姉様は今何をしているのでしょう
姉様は今何をしているのでしょう
メアは追いかけっこをしていた。
もっと正確に言うと、骨格標本を両手で抱きかかえて、泣き叫んで逃げる令嬢を追いかけていた。
「あのー。忘れ物ですよー?」
至極困った顔で眉を寄せ、白骨の手を後ろから掴み、友達にするように振りながらぽてぽてと走る。
「いらないわよ田舎者こっち来ないでぇぇええ!」
令嬢の方は身も世もなく大泣きしながら、貴族とは思えぬ大股で廊下を爆走する。
少し離れた部屋の前では、ルークが、崩れ落ちて息も出来ない程笑い倒し、痙攣していた。
「でもこれ、わざわざ作るのとっても大変だったと思うんです。こんなに綺麗で素敵なもの、私がいただいちゃうの勿体ないですし……」
「何が綺麗よ信じらんない信じらんないーーっ!」
「まあ。自分にも入っているものをそんなに嫌がるなんて、変わってますね」
「私じゃないわあんたが変態なのよーーっ!」
泣き叫んだ令嬢が角を曲がると、友達らしき令嬢達が群れていた。彼女達は、友人が泣き叫びながら戻って来るのとほぼ同時に、骨格標本が飛びだして来たのに絶叫して、小魚を散らすように逃げていく。
メアは、令嬢達の人数が増えてしまい、顔の見分けがつかなくなってしまって立ち止まった。
はあ、と至極残念な思いでため息をつき、手に抱えた骨格標本を改めて見詰める。
「こんなに綺麗なのに……。分かってもらえないなんて、可哀想ですね」
いい子いい子、とつるつるした頭蓋骨を撫で、元気を出してと励ましてみる。
勿論これは本物そっくりに作られた、木製の偽物だ。骨の間は糸で繫がれ、大きさも本物の半分程である。しかし、塗装と研磨が素晴らしいのか、何とも言えぬ良い手触りなのだ。眼窩の陥没と歯並びも絶妙で、きっと筋肉と皮を乗せたら中々格好いい人になるとメアは確信している。
勿論、今のままでも十分格好いいのだけれど。
「メア様、メディクス殿下がお呼びですよ」
ようやく笑い終えたのか、涙を指の甲で拭いながら、ルークが歩いて来る。メアは振り返って、ぱっと嬉しそうに微笑んだ。
「まあ。今度は何を見せて下さるのかしら」
皇子との顔会わせをしてから、また一度月が巡っていた。外はもう雪が積もりつつある。
今回の輿入れは急だった為、準備のための期間が設けられたのだ。
メアは日に何度も衣装の微調整に呼ばれて、仮縫い段階のドレスに腕を通していたが、それと同じぐらい頻繁に皇子が呼びつける為、しょっちゅう彼があてがわれた客室へ遊びに行っている。
メアとしては、雪花城に来て初めて、気兼ねなく話せる相手が出来たので楽しい限りなのだが、メイドの方は、中々作業が進まなくて困る、とよくぼやいている。
あまりにもメディクスが頻繁にメアを呼ぶせいで、雪花城では、田舎姫を見初めた第三皇子は、遊学中にも関わらず、連日彼女を部屋に呼び、日が出ているにも関わらずいかがわしい行為にふけっているらしい……などという噂がまことしやかに囁かれているようだ。
噂を鵜呑みにした令嬢達は、あれやこれやと理由をつけて雪花城へ訪れ、メアにせっせと嫌がらせをしてきている。中には、わざわざ地方の領地から出て来ている娘もいるらしい。
その根性をもっと別の方向に向ければ、彼女達の望む高官や貴族を捕まえることだって出来そうなものなのに、暇ですね、というのはルークの弁だ。
初めはメアが受ける仕打ちにメア以上に怒ってくれていた彼だが、メアがあまりにも堪えていないので、最近は落ち着いている。
ベルクにも報告はしたが、彼は近衛隊長であり王弟という立場上忙しいので、心配をする言葉を人伝てに貰っただけで、あまり会えていない。
だがまあ、メアは流布している噂などを気にする性質でもない。呼ばれれば、断る理由もないので素直に彼の自室を訪れていた。
「メディクス様、メアです」
国賓扱いなので、彼の部屋はメアの部屋と比較的近い。流石に隣ではないが、少し歩いて階段を登れば着いてしまう。
大きな扉をノックすると、ほどなくしてメディクス本人が開けてくれた。護衛は控えの部屋に詰めているが、彼は個人の志向でメイドをあまり使いたがらないらしい。
メディクスは、メアの顔を見る前に骨格標本を発見し、まさに輝かんばかりの笑顔になった。
「何ですかその魅力的な連れの方!」
目の覚めるような美形の全力の笑顔だが、向けられる相手は作り物の頭蓋骨である。
「ああああ、素晴らしい! かなり素朴な造りですが、これは職人の魂を感じます!」
「ですよね! ですよね!」
メアの方もまた、彼に激しく同意して、ぴょんぴょんと三つ編みを跳ねさせながら大きく頷いた。ため息をついているのはルークだけだ。
「作られた年代は中々古そうですが……これは良い仕事をしています! ……これをどこで!?」
「さっき、メイドに呼ばれてお部屋に戻ったら、この子がお部屋の椅子に座っていたんです……!」
「何と素晴らしい驚きの贈り物! 特にこの大腿骨など、もうたまらなく扇情的で、よだれが出そうです……! ああ羨ましいことこの上ありません!」
ルークは、はしゃぐ二人を見てぼそっと、
「さっきの令嬢達に見せたらどんな顔しますかね」
と呟いた。
蔓延している噂の実情がこれである。
皇子殿下が毎日姫君を呼びつけて行っているのは、甘い言葉の応酬や熱い伽ではなく、芋虫の生態がいかに劇的かとか、貰った骨格標本がどれ程素晴らしいとか、そういう他者が聞けば顔を引きつらせて数歩後ずさるような内容を楽しく喋り倒すことなのだ。
「ああ、楽しい! 私と同じように話せる人なんて初めてですよ!」
「まあ。私の故郷ならこんな感性の人なんていくらでも居ますよ」
「本当ですか? ああ、素晴らしきかな風車の街! 行ってみたいですねぇ……」
「いつか来て下さい、私の街へ。本当に素敵なところなんですよ」
メディクスは微かに微笑んだだけだった。
「ああ、そうだ宝石の眼。この素晴らしく魅力的な彼について日暮れまで話す、というのも中々有意義ではあるんですが、今日は見せたいものが」
メディクスは、メアのことを宝石の眼と呼ぶ。
最初はルークが「メア様のことを眼球でしか見ていない」と言って怒っていたのだが、メアが気にしていないので、やっぱりそのうち落ち着いた。
「まあ、楽しみ。何ですか?」
とことこと後を付いてくるメアを、キョキョキョ、と奇怪な鳥のような笑い声を上げてメディクスが先導する。
続きの間、つまり寝室は、色合いや家具の細部は違えど、だいたいメアの部屋と同じ様なものだ。豪奢で、伝統的で、品があってどっしりとしている。
けれど、メアが足を踏み入れたそこは、メディクスが盛大に私物を持ち込んだせいで随分と様変わりしていた。
天蓋付きのベッドには分厚い本が秩序だって並べられ、眠れる場所は皆無になっている。部屋の隅に並べられたいくつかの椅子の背には毛布が引っかけられ、皇子殿下の寝床がどこであるか教えていた。
壁際には、氷の国では製造不可能な、薄い金属で出来た折りたためる大きな棚。その中にきちんと整頓されてずらりと並んでいるのは、やはり帝国にしかない、細く長い硝子の管だ。
中には珍しい植物や、虫。腹を開かれ内臓を綺麗に晒している小動物などが、透明な溶液に浸かっている。標本が劣化しないようにする為か、窓にはしっかりとカーテンが閉められ、室内は何とはなしに埃っぽく、防腐剤の匂いがツンと漂っている。
もしもこの光景を夢見る令嬢に見せたら、一瞬で現実に覚醒する道をひた走り始めるだろう。なにせ彼は、これらの標本にそれぞれの名前をつけて可愛がっているのだから。
けれど、帝国の繊細かつ工夫に満ちた器具や、丁寧に処理されて保存された生き物達は、メアにとっては宝の山だ。何時間見ていたって飽きない。
「今日見せたいのは、これなんです」
言いながらメディクスは、小さなタンスの引き出しを開け、丁寧に折り畳まれた薄紙を取り出した。
「あなたが今日、骨格標本の彼を連れて来てくれたので、運命を感じてしまいましたよ」
かさかさと軽い音を立てて開いた紙から現われたのは、乾燥した一枚の葉っぱだった。
元は肉厚で緑色だった筈のそれは、今茶色に色が抜け、細かい筋だけを残している。固い葉脈だけを残して、卵形の輪郭を浮上がらせた葉は、繊細なレース編みで作ったかのようだ。
メアはほうっと感嘆の息を吐いた。
「まあ……。透かし葉!」
「そうです! ご存知でしたか! ああ、葉脈標本などという無粋な言葉で伝えようとしていた自分が恥ずかしい。そう! 透かし葉です!」
メアの額にかぶりつかんばかりの勢いで首肯したメディクスは、繊細な手つきで葉を角灯に近付けた。
葉は灯りに透けてほのかに輝き、同じ形の繊細な影を壁に落としている。
「ほら、美しいでしょう? こう、肉が綺麗にそげ落ちて、強く美しい葉脈だけが残って……。そう、これは植物の骨格標本! 機能的な美しさを大胆に晒す、この清楚かつ蠱惑的な装いっ!」
「本当、何て美しい命の抜け殻……。わざわざ落ち葉の中を探すなんて、大変でしたよね?」
「ああいえ、違うのです。これは生きた葉を摘んできて、ある溶液で煮て作るんですよ」
「まあ。その時にも是非ご一緒したかったです」
「そうしたかったんですが、万が一跳ねたら目が溶けますので……。今日は、貴女とこの透かし葉に色を付けようと、お呼び立てしたんです」
キョキョキョ、と不気味に笑ってメディクスは棚から色粉の入った小瓶を取り出して、応接間から持って来たらしいテーブルに並べていく。
赤、青、黄、緑に、入手困難な紫まである。
「好きな色に染めましょう。混ぜてもいいですよ」
メアは、目をぱちくりさせてから、白い花がほころぶように微笑んだ。
「……楽しそう」
メディクスが、何故か少し困ったように笑い返す。不思議に思いつつも、メアは小瓶片手にお願いした。
「あの、メディクス様。私、ルークとも一緒にやりたいんです。構いませんか?」
「ええ、勿論です。透かし葉はまだありますから」
「えっ僕ですか?」
壁際に立ってたルークが、素っ頓狂な声で己を指さす。メアははにかんで、申し訳なさそうに聞いた。
「だめですか?」
ルークは大きくため息をついて、片手で顔を覆った。指の隙間からちらりとメアを見、仕方無いなという風情で微笑む。柔らかな笑みだった。
「……いえ、やらせていただきます」
それから、三人は揃って透かし葉を染めた。
メアが青、メディクスが黄、ルークが緑を選んで、金属の器に入れて、静かにゆするのだ。
「メア様、色粉が袖についてますよ」
「まあ。ありがとう、ルーク。少し待ってください、お水を流し……あら?」
「ああああどうして水移すだけでそんな盛大に跳ねさせ……うわっ、ちょ、メア様、顔凄い色に」
「ううう、目に入りました……」
「何ですってっ!? ああやっぱり前は呼ばなくて良かった! 宝石の眼に傷が付いたら大変ですっ!」
「あらあら、まだ私にくっついてますよー」
「メア様洗わないと! 水で流さないと!」
何だかんだで、染めるだけなのにそれなりに時間が掛かり、色の付いた透かし葉が出来上がったのは夕暮れ時だった。
紙にくるんで本に挟み、暖炉の前でゆっくり乾かした好透かし葉は繊細で、指でつまむと微かに震えた。しげしげと角灯に透かし葉をかざし、掌に編み目の模様を作って遊んでいたメアは、ふと溶液を丁寧に処理していたメディクスに声をかけた。
「メディクス様。これを誰かにあげると言ったら、貴方にとっての失礼にあたりますか?」
「いいえ。差し上げた以上、それは宝石の眼のものですよ。どのようにでも扱って下さい」
「よかった!」
「誰に渡すんですか?」
メアは、正直に告げるべきかほんの少し迷った。本当に大切な話は、厳重に鍵をかけ胸の奥に取っておきたい。不用意に口にして、穢されたら嫌だから。
だけど、と躊躇いの中でメアは思う。
透かし葉を作らせてくれて、嬉しかった。とても。
何より、毎日のように話かけてくれる。それがどんなにありがたいか。心落ち着くことか。
それなのに、自分が傷つくのが怖くて口をつぐむなんて、それは恥ずかしいことだ。
珍しく、照れたようにはにかんで、メアは最上の秘密を告げる甘やかな声で言った。
「蒼の姉様……。私の、大切な友人です」
メディクスの驚いた顔は意外に幼く、それがメアには面白かった。
それぞれが作った透かし葉をお土産に、メアとルークはメディクスの部屋を辞した。かなり遅くなってしまったので、帰ったら仮縫いを使命としているメイド達に小言を言われてしまうかもしれない。
困りましたねー、と雑談を振ったが、ルークは生返事だった。何故か、さっきから元気がない。思い詰めた風な顔でメアのことを見詰めている。
「あの……。メア様」
「何ですか?」
「その……メア様は、メディクス様の、こと……」
ルークにしては珍しく歯切れが悪い。メアは辛抱強く彼が話すのを待った。
「その、メディクス様のこと、どう思ってます?」
なんだそんなことか、とメアは拍子抜けした。
「少し変ってますけど、良い方です」
「も、もの凄く結婚したいくらいにですか?」
「いえ、そこまでは」
「そ、そ、そうですよねーー!」
告げた後も、ルークの足取りは鈍い。メアは彼に合わせて歩幅を狭めた。
ねえメア様、とルークが呟く。
ゆっくり歩みが止まり、メアを見る。
少しだけメアより高い位置にある。水色の瞳。怖いくらい真剣な色を帯びている。
「もしも……僕がここから逃がしてあげますと言ったら、あなたは何て答えますか?」
メアは同じ様に足を止め、柔らかに微笑んだ。
「ついていきませんよ」
穏やかだが、迷いはなかった。
ルークはほろ苦い笑みを浮べる。
「そう……ですよね。すみません、馬鹿なことを聞きました。忘れてください」
「ルークがそうして欲しいなら、そうします」
その後しばらく、二人は無言で歩いた。もう角を曲がれば部屋、という所で、ルークがぽつりと呟く。
「あの」
「何ですか?」
「透かし葉、嬉しかったです」
「よかった。それを聞いて、私も嬉しいです」
穏やかな応酬。メアは角を曲がって、立ち止まった。部屋の前に誰か立っている。遠目からでもすぐに分かる。何と言っても圧倒的に大きい。
「……ベルク様?」
「あ、隊長」
部屋の前に立っていたのは、筋肉で出来た小山のような大男だった。腕組みをしていた彼は、メア達を見付けると、腕を解いて歩み寄って来る。
彼は、眉間に深い皺を刻み、鋭い眼光でメアを睨めつけ、遠雷のごとき声で尋ねた。
「メア・カテドラーレ。……調子はどうだ」
ぽん、と可愛く手を鳴らし、メアは微笑んだ。
「まあ。心配して来てくれたんですか?」
「……。」
沈黙は肯定である。
忙しいのに、合間を縫って来てくれたらしい。怖い顔して律儀が鎧を着て歩いているような人である。
「御心配、ありがとうございます。今、御時間は大丈夫ですか? 折角来てくれたんですから、お茶でも飲んでいって貰いたいです」
にこにこと微笑みながら巨体を見上げて誘うメアに、ベルクは僅かに逡巡して、首を横に振った。
「いや……。茶はいい。見せたい物がある。メイド達には言っておいた。来てくれるか」
ベルクは、いつにも増して真面目な顔……つまり、のこのこと着いていったら最後、素手で挽肉にされそうな怖い顔でそう言った。
「はい、喜んで」
メアはくすくすと笑いながら頷いた。
*
ベルクに連れて行かれたのは、南西に位置する塔だった。
雪上の芸術、雪花城。
その壮麗さのひとつに、塔の麗しさが挙げられる。目立つ塔は二本のみと数こそ少ないが、滑らかな曲線を描く白い塔は優美の一言に尽きる。幾人もの詩人や童話家が、雪花城を物語の舞台にした。
そんな塔のひとつに、メアとベルクは居た。
風は身を斬るように冷たいが、氷の国の冬はまだまだこれからだ。上着を着てくるようにと言われていたので、あまり寒くない。メアは綺麗に雪が退けられた床をとことこと歩いて、ベルクを追っていく。
塔の縁に手をつくと、真夜中の白輝の都が一望出来た。薄暮に染まる街の中、城から伸びる水路が紅色の輝きを放っている。
しばらく、二人は並んで夕景を眺めていた。
ベルクは沈黙している。
反抗期の娘に、何から話していいか分からない父といった風情だ。メイドの話では彼は未婚らしいが、どこか疲れたような雰囲気は彼を老齢に見せる。
「……白輝の都を、どう思う」
ようやく彼が口を開いたのは、日もすっかり沈み、見張りの篝火がぽつぽつと浮かび上がった頃だった。
メアは何度か瞬きをした後、首を傾げた。
「素敵な場所だと……。建物が見事で、王都に相応しい街だと思います。陸路が整備されて、もっと行き来が自由に出来たら、きっと色んな国から旅人が押し寄せますよ」
そうか、とだけベルクは応じ、一日を終え、眠りに入ろうとしている街を見下ろした。
「確かに、見事な街だ。俺の誇りでもある。だが、同時に……栄光の残りかすだ」
ベルクは手すりを離すとメアを正面から見詰める。輝き始めた星空を背に立つ彼の顔は暗く、近くに居るのによく見えなかった。声だけが、遠雷のように腹の底に響く。
「理不尽な真似を、受けていると聞く。止められないのは、ひとえに俺の配慮の至らなさだ」
年も背丈もメアの倍以上はあるだろう大男は、眉間に深く皺を刻み、メアを真っ直ぐに見て、謝った。
「すまなかった」
メアはほろ苦く笑みながら穏やかに言う。
「顔を上げてください。貴方が嫌がらせをしている訳ではないんですから」
「だが、それでも。貴方を連れて来たのは俺だ。そして、貴女を風車の街に帰すことも出来ない」
「そうでしょうねぇ」
どこか他人事のようにメアは応じる。それから、何故自分がここに呼ばれたのか悟って、問うた。
「……理由を話して下さるんですね?」
どうして、メアが嫁がなくてはならないのか。突然呼び出されて、帰れなくなったのか。
ベルクは頷いた。
「銀月王は……。父は、莫大な資金を費やしてこの街を建設した。彼がまだ王太子だった頃だ。その頃は、戦が終わったばかりで、皆この平和になった国で、街を発展させようという気風に溢れていた。当時は銀、鉄、石炭、錫……あらゆる鉱脈が豊かに産出して、国庫は豊かだったからな。帝国の技術も多く取り入れて、どこにもない壮麗な王都を作ることで、経済を回した。同時に、それによって反帝国の気風を弱めようとしたんだ。戦は終わった。恨みを消せとは言えないが、新しい技術を無視するのは愚かだと伝える為に。本当はあなたのお婆様……翡翠姫が、帝国の血を半分引いていたからだと、兄は笑って俺に耳打ちをしたがな」
兄の話をした時だけ、ベルクの口元が僅かに緩む。
「だがやがて、翡翠姫は駆け落ちをし、それを追うように、まずは石炭が枯れていった。そこから数十年をかけて、他の鉱脈も徐々にだが産出量が減っていき……雪花城が完成する頃には、もう地下資源の収入だけで国庫を潤すのは不可能になっていた」
「……鉱脈が枯れたのは、宝石の眼が失われたからだと叫ぶ人は、居なかったんですか?」
「ああ、多かったな。むしろ大半がそうだった。だが、彼らは翡翠姫の生死すら知らなかったし、知っていた父は決して彼女を連れ戻そうとしなかった。自分達の力だけで経済を持ち直そうとして、その方法のひとつとして、節制を掲げた。白輝の都の完成していなかった建築物も、規模を抑えたりするようにと。だが帝国妃は、今まで通りの散財が出来ないことを理解出来なかったんだ。元々そりも合わなかったこともあって、両者の間には塞ぐことの出来ない亀裂が生まれ……」
メアにとっては歴史の授業めいた話でも、ベルクにとっては直接の身内の話だ。メアは無礼を承知でその先の言葉を遮った。
「その結果が、今なんですね」
「……ああ。父が亡くなってからしばらくの間、宮廷が帝国妃の私物になった時代があって、その負債は莫大なものだった。兄が外交と貿易で何とか持ち直したが……そこに、二年前の羊の病の大打撃だ。国庫は、かつてない程困窮している。それこそ、皇子の歓迎式典に、演出だと誤魔化して灯りを落とし、削られた装飾を隠すような真似をする程に」
羊の病、と聞いてメアの肩がぴくりと動いた。怯えるように。
二年前に、氷の国全土の羊を喰らい尽くしたとさえ言われている病。勿論人にも移るし、罹患した者は発熱の末痙攣し、仰け反って絶叫しながら死ぬ。
劇的な治療薬と予防薬が出来るまで、人々はただ怯えて罹患者を隔離することしか出来なかった。
しかも、羊の病に罹患するのは大抵が羊に触る貧しい農夫などの平民階層だ。上流階層の治療に対する動きは鈍く、貴族達がすることと言えば、まず真っ先に罹患者を領地の外へ追い出すことだった。
雪花城にまで羊の病の情報が届き、雪輝王が対処に動き出すまでには、長い時間がかかり、結果、羊の病が去った時、氷の国の農夫、鉱夫、猟師といった生産者は三分の二にまで減っていたとまで言われている。
けれど、メアの動揺には気付かず、ベルクは話を続けた。
「そんな折り、帝国から皇子の婿入りの話が来た。継続的な援助の約束と共にな。名目的には、羊の病の傷跡の残る氷の国を支えたい、姫君と婚姻を結び二国の友好をより強固なものにしよう、というものだった」
「……確か、公的に発表されている銀花姫は、幼かった筈ですよね?」
「ああ。姪はまだ四歳だ。成長するまで待てと断りを入れたら、その為の婿入りだ、成長するまで婚約者として傍で待たせよう、と言い出した。本音は皇子を送り込んで、此方を探りたいのだろう。そして、もし帝国に国庫の現状を知られれば、まず間違いなく……国に攻め込み、鉄を狙ってくる」
帝国は唯一神を厚く信仰している宗教国家であると同時に、冷徹な合理主義者だ。友好的にしている間は惜しみなく援助をくれるが、ひとたび弱っている姿を見せれば、容赦無く食い千切りにかかる。
「帝国では、鉄道という……鉄で出来た人を乗せる蛇のようなものが発明されたんだ。それを国中に張り巡らせる為に、随分前から氷の国の鉄をもっと輸出せよと言われていた。だが、人手もなく鉄鉱石も枯れかけている今、そんな無理な採掘も出来ない。何とか言い逃れているうちに、この話が打診された。国庫のことを勘付かれたんだろう」
元より、白輝王の時代の戦も、氷の国の地下資源を帝国が狙い、起きたものだ。
帝国軍が氷の国との間に横たわる過酷な氷の荒野や、極寒の氷上を自由自在に滑る大海烏と、その相棒たる氷の国の騎士を打ち砕けなかったからこそ、両国は友好の道を選んだ。
だが今、氷の国に戦をする国力がないと分かれば、お得意の「唯一なる神を信じない蛮族に、正しき教えを与えて導く聖戦」という名目を掲げて攻め込んでくることは想像に難くない。
氷の国王家は、何としてでも、早く帝国の皇子に帰ってもらわなければならなかったのだ。
メアは、ゆっくりと頷いた。
「それで、私が代わりに呼ばれたんですね。……すぐ帝国へ嫁げる年頃の娘が、必要だったから」
「ああ。……様々な理由をつけて来るまでの時間を引き延ばして貰い、準備を整えた。当初の予定の相手と変わることを始め帝国側は嫌がったが、あなたの祖母が……」
ああ、とメアは言われずともその答えを知った。
「宝石の眼だったから、私もそうかも知れないと想って、了承したんですね」
重苦しい、沈黙の肯定が落ちる。
「ダンスが間に合ってよかったです」
冗談めかして笑うメアを、ベルクは痛ましそうな眼差しで見て、すまない、ともう一度謝った。
「……生まれた時から、食べ物や着る物の心配をしないで、宝石で身を飾っていた者達なら、そうやって花嫁になって国を救うのは役割のひとつ。仕事のひとつだ。だが、貴女は今までずっと放っておいた。自分の力で生きてきた。それなのに、俺達は、こんな時ばかり役割を負わせようとしている。貴女は、この国を……恨んでいい」
ベルク様、とメアは別に気負った風も、悲壮感もなく呼んだ。
「どうしても薪が必要で、無かったら凍えてしまう、ってなった時どうしますか?」
ベルクは怪訝そうな顔をしたが、きちんと考え込んでから、当たり前の答えを返す。
「買うか、割るな」
あっさりとメアは頷いた。
「そうです。必要だから、木を切り倒して、割って、燃やすんです。私だってそうします。ただ生えていただけの木にとっては理不尽だったとしても。……ベルク様は、生き延びる為に、木を伐り続ける木こりを責めますか?」
ベルクは、眉間に皺を寄せたまま重く応じた。
「俺は責めない。……だが、木こりに伐られた木には、木こりを恨む権利がある」
メアは、天にのびる木々のように背筋を伸ばして、ふわりと微笑んだ。
「私の両親は、羊の病で死にました」
ぴく、とベルクのこめかみが動く。
メアの浮べる柔らかな笑みは、よく彼女の浮べるものであったが、それが今は逆にメアの心の内を、濁った海水のように見え辛くしていた。
「羊の病が蔓延した時、二人して必死に駆け回って、無理をして、無理をして、薬が完成する直前、助けようとした患者に病気を移されて死にました」
メアの両親は、死ぬ前に薬の製法を公表しろと指示をした。だから残された人々は、薬を完成させ、風車の街中のテオの掲示板に貼ったのだ。
掲示板を頻繁に見に来る者というのは、大抵知恵に自信のある者。彼らはいち早く情報を得て、薬は驚くべき速さで街中に行き渡った。
「そうして風車の街は救われ、だからこそ今でも活気があります。今、あの街が発展して豊かなのは、羊の病の治療薬を売ったからでもあるんです」
多くの医者や学者達に作られた薬は、やがて大海豹や大海烏の引く船に乗せられて氷の国全土へと行き渡った。薬の効果は絶大で、短い夏の間に猛威を振るった羊の病は、同じ年の冬に収束を迎えた。
もしも迅速な薬の開発と拡散がなければ、被害は倍以上になっていただろうと言われている。
「まさか……。治療薬を作ったのは王立医療団だと聞いている」
ベルクが、目を見開いて呻いている。
いいえ、とメアはきっぱり否定した。突然のことに言葉も出ない彼に、すうっと笑みを消して。
「この国を救ったのは、私の両親と、私の街です」
その時だけ、怖い程に真剣な眼差しと、深い意志の滲む声でメアは告げた。
「それを誇っています」
メアの言葉には、今、何の裏付けも証拠もない。
もしも相対しているのが、どこかの貴族の令嬢だったら、詐欺師呼ばわりをされていただろう。
けれどベルクは、深い深いため息をついて、さっきよりもなお深い苦悩の滲む声で呻いた。
「許してくれ……」
大きな、岩のようなごつごつした掌が、メアの手を掴む。彼に比べれば水草のような、小さな手を、ベルクは押し頂くように深く下げた額に付けた。
「これ程までに尽力してくれた貴女達を知らず……なおも、ただ奪うばかりの……この国を……」
メアは微笑んでいた。静かに透明に。一面雪の積もった街に訪れる、青白く明るい明け方のように。
「折角両親が命懸けで救ってくれた国を、私が見捨てることなんて、出来ません」
許すとも恨むとも言わないメアに、ベルクが顔を上げて、どこか途方に暮れたように問うた。
「貴女は、どうして……憎まない」
この国を。この理不尽な仕打ちを。そんな試練を課すこの世の神々を。
そう言わんばかりの眼差しに、メアはとても優しい声音で応じた。
小さな子供に言い聞かせるような。
「……恨んで幸せになれるなら、とっくにそうしていますよ」
不幸になるのは足りないと思うから。奪われたと思うから。何も残っていないと嘆くから。
ならば、今手にあるものを数えなければ。
例えちっぽけでも。例え見せかけでも。空々しくても。今あるもので幸せなのだと錯覚しなければ。
そうでもしないと、先に進めない。
ベルクは、常に刻まれている眉間の皺を、ほんの僅かに緩め、メアの頭にその巨大な手を乗せた。岩のような掌が、わっしわっしとメアの髪を掻き回す。
「……貴女の方が、俺より、余程この国のことを考えているのかも知れないな」
「まさか。ベルク様に比べうる心を持つ方なんて、めったにいません」
勢い良く首を横に振ると、三つ編みが跳ねた。ベルクは、ゆっくりメアの頭から手を下ろす。
「いいや。俺は……。俺は、確かに氷の国を愛している。何より、尊いものだと思っている。だが……それはきっと、兄が統治している国だからだ。……父が死んだ後、次の王はどちらにするかで氷の国宮廷は荒れたのを知っているか?」
「いいえ。私の、生まれる前の話ですから」
「……そうか。何せ、俺も兄も若年だったからな。後ろ盾となる臣下が好き勝手して対立することを、止められなかった。騎士として鍛えた俺こそが勇猛果敢な白輝王の再来と言って持ち上げる者と、兄の聡明さと決断力こそが将来の氷の国に必要だと論じる者で、大きく派閥が二分したんだ」
「ベルク様は、辞退をさせて貰うことは……」
「出来なかったな。それが辛かった。そしてある日、暴走した臣下のせいで、俺は殺されかけた。その時に、俺はここには居ない方が良いと思ったんだ。そんな争いの種になる為に、俺は今まで研鑽を積んできた訳じゃない。兄の迷惑になるくらいなら、さっさと自分から死んでやろうと思ったんだ。……今考えると、自暴自棄になっていたんだろうな。護身用の短刀を持ちだし、見張りと護衛の目を盗んで、ちょうどここに来た」
ぽん、とベルクが滑らかな石の手すりを叩く。
メアは、幼いベルクというのをどうも想像出来なかったが、それでも、我が身に刃を突き立てようと思う程に追い詰められた青年のことを考えると、胸が痛んだ。
けれど、ベルクは微かに笑っていた。昔を懐かしむように、僅かに遠い目をして。
「そこで。同じ事を考えている兄さんに会った。短剣を持って、しばらく互いに口を開けたまま見つめ合って……。その後は夜が明けるまで話し続けた。あの夜一生分笑ったから、俺は今ここに居る。この国で一番私情に塗れた兵は、俺だ」
メアは、目をぱちくりさせた後、ゆっくりと口元をほころばせた。
「……少し、ほっとしました。ベルク様みたいな方も、やっぱり人なんですね」
「……そうだな。貴女と同じ、脆く、弱い人間だ」
ベルクは、メアの顔をじっと見詰め、ゆっくりと聞いた。
「……逃がそうか。貴女を、元の家に、帰そうか」
一陣風が強く吹いて、メアの三つ編みが暴れた。
ベルクの顔は真顔である。嵐の前の空のように静かだが、ひりつくような真剣さが伝わってくる。
メアは、本当にこの人は、今メアが頼めば実行してくれるのだろうと思った。
全ての責任を負って、守ってくれるのだろうと。
だからメアは、わざとらしい程に朗らかに、笑って見せた。ベルク様、と呼んで、芝居がかった仕草で肩をすくめる。
「貴女は、王家に生まれるべきではなかったのかも知れませんね。……優しすぎます」
ルークの言っていた通りだ。
様々なことに責任を感じて、罪悪感を雪だるまのように膨れあがらせて動けなくなっている。
からかうような声色を咎めることなく、ベルクは痛みを堪えるような恐ろしげな顔をした。
「同じ様な事を、昔、言われた。言い方は別だが」
「ルークですか?」
「いや……」
「従姉さんですか?」
ベルクは沈黙した。
メアはころころ笑いながら、するりとベルクの手から自分の手を抜き取った。
「ありがとうございます。私、帝国に行ってもきっとたくましく生きますから、心配しないで。令嬢達のお話、聞いていますでしょう?」
芋虫を返却したり、骨格標本を持って追いかけたりした話を思い出したのだろう。
ベルクは、ため息のように感嘆した。
「貴女は……強いのだな」
メアはにこりと笑んで、ぺたんこの胸を張った。
「ふふ。田舎者は根性があるものなんです。こんなの何ともありませんよ」
だって本当に怖いことは、もう味わったから。
《叶わぬ願いでも》
葬儀が終わり、家に帰った後、メアは部屋中を壊して回った。
陶器人形のからくり時計は、母の好きだったもの。
床に叩きつけて粉々にし踏み躙った。
毛足の長い茶の手袋は、父のよそいきだったもの。
暖炉に投げつけて真っ白な灰にした。
銀細工の指輪は、祖母が結婚した時贈られたもの。
金槌で叩いて、平らな金属片にした。
胸が痛くて痛くて。
巨大な虚ろが身体の底に空いてしまったから、どうにかしたくて壊し続けた。
黄ばんだ白衣。深い緑のショール。大小様々な硝子瓶。四つもあった椅子。大海豹の骨格標本。色の褪せた学術書。茶しぶのついたマグ。
癇癪を起こした訳ではない。どうにもならない憤りを物にぶつけたかった訳じゃない。
本当はメアだって、どれもこれも大切にしたい物ばかりだ。ひとりぼっちになってしまった今、ひとつだってもう、失いたくなんかなかった。
だけどそれを見ると、胸が痛くて苦しくてどうにかなってしまいそうになるのだ。
それは必然であり治療行為だった。
針で出来た縄でぎりぎり締め上げられるような痛みから、何とか抜け出そうと足掻くから、思い当たる全ての思い出の品を壊し続けなければならなかったのだ。
こういう時は泣くものなのだけど、と頭の隅の冷静なところが不思議がっていた。
瞳は驚く程乾いている。喉が喘鳴と共に割れていた。舌の上に血の味。涙より苦い鉄の味。
「っっっ!」
疲れ切って痛みを覚える腕の筋を、なおも酷使して椅子を投げる。激しい音を立てて椅子の脚は折れ、木くずを辺りにまき散らして壁にぶつかった。
からん、からん、と板きれが落ちて回る音が、虚しい程に乾いて響く。
「……っっ」
どうして。
どうして、私だけ。
わたしだけここに残っているの。
とうとう膝をついて、蹲った。床に爪をがりがりと立て、喘ぎながら唇を噛んだ。
メアだって頑張った。両親には遠く及ばない知識ながら、必死になって研究を手伝った。
資料の整理や実験器具の後片付け、指示された薬草の調達のような雑用を始めとして、叩き込まれた手順で同じ精度の実験をいくつもしたし、時にはメアの考案した薬の精製方法が試された。
研究とは、気の遠くなるような検証の繰り返しで出来ている。何年も掛けて行われるそれを、何十分、の一の期間で行おうというのだ。時間はいくらあっても足らなかった。
両親は、友人達と共に血眼になって机に齧り付いていたし、病人への対策を指示して街を駆けた。実験は自分達の身体でやった。疑わしいものは全て試したし、一度違うと思われたものも角度を変えて何度も検証した。祖母は、寝食を忘れる娘夫婦と孫、他の研究者達をを叱りつけ、食事を与えてベッドに叩き込んでいた。
家の中はまるで小さな軍のようだった。
使命感で一杯で、命懸けで、全員で協力しあって、強大な敵を倒そうと足掻いて。
――そして、メア一人を残して。彼らは。
「うう……うぅぅ……」
病に苦しむ獣のように唸りながら、メアは己の身体を抱えて震えた。
耳の奥で、葬儀の鐘の音が、がんがん鳴る。
神殿の緑色の屋根と青空。からっぽの棺が三つ。
羊の病が完全に収束する今まで、ずっと、弔ってあげられなかった。遺体はもう骨まで焼いて、とっくの昔に埋められた。
発病したら隔離されるから、メアは両親の死に目にも会えなかった。ただ一人祖母だけは、死に物狂いで予防薬を間に合わせて、その最後に立ち会った。
メアの出生と、宝石の眼の話、蒼の姉様の話。
何もかも明かして、祖母は、メアの頭を撫でた。
――もっと、守ってあげたかった……。
もう少しだけ、発病が遅ければ。
あと、十日だけでも。遅かったら。
そうしたら、ここは、晩御飯の、香りが、して。
「―――っぅううううう!」
ありがとう、ありがとうと泣いてくれた街の人。
助かった、家族がこれで治るんですねと崩れ落ちた何人もの人達。
彼らを羨ましいと、憎いとすら思ってしまった自分が居た。もう大丈夫ですよと告げながら、どうしてこの人達が生きているのと思った自分に気付いていた。そんな自分に吐き気がした。
何の為に頑張ってきたの。何の為に。
人を助ける為じゃなかったの。街の人を安心させる為じゃなかったの。大好きな彼らを守る為じゃ。
そう思っても、駄目だった。
だって、メアの手元には何も残らなかった。
メアは無力だった。何も出来なかった。立ち塞がる苦難の前で、ただ流されることしか出来なかった。
頑張ったのに。あんなに頑張ったのに。
「ぅぅうううううううううう!」
両親の残した研究結果を集約し、周囲の研究者達をまとめあげ、薬を完成させた才女は、ただ一人、敗北感に打ち震えて床に爪痕を残した。
どれ程、そうしていた事だろう。
「……?」
気が付くと、夜が明けていた。床下で、物音がする。一階の大海豹達の寝床。
彼らにだけは羊の病も手を出せず、その理由を探り続けた結果、彼らの普段好んで食べている海藻から特効薬は生まれた。いわば、風車の街の恩人。
彼らに何かあったのだろうか。
半ば反射で、メアはのろのろと立ち上がる。壁に手をつきよろめきながら階段を降り、角灯に火を入れる。十数匹にも及ぶ何匹もの大海豹が、部屋に一面、折り重なりながら眠っている。彼らは静かだ。
ただ、大海豹用の扉がきぃきぃと揺れており、そのすぐ傍の一匹だけが、メアを呼んで鳴いている。
「アウル……。どうしたの」
口笛を吹く余裕もなく、人の言葉で声を掛ける。アウルは、それでも全てを分かったような顔をして、仲間達を掻き分けながらメアのところへ這ってくる。
仲間達は、何度か迷惑そうにピュゥイと鳴き、けれどすぐまた眠ってしまう。ただ、弟のカロラだけは、姉が何かしたのかと身体を起こし、ついてきた。
メアの元まで辿り着いたアウルは、その鼻先に小さな金属製の筒を引っかけていた。
ぼんやりと、何も考えられずにそれを受け取り、どこの研究者の報告書だろうと目を通す。
けれど、最初の文字を見るなり、メアの碧の瞳が見開かれ、次いで、激しく揺れた。
微かに喘いで、角灯の傍に寄ってむさぼるように読み進む。読み終わった後も、何度も何度も読み返す。やがてメアは、絞り出すように呟いた。
「……ね、さま」
それは、遠い砂漠の国に居る筈の、アズラクからの手紙だった。羊の病にかかりきりだった時も、何気ない日常が綴られた手紙が届き、メアは忙しさで返事が出来ないことを申し訳無く思っていた。
けれどそこに綴られた文は、今までとはまるで趣を異にしていた。
――戦え。戦って、勝て。
最後に書かれた文字は、メアを叱咤するかのようだ。喉の奥が詰まる。視界がゆらゆらと歪む。
メアは頬に生温い暖かさを感じ、自分が泣いていることに気が付いた。
ピュウ、と気遣うように、アウルとカロラが鳴く。
その時ようやく、メアは。
自分の手の中に残っているものを見たのだった。
顎が震え、歯が鳴って、大きくしゃくり上げる。
メアは手紙を手に持ち、ひゅーっと甲高い音を立てて息を吸い、大切な弟妹に抱きついて泣いた。
呻くように。声を殺して。喉が焼けただれそうな痛みを伴って。
泣きながら、それでようやく、理解した。
どうしようもないことというのは、あるのだと。
どんなに足掻いても願っても努力しても、動かせないことはある。どうして私だけと嘆いても、私が何をしたのと神を呪っても、押し寄せる現実は動かない。誰にも動かせない。
永遠に苦しみたくなければ、自分でどうにか出来る方を、心の方を、曲げるしかない。
メアは悟り、そして受け入れた。
――家族の分まで笑って。幸せに。
その綺麗事を信じた。
何度も何度も他人に言われた、反吐が出ると思っていた甘ったるい言葉。
それを、飢えた動物が、生き延びる為に同族を殺して喰うように、噛み砕いて飲み込んだ。
今は亡き両親と、祖母に誓った。
どんなに望まない時でも笑っていようと。
苦しくても悲しくても、笑いながら乗り越えようと。その為に手に持っているものを数えようと。
――本当は、信じてなんかなかったけど。
そうでもしないと息が出来なかった。
姉様に会いたいです
ねえ買い物に行きませんかとルークに誘われた。
吹雪が本格的になった頃の、晴れ間だった。
外は夢のように何もかも真っ白で、朝から人々は暇を見ては雪下ろしをする時期だ。
「……今日、ですか?」
メアは植物大全を両手で運びながら聞き返した。
自室を片付けている最中だった。といっても持って来た手荷物を鞄に詰め直すだけの作業だ。
使用人達の火を吹くような突貫作業によって、メアの嫁入り道具は過不足なく準備された。普通、数年かけて準備される筈の婚礼行事を、この短期間で仕上げたのは喝采に値する。
明日になれば、メアはお世話になった雪花城を後にして、帝国へ向かうのだ。
「はい。今日です。いけませんか?」
別にそれは構わない。メアの片付けなんてほとんどもう終わってしまったようなものだ。後は全部、メイド達がやってくれる。慣れていないメアなんかより、よっぽど有能に、かつてきぱきと。
けれど、メアはずっと前から外に出ることを禁止されていた。明確に言い渡されてはいないけれど、外に出ようとしたら、必ず使用人や門番が出て来てやんわりと止められた。ルークも含めてだ。
政治の駒が、勝手に逃げては、いけないから。
「……怒られません?」
「ばれれば、そうなるでしょうね」
ルークはしれっと言って肩をすくめ、困り顔のメアに言い募った。どこか必死に。
「ねえ、メア様。お出かけしましょう。一緒に白輝の都を見に行きましょう。可愛い小物買ってお洋服買って靴買って髪飾り買って、ベリーパイの包み揚げを歩きながら食べましょう。芝居小屋を覗いてもいいし、国立公園を散歩してもいい。ね?」
「私、お金持ってないです」
「奢ります」
でも、と言いかけるメアに重ねて、ルークは言う。
「最後ですから」
その目は痛みを堪えていて、だからメアは、はいと頷くことしか出来なかった。
出発は明日とあって、城内は誰も彼もが忙しい。その隙間を縫うようにして、メアとルークはこっそり抜け出した。
二人とも、衣装庫から拝借してきた使用人のお仕着せを着ていたので、街にはすんなりと馴染んだ。
白輝の都は彫刻が多い。あちこちに、神々や蔓草、花や動物を模した彫刻が彫り込まれていて、雪から覗いた建造物を彩っている。
「ルーク、どこに連れて行ってくれるんですか?」
「あー、そうですね。目星はつけてるんですけど、僕もここで育ってる訳じゃないんで、そんなに詳しくないんです。こっちだったかな……」
「あら。そうだったんですか?」
「はい、二年前にここに来て。……ああ、あった」
ルークは、鞄から角張った文字と恐ろしく下手な絵で描かれた古い手書きの地図を出して、唇に人差し指を当てながら睨んでいる。
「古い地図ですね。ルークが描いたんですか?」
「僕こんなに絵下手じゃないですよ。隊長です。昔、街の警邏に行くなら使えって」
「……まあ」
茶色い犬が居る(吠える。注意)などと描かれている地図を改めて見て、メアは必死に笑いを堪えた。
「あ、多分こっちですよ」
何度か地図をひっくり返したルークが方向を定める。ざくざくと薄氷の張った雪をブーツで踏み砕きながら、二人は何度か迷い、道路の下にある商店の通りに辿り着いた。屋根がある場所はやはり暖かく、行き交う人の熱気でコートを脱ぎたくなる程だ。
店の前に座ってぷかぷか煙草をふかす老人。大荷物を恋人らしき青年にに持たせて、まだまだと靴の踵を鳴らす女性。おつかいに来たらしい若い娘達が、明日の花嫁行進、頑張って家抜け出すから絶対に一緒に行こうねと約束して、笑いながら歩いて行く。
一瞬ルークは彼女達を羨ましそうな目で見た後に、ぱっとメアを振り返って笑った。
「行きましょう!」
最初に行ったのは、蔓草に彩られた森の妖精のレリーフが飾られている服飾店だった。
値段の安い古着がワゴンに山盛り積まれていたから、それをあれこれ言いながら引っ張り出して、身体に当ててみたりした。メアは色が白いから淡い色が似合うとか、袖口のフリルが可愛いけど色が好きじゃないとか、言いあっているだけで楽しかった。
ふざけてルークにも当ててみたら、案外似合って驚いた。やめてくれと怒られたが。
結局丈の長い薄緑のスカートと温かな白いフリルブラウス。それから、良いと言っているのに譲らなくて、店で一番高い石角鹿のコートと揃いの手袋を買ってくれた。大奮発だ。たっぷり油と空気を含んでいて、水を弾く、茶色くて毛足の長い毛皮。
次は入り口の両端に立った柱に星の精霊が刻み込まれた靴屋だった。店の先にはみ出る程の靴が、棚にも床にも一面並んでいて、あちこちに置かれた木の椅子に座って試し履きをした。メアは茶色いリボンのついた方にしようとしたが、こっちの方が絶対可愛いと推されて、赤い方にした。
確かにそっちの方がメアの栗色の髪に映えて、ずっと可愛らしく、ぱっと雰囲気が明るくなったように見えた。メアはにこにこしながら足下を見て歩いて、何人かにぶつかってルークに呆れられた。
何軒か店を巡ったら紙袋で両手が一杯になってしまったので、ルークは持って来た大きい紙袋の中に、全部まとめて入れてしまった。今まで着ていたお仕着せや靴も、そこに入れた。彼は有能なのである。
だんだんメアを飾るのが楽しくなってきたルークが、まだまだ買うと言うのを宥めて、屋台で包み揚げを買った。メアは甘いベリーで、ルークはチーズと胡椒が入ったもの。新聞に包まれた丸い揚げ物を、熱い熱いと言いながらほっほと息を吐き、指を油でてかてかにしながら食べた。
「ねえ、ルーク。もう帰りましょう」
沢山笑って、はしゃいで、夕暮れの気配が忍び寄る頃になって、メアはそう言った。
今、壮絶に忙しい雪花城の使用人達のことを考えると、申し訳無い。忙しさ故にわざわざ部屋まで見に来ることもないだろうが、夜になってしまえば、不在がばれてしまうかも知れない。
ルークは淡い笑みを浮べて、メアの手を取った。
「それじゃあ、本当に最後。最後に行きたい所が」
メアはその手を、ざらざらしているけれど案外細いと思いながら、頷いた。
ルークの行きたかった場所は、教会広場の塔だった。メアも知っている場所だ。知識だけが。
真珠姫の塔と、言うのだ。
遠くから見たのでは分からなかったが、教会広場は水路にぐるりと囲まれたような形状になっていた。
水路は中央以外もうほとんど凍っていて、道の端の方を行き来する大海烏は、夏より生き生きと腹で滑り、船や車を牽いている。
赤い屋根の教会は大きく立派だが、鐘楼である真珠姫の塔は、そんなに大きいものではなかった。
水際に張り出した鐘楼は、屋根の形こそ鋭く特徴的だが、こじんまりとして上品だ。教会は帝国の信仰する唯一神の教えを与える建物。氷の国は多神教が故、宗教には寛容なので、教会もよく見る。
祈りを終えた親子が教会から出て来て、足早に帰っていく。
ねえお母さん速いよ、子供が母親を見上げて言う。
母親は少年を抱き上げて、背中を撫でながら、謝った。ごめんね、遅くなっちゃったわ、早く帰りましょう。家路につく足はますます速くなる。
「真珠姫に呪われちゃうわ」
教会から人が出て来て、早く帰りなさいと言う。
この辺は夜になるとすぐ人通りがなくなって、危ないからと。
はいと愛想良く返事したルークは、教会の扉が閉まったのを確認すると、真珠姫の塔へ向かって行く。
「ルーク」
その背中の周りに、黒い靄が漂っているような気がしてぞっとする。けれど、忍び寄る闇夜がそう見せただけなのかも知れなかった。
「なんですか?」
振り返ったルークの顔が、暗くてよく分からない。
「……本当に、ここで最後なんですね?」
「はい」
重たくなった足を動かし、メアはルークを追った。
彼は真珠姫の塔の裏手に回り、小さな勝手口に銀の鍵を差し込んで、すんなりと開けた。
「どうしてそんなものを持ってるんですか?」
「元々ここ、王家の管理なんですよ。王族は、成人する時、個別に神殿か教会を与えられる。……ここはこんな名前がつく前から、本当に真珠姫が所有する教会だったんです」
それならば、確かに雪花城で暮しているルークならば手に入れることは可能だろう。けれどそれは、鍵を持っている説明にはなっていない。
真珠姫の塔の中は、螺旋階段と木箱だけで出来ていた。普段、鐘を鳴らす者しか入らないのだろう。
中は埃っぽく、扉を閉めるとほとんど何も見えなかった。こっちですとルークがメアの手を引き、ゆっくりと壁に手をつきながら螺旋階段を登る。
歩いているうちに、だんだん目は慣れてきた。教会のてっぺんには、鐘を鳴らす場所だけではなく、小さく張り出したバルコニーがあった。
外はすっかり夜闇に沈み、遠くで犬の吠える声がする。バルコニーに立つと水音がして、すぐ真下が水路であることが分かった。
「……ルーク。お話でもあるんですか。ベルク様みたいに」
「ああ、あの時の。隊長、何を話したんですか?」
「……国庫が逼迫していることと、私への謝罪を」
ハッ、と鼻で笑ってルークは顔を歪めた。
「隊長ってば、相変わらず馬鹿だな」
その声色の冷たさが刃のようだったので、メアは大きく目を見開いて、硬直した。
彼は、階段に近い方に立って、紙袋をどさりと落とす。両手の痺れをほぐすようにぶらぶらとさせながら、まるで世間話のように、手書きの地図を書いてくれた人のことを嘲笑する。
「本当にあの人、支配者に向いていませんよ。黒の港で、銀貨なんか渡すべきじゃなかった。あんなもの、もうとっくに誰かに奪われているか、借金の返済に消えちゃってます。海の水を汲むようなもので、満たされるのは隊長の満足心だけだ」
淡々と、しかし吐き捨てるような口調は、メアが一度も聞いた事のないものだ。
「国王陛下もそうだ。無理矢理連れてくるように命じたくせに、上から謝って、それでおしまい。メアの未来は欠片も変らない。滅ぼされるのは、国王陛下の罪悪感だけ。どうせ何も変らないなら、口も利かずに憎むべき相手を演じ続ければよかったのに」
「ルーク……?」
「でも、気持ちはわかる」
振り返った瞳は、何の感情も映していなかった。
「僕も今日、メアと過ごしたかった。もう決めたことは動かないのに、一緒に遊びたかった。そういうものなんだ、きっと」
メアは、ルークが階段側に居ることに気付いて背筋が冷えた。退路を塞がれた。
そして、そう思った自分に愕然とした。
退路って、何。
ルークに対して。あんなに傍に、居てくれた人に、対して、そんな。
逃げなくちゃ、みたいな。
「だけど、僕は隊長にはなれない」
言いながら、ルークは紙袋の中に無造作に手を突っ込んだ。メアの着ていた服、履いていた靴。貰った粗品と、包み揚げの油を吸った紙。そういう、沢山笑い声を吸い込んだものの中から、ルークは何かを取り出した。
「ルーク……?」
月の光にぬらりと濡れた、短刀。
「知ってますか?」
にこにこと、子犬のような笑顔でルークは言う。
「剣を押し付けるだけでは、人は斬れないんですよ。人の皮は独特の弾力があって、想像よりずっと強いんです。首筋に刃を立てた時は、押すだけじゃなくて、皮に沿って引かなくちゃいけないんです」
これが、ずっと入っていたのだろうか。紙袋の中に。メアが服のフリルで悩んでいた時も。靴の可愛い方を勧められた時も。ルークは短刀を持っていて、袋に入れていて、それでも笑顔で。
メアは頭が真っ白になる。
「鋭く研がれているように見えて、その実、刃には僅かな凹凸があるんです。その無数の棘に削がれることで、肉は切断されるんですよね」
僅かに反った刃に指の腹を押し付け、ルークはゆっくりと滑らせる。その指にぷっくりと赤い血が盛り上がり、滑り落ちて袖に染みる。
痛いだろうに、眉ひとつ動かさず、ルークは一歩前に踏み出す。反射的に、メアは後ずさった。
「ねえ、帝国の人間は、誰もあなたの顔を知らない。これがどういう意味か分かります? そう、令嬢達も何人かは思ったでしょうね。本当は誰でもいいんじゃないか……って。貴女はずっと風車の街に居ました。末端の、名も無い人なら誰でも。いっそ、もう、メイドだって良かったんだ」
ぴっ、とルークが短刀を振った。空気が斬られてひゅんと鳴り、彼の血が散って雪のように落ちる。
雪の積もった床に、鮮やかな赤が散る。
「貴女の立場をどれ程の人が欲しがったか、貴女は考えたこともないんでしょうね」
「わ、たし……は……」
「皆が、了承してくれましたよ。隊長も、メディクスもね。王族の血は僕だって入っている。問題なんかどこにもない」
がくがくと足が震え上がるのを感じた。
怖いよりも、恐ろしいよりも、衝撃のあまり、舌が強張って動かない。
それは、豹変した目の前の少年に感じるのものなのか、彼の手に握られた短刀に感じるものなのかは分からなかった。
「何より、僕には目的があり、貴女にはない。だから……貴女の役目は、僕に譲って貰おうと思うんです。いいでしょう?」
頭が、何かを考えるのを拒否している。
胃が受け入れられない異物を飲んだかのように、痙攣して、逆流して、吐き戻してしまう。
「あなた、は……」
嘘だ。うそだうそだうそだ。
だって、ルークだ。子犬みたいについてきて、それで、メアの為に怒ってくれて。透かし葉に、喜んでくれて。
「あなたは、誰?」
突然のこと過ぎて、わからない。何も。
きっと別人だ。一緒に包み揚げを食べた人とは。
冷笑と侮蔑を投げてくる令嬢に心底怒ってくれた人とは。別の人。
だって。
「だって、あなた、ルークなら。そんなこと言うはずありません。私の代役、なんて、無理です。だって、あなたは……」
そうだ。そうでなくてはならない。
「男の子、じゃないですか……!」
そうでないと。
「あなた、ほんっと、鈍いですよね」
ルークは、ルークの顔で嫌悪の顔をして吐き捨てる。メアの鼓膜を切り裂くように。
一気に距離を詰められて、メアはバルコニーの縁に張り付いた。腰までの低い柵。元々、人が長く居ることを想定して作られていない簡素な柵は、メアの重みにぎぃぎぃと軋む。
真っ白な混乱に歪むメアの三つ編みを、ルークは無表情のまま、無造作に掴んだ。
よく研がれた短刀が顔の近くまで持ち上げられ、心臓の底がひやりと縮み上がる。振り払って、抵抗しなければ、と思うのに、思うだけで身体が動かない。石像にでもなってしまったようだ。
ぎしぎし耳元で音がする。耳障りな音。
「いやっ!」
ようやく悲鳴を上げることが出来て、それで一気に身体が動いた。ルークの身体を両手で突き飛ばそうとして、もみ合った。短刀が硬い音と共に落ちる。
それと同時に、ばらりと髪がほどけた。床に、栗色の塊が二本落ちて、蛇のようにのたくっている。
ざんばらに断ち切られた髪が頬の下で揺れ、摩擦熱で溶けたのか変な匂いがした。
「これでいい。これであなたは、メア・カテドラーレの特徴を失う。捜索隊も、見付けられない。見付けても信じない」
ルークは、既に体勢を立て直していた。落ちた短刀を拾い上げて、コートのボタンを外していく。白いシャツが見え、その更に奥に、包帯が巻かれている。怪我をしたの、ととっさに聞いてしまいそうになって、メアは己の間抜けさに乾いた笑いを浮べた。
ルークが包帯に短刀を立てる。
「今日からは、僕が……」
ぷつん、と。
華奢な身体に、きつく巻かれた包帯が解けた。
柔らかな白い肌が覗く。男の身体ではありえない、豊かな膨らみ。
ルークは告げる。淡々と。
少年だと思えば甲高いが、女だと思えば、微かに低い掠れた声で。
「私が、メア」
頭を殴られたような衝撃だった。
呆然と立ち尽くすメアは、その、ルークだった人が、この真珠姫の塔の鍵を持っていたことを思い出し、震える唇で訪ねた。
「あなたは、まさか」
――僕だって王家の血は引いている。
――真珠姫が所有する教会だったんです。
「真珠姫?」
生きて、いたの?
ルークは皮肉に笑った。笑って、メアの首筋を狙って短刀を突き出した。
メアは叫び声を上げながら仰け反って、ぐらりと体勢を崩す。足が浮き、天地が逆さまになる。
夜に沈む、真っ暗な白輝の都。
「さようなら」
耳を擦る、誰かの声。
そのままメアは、悲鳴を上げて落ちて行った。
真珠姫の塔から、真っ逆さまに。




