はしている。
けれど、今メアはようやくアズラクとの再会を果たしたのだと確信していた。
かつてのぞっとする程麗しい、深く澄んだ蒼の瞳――宝石の眼を失い、空色の瞳となっていたとしても。豊かな黒髪が、砂色に変っていたとしても。
その面影と、伸びた背筋。傲慢な口調が真実を告げている。細かな宝飾品に彩られたドレスは、女性らしいまろやかな曲線を描く身体を飾り、美しく成長した彼女に相応しい。
何て綺麗になったのだろうと、メアは泣きたくなった。
何て綺麗に――何て遠くなったのだろう。
アズラクは、緋色の唇をついっと持ち上げ、皮肉な笑みを浮べた。
「砂漠の国の為じゃ。利用出来るものは利用し、邪魔となったら切り捨てる。当然のことであろ?」
「言ってくれたら良かった。いつだって……! 私は、いつだって貴女にこの立場を譲りました!」
怒りに身を震わせるメアに、アズラクはこともなげに告げた。
「殺す必要があったからの」
ああ、王族として育つということは、こういう風に命を扱う言葉を滑らかに告げるものなのだ。
氷水を無理矢理喉に流し込まれたような心地のメアに、アズラクは淡々と事実を告げる。
「妾のあの現状を見れば分かろう? 身一つで、周囲に臣下もない。騎士に身をやつして潜伏せねばならぬこの身。多少の無理でもせねば、通らぬ計略もある。それ故、そなたには消えて貰わねばならなかった。……まあ、運良く生き延びたようじゃがな」
ちらりとメアの、短くなった髪を眺める彼女には、一片の罪悪感も感じられなかった。
メアは頭が焼き切れ、全身が燃え立つような怒りを覚えて震えた。
「私を突き落とすことと……貴女が砂漠の国の為にすること、何の関係があるっていうんですか!」
「お前に関係のない話じゃ」
「蒼の姉様っ!」
メアは憎しみで目の前が真っ赤になるという体験を、生まれて初めてした。
最も聞きたくない言葉だった。
関係ないなどと。
それは裏切りだ。全てが始まったあの夏に対する裏切りだ。メアの魂全てを賭けた信頼に対する。
血の滲んだ悲鳴でメアはどうしてと再び問うた。
「貴女の苦難に必ず手を貸すと、約束したのに!」
手伝ったのに。
話してくれたら、いくらでも手伝ったのに。
その為だったら、命だって賭けたのに。
どうして貴女は私に何も言ってくれなかったの。
どうして貴女は私に何もさせてくれなかったの。
「願ってくれたら、私はいつでも死んだのに!」
アズラクはすっと表情を消して、簡素に告げる。
「憶えておらんな」
裏切りは、内臓をぎりぎりと爪で引き千切られるような痛みだった。
全ての輝かしい思い出を砕かれ、踏みにじられ、喘ぐことしか出来ないメアに、アズラクは無表情のままに扉をさした。
「出て行け。昔のよしみじゃ。此度の無礼は不問に処そう。だがお前に話すことなど何もない」
ぎりりと、メアは奥歯を噛んだ。静かに持ち上がった指先は分厚く硬く、傷のあるルークの手。
鼓膜を揺らす口調は、手紙で幾度も励まされたアズラクの口調。
その姿が、所作が、声が、存在が、慕わしい。
「控えよ。王の御前ぞ」
だからこそ、憎らしい。
メアは燃えるような眼差しでアズラクを睨み付けると、大きく息を吸って、踵を返した。
大股で扉へ向かい、その取っ手に手をかけ、
「蒼の姉様」
背を向けたまま、呟いた。
「瞳はどこに置いて来たのですか」
アズラクは一言で答えた。
「砂漠の国で捨てた」
「人を殺したのですね」
「ああ。殺した」
愛によって澄み、血によって穢れる宝石の眼。
彼女はもはや、瞳に宝石を宿していないのだ。
メアはそれ以上何も言わずに、無言で部屋を出た。外に居た、護衛の男がぎょっとして、出て来たメアを呼び止める。メアは平坦な声で、まっすぐに護衛の騎士を見て、
「ベルク様の許可を得て入りました。貴方が席を外した時のことでしょう」
と真顔で真っ赤な嘘を吐いた。勿論、追求されたらボロが出ただろうが、あまりにもメアが静かで、しかも堂々としていたものだからだろうか。瞳に気圧されたように、メアを通してしまった。
そのままメアは、堂々と内階段を降りていき、メディクスが取ってくれた部屋へと向かった。
護衛の騎士と何度もすれ違ったが、彼らはメアが極めて当然という顔で躊躇いなく歩いて行くので、声をかけ損ねてそのまま見送った。
元居た部屋は、話が通っていたのだろう。見張りの騎士は何も言わずに通してくれた。
ノックをすることも忘れて扉を開けると、中でメディクスが椅子に腰掛け、ゆったりと本を読んで待っていた。
「ああ、おかえりなさい。気分はどうです?」
ふっと本から顔を上げて言われた途端、メアは緊張の糸がぷっつりと切れるのを感じた。
扉を閉めるなり、へたへたと座り込んで、そのまま動けなくなってしまう。
「ああっ、まだ気分悪かったんですか? 昨日、熱が出ていましたからね。無理をさせてしまいました……。大丈夫ですか?」
メディクスが駆け寄って来て、へたりこんだメアの背中を撫でてくれる。その手がとても温かかく、メアは感情の堰が、溶かされ崩れるのを感じた。
「あまりに遅かったので、ベルク殿が探しに行っていたんですが……貴女どこに居たんです?」
裏庭で風に当たっていました、と嘘をつこうと思ったが、口は勝手に動いた。メアは唇を噛み、絞り出すように呻く。
「蒼の姉様の……所に……っ」
メアの背を撫でる手が、止まる。
「行ってきたんです。蒼の姉様に、会いに……っ」
深い深いため息が、聞こえた。
激情を吐き出せずに喉が焼け付き、えずくような音を出しているメアの背中を、メディクスが再びゆっくり撫で始める。
「気付いて……しまいましたか」
彼は、下手な慰めは口にしなかった。ただ、背中をゆっくりと優しく撫でただけだった。
メディクスは、しばらく掛ける言葉を探すかのように黙っていたが、やがて尋ねた。
「どうやってあの部屋に入ったんですか、宝石の眼? 護衛が居たでしょう」
「窓、から……飛び込みました」
「……まさか。貴女が?」
だって、とメアは拳を握りしめて床を擦った。
「会いたかった、から……っ!」
だん、だん、だん、と床を叩き、メアは頭を膝につける。床に蹲ったまま、全身を震わせて、獣のように呻いた。
「本当の、こと……聞きたかった、から……!」
噛みしめた奥歯がかちかちと鳴っている。
メディクスは、しばらくじっとメアの背中を撫でていたが、その激しい震えが収まる気配を見せないのを見ると、やがてそっと口を開いた。
「……知っていますか。砂漠の国の内戦には、帝国が関わっています」
顔を上げると、メディクスが、芸術的なまでに整った綺麗な顔を、悲しげに歪めてメアを見ている。
「……最終便の船が出るまで、まだ時間があります。私の知っていることでしたら、お話しましょう」
「……いいん、ですか?」
「ええ。だから、こんなところに居ないできちんと椅子に座りましょうね」
促されて立ち上がりながら、メアはぼんやりとメディクスの横顔を見詰めていた。
手を引かれ、さっきまでメディクスが座っていた椅子に導かれる。ぼんやり腰を下ろすと、彼は一度扉の外に行き、何かしらの指示をしてから戻って来た。多分、メアを探しているベルクへの伝言を頼んだのだろう。それから、壁際から別の椅子を持って来て、メアの前に座った。
「……エプロン、どこに落として来たんですか」
くすっと笑われてメアはスカートをゆっくり見た。
無理矢理引き千切ったせいで、腰の右部分が親指が入る程の穴を開けている。
徐々に頬に血が上り、メアは穴を手で隠して俯く。少し表情の戻って来たメアに、メディクスは上着を脱いで膝に掛けてくれた。
「あ、ありがとうございます……」
消え入りそうな声で御礼を言うと、彼は、
「この上着、重たいんですよぉ」
と言って口笛を吹いた。厚手のシャツ姿になったメディクスは、改めて腰掛け、さて、とメアを見る。
「ご存知でしょうが、砂漠の国には巨大な黄金鉱脈が存在します。それが原因で女王とその叔父の間で争いが起きたと言われているのは、嘘ではありません。黄金鉱脈の土地を持つ領主が、多大なる富を手にして王座を狙った……。まあ、よくある話です。肥えた場所には金を毟り取ろうとする黒禿鷲が寄ってきます。これもまた、よくある話です」
皮肉っぽく動物に例えたメディクスに、メアはそれがどこだかを悟った。
「女王にとって不幸だったのは、それが高い技術を持った国家だった、ということです。丁度帝国では、王位継承権を巡って長男と次男が争っていました。手柄を立てた者が皇太子となる。そんな時に聞いた、野心を持つ砂漠の国王族の話は、いわば汁気たっぷりの柔らかい肉だったんです。長男は言葉巧みに彼に近付いて、資金を提供させる代わりに最新鋭の武器を開発し、真っ先に売るという約束を取り付けました。……かくして女王は行方不明となり、喜んだ砂漠の国の男は、更に強力な武器をと帝国に黄金を注ぎました。結果、長男は躍進的な武器の発展だけではなく、多大な富をも手に入れ、見事皇太子の座を射止めたんです」
静かに聞いていたメアは、その時メディクスが、乾いた笑いを唇に浮べたのを見て、きっとその時に次男は暗殺されたのだ、と思った。
最新鋭の武器を使ったかは、分からないけれど。
「唯一の誤算は、捕らえていた筈の女王が逃げ出したことです。砂漠の国は必死になって探しましたし、勿論帝国にも捜索を要求しました。けれど二年間、どこを探しても見付からない。死んだという説が濃厚になってきた頃、意外な場所から手がかりがもたらされました。丁度、視察の為に結婚を申し込んでいた氷の国……。そこから、幼年の姫の代役として、翡翠姫の孫を出そうと言われた時です」
メアはぴくりと肩を震わせたが、結局何も言わなかった。メディクスも、当事者であるのに、歴史の教科書を朗読するかのように、淡々と話す。
「帝国は、主に男性の血筋を優遇します。だからその発想はありませんでしたが、砂漠の国の女王の祖母は、氷の国出身の青玉姫なんですよね。もしかしたら、氷の国王家を頼っているかも知れない。もしくは、翡翠姫の孫というのは偽りで、彼女こそが女王なのかも知れない。……議会は紛糾しましたが、まあ結局私が全てを見極めて報告してこい、ということでここに来たんです」
メディクスは、ひたっとメアの瞳を見た。今はあらわになっている、祖母譲りの碧の瞳を。
「……貴女に会った時は、心底驚きましたよ、宝石の眼。凄いですよね、本当に一目で、ああこれが宝石と称される瞳なんだって、分かりましたから。砂漠の国では宝石の眼と呼ぶんでしたっけ……。とにかく、女王がそれであることは有名でしたからね。本当に氷の国側が彼女をかくまい、そして自国の為に売ったのかと思いました。彼女を差し出すからさっさと帰れ、ということなのかと。……でも、貴女が女王じゃないことは、すぐ分かりましたよ」
「……何故……いつですか?」
「ダンスをした時に」
やっぱり下手だったのだ。
「人には向き不向きがあるんです……」
これでも頑張ったんですよ、と呟くメアに、メディクスはぷっと吹きだした。
「いいえぇ。貴女をずっと疑い続けなくて済んで、私は助かりましたよ。けれど、氷の国の財政状況は何とか探れても、女王の有無はまったく分かりませんでした。仕方なく、宝石の眼は本当に翡翠姫の孫だった、という報告をして、貴女を連れ帰った後どう兄の暗殺に対応するか考えていたんですけど。そんな時に、貴女の護衛が訪ねてきまして。自分は女王だと言い出すんですよ。いやぁ、びっくりしましたねー。そもそも男だと思ってましたから」
軽やかな言い方は、彼なりの気遣いなのだろう。メアはひきつれそうになる胸を押さえ込み、つとめて表に出ないようにして頷いた。
「彼女は、叔父から自分に乗り換えて、正式な砂漠の国の女王と貿易をしないかと誘って来ました。王位を取り戻したらこうしよう、って他にも色々悪くない条件を提示してくれたんですけどねぇ……。本国に打診したら、帝国は叔父の方が扱いやすいから、彼女は捕らえて砂漠の国に引き渡す、って決定を下してきたんですよね。……その時、兄の考えが読めました。彼はいつか、砂漠の国に侵略してその全てを奪う気だと。だからこそ、賢王に君臨されていては困るんですよ」
メディクスの目から見て、アズラクは賢王なのだ。
もしも昨日、そう聞いていたら、メアは誇らしく我がことのように胸を張っていただろうに。
苦く冷たい水が胸の中に広がっていくような感覚を、メアは無視しようと努め、メディクスの話に耳を傾けた。
「捕らえるにも、私のところの護衛だけでは怪しいと危惧したのでしょう。兄は、雪輝王にも条件を提示しました。罪人を引き渡す賢明な判断を為されれば、互いに豊かな暮しを送れるよう、こちらも相応しい判断をしよう、とか、まあそんな手紙を送ったんです。雪輝王は、悩んだみたいですが、ばれてしまったらこれ以上はかくまえないと思ったんでしょうね。了承してくれました」
メアの知らない間に、そんなことが起こっていたのだ。ただぼんやりと、流されるままに生きていたメアには見えない思惑が、雪花城には渦巻いていたのだ。
メアは、前に説明を受けた時との食い違いを感じて、メディクス様は、とぽつんと呟いた。
「共犯者の……申し出を、受けたって」
「ああ、はい。そうなんです。……これはちょっと、私個人の話になってしまうんですけれどね。私としては、帝国が砂漠の国にまで手を伸ばすの、やり過ぎだと思っているんですよね。確かに砂漠の国は強国で、黄金鉱脈や塩湖、香辛料の大農園など、数え切れない程の豊かな資源を持っています。だけど、だからこそ、開戦したら、待っているのは泥沼でしょう。下手をしたら、大陸中を巻き込んだ戦乱の時代が始まってしまう……。兄は、その更に先の、この大陸の統一者たる夢を持っているのかも知れませんが、私はそこまでついて行けない。それなりに、自国を守って、貿易して、それで豊かになったら駄目なんですかねぇって、思ってるんですよ」
小さい男でしょう? と肩をすくめるメディクスに、メアは首を横に振った。
「……そう、考えてくれる貴方がここに来てくれたことは。戦が始まって、真っ先に戦うことになる私達にとって、とても……幸運でした」
メディクスは、少し照れたように目を逸らした。
「地図が帝国一色じゃ、つまらないと思ってるだけですよ。私に、兄へ真っ向から意見する度胸も立場も人脈もありません。少し、彼の思い描く未来図に石を投じてみたくなっただけです」
「だから……彼女と手を組んだんですね?」
女王、ともアズラクとも、また蒼の姉様とも呼べずにメアはそう呼んだ。それだけでも、喉の奥を針で刺されているような、嫌な痛みが伴った。
「ええ、まあそうです。それとなく、襲撃の時間を知らせつつ、互いに知らんぷりという日々を過ごさせて貰いました。多分、ベルク殿も彼女と手を組んでいたでしょうね。優しい、優し過ぎる方ですから……一人で故国の為に抗い続ける女王を、助けてあげたいと思ったのでしょう。そんな訳で雪花城では、女王は用心深く、襲撃は中々成功しない、という具合の日々が過ぎました。そして出発ぎりぎりの頃になって、女王は見張りの目を盗んで宝石の眼を連れ出すと、街へ出て、殺しました」
勿論、それは表向きの話だ。何と言っても、今話を聞いているのは殺された張本人だ。
「女王は、持ち帰った貴女の髪を証拠に、雪輝王へ自分を花嫁の代役とするよう、迫りました。断れば、まだ三歳の娘の成長を待つために、私がずっとここに滞在することになりますからね。罪人としては送れなくても、とにかく要求された女王を帝国に押し付けられる。雪輝王は彼女の要求を呑み、秘密裏に花嫁を入れ替えさせた、という訳です。これからのことはまだ、分かりませんけど……。まあ多分、兄か父に会ったら、何かしようとはするでしょうね、あの女王は。そうなったら私も周りを見て、それなりに身の振り方を考えようと思います」
メディクスは一息ついて、メアを見た。
「……ご理解、いただけましたか?」
メアは微かに頷く。
理解したくはなかったが、自分の立場や、周りで起きたことの全貌を知るのは、足下がしっかりと固まっていくような心地だった。
「これを話したのは、貴女の賢さを見込んでのことです。貴女は今は王家を離れていますし……。これを知っても無意味に吹聴したり、軽はずみな行動を取ったりしないでしょう? それに、きっと私に恩義を感じてくれて、帝国に不利益になるようなことはしないでくれると思いましたし」
メディクスは、安易な慰めを口にしない。
ただ、事実を話して、メアが心の整理をつけるのを、助けようとしてくれている。
その気遣いがありがたく、それと同時にメアは、本当に自分が陰謀の外側にいることを思い知った。
何も出来ない。誰に何を話しても何の影響もない。
だからこそ、メディクスはこんな深い内情まで、教えてくれるのだ。
メアは、理解せざるを得なかった。
アズラクはどこまでもメアを突き放し、拒絶しているのだということを。
あの人はもう、とっくの昔に、遠い世界の人だったのだ。メアが親しく想っていたのは、単なる恥ずかしい思い上がりで、勘違いも甚だしかったのだ。
メアはうつむき、食い縛った歯から震える声を漏らした。
「ずっと……傍に、居たのに……」
手をのばせば触れられる場所に、護衛として、傍に居てくれたのに。雪花城に居たメアの、大切な見方だったのに。
メアは何も知らなかった。何も出来なかった。
また、何も出来ないまま、失ってしまった。
大切な人を。
何も気付かなかった己の間抜けさに、吐き気すらする。震える手でスカートを握り絞めているメアに、メディクスは静かに告げた。
「貴女の姉様は王だった。……それだけですよ」
メアは唇を噛み、迫り上がる痛みを堪えて頷いた。
お前に関係の無い話じゃ、と告げたアズラクの声が、その白い顔が、生々しい痛みになってメアの心臓を握り絞める。
けれど、メアはその痛みの奥底に、真っ平らで温度のない、骨組みのような理解が生まれているのを感じていた。
――戦え。戦って、勝て。
かつてアズラクは、そう手紙に書いて寄越した。
彼女は戦っているだけだ。今も、昔も。
その両肩に掛かった、国家という重責と、メア一人の感情を、比べる方が間違っているのだ。
アズラクは、正しい。
ならば、メアのやるべきことは、ひとつだ。
「……メディクス様」
メアは、ゆっくり顔を上げると、背筋を伸ばし、何度か大きく息をして、彼を真っ直ぐ見据えた。
「様々なことを教えてくれる、貴方の優しい心遣いに、本当に感謝しています。けれど私は厚かましくも、重ねて、お願いをいたします」
そして、ゆっくりと唇の端を上げると、ほのぼのと、まるでのんびりと日向ぼっこをしているかのように、微笑んだ。
「どうか、あの人に、優しくしてあげて下さい」
私の蒼の姉様に。
遠い場所へ向かう私の親友に。
「とても、寂しがり屋だから」
貴女がどこか遠くで戦うのならば、私は苦難を微笑みで出迎えることで、戦おう。
「あの人が私をどう思っていても、私にとっては、ずっと大切な人です。私の、蒼の姉様なんです。だから、メディクス様の出来る範囲で、これから妻になる人を大切にしてくれれば、私は心から、嬉しく思います」
胸の中の嵐を抑え、穏やかに、柔らかな陽射しのように微笑むメアに、メディクスがまばたきをした。
しばらく、じっと、碧の瞳に魅入られたかのようにメアを見詰めて黙っていた彼は、
「貴女が、良かったんですけどねぇ……」
ぽつんっと、何の意図もなく、思わず零れ落ちたかのように、呟いた。
え? とメアが聞き返す。メディクスは、自分が今口にしたことに、戸惑っているような顔をした。
二人の間に、奇妙な沈黙が落ちる。
お互いが、今ぽとんと落ちた言葉に困惑して、相手が動くのを待っている。
メディクスは、メアがはっきりと聞いたのかを探り、メアは今の言葉が聞き間違いではないのか、疑っている。
「今……」
その時、メアの小さな呟きを遮るように、壁に飾られた時計が鳴った。ぼんぼんぼん、と低い音を立てて、時を告げる。
二人の間にあった気まずさが、すっと溶ける。
「ああ。もう時間ですねぇ。今から出ないと、最終便が出てしまいます」
メディクスは、メアの顔を見ずに立ち上がると、壁際に置いてあった荷物を持ってきた。メアが家から持って来た、本でぎゅうぎゅうの鞄。
彼は、メアが入って来た時に読んでいた本を差し出すと、申し訳なさそうに謝った。
「すみません。つい興味があって、待っている間、本を一冊拝借してしまいました。……風車の街は、面白い本ばかりなんですね」
メアお気に入りの、生物学の本だ。父が書いた本だ。メアは、膝に掛けて貰っていた上着を返しながら、にこりと微笑んだ。
「よければ、差し上げますよ」
「いいんですか?」
「全部あげたって、足りないくらいです」
もっとも、全部渡してしまったら、ここまではるばる荷物を取りに来たメアは、何しに来たのか分からなくなってしまうが。
「では。お言葉に甘えて、一冊だけ」
メディクスは、本を小脇に抱えるとメアから上着を受け取り、時計を見た。メアもつられて時間を確かめる。もうそんなに話している時間はなさそうだ。
彼は、重たい鞄を手に、扉へ向かう。メアは小走りでそれを追いかける。
「港までは無理ですけれど、玄関まで見送ります」
その申し出にメアは首を横に振った。
「いえ。いいです。……危ないですよ。夕方に、大海豹を使った襲撃があったじゃないですか。誰が誰を狙ったものだかは分からないですけど、用心にこしたことはありません」
メディクスはくすっと笑って肩をすくめた。
「兄ですよ。多分ね」
メアが目を見開く。メディクスは、メアから貰った本をぱらぱらとめくっている。
思わずメアは、彼の肘、その服の端を掴んでいた。何をしようと思った訳でもない。
ただ、手が勝手に動いてしまったのだ。
メディクスが驚いたようにメアを見る。メアは、そろそろと、気まずさを誤魔化すように、手を離す。
「あの、今までありがとうございました。本当に、本当に……お世話になりました。私に出来ることはほんの少しですけれど、風車の街に戻ったら、必ず、声の箱のこと、色んな人に話します。いつか、メディクス様が来てくれたら、必ず、街を挙げて歓迎出来るように、尽くしますから……」
必死に言い募るメアに、メディクスはふわりと微笑んだ。
「いいですね。本当に、凄く……凄く行きたいですよ、風車の街……。氷の国では、貧乏学者の吹き溜まり、なんて呼ばれているみたいですけどね。帝国ではこちらの呼び名の方が一般的ですよ」
ぱたん、と本を閉じる。
彼は神聖なものを口にする厳かさで告げた。
「賢者の楽園」
それは、帝国で信じられている聖典に出てくる、賢者と聖人の目指す地の名前だった。
メディクスは、目に切なさを滲ませて囁く。
秘密ですよ、と。
「……私は、貴女の街に生まれたかった」
ああ、これは本音なのだとメアは思った。
彼は今、誰にも話したことのない本音を、きっとメアに告げているのだ。
遺言のような、声色で。
メアは、少し躊躇ってから、そっと告げた。
「……私も、貴方に生まれて欲しかった」
二人の間に、ぴんと張り詰めた、糸のような何かがあるのをメアは感じていた。
胸に生温い液体のようなものが満たされ、それをせき止める為に紡いだ糸が、この別れの間際になって、きりきりと音を立て、震えている。
メアは、扉をくぐり抜ければふっつりと切れる二人の縁を感じながら、メディクスを見詰めた。
扉が閉まれば、この人も遠い人になる。とても。
アズラクと同じ、メアとは違う世界の人に。
それでは、今、まだ。
この人は目の前にいる。
それならば、この人が目の前に居る内に、何かをしたら、どうなるのだろう。
あるいは、この人が何かをしたら、私はどうするのだろう。
ありえないことだと思いながら、しかしメアは、メディクスが自分を見詰めていることを、そして彼の胸の中にも、自分と同じ様な生温さがあることを、確かに感じていた。
かち、かち、かち、と時計が鳴っている。
メディクスは、ため息のように告げた。
「貴女が、良かったんですけどねぇ……」
微かな声であったが、はっきりと、彼は自分の意志で告げていた。
メアの胸の内側に、震えるような想いが迫り上がって来た。
熱くて、苦くて、恐れにも似ているのに、引っ張られてしまう。
それが何なのか分からなくて、ただ何か言わなければならないような気がして、メアは唇を震わせる。
メディクスは、ゆっくりと右手を上げて、メアに近付けた。頬に触れるか触れないか、温まった空気の温度だけがわかる距離。
メアの掌が、ゆるゆると持ち上がる。どこに触れようとしているのかすら、自分で分からないまま。
その指先が、彼の頬に触れる直前、メディクスは無声音で告げた。
「どうかあなたに幸運を。……メア」
さよならの口調で、祈るように。
ぷつん、と、何かが切れる音がした。
二人をこれまで、繫いでいた何かが。
「貴方は……ここに、居るんですね」
メアの言葉に、メディクスは淡く微笑んだ。ほの暗い、夕闇のような笑みだった。
彼は、メアの手をそっと押し返すと、柔らかく頷いた。
「ここに居ます。だから貴女は、行きなさい」
それが別れの言葉だった。
メアは一礼をして、彼の前を辞した。
*
ざぁん、ざぁん、と波の打ち付ける音が、闇の底から響いて来る。
海の近くで暮してきたメアにとっては馴染みの、そして安堵を感じさせる音だ。
メアは赤の港の待合室に座り、足下に鞄を置いて、最終便の到着を待っていた。
待合室と言っても、板きれを寄せ集めたような掘っ立て小屋だ。すきま風は寒いし、地面は剥き出しで、どこかの民家から持って来たとおぼしき椅子が、申し訳程度にいくつか置いてあるだけである。
それに、今待っている船は、客船ではない。貨物のついでに人も乗せてくれるだけだ。風車の街には貨物船がよく出入りはするが客船はあまり来ない。一番出るのが遅い船を探したら、必然的にこうなってしまったのだ。
船が来る筈の時間はだいぶ過ぎているが、まだ港に船は来ない。たまに戻って来る船はみんな、漁師達の漁船であったり、人を乗せない純粋な貨物船であったりしている。
船から降りてきた男達は、大きな荷物に隠れるようにして座っているメアをちらりと一瞥して、酒場や自宅など、方々に散っていく。
彼らが居なくなると、待合室はまたしんとして、波の音ばかりが目立つようになる。
風車の街の皆はどうしているだろう。相変わらず、元気でいてくれるといいけれど。
突然居なくなったメアを、きっと心配している。帰ったら、真っ先に会いに行って、安心させてやらなければ。
そう思っているのに、メアの心は沈んでいた。
服に付いた獣の毛のように、別れ際のメディクスの顔や、冷たく強張ったアズラクの顔が、纏わり付いて離れない。
メアを拒絶したアズラクの、硬い声色。
さよならの声で幸運を祈ってくれたメディクスの、触れるか触れないかの掌の温度。
「…………。」
メアは細く長いため息をついた。
何かを待っている時間というのは、どうしてこうも、余計なことを考えてしまうのだろう。
メアは、気分を変えようと、荷物の中に入っている声の箱を取り出した。
待合室は手持ちの角灯がひとつあるだけでとても暗く、本など読める状況ではない。色の付いた眼鏡をしているから、余計に暗い。
けれど、音ならば、暗くても問題はなかろう。
メディクスに教えて貰った使い方を思い出しつつ、メアはその小さな金属の箱の取っ手を回しながら、穴の開いた部分に声を吹き込んだ。
何を話すかは、あまり迷わなかった。言葉は自然に零れ出た。
「……ここに居ます。だからあなたは行きなさい」
メディクスが告げた、最後の言葉。
彼から貰った銀の箱は、その言葉を封じ込めるのに相応しい。
取っ手を回す手を止めたメアは、やはり教えて貰った手順に従って、中にある針の位置を調節し、取っ手の位置を変え、再び回し始めた。
銀の箱の筒の部分から、ざあざあという波の音の後に、言葉が返ってくる。
『ここに居ます。だからあなたは行きなさい』
メアは、帰って来た声が自分で思ったよりも幾分高くて、驚いた。
これは、声の箱のせいなのか、それとも自分が聞いている音と、人が聞いている音が違うせいなのか。
けれど、それよりもまず、メアを驚かせたのは、
「……お母さんの声に、似てる」
そういえばよく、父や祖母に、声が似ていると言われることがあった。自分ではそんなことはないと思っていたけれど、声の箱で聞くと、それは自分の声というより、むしろ母の声にそっくりだった。
毎日毎日机に齧り付いていて、メアが声を掛けても生返事で、誕生日すらうっかり忘れるような人だったけれど。寂しさから喧嘩をしたことだって、勿論あったけれど。
だけど彼女は、一度だって、メアを子供だからといって、議論や研究の場から追い出したことはなかった。メアを一人前の人として扱い、学びたいと言えば淡々と機具の使い方や資料の集め方を教えてくれていた。
そうか、技術というのはこういうことなのだ。
こういう、思いもかけぬ喜びを、驚きを与えてくれるものなのだ。
「……すごい」
小さく呟いて、メアは声の箱を丁寧に鞄にしまい直した。何度も聞き直してもよかったが、何だかもったいないような気がしたのだ。
けれどそのうち、メアはじっと座っているのが再び苦痛になってきた。
自分が待っている場所がここで良いのか不安になったのだ。
初めて使う港だ。昔、両親に連れられて何度か客船に乗ったことはあるが、風車の街とは勝手が違うかも知れない。
もしや、既に船は出てしまったのでは、という不安にかられて、メアは大きな鞄を引きずって、港の方へと歩いて行った。
待合室の外は広々とした港で、いくつもの大きな桟橋が延びている。赤の港は宵っ張りで、月が昇ってもまだ賑やかだ。あちこちで人の声がする。
主人を待っているのだと言う、太った奥方に尋ねて、メアは乗るべき船が必ず来ることを確かめてから、教えて貰った桟橋の根元に立った。
潮の匂いを胸に吸い込み、唇が塩辛くなるのを感じたメアは、ふと耳に懐かしい音を聞いた気がした。
甲高い、口笛のような音だ。
海の向こうから、聞こえてくる。
「…………!」
メアは、思わず荷物を放り出して桟橋を走り、その先で膝をついた。
今宵は月が明るい。真っ黒な海は銀の光を弾き、闇の中にぽっかりと浮かぶ、二つの丸いものを映し出していた。
ピュウィ、と口笛に似た鳴き声がする。
それが歓喜の声であることを、メアは知っていた。
どんなに暗かろうと、間違いはない。この鳴き声を聞き間違える筈がない。
「……アウル。カロラ」
呼びかけられて、二頭の大海豹が応じる。
楽しげに、嬉しくてたまらないといった風情で。
二頭は名前を呼ばれて耐えきれなくなったように、勢い良く水から飛びだし、桟橋の上にのっそりとその巨体を乗り上げた。
ざーっと滝のように、その身体から海水が零れ落ちる。メアは、甘え声を上げてくるカロラの鼻先にそっと触れ、震える声で囁いた。
「追いかけて来ちゃったんですか……?」
カロラの口には、一本のリボンがくわえられていた。びっしょりと濡れて細くなったその紐に、僅かな見覚えを感じてメアは目を細める。もしや黒の港で絡まれた時、ブラウスから千切れたものではないだろうか。
二頭は、丸い艶やかな瞳をメアに向けて、褒めて褒めてと頭を押し付けてくる。
置いて行ったことに気付いているだろうに、咎めも拗ねももせず。
「本当に、しょうがない子達……」
追ってきてくれたのだ。
こんな僅かな手がかりを持って、必死に。
メアを、姉と慕って。
「ありがとう……」
メアは思い出した。
両親と祖母を喪った時、本当は全ての大海豹を、他の研究者や可愛がってくれる人のところに送りだそうと思っていたのだ。
何日か時間をかけて、気の合う大海豹を見付け、絆を結んだ人達に連れられ、メアの家の大海豹は一頭、また一頭と居なくなっていたが、アウルとカロラだけは、絶対にメアの元から離れようとしなかった。気の良い街の人に挨拶はするくせに、いざ連れて行こうとすると激しく威嚇し、メアのところに帰って来ていた。
何度もそれを繰り返されて、折れたのはメアの方だった。
いいや、大海豹は、驚く程賢い。本当は、誰よりも手放したくないと願っていたメアの心を、察してくれていたのかも知れない。
そうやって、ずっと傍に居てくれた彼らが、一人ぼっちになった二年間、どれ程救いだったことか!
「また……助けられちゃったね……」
そう呟いたら限界だった。堰を切ったように瞳から涙が溢れ出し、メアは大きく息を吸うと、子供のように喉を反らして泣いた。
濡れるのも構わず二頭の大海豹にしがみついて、メアは思う。
ああ、手に残っているものはあるのだと。
どんなに奪われても、踏みにじられても、無力感に蹲って、色んなものを諦めても。
それでも、残っているものはある。
ガララと甘えて鳴くカロラや、湿った鼻を押しつけるアウルの、その馴染んだ獣の匂いが、メアの心に染み渡って、強張っていた心を柔らかく溶かしていった。メアは、身を絞るようにして泣いて、泣いて、声が嗄れて、心が真っ白に、空っぽになるまで涙を流し続けた。
やがて、涙が止まり、ようやく心が落ち着いた時。
メアは、ぼんやりと空を眺めていた。
「……綺麗」
美しい星空だった。月も出ている。
泣き腫らした目に、その静かな美しさが染みた。
メアは手で涙を拭って、アズラクのことを想った。
たった一人で戦っている彼女のことを。
メアに、もはや彼女を恨む気持ちは残っていなかった。恨み言は涙に洗い流され、残っているのは澄んだ悲しみだけだ。
彼女は正しかった。誰よりも王で、相応しかった。
優先すべきことを分かっていただけだ。メアが普通の友人のようにありたいと思っていても、それは立場を分かっていないからこそ出来ること。
彼女は責任から逃げない。彼女は賢い。彼女は冷静で、そして合理的だ。
「……?」
ふと胸に違和感が根ざして、メアは眉を寄せた。
余計なメアの感情がなくなった今、頭は冷たい水のように冷静で、彼女の行動を理性的に眺めることができる。
だからこそメアは、ようやく、気が付いた。
確かに彼女は決断した。王であり続けた。
けれど、完全に合理的ではない、ということに。
だってメアは生きている。
メディクスが助けてくれたからだ。それは分かっている。けれど、本当にそれだけだろうか。
殺したいのならば、わざわざ真珠姫の塔から突き落すことなんかしなくても、他に方法はいくらでもあるだろう。
だけどアズラクは、ルークとしてメアを買い物に誘い、石角鹿のコートを買ってくれた。お陰でメアは、冬の氷の国の川に落とされても無事でいられた。
メディクスは、共犯者の目を盗んでメアを救い出したと言った。
けれど、もしもそれが、嘘だったら?
アズラクが、メディクスにあらかじめ計画を漏らし、メアを助けてくれるように、依頼していたら?
メディクスの、メアを助けた理由が嘘だったとは思えない。きっとあれも本音だろう。
けれど、それだけではなかったら?
メアは心臓がばくばくと走るのを感じた。
これは、メアの都合の良い妄想かも知れない。
アズラクに切り捨てられたと思いたくないから、そうやってありもしない想像をして心を慰めたいのかも知れない。
「……だけど」
メアは目の前に居る二頭の大海豹と、背後に広がる海を見詰めた。
そう、けれど、メアは自由を手に入れたのだ。
船に乗って、愛する風車の街へと帰れるのだ。
それは、アズラクがメアを殺してくれたからこそ、出来ることだ。
ルークとして、アズラクはずっと傍に居た。
メアが、心の底では風車の街に帰りたがっていたことくらい、分かるだろう。
もしもメアの想像が、正しいとしたら。
「蒼の……姉様の……」
魂の底がぐらぐらと煮えている。
頭の中にあった、アズラクの冷たい表情が、ぱりんと弾け飛ぶ。
メアは胸一杯に大きく息を吸うと、海に向かって、
「っっっばかーーーーーーっ!」
全力で、そう叫んだ。
アウルとカロラが、少し驚いたように身を引いている。メアはふーっと肺がからっぽになるまで息を吐き、そしてびしっと背筋を伸ばした。
「決めた」
王でない、彼女を。
生身の、たった十九歳の女の子を。
私が信じないで、誰が信じると、いうの。
「戦え。戦って、勝て」
アズラクの言葉を今もう一度繰り返す。
戦って、勝つ。
メアは、微笑むことで辛さを乗り越えることで、それを行おうと思っていたけれど、そしてそれも間違いではないけれど。
辛い事に微笑むことは、望むことを全て諦めることではないのだ。
今はまだ、諦めなくていい。
みっともなく足掻けば良い。メアの持てる全ての力を注げば良い。だってメアはまだ生きているのだから。
真珠姫の塔から落ちて死んだ筈の娘は、今こうやって自分の両足で、桟橋に立っているのだから。
メアは再び海に向かって絶叫した。
「私はーーーっ! 諦めませんからーーーっ!」
姉様。蒼の姉様。
貴女は宝石の眼を失ったからと言って、まさか妹までをも失ったとお思いではないでしょうね。
「私がっ! 図太いことくらいっ! 知っているでしょうにっ!」
私は貴女を諦めません。
生きている限り諦めません。
そして厚かましくも、貴女に愛されているという確信を、最後の最後まで持ち続けましょう。
「これで終わっただなんてっ! 思わないでっ! くださいねーーーっ!」
遠くに、メアを風車の街まで連れて行ってくれる船影が、うっすら月を浴びて浮かび始めていた。




