拝啓、蒼の姉様へ
序
剣を押し付けるだけでは、人は斬れない。
人の皮は独特の弾力があって、想像よりずっと強靱だ。脈打つ首筋に刃を立てた時は、押すだけでなく、皮に沿って勢い良く引かなければならない。
鋭く研がれているように見えて、その実、刃には僅かな凹凸がある。その無数の細かな棘に削がれることで、肉は切断され、ぱっくりと口を開けるのだ。
生温い、雨のような。
熱い血潮を浴びながら、彼女はそう教えてくれた愛する人のことを思い出していた。
今、自分の姿を見たら、何と言うだろうかと。
ぬらりと濡れた刃は、月光に照らされ柄までしとどに赤い。
荒い吐息。細い肩が上下する。きつく編まれた長い髪。宝石の眼は地面を見下ろしている。
どさりと仰向けに倒れた、男の姿を。
びくびくと痙攣する身体。その首筋からはまだ水のように血が流れ落ちている。
カッと見開いた目が、最後、微かに動く。
その命を終わらせた少女を睨む。
――呪いあれ
幾百幾千の恨みを込めた瞳が白濁する。ぐんにゃりと身体から力が抜けていく。血溜まりだけがまだ、薄い湯気を上げている。
夜空と月。ぬるい風。ざわりと鳴る葉。
輝く瞳が濁り、穢れていく。
十七歳の真夜中、彼女は初めて人を殺した。
《拝啓 親愛なる蒼の姉様へ》
蒼の姉様に出会ったのは、メアがまだ眼鏡を掛けていない時だった。雨が降っていたと思う。初夏のことだった。
ぱちぱち爆ぜる暖炉の火を背に受けながら、メアは長椅子に座っていた。正確に言うと、長椅子に座る祖母の膝に座り、ふうっと冷まされたスープを、木の匙で食べさせてもらっていた。
絞りたての濃いミルクに、溶けたバターが黄金色になって浮いている。脂の甘い赤鱗魚と、煮溶けてまるいお芋がごろごろ。香草がツンと良い香り。
けれどメアは不機嫌だった。
原因は、テーブルを挟んで向こう側。メアの両親。
文字や数字や建物の絵がかかれた羊皮紙の束をばんばん叩いてひらひら踊らせながら、いつものように仲良く喧嘩をしてる。
だから絶対こっちの方が頑丈に出来るってそんな無駄な手入れの面倒そうな、何を言っているんですかこの機能は譲れません絶対に役に立ちます!
今度また、新しく風車を作るらしい。
その前は綺麗な曲線の水路。その前は地面を掘る機械だった。更に前は頑丈な煉瓦が沢山焼ける窯。
両親と、大工のお爺さんと、街の人。彼らの作る物は、全部とびきり格好良くて便利で素敵だから、勿論好きだけど。絶対、嫌いじゃないけど。
メアはぷうっと頬を膨らませる。
ねえ、わたしまだ五歳なんだけどな。ねえ、もうちょっと構ってくれてもいいと思いませんかー?
ナプキンで口元を拭われてメアは顔を上げる。
微笑む祖母の瞳は、背筋が震えるような翡翠色。家族の中で、メアだけがこの瞳を受け継いだ。
こんなので機嫌なんか直らないから。わたし怒ってるんだから。本当なんだから。
祖母のお腹に額を擦り付けると、背中を撫でられた。やがてとんとんとリズムをつけて叩かれる。 いい匂いがする。暖炉の煙と香草と、大海豹の匂いが混ざり合って、何だかよく分からないけど物凄く安心する。ふんすふんすと深呼吸していたら、そのうち瞼が重くなってまどろんでいた。いつもならこの体勢のままでぐっすり寝入って、父に抱き上げられて三階の寝室まで運ばれるのだけど、
「あら。お客様?」
そう呟いた祖母に抱き上げられて、メアは彼女の肩に頭を乗せたまま半目を開けた。よだれがドレスに染みをつけている。口を擦り付けて拭いた。
「あ、母さん、待って、ちょっと待ってて。この分からず屋を言いくるめたら出るから、あたし」
「いえいえお義母さん。俺が出ますよ、もう少しであなたの賢い娘さんがきちんと納得してくれ」
「しないわよ馬鹿。あんた何でも螺旋にしたがるのやめてよ掃除がほんっとう面倒なんだから」
「ああ、なんてこと! 螺旋の効率性から成る無限の美しさを理解出来ないなんて! 愛する奥さん、螺旋というのはね、もはや芸術、恍惚なんです!」
祖母はおっとりと穏やかに言い切った。
「私が行くのが一番早そうねぇ」
誰かが扉を叩いている。うるさいからだんだん目が覚めてくる。
「はい、はい。今出ますよ」
扉を開けて廊下に出ると、冷たい風が頬を打った。
温かくなってきたといえどここは氷の国。夜になればまだまだ寒い。扉一枚近くなると、ノックの音が数段大きく聞こえてくる。
祖母はメアを床に降ろして、角灯に火を入れた。白木のチェストに橙色の丸い光が映る。
しゃんと背筋を伸ばして、祖母は玄関の扉を押し開けた。メアはスカートにつかまって外を覗き見る。
「……久しぶり、ヴィリディス」
雨のそぼ降る夜を背にして立っていたのは、口元に小じわのあるおばさんだった。
背が高くて、目の上が塗ったように緑色。きつく結った焦げ茶色の髪の端からぽたぽた雫が落ちている。ツンとする甘い匂いが雨に混じってメアの鼻に届く。今まで一度も嗅いだことのない匂いだ。
綺麗だけど気の強そうなおばさんに顔をしかめ、祖母の膝にしがみついた時、きゃあっと華やいだ悲鳴が響いた。
「まあ! モルガンなの!?」
祖母は知らないおばさんを抱き締めて、少女のように跳ねていた。
「来てくれるって信じていたわ! ああ、まだ信じられない、モリー! また会えるなんて!」
「来るに決まっているでしょ、馬鹿ねえっ。私が約束を破ったことなんかあった?」
「山程あったわ、多すぎて思い出せないくらい!」
「あはははそうだった? 忘れちゃった!」
きゃははは、と笑い声が弾ける。紅潮した頬。笑い皺の刻まれた目尻。どちらの瞳も潤んで輝いて、そのせいか面差しがよく似て見えた。
メアは大きく目を開けて、別人のようにはしゃぎまわる祖母を見つめた。誰、この人。
「何年、何十年ぶり? そう、最後に会ったのがあなたが結婚した年だから、二十……」
「二十六年! もうっ、ヴィーってばすっかりおばさんになっちゃって。耄碌したんじゃないの? 自分が駆け落ちした年くらい覚えておきなさいよ!」
「おばさんどころかおばあちゃんよー。ああ、紹介するわ。見て、私の宝物よ。可愛いでしょう、孫」
いきなり話題に出されてメアは飛び跳ねる程驚いた。涙を拭っていたおばさんがこっちを見る。ばちんと目が合い、祖母の膝の裏に顔を押し付けた。
「あら、おばあちゃんの親友にご挨拶してくれたら嬉しいんだけど、駄目かしら?」
無理、恥ずかしい。絶対、無理。
ぐりぐりと額を押し付けるように首を横に振る。
あらまあごめんねー、いいのよ可愛いわねー、そうでしょうそうでしょう、と頭上で楽しげな声が飛び交った。祖母の手がメアの頭を優しく撫でる。おばさんのため息が聞こえる。
「宝石の眼……。本当だったのね」
重苦しい囁きが落ちる。
「ねえ、ヴィー。この子が産まれた年、黄金の鉱脈が見付かったの。呪いからは逃れられない。あなたの宝物にも、いつか迎えがやって来る。人の形をして、事件の形をして、時の流れに乗って必ず……」
メアは何の事かわからない。ただ、ますます強く、祖母の足にしがみついて額を押し付けるだけ。
「モリー、大丈夫。私と、私の子供達が守るわ」
祖母の声は凜と澄んでいた。だけど深刻な気配も同時に伝わってきて不安になった。
自分の事を話されているのはわかる。メアは何か悪いことをしたのだろうか。こんな知らないおばさんにまで、ため息をつかれるような何かを。
呆れたの? きちんと挨拶ができなかったから?
けれどメアの不安を置き去りに、話はさっさと流れてしまった。明るく切り替えた祖母の声がする。
「それにしても、モリーったらいきなり来るんだもの。ひどいわ、何の用意もさせてくれないなんて」
「うふふ。びっくりしたでしょ?」
「勿論よ。まあ、あなたはそう軽々しく予定を手紙になんて記せないから、仕方ないのだけれど……」
「違うわ、ヴィーの驚いた顔が見たくてよ!」
「あら、もう。モリーってば本当に、私を驚かせるのが大好きね。私の部屋を花だらけにした時から変わってないんだから! 覚えてる? あの時、あなたの兄さんが、花に紛れてた蜂に刺されて……」
「覚えてる覚えてる! ジルモンドってば未だにあの時のこと根に持ってるのよ。まだ痕が残ってるんだって嫌味っぽくね、この前新年の祝いに会った時に私に言ってきたの!」
「あら? 痕を見せてもらったの?」
「見るわけないじゃない。お尻よーっ!?」
やだーっ、と笑い声がまた弾ける。二人の女性は子供のように肩を叩き合う。
メアはなんだか、祖母が知らない人になってしまったようで居心地が悪かった。気付いて欲しくてスカートを引っ張ったら、祖母は手を握ってくれた。
「あらやだ、メアのお手々冷たいわ。ごめんなさいね、寒かったわね。……モリーも、いつまでも玄関先でごめんなさい。びしょぬれよ。入って入って。暖炉にあたって欲しいわ」
祖母に手を引かれてメアは家の中へと戻った。扉の閉まる音。雨の音と匂いが遠ざかる。
「ありがとう、ヴィー。だけど私より先に……ああ、紹介がまだだったわね。ねえ、見て、私の宝石。孫を連れて来ているの! 今七歳でね、生意気盛りなんだけど可愛くて……。あ、アズ!」
突然、かくんと頭が傾いた。痛い。おさげを引っ張られたのだ。こらっ、とおばさんの叱責が飛ぶ。
「おまえ」
怒られた事など気にも留めてないような、悠然とした声がした。
「名は、何と言う」
古臭くてたどたどしい氷の国語に、メアはそろそろと顔を上げ、
「!」
その瞬間、あまりの眩しさに硬直した。
真っ白い光が帯状になってうねっている。意志を持つなにかのように踊って、端から砕けている。
美しい光だった。祝福のような。
けれどその光はまばたきをした途端に消えてしまって、メアはひたすら目をぱちくりさせた。何が何だかわからない。
眩しい光を失った視界には、代わりのようにちいさな女の子がいた。
メアより少し年上だ。ほの白い肌に黒い髪。ぷにぷにのほっぺた。ぽってりした唇。
それから何より、恐ろしいくらい蒼い目。
万年雪の山でもこんなに蒼くない。これ以上深まったら紺に見えてしまいそうな、けれど絶対に黒は入っていない、明るく深い蒼。
氷の海の底に宮殿があったらきっとこんな色だろう。背筋がぞっとするくらい、物凄く蒼い瞳。
一瞬それに見とれかけて、けれどメアはすぐジト目で唇を尖らせ、低い不機嫌声で言った。
「痛いです」
ちょっと綺麗な目だからって、何。おばあちゃんの目の方が凄いもん。綺麗だもん。
「髪、ひっぱらないでください」
彼女はきょとんとして不思議そうに繰り返す。
「名は何と言う」
この人お話伝わってないんじゃないの。
メアはぎゅっと眉をしかめて、おさげを両手で取り戻そうとした。もう一度、低い低い声で言う。
「髪、痛いの。やめてください」
「わからん奴だな、おまえの名を教え……へぶっ」
ぺちーんと頭をはたかれて、女の子の頭ががくっと下がる。おさげが解放された。
『お婆様! 何をなさるか!』
知らない異国の言葉だ。メアは驚いて息を詰める。
頭をおさえてきゃんきゃん吠える少女の額を、追い打ちのようにおばさんが指で弾いた。
『いきなり髪引っ張られたあの子も今そんな気持ちよ。乱暴はやめなさい。ほら、謝って』
『だって凄く綺麗な碧なのじゃ。あんな瞳は見た事がない! しかもなんかきらきら光っておった。これはもう、絶対に逃げられたら困るのじゃ。それ故、捕まえておいた! つまりはせんりゃくじゃ。妾は悪うない!』
『何が戦略よ。まったく、そんな言葉どこで覚えたの。……どんなに美しくても、人を獣や物のように扱う事は許さないわ。謝りなさい』
メアにはまったく二人の会話は分からなかったが、少女は、おばさんの静かな迫力に気圧されたように黙り、それからメアに向き直った。
「……乱暴をしてすまなかった。許せ」
偉そうな謝り方に、おばさんがやれやれとため息をついた。しゃがんでメアに視線を合わせる。
「ごめんね。馬鹿息子達が甘やかすからすっかり生意気になっちゃって。痛かったわね。大丈夫?」
『お婆様、妾が喋っておるのだ。入ってくるでない! 全て妾に任せよ、妾がやるのじゃ!』
「あらあら、怒られちゃったわね、モリー」
祖母には異国の言葉が分かるらしく、ほのぼのと笑っている。メアは、そんな祖母の足に背中を押し付けて、おさげを握って少女を睨む。
彼女は、警戒心全開のメアの目線を怯まず受け止めた。堂々たる立ち姿で、胸に手を当てる。
「もう髪は引っ張らぬ。だからおまえの名を、妾に教えてはくれぬか?」
教えてあげないと言いかけた時、メアは彼女の手が濡れて真っ赤なことに気が付いた。
とても寒そうにかじかんで赤い。けれどそれをおくびにも出さずに、腿のところで握って真っ直ぐ前を見ている。
よく見ればちょっと震えている。
負けるもんかと結んでる唇とかが。
……じゃあ、うん。まあ、いいか。
「メア、です」
小さく応じると、輝くように少女は笑った。
「そう! 海か! 見知りおくぞ!」
零れた歯が雪のように白くて綺麗。快活な声が堂々と響き渡る。
背筋が震えるような蒼さの瞳がきらめく。
なんてきれいな蒼。
髪を引っ張られた事も忘れてメアは見入った。
「妾は蒼という!」
――もう、十二年も前の話だ。
お元気ですか、私は元気です。
そして何の予兆もなく、その日は来た。
十七歳のメアは、その日も、いつも通り目覚を覚ました。大きな暖炉のある三階建ての、生まれてからずっと住んでいる家で。
ひとりで。
がこん、がこん、と風車の音が静かに響く。
使い古してろんてろんになったシーツの中、差し込む陽射しに朝を知り、まだ夢うつつ、寝ぼけ眼で起き上がる。途端に、ごちんと頭で鈍い音。
「あいたっ」
屋根裏なので天井が斜めになっている上、ベッドは壁際なのでうんと屋根が低い。よって、油断すると朝から痛い思いをする。
しばらく枕に突っ伏してしーんとしてから、メアは再びベッドを這いだした。寝床を覆うカーテンを開いて、布製の靴に足を突っ込み、窓を開ける。
外は快晴。昨日の雨は見事に上がっていた。
「眩し……」
呟いてから、寝間着のまま手すりのない急な階段を降りる。二階の居間を通り過ぎて更に階下へ降りる。むっと生臭い匂いが鼻を抜けた。
一階は石造りで薄暗い。仕切りのない広々とした部屋のほとんどは、メアの弟妹の寝床だ。
「おはよう、アウル。カロラ」
ピュィッ! と甲高い鳴き声が応じ、むくりと二頭の水棲の獣が起き上がる。
半分に切った洋梨みたいな身体は灰色。丸い潰れた鼻。ぴんとした髭。黒い豆のような瞳は、ぼんやりしているように見えて間抜けで可愛い。
海の狩人と称される、大海豹。
両親が生きていた頃は、沢山の大海豹が居たけれど、ひとりでは二頭が限界。それでも彼らは、メアに残された数少ない宝物のうちのひとつだ。
寝癖のついたぼさぼさ頭のまま、メアはふんわりと微笑んだ。
「はい、綺麗にしますよ。並んで背中見せてー」
戸棚から大きな剛毛のブラシを取り出して振ると、二頭が揃った動きで横たわる。
金色の斑点が入った方が金色、橙色の斑点が人参色。二頭は姉弟でアウルがお姉ちゃんだ。
メアはアウルの湿った短い毛を優しく撫でながら、丁寧にブラッシングをしていく。
「はい、アウル。首見せてね」
気持ちよさそうに目を細める姉が羨ましくなったのだろう。中程まで終えたあたりで、カロラに鼻でせっつかれてメアはたたらを踏んだ。彼はまだ若くてやんちゃで、我慢というものがあまり出来ない。
「順番ですよー、順番」
おっとりと笑って腕を高く持ち上げると、カロラの丸く潰れた鼻を撫でた。
大海豹は巨大だ。短い前足で身体を起こしたら、鼻先はメアのつむじを軽々と越す。
そしてその巨大さ故に長生きで、人よりもはるかに寿命が長い。カロラは二十歳だがまだまだ少年だし、彼より六歳年上のアウルも、お年頃になるにはあと十年は要る。二頭はメアよりも年上ではあるが、世話の焼ける弟妹のような感じだ。
ガラララ、と甘えた鳴き声を上げるカロラを、咎めるようにアウルが甲高く鳴く。順番を守れ、と尻尾で弟を叩き、メアの腰を鼻で押した。
「はい、はい。わかってますよ」
にこにこしたメアがアウルのブラッシングをしながら鼻歌を歌うと、二頭がそれに唱和した。
彼らは多彩な鳴き声を持っていて、かなり複雑な会話まで出来る。そしてメアは、大海豹が操る鳴き声を、過たず聞き取り、発声することができるのだ。
生まれた時から大海豹と暮していれば自ずとそうなる。彼らとの会話は、祖母もとても得意だった。
アウルの毛並みを隅々まで綺麗に梳き上げたら、カロラの方もまた同じ様に丁寧に仕上げる。
やや日が高くなった頃、ようやく二頭の巨大な大海豹は朝の手入れを終えた。
「はい、おしまい。ごはん食べていらっしゃい」
ぽんぽん、と背中を叩いてやると、カロラが甘えた声で鳴きながら、背中を鼻で押してきた。メアはあらあらと笑いながら扉に向かって歩いていく。
鍵を外し、巨大な両開きの扉を開け放つと、すぐ目の前は水路だ。屋根と壁はついているが水路の出入り口に扉はない。石造りのアーチだ。
二頭は大きな前足をびたんびたんさせて身体をくねらせ、緩やかな坂をのたうつように進んでいく。
巨大な身体は重いが、一度水に入れば感嘆する程に素早い。水を得た二頭は、大砲の弾丸のように、目にもとまらぬ速さで瞬く間に水路を下っていってしまった。水路は川に繋がり、その先には海がある。餌のない季節はメアが用意するが、今の時期なら好きなだけ狩りをして満足したら、勝手に帰ってくる。
「さて……。洗濯、洗濯」
呟いて、メアは再び家に入ると、水路とは反対側の扉から出た。そちらは家の裏で、突き出た屋根の下は冬を越すための薪がうず高く積み上がっている。
メアはそこで昨日の洗濯物を洗って庭に干した。青空にはためく白いブラウスが眩しい。
「いい天気ー……」
呟いて家を見上げれば、屋根の近くには風車。風を受けてゆっくりと回っている。
今日は買い物に行かなくてはならない。
そろそろ黒パンがないしベリーのジャムが欲しい。あと注文していた本が届いている筈。食料は忘れても、本だけは絶対に取りに行かなくては。
うっすらと潮の匂いがする風が吹く。
「くしゅっ」
メアは鼻をすすって、身震いをした。何だか寒い、と両腕をさすって、
「……寝間着でした」
ぽん、と手を打ち付けてから、身支度を始めた。
ハイウエストの赤いエプロンドレスに着替えてから、栗色の髪を梳いて三つ編みに。二階の暖炉で温めた豆のスープと、黒く酸味のあるパンに、冷たいミルクも添えて朝食。
食器を片付けてから、鞄に紙の束や万年筆、鍵、固く焼き締めた菓子なんかを入れる。最後に、瓶の底のように分厚い眼鏡をすれば準備完了。
「お父さん、お母さん、それからお爺様とお婆様、いってきますねー」
暖炉の上にある肖像画の中の家族にぴらぴらと手を振ってから、メアは再び水路に出た。
既に、アウルもカロラは帰って来ている。もう十分腹を満たしたのだ。
アウルの方は水路沿いの通路に寝そべってのんびりとメアを見上げ、カロラは獲ってきた赤鱗魚をメアの足下に放る。さあ褒めろとばかりに鼻を押しつけてきた彼にくすくす笑って、メアは甘えん坊の大海豹の喉を撫でた。
「ありがとう。偉いですね、カロラ」
赤鱗魚は、たぶん晩御飯のスープになる。
褒められて満足げに髭をふるわせ、カロラは静かに水路へ滑り込む。見上げるような巨体なのに、水飛沫ひとつ上がらない。
赤鱗魚を手近なバケツに入れていると、カロラと入れ替わりで、アウルが寄ってきた。
鼻に引っかかっているのは太めの手綱だ。鈍い赤の革製。水路の壁に引っかけてあるのを、鼻でつついて落としたのだ。姉さん大海豹は、メアの手元に鼻先を寄せて、早くつけてくれとせがむ。
アウルはお出かけが好きだ。出掛ける気配を察して機嫌良くガララと鳴いている。
「うん、ありがとうアウル。いきましょうかー」
おいでおいでと手招きすれば、カロラも滑るように寄ってきて、前足で上体を持ち上げた。
メアは濡れるのも厭わず、抱きつくようにして手綱を締めた。前足と胴に通してぐるりと回し、金具でカチリと音をさせて留める。革紐の尖端を水路に駐めてある二頭引きの船に繫ぎ、乗り込む。
手綱を持って背筋を伸ばし、綺麗な姿勢で立ったメアは、高らかに口笛を吹いた。
『行こう!』
鮮やかな新緑の色に塗られた細い船が勢い良く走り出した。アーチをくぐれば陽射しが眩しくツンとした針葉樹の匂いが鼻を抜ける。
「カロラ! 速い、速いですよー!」
メアが笑いながら悲鳴を上げた。
ばしゃん、と水飛沫。
降り注ぐ陽射しに反射して真珠のように輝く。
メアの家を囲む針葉樹の森は、海からの風を受け止める防風林だ。水路はすぐに川へと注ぎ、森が終わると同時に海へと至り、広々とした水平線が目の前に広がる。時折白い波飛沫を立てているが、今日の海は穏やかだ。
この近海は、暖流と寒流の交わる豊かな海で、黒い影になる程群れた魚群が遠くからでも見える。
魚を狙った黄嘴鳥が群れを成し、時折急降下しながらミャアミャアと鳴いている。
満腹の大海豹二頭は魚群には感心を示さず、船を曳くのに夢中だ。程よい重さが楽しいらしい。
頬に当たる風は爽やかに冷たく、太陽は眩しい。
「夏ですねぇ……」
氷の国の夏は花だ。美しく鮮やかで、潔く短い。
複雑に入り組んだ沿岸の岩場を、船はするすると抜けていった。何度も通っている海路だから、二頭に手綱を任せても大丈夫。
沿岸を振り仰げば広々と明るい丘で、手入れされた亜麻畑が風にそよいでいた。今が花の盛りで、見渡す限り青い花。岸まで海原のようだ。
畑で作業をしていたおじさんがメアに気付き、顔を上げて手を振る。手を振り返している間に、農夫は豆粒のように小さくなった。
ぶんと風が唸っている音を聞くうちに、やがてゆっくりと色鮮やかな街が姿を現した。
傾斜の急な屋根。赤や黄、緑に塗られた壁と、家々についた風車。賑やかな交易港。亜麻の紡績工場。
複雑に浸食した入り江が光の帯のようだ。街から頭一つ飛び出た、大きな時計塔がよく目立つ。まろやかな屋根の美しい灯台が鐘を鳴らしている。
風車の街。異名は『貧乏学者の吹き溜まり』
メアの愛する両親と、祖父祖母が愛した街だ。
アウルとカロラは勝手知ったる様子で向きを変えると、河口から街へと入っていった。
大きく幅の広い川沿いは港として機能している。白い帆を広げた貨物船がずらりと並ぶ様は壮観だ。
帆船達は千の島と十二の列島に領地を得る商業国家、海の国を経由して、雪嵐の国や森の国、果ては大陸の反対側の谷の国に向かうのだ。
積み荷は亜麻、橄欖、葡萄酒。どれも高品質で評判は上々だが、魚類だけは売られない。
近海は船乗りが帰って来ない魔の海。ここで獲れた魚を食べたら呪いを貰うと言われているのだ。
帆船の間をすり抜けて細い運河に入れば、細い船が沢山停泊している桟橋に出る。
貨物船は大きすぎて牽引できないが、大海豹は風車の街っ子の足だ。桟橋付近では、何匹もの大海豹が、主を待って遊泳している。
メアは二頭引きの船を桟橋にくくりつけ、手綱を外してやってから、二頭を振り返った。
『私が戻るまで、遊んでおいで』
口笛で告げると、楽しそうな返事と共に二頭はあっというま他所の大海豹に混ざり始めた。軽く挨拶を鳴き交わして、じゃれるように泳ぐ。
彼らを見送ったメアは、茶色い鞄を斜めがけして、街の中心へ足を向けた。
いくつか細い路地を抜け小さな橋を渡ると、やがて街役場のある広場へ出た。
街役場は巨大な時計塔を有する、黄色い壁の建物だ。屋根の近くで回る風車が花飾りのよう。
両脇の赤い屋根の建物は街で運営している巨大な図書館で、メアはそこの十年来の常連だ。
黒い石張りの扉をくぐり抜けて、深い緑の絨毯を踏んで階段を昇る。
二階は、広い窓から光の差し込む閑静なロビーで、足の短いテーブルと布張りのソファがあり、ここで誰でも自習出来る。
今日は快晴の為かそれなりに人も多く、それぞれ書籍を参考に羊皮紙に書かれた問題を睨んでいたり、じっくりと革張りの本を読んでいたりと思い思いに過ごしていた。
メアは部屋を横切り、艶やかな木のカウンターへ向かう。座っているのは銀縁の眼鏡をかけた恰幅の良いおばさんだ。色の抜けた緑のエプロンドレスにひっつめた白髪交じりの髪。背もたれのない椅子にがにまたで座って恋愛小説を読んでいる。
「おはようございます、マルグレートおばさん」
「ああ、おはようメアちゃん。ちょっと待っててね、今いいとこだから……」
顔もあげずにそう言うおばさんに、メアはにこにこ頷いた。よくあることなので気にしない。
「終わったら、声をかけてくださいね」
そう言って壁沿いに歩き、掲示板の前に立つ。
巨大な掲示板だ。西側の壁全て埋め、それでも足らずに北側の壁にも浸食している。
赤、青、緑、黒に色分けされ、赤と青にはびっしりと。緑と黒にはまばらに紙が張られていた。
張られた紙の内容は全て『問題』である。
しかも、一般的に『難問』と言われる類いの。
【上記の図で赤線の部分が平行である証明をせよ。
《赤》出題 ヴァルデマール・ゴルツ】
【炎と戦の女神の別名を二十以上挙げ、また全ての呼称に於いて明確な資料を三つ以上明記せよ。
《青》出題 アメリー・エグナー】
【上記の文章を氷の国語に訳し、それらの質問に帝国語で答えよ。
《緑》出題 イスハーク・ルクス】
【上記の楽譜は大海豹同士が鳴き交わす音である。意味と音符が間違っている箇所を全て指摘せよ】
《黒》 出題 メア・カテドラーレ】
数学、地理、歴史、語学、古典、神話学、化学、科学、生物学、植物学、天文学、地学等々。
多岐にわたる分野の問題達が、その難易度や学問によって分類され、整然と並んでいる。
赤が初級、青が中級、緑が上級、黒が最上級。
これは風車の街の名物だ。街役場のものは大きいが、探せば街中、いくらでもある。
通称『テオの掲示板』。作った人がテオなのだ。
メアは黒い縁取りの掲示板の前に立つと、鞄から羊皮紙と万年筆、下敷きを取り出した。
しばらく問題の写しを取っていると、やがて本を読み終えたおばさんが声をかけてくれた。
「ありがとうねメアちゃん。待たせたねぇ。ちょっと待ってな」
本に栞を挟んだおばさんは、どっこいしょ、というかけ声と共に立ち上がった。カウンター内にずらりと並んだ棚から『賞金』と書かれた木箱を取り出すと、側面を目にも止まらぬ速さで動かしてゆく。
やがてかちりと音がして、箱の蓋が横へとずれた。中には大量の封筒。そのうち一枚を取り出して、おばさんはメアに向き直った。
「はい、先週の賞金と明細。持ってきな」
手渡された封筒は硬貨が入ってずしりと重い。
中を覗くと、銀貨五枚と銅貨二十枚と、解いた問題の内訳を書いた紙。
「ありがとうございます。それじゃあ、こっちは今週の分です」
言いながら、メアは鞄の中から封筒を出した。おばさんは、その中身が問題の書かれた三枚の紙であることを確認すると、台帳に記入して受け取る。
「それから、今週の解答用紙と、問題用紙をください。黒を三枚、緑を一枚ずつ、お願いします」
「ありがとさん。二十銅貨だよ」
メアは、今しがた貰ったばかりの銅貨を全て取り出して支払った。手渡されたのは斑点のついた薄灰色の紙だ。亜麻を紡ぐ過程で出た屑繊維を使って漉いたもの。浮いた斑点は亜麻の殻。風車の街でよく見る紙で、羊皮紙と違ってざらついて脆く書きにくいが、その分とても安い。
そんな廉価品の紙たった四枚に七日分のパンを買える値段を支払うのは、これが賞金を生むからだ。
紙には通し番号がついていて偽造が出来なくなっている。解答用紙の方には、掲示板に張ってある問題を写し、解いて提出するのだ。
正解すれば、難易度に合わせた賞金が受け取れる。赤が|銅貨五枚、青が十枚、緑が二十枚。黒は銀貨一枚だ。つまりは銅貨三十枚分。
問題用紙の方は、自分自身でこれはと思う問題を作って書き、掲示して貰う。誰かが問題に挑戦し間違えたら、やはり難易度に応じた賞金が出る。
ただし、一度でも正解者が出たら、その問題は掲示板から剝がされてしまう。
『テオの掲示板』の運営は街で、今のメアの収入はこれである。
両親は十分な遺産を残していてくれたが、あまり使いたいものではない。彼らの残してくれた知識と本があるのならば、できる限りこうやって暮していこうと思っている。
ああそうだ、とお金を仕舞ったおばさんが言った。
「メアちゃん、この後予定ある?」
「はい、お買い物が少し」
「お昼、誰かと約束してる?」
「いいえー」
「よかった! あのねぇ、ペッテル爺さんが、あんたの様子見たいってうるさいのよぉ。マルグレートおばさんがお昼奢ってあげるからさ、一緒にあの甘党爺さんの家に行ってやってくんない?」
メアはぱっと顔を輝かせた。
「わぁ、嬉しいです! 私も、久しぶりにペッテルお爺ちゃんに会いたいと思っていたんです」
「そうかい? よかった。じゃあ、正午の鐘が鳴るまで、買い物してて……あっ!」
「どうしたんですか?」
「やだあたしったら、ペッテル爺さんに女王木苺のパン頼まれてたんだったわ。ほらロッタ婆さんところのパン屋の。あれじゃないと嫌って」
「私、買い物のついでに行って来ましょうか?」
「本当かい? ごめんねぇ、お願いできる? 代わりに好きなパン買ってきて良いから」
おばさんが、ポケットから財布を取り出し、三銅貨を手渡した。
はい、とにっこり頷いて、メアはみつあみを翻す。
図書館を出て賑やかな川沿いの大通へ。人でごった返す商店街を歩いて、街で一番古いパン屋へ。
赤い煉瓦の屋根。黄色い壁に、木枠の窓。三人入ったら一杯になってしまう小さな店の扉を押すと、からんと古いベルが鳴った。
「ロッタお婆ちゃーん。こんにちはー」
店の奥に声を掛けると、小人のように背の低い老婆が、のそのそ出て来て破顔した。
「ああああんら、メアちゃん! いらっしゃい!」
ロッタ婆さんは洒落者だ。若い頃はさぞもてたのだろうと思わせる、上品な紫のエプロンドレスが今日も決まっている。
彼女はじろじろとメアを上から下まで見ると、大きくため息をついて腰に手を当てた。
「あんたまった、そんなもっさい格好してからに。ったく本当しょうがないねえ、ええ? うっちの孫なんか毎日毎日、そりゃもー、めかし込んで出掛けてってんのに。この前もねえ、新しいオリーブオイル髪に塗ってぇ、古いやつすぅぐ飽きちまって。本当しょうがない子だよお。でもねえ、洒落っ気なくしたら女はおしまいだよ。今度あたしの家に来な!せっかく若いんだからほら、流行追っかけなぁよ。あったしも若い頃はねぇ、肩で風切って歩いてたもんだからぁ」
メアの胸までしかない身体を反らせ、ロッタ婆さんは凄い勢いで喋り倒す。それをメアはにこにこしながら聞いていた。彼女の話は嫌いじゃない。
ロッタ婆さんはメアの祖父と若い頃からの仲間だったと聞いている。メアが生まれた時には既に祖父は他界していたが、一緒に色々馬鹿をやったと、酒を飲むたびペッテル爺さんは繰り返す。
ひとしきり孫とメアの服装をこき下ろしてから、ロッタ婆さんは、ようやくここがパン屋だったことを思い出したようだ。腰を伸ばしてメアを見上げる。
「んで? 今日は何買いに来たんだい?」
「女王木苺の……」
「ああ! どうせあの甘党ジジイに頼まれたんだろ? わかったわかった、あいつ味にはうるさいからね。ちょっと待ってな! 今新しいの焼いてやるよ。出来たて持っていきな。メアちゃん、あんたは何食べたいんだ?」
「ロッタお婆ちゃんの、ナッツ入りのロールパンが食べたいです。それから、もうすぐ穴あき黒麦パンがなくなってしまいますから、それも」
「はいよ。ほら、そこ座って待ってな」
背もたれのない椅子を勧められて、メアは大人しく腰を下ろした。ロッタ婆さんは調理場に消えていく。窓に目をやったメアは、人の行き交う大通りをぼんやり眺めた。
運河を行き来する帆船。水面に風車を持った家々が映っている。光の網がゆらゆら反射した橋。橋を渡る髭の船乗り。子供の手を引いた若い夫婦。
「……まあ」
メアは、ずれた眼鏡を指先で戻した。
青年が街路樹の陰で蹲っている。顎を隠す程長い前髪。日焼けとは縁遠い青白い顎。黄ばんで斑に汚れた白衣。泥で煮込んだような色のズボン。
紙袋を抱えて、うつろな目でパン屋を見ている。
目が合った。
「……ロッタお婆ちゃん、赤麦のパンをください。私少し外に出ますね。お金ここに置いておきます」
あいよ、と厨房から返事が返る。
メアは棚からどっしり重くきめの細かいパンを貰って、外へ出た。今日の陽射しもまた眩しい。
外に出るなり、木陰に居た男が、慌てて目を逸らして膝頭に頭をつけた。パンを胸に抱きつつメアは一度大きく深呼吸する。
『学びたい者に庇護を』
街の創設者であり、稀代の生物学者テオがそう願ったので、風車の街には、はぐれ者の学者が野良猫と同じくらい居て、野良猫と同じくらいの親切を享受している。
すなわち、栄養足りなさそうなのがふらふらしていたら、暇な人が声をかけてパンなりスープなりをやるのだ。それで一言二言声をかけて、満腹させたらそれに満足して立ち去る。
彼らは大体、一月に一回くらいしか買い物に来ないから、顔色は悪いし目はきょろきょろしているし困ってても一人で困ってるだけでこっちに助けを求めてくれない。しかも、親切にすると怯えたり怒ったり気持ち悪がったりするから、手助けをしようとする側もえいやっという気合いが要るのだ。
それでもメアは助けたいから助けるけど、その前に必ず、撥ね付けられる準備を心の中でしておく。
「あの」
びくっと男の肩が震える。寝たふりのていで無視をきめこんでいるが、メアはかまわず続けた。
「あの、これ。よかったらどうぞ」
赤麦のつぶつぶしたパンを差し出されて、男がゆっくり顔を上げた。目の下に隈。肌はがさがさ、明らかにまともな食事を取ってない。
彼は、パンを見て一瞬顔を輝かせたが、メアを見て薄い唇を歪めた。
「ま、まに、間に合ってるんで……」
「赤麦、お嫌いですか?」
「そうじゃなくて……」
ぎゅう、と青年の腹が鳴る。彼の顔がかっと赤くなる。メアが動かないのを見ると、彼はぱっと立ち上がり、メアから距離を取った。
「ぼ、ぼぼ、僕は哀れまれたくてここに居るんじゃない、そういうの、な、何で、惨めになるだけって、分かんないんだよ。迷惑してんだよ、偽善者が」
わりとよく聞く言い回しな上、さっきちゃんと心の準備をしていたので、メアはかすり傷ひとつ負わずにのんびりと続けた。
「あなたは、ロッタお婆さんのパン、食べたことがありますか?」
「い、いや。ないけど……」
「とっても美味しいんですよ。食べないと損です」
「そ、そういう押し付け迷惑だって、な、な、なんで分かんないんだよ……。だから、田舎者は嫌なんだ……。どいつもこいつも、似たようなこと……」
青年はメアの目を見ないままにぼそぼそと呟く。
どうやら、もう既に何人かに声を掛けられていたらしい。メアはくすりと笑った。
「だったら、私をやり過ごしても、きっとまた言われてしまいますよ。早く諦めた方がいいです」
いっそ横暴なことを朗らかに言われて、青年が詰まる。それから顔を赤くして大きく舌打ちをすると、足下の紙袋をひっつかんで早足に歩いて行く。
「あら……」
そしてすぐに陽射しにあてられて倒れた。
「まあ」
赤い煉瓦の道で、紙袋はがしゃんと音を立てる。
とことこ歩み寄ったメアが拾うと、中身は丁寧に梱包された、実験に使う硝子容器だった。
パンは買わなくても硝子容器は買うのだ。
研究に没頭する学者というのは、えてして経済観念と健康管理の精神が息をしていない。この街に来る人達は、だいたいこんなのばっかりだ。
倒れた青年は冷や汗をびっしりかいたまま、もがいて紙袋を取り戻そうとした。メアは彼の顔を覗き込んで笑う。
「大丈夫、割れてませんよ」
メアは耳が良いのだ。音でわかる。
青年は、浅い息をして何も言えないでいる。その腕を肩に回して、立ち上がった。
「よいしょー」
軽かった。
青年は何やらいたく矜持を傷付けられた顔をしていたが、メアはにこにこしたまま青年を引きずり、パン屋の扉をくぐった。
「あんんらメアちゃん。それ拾って来たのかい?」
「はい。ちょっと表通りで倒れていたのでー」
店内にはパンを焼く香ばしい匂いが満ちている。青年の腹が再び派手に鳴った。
それだけで、ロッタ婆さんは全てを悟り、メアが何かを言う前に大笑いして調理場へ消えていった。
「殺せ……いっそ殺せ……」
「まあまあ。そんなに深く考えずにー」
恥辱に震えて呻く青年を、メアはてきぱきと床に寝かせ、厨房を借りて鞄から出したタオルを濡らし、冷たい塩水を持って来た。塩水を飲ませタオルで汗を拭うと、ぎゃあと悲鳴を上げる彼の襟元を容赦無く緩め、脇の下と首筋に当てる。少しすると、土気色だった青年の顔に血色が戻った。
「ほぉら、パン粥だ。冷たくて甘いよ。食べな!」
どすどす戻って来たロッタ婆さんが歯の欠けた口で怒鳴った。木の器に親指が突っ込まれている。
青年は嫌な顔をしたが、真っ白なパン粥の上にたっぷりの茶色い砂糖と蜂蜜、それからひとすくいの黄金色の溶かしバターが入っているのを見て動きを止めた。青年を起こして、ロッタ婆さんは赤子にでもするように匙で口へ運ぶ。
「ちょ、ま、やめ」
「ほら食いな! どうせ何日もまともに食ってないんだろ」
「べつに、むぐっ、あんたなんかに、むが」
「こんくらいの男の子なんてねぇ、皆あたしの息子みたいなモンだから! 可愛い可愛い!」
「……め、いわく。なんだよ……」
苦しい息の中で辛うじて吐き出した憎まれ口は、再びパン粥の匙によって封じられた。
「た、他人が作った物とか、何入ってるか分からない、気持ち悪い……」
ぼそぼそと陰湿な悪態をつき続ける青年を、ロッタ婆さんはがははと笑い飛ばした。
「そんだけ言えりゃ安心だねぇ! よかったよかった、メアちゃん。あたしゃ窯の面倒見てるからね、あんたはこっち頼んだよ」
「ありがとうございますー」
俺の意見はどこに、とばかりに青年は顔を歪めたが、もう抵抗する気力も無くしているようだった。腕を目元に当てて脱力し、小さく、
「気持ち悪いんだよ、お前ら……」
と呟いて、無抵抗で口を動かし始めた。
メアはパン粥を匙ですくい、ロッタ婆さんよりは穏やかに食べさせながら言う。
「まあ、そうおっしゃらずに。ロッタお婆さん、一昨年に息子さんも旦那さんも、ほら、あの羊の病で全部亡くしてるから。構いたいんですよ、あなたみたいな、ほっとけない男の人」
青年は沈黙した。
メアは何も言わずに匙を渡し、彼は無言で受け取り自分の手でパン粥を口に運んでゆく。
『……美味しい』
吐息と共に、青年が小さく呟く。訛りのない帝国語だ。彼は自分の言ったことに動揺したように、ぱっと顔を上げてメアを見た。
メアは変わらずにこにこしている。青年はほっとした顔でまた食事を再開した。
『そうだろう? |腹一杯になるまで食べな(グラヴィス・オ・ロ・ヴェンデル・クー)!』
調理場から、ロッタ婆さんの流暢な帝国語が飛んで来て、青年はパン粥を喉に詰まらせた。
ごふっごふっとむせる背中を撫でてやると、彼は地の底から響くような声で呻く。
「……だからこの街は嫌なんだ……なんでこんな街角のパン屋のババアまで……多国語を……」
「私は、大好きですよー」
「それになんであの年で耳が遠くないんだ……」
「本人は、毎日せっせと噂話を聞いてるからだって言ってましたよー」
「……風車の街なんて嫌いだ……」
「私は大好きですけどー」
「……僕は帝国の、国立大学の教師にだってなれる資格を持ってるのに……イスハークと聞いたら、誰もが道を開けて……なんなんだこの街は……テオの掲示板……どうして緑までしか解けない……」
最後の方は単なる愚痴だ。じめじめと呻く青年に、のんびりと間延びした声でメアは言った。
「それでも、学ぶことを止めないんですね」
青年が顔を上げる。メアはふんわり微笑んだ。
「素敵ですよ、あなた」
ぼっ、と青年の顔が赤くなる。
メアがきょとんと小首を傾げた時、ひっひっひ、とおとぎ話の魔女みたいな笑い声がした。
振り返れば、調理場の壁から顔だけ出して、皺だらけの老女がにやついている。
「可愛いだろう? え? 塔の街の女王サマさね。ジジババの間はもとより、若者ん間でも大人気さ」
「ロッタお婆ちゃん、大袈裟ですよー」
「大袈裟なもんかね! テオの掲示板に挑んだことがある奴ぁ、みーんな知ってらぁね。問題掲示の最長記録保持者。黒の女王、メア・カテドラーレ!」
青年は喉を潰されたような声を出した。ひくひく痙攣する指でさされて、メアは困って眉尻を下げる。
「あの、何か……?」
「おっ、俺が……っ! 俺の、一週間かけて作った問題を……! つ、次の日に解いた……!」
「まあ。あなたお名前は何て言うんですか?」
「イスハーク・ルクス!」
「あ、解きました。程よい難しさが心地よくて」
青年はがっくりと肩を落とし、涙目で喚いた。
「こんな街、大嫌いだ!」
メアとロッタ婆さんは顔を見合わせてから言った。
「私は好きですよー」
「あたしゃ好きだがね」
がくりと青年が力無くうなだれた。
ごうん、ごうんと鐘が鳴る。正午だ。
メアは立ち上がるとロッタ婆さんに向き直り、ぴょこんと三つ編みを跳ねさせ頭を下げた。
「ごめんなさい。私、もう行きますね。ペッテルお爺ちゃんとお昼の約束しているんです」
「はいよ。ほら、こいつ持ってきな」
焼きたてのパンは紙袋越しにも熱い。少し焦げたバターの香りにじりじりと音を立てるジャム。
メアは香ばしい香りを胸一杯に吸い込んで言った。
「ありがとうございます、それじゃあ、また」
パンの代金に加えて、パン粥の分まで色を付けて渡したら、余計な代金だけ抜かれて返された。
困って眉を下げたら、にっとロッタ婆さんは笑った。メアをぐいぐい扉の外に押し出して大声で言う。
「また来な!」
大通りに出たメアは黄金色の陽射しの中で笑った。
「はーい、また今度ー!」
その後メアは、ペッテル爺さんの家で、マルグレートおばさんも交えて昼食を取った。
話題はいつもの、ペッテル爺さんの昔話だ。
祖父が祖母を連れて来る前は風車の街はどんなに貧しかったか、家に付ける風車を一般化した両親がどれ程この街の発展に貢献したか。爺さんを含め、彼の仲間がどれ程この街を豊かにしたか。
彼の懐古話にうんうん相槌を打っていたらあっと言う間に時間が過ぎて、家を出た頃には夕方になっていた。諸々の日用品を買い込んだメアは、長くなった陰を従えながら大通りを小走りに抜ける。
最後に向かうのは運河沿いの本屋。緑の屋根に細長い窓。壁に等間隔で四つついた窓から灯りが漏れ、夕方の街にやわらかな光を落とす店だ。
からんからんとベルが鳴る。メアが本屋に駆け込むと同時に、箒を逆さまにしたような頭のいかつい店主が店の奥から現われた。
「ガイツおじさん、私の本、届いていますよね?」
息を切らせて頬を紅潮させたメアは、今日一番の笑顔でカウンターにかぶりつく。
「よおメアちゃん。ようやく来てくれたかぁ。朝一番に来ねえからさ、事故にでもあってねえかって、おっちゃんひやひやしたぜぇ?」
おじさんは、メアの顔を見るなり太い眉をお茶目に持ち上げて笑って、店の裏から本を持って来た。
「ほらよ。メディ・イクスの『植物全図大図鑑』一等高速大海豹の昼便で今日届いたんだ。ここ以外じゃ、帝国の版元に近い本屋しか置いてねえよ」
手渡されたのは美しい茶革製の本だった。表紙は金の箔で押された蔓薔薇模様。片手では持てない、ずっしりとした厚み。
きゃあっと歓声を上げて、メアは本を抱き締めたままくるくると回った。
貧乏と多忙は心を殺すから、好きな本に対してだけは贅沢すると決めている。
この本の作者は植物に対する偏愛がページの向こう側からびんびん伝わってきて、読んでいるうちに自分まで葉脈のひとつひとつに魂を震わせてしまうような勢いを持っているから大好きなのだ。
今までのこまごまとした論文も全て取り寄せてそのたび読みふけっていたが、最近その研究の集大成を図鑑にして発表するという大事件が起こったので、これを買う為にこつこつ貯蓄をしていたのだ。
本当は風車の街に着いたら真っ先に来たかったのだが、テオの掲示板の賞金がないと足らなかったし、図書館に行ったらマルグレートおばさんに誘われてしまうしで来られなかった。
パンを買いに行く途中、本屋に寄ろうかとも思ったが、ほぼ絶対確実に、本を手にした瞬間にあらゆる障害を排除して読書にふけることが容易く想像出来たので、ぐっと己を律して後回しにしたのだ。
メアは好物は最後までとっておいて大事に食べる派である。
うっとりと革表紙に頬ずりをしていたらおじさんに爆笑された。メアはずれた眼鏡を戻してから、勢い良く財布に手を掛けて硬貨を渡す。
「二五銀貨三銅貨……っと確かに」
メアの三ヶ月分の生活費が勢い良く吹っ飛んだがメアはこれ以上無い程晴れやかな笑顔で言った。
「ありがとうございます、ガイツおじさん。私、この本、本当に本当に楽しみにしていたんです!」
ぴょんぴょんとしきりに跳ねて、身体中で喜びを表しているメアに、ガイツおじさんが目尻を下げる。
「いいってことよ。ああ、そうだメアちゃん。あんた今日どっかで行き倒れ拾わなかったか?」
「あ、拾いましたよー」
「そうかそうか、だと思ったんだよ」
はっはっはと軽やかに笑いつつ、ガイツおじさんは緑の棚から包みをひとつ取り出して見せた。
斑点のあるざらついた廉価品の紙に、『忘れ物』と綺麗な氷の国語で書かれている。
「まあ」
包み紙をひらくと、中身はメアが今日拾った行き倒れ青年、イスハークを拭いてやったタオルだった。
メアが街に来た時、必ずこの本屋に寄ることは、おそらくロッタ婆さんから聞いたのだろう。
目を丸くしているメアに、ガイツおじさんが腕を組みにやりとする。
「こいつな、今にも死にそうな顔した男が持って来たんだよ。舌噛みそうな早口で、これあんたに渡して欲しいって言ってなぁ!」
紙の内側には、同じ筆跡で一言。
『また、テオの掲示板で』
メアはほのぼのと笑顔になった。
だから、メアはここが好きなのだ。
祖父、テオ・カテドラーレが創り愛した風車の街。
祖母が居なくても、両親が居なくても、彼らが残してくれたものは確かにメアを包んでいる。
ここがメアの居場所。ここがメアの宝物。
ずっとここで生きて、やがては両親や祖母のように街に貢献して、そして死ぬのだと、メアは疑いもなく信じていた。
この日が最後だとも知らずに。
*
その日の夕陽は不吉な程に赤かった。
「……どうしたの?」
家に続く水路の直前で、メアは手綱を引いて二頭引きの船の速度を落とした。
アウルとカロラが唸っている。低い低い警戒音。
大海豹は鼻が良い。水に混ざった僅かな異変を察知して、それを鳴き声で仲間に報せる習性がある。
メアは人差し指で眼鏡をおさえて目を細めた。
針葉樹林の奥へと続く、細い水路。夕陽に水面は赤くきらめくが、木々の向こうは薄闇に沈んでいる。
いつも通りに見えるその景色に、奇妙な違和感を覚える。メアは一瞬考え、気が付いた。
音がないのだ。
鳥の鳴き声がしない。小動物の足音も。ただ、風だけがびゅうと吹きすさんで海を波立たせている。
警戒音は続いていた。
メアにしか分からない言葉で、異物があることを伝えている。短い毛を逆立ててメアの名前を呼び、苛立ちと不安を訴えている。
街外れの辺鄙な家だ。めったに人は来ないし、街道から外れているので旅人が宿を求めに来ることも少ない。風車の街に住む人なら二頭は匂いを覚えているから、露骨に警戒はしない。
メアの決断は早かった。
僅かに眉をひそめると、すぐさま手綱を右に引く。
街に戻りましょう、と口笛を鳴らすと、人の形をしていないメアの弟妹達は素早く従った。警戒音を低め、綺麗な孤を描き二頭引きの船を反転させる。
メアが針葉樹林へ完全に背を向けた時だった。
「きゃあっ!」
風切り音。がつん、と足下で衝撃。緋色の波間に真っ白な水飛沫が上がる。
大きく揺れる二頭引きの船に、メアは均衡を崩して両手をついた。恐慌をきたした大海豹が激しく暴れると、硬い音を立てて手綱の金具が外れる。二頭蹴飛ばされたような勢いで外海へと飛びだした。
置いて行かれた船が、ぐらんぐらんと波に大きくゆすられる。
蜂の羽音のような、びぃん……と微かな音がして、メアは四つん這いのまま目だけを動かした。
すぐ足下、船の舳先に、矢が震えながら突き立っていた。雪の結晶のような、青い六枚の矢羽根に、細いロープが結ばれている。
メアはゆっくりと船の上に立ち、顔を上げた。
夕闇の中、針葉樹林の闇に続くロープは、蜘蛛の糸のように浮かび上がって見える。
「……どちらさま?」
木々の影に隠れていたのだろう。水路の脇には二人分の人影が現われていた。
ひとりは、ぴんと伸ばした背筋のまま、弓を構えている華奢な少年。光の加減のせいか、顔が真っ黒に塗り潰されている。
少年の隣には、彼の倍近い身長の、巨大な男。
「動くな。手荒な真似はしたくない」
銀色の甲冑。動くたびに、血のような夕陽に輝く。
メアのことを老獪な獣のように見詰めている。
ゆっくりとその唇が動く。
「お前を迎えに来た」
つかの間メアは目を閉じた。
幼い日、雨と共に現われた来訪者の囁きが蘇る。
――呪いからは逃れられない。いつか迎えがやってくる。
赤いエプロンドレスがばたばたと翻った。
冷たい風が陸から海へと駆け下りていく。
夜がやってくるのだ。
《最近よく、貴女と別れた日を思い出します》
行っては嫌と泣いたメアを、アズラクは痛い程抱き締めた。
「こりゃ。しっかりせんかい、情けない」
そういう声も震えていたから、きっとあの時、彼女は泣き顔を見られたくなかったのだ。
この夏程、永遠に続けば良いと思った夏をメアは知らない。一緒に大海豹の世話をし、野山を駆け巡り、毎日毎日転げ回って遊んだ、夢のような夏。
メアの家と街は離れている。買い出しに出掛ける時は街の子供達と遊べるけれど、朝も昼も夜も一緒に遊べる友達なんて、メアは初めてだった。
一緒に色んな種類のベリーを集めて、祖母にそれでパイを焼いて貰った。夜は眠くなるまでお喋りをした。母似怖い話を聞かされて、手を繫いで眠った。
父が出してくれた二頭引きの船に一緒に乗ったし、二人で手を繫いで、丘をふたつ越えて街までおつかいにも行った。その途中で会った、いつもおさげを引っ張ってくるいじめっ子の男の子だって、アズラクと一緒にぎゃふんと言わせてやったのに。
「ねえ、アズラク。蒼の姉様。どうしても帰らなくっちゃいけないの?」
アズラクに抱きついて、メアはぐすぐすと鼻を鳴らした。
こんなに一緒に居たのに、もう明日には居ないことが信じられない。今までの毎日、たった一人でどうやって遊んでいたかなんて思い出せない。
「ずっとここで暮そう。ねえ、おばあちゃん。いいでしょ?」
何十回と繰り返したお願いを、メアは涙ながらにもう一度言った。けれど、祖母はやっぱり、何十回と繰り返した答えをまた同じ様に返す。
「だめです」
メアは声を上げて泣いた。
祖母はいつも優しいけれど、きっぱり駄目と言ったことは、海が逆さまになったって駄目なのだ。
空は曇天。曇り空。もうすぐ雪が降る。
雪の国に秋はない。初雪が降り始めたら、あっという間に長い長い冬に閉じ込められる。
本当は、ほんの数日で帰るつもりだったのに、ずるずると引き延ばしてひと夏過ごしてしまったのだという事を、メアはその時まだ知らなかった。
老女と幼女の二人連れで、危険な旅であったのに、それでも限界ぎりぎりまで居てくれたことも。
何も知らない幼いメアは、ますますアズラクに強く抱きついて、大粒の涙を零した。
「どうして? なんで? なんでそんなに意地悪言うの? おばあちゃんだって、モリーおばちゃん好きでしょう? 私、蒼のねえさま、大好き。モリーおばちゃんだって好き。帰って欲しくなんかない」
昨日メアは知ったのだ。砂漠の国はものすごく遠いのだと。
大きな地図と、中くらいの地図と、小さな地図を見せてくれたのは父だった。
父はまず、街と家との遠さを、小さな地図で教えてくれた。まだ風車の街と呼ばれる前のただの集落。今と比べれば呆れるほど小さかったその街を、けれど当時のメアは世界の果てくらい遠いと思っていた。
父はその次に、白輝の都と家との距離を中くらいの地図で、そして、氷の国と砂漠の国との遠さを、大きな地図で教えてくれた。
世界の広さにメアは恐怖した。
そんなに長く旅をして、そんな遠くに帰ってしまうならば、旅の間に、メアのことなんか忘れてしまうに違いない。
「ねえ、皆で一緒に暮そうよ。そうした方が絶対、いいよ。砂漠の国になんか、帰らない方がいいよ」
メアの必死の抵抗を、祖母が静かにたしなめる。
「大事なお友達の故郷を悪く言うお口は、どこですか。そこには、アズラクちゃんやモリーおばさんの、大切な家族が暮しているんですよ」
あえて目を逸らしていたことを突きつけられて、メアは詰まった。
本当は分かっていた。アズラクにだって待っている人がいること。メアと同じ様に、愛し愛される両親が居ることを、夏の間に聞いていたのだから。
「でも……」
でも私こんなに寂しいのに。
だって、蒼の姉様はとても強いから、もしかしたら、もう両親なんて居なくて大丈夫かも知れない。
自分勝手にもそんな強さを期待して、甘ったれのメアは彼女を呼んだ。
「アズラクねえさま……」
メアを抱き締めてくれていた大切な友達は、ぎゅっと腕に力を込めると、はっきりと告げた。
「妾は、帰る」
その声は揺るぎなかった。
「確かに、ここの暮らしは楽しかった。夢のようであった。永遠に続けと、妾も願った。けれど、ここにずっとは居られぬのじゃ。妾は故郷で学ぶべきことがある。身につけるべきことも。この幸福な暮しを、いつまでも続けることを、妾は己に許さぬ」
難しいけれど、とても大切なことを言われた気がした。けれどそれをきちんと理解するにはメアはまだ幼すぎ、また友達を引き留めることに一杯一杯になっていた。
でも、だって、と何とか彼女の心を繋ぎ止める言葉を探そうとしたメアを、アズラクが遮る。
「何より、な。メア」
常に凜と背筋を伸ばしていた彼女にしては珍しい、年相応の、幼く、少し心細そうな声。
「父上と母上に、妾は会いたいのじゃ」
そう言われて、メアに泣くこと以外の何が出来たというのだろう。
彼女もまた、両親を恋しがっているのだと知って、メアはもうアズラクをこの街に留めておけないことを悟った。自分自身が、これ以上我儘を言うことが出来ないと気が付いた。
あんなに楽しかった夏は終わるのだと、そんな当たり前のことを、幼い頭でようやく理解して、そのままならなさに泣いた。
「姉様、蒼のねえさま、どうか元気でいてください。ずっとずっと元気でいてください」
遠い遠い砂漠の国。アズラクから聞いた幾多の伝説と魔術の残る黄金の都。
灼熱の荒野と巨大な砂丘。ぽっかりと現われる澄んだオアシスと噎せ返るような濃い緑。蜜の滴る熟れた果実と、木陰に吹き寄せる涼やかな風。
アズラクやモリーおばさんから聞いたいくつもの美しい逸話がメアを苦しめる。
そんな国に戻るなら、寒くてちっぽけな氷の国など、忘れてしまっても仕方がない。
「メアは忘れません。蒼のねえさまのこと……。だから大丈夫です。どうか、ただ、ただお元気でいてください。お願いです、お元気で、どうか……」
ひっく、ひっくとしゃくり上げるメアの身体を離したアズラクは、ぺちんと小さな手で額を叩いた。
「馬鹿を言うでない。誰が忘れるものか。そなた、妾を誰と心得る?」
「えっと『|つよくかんだいでれいせいな(ディグ・ル・カウイ・カリーム・モタアニ)、|さばくをすべるじょおう(アーヘル・ニ・サーラー)』アズラクねえさま……」
覚えたての砂漠の国語をたどたどしく伝えると、そのとおり、と彼女は大きく頷いた。
でも、とメアは涙を零しながら言い募った。
「姉様はかしこくて、つよくて、私にないものを沢山持っていても、私は違います。私はなんにも知りません。姉様に忘れられないようにするのは、どうすればいいのか、何にもしらないんです……」
「なれば、これから知れば良い」
メアの栗色の髪を優しく撫でて、その何よりも深く澄んだ蒼の瞳でメアを見た。
メアは喉を震わせて考えた。泣きすぎて頭痛のする頭で、これまでの人生でも、これ程真剣に考えたことはないと思うくらい、考えた。
その幼い頭で考えて、考えて、考えて。
そうしてようやく、恐る恐る、小さな声で告げる。
「……手紙を、かきます」
目の際に溜まった涙が一筋、零れ落ちた。
「そうか!」
アズラクが晴れやかに破顔した。その目尻から、メアと同じ様に一粒、涙がこぼれ落ちる。
「泣き虫のおぬしにしては、良い答えじゃ!」
アズラクねえさまだって泣いてるじゃない。
そう言う代わりにメアはがむしゃらに目を擦った。
「絶対、約束してください。私、お手紙を書きますから……っ。すぐに、必ず、書きますから……!」
零れた涙が手の甲で砕けていた。
「ならば私は、必ず返事を書こう」
曇天の空。冷え冷えとした風。雪がちらつき始めていた。遠くで潮騒。大海豹の鳴き声。
「絶対、絶対ですよ……っ!」
アズラクの涙声がメアの耳を震わせる。
「ああ、約束じゃ」
約束は守るためにあるとメアが信じているのは、その時から両親が死ぬまで、氷の国と砂漠の国の間で手紙が絶えたことがないからだ。
別れは必ず来るのですね
矢で打ち込まれたロープを少年が引いてゆく。頼りなく細い船は、徐々に陸地へと近づいて行く。
二人分の人影が大きくなる。
足の震えが止まらない。歯の奥がカチカチ鳴っている。メアは腹の上で手を組み、ひそかに深く息を吸った。祖母の顔が脳裏に蘇る。
――恐ろしいものを、真っ直ぐ見てごらん。
記憶の中でしかもう会えない、優しい笑顔で彼女は言う。皺だらけの手でメアを撫でて。
――何でもね、分からないから、怖いのよ。放っておいたら、怖いものは『分からない』を食べてどんどん大きくなる。怖いものを、ちゃんと見詰めて『知っている』の箱に入れてあげれば、怖いものは、もうそれ以上、大きくなったりしないものよ……。
ごつん、と舳先が水路の壁に当たって止まった。
巨大な人影はメアの細い腕を掴むと、思いの外優しい仕草で陸地に引っ張り上げた。彼は、手を離し数歩下がると、巨大な銀の冑を脱いで頭を下げた。
「手荒な拝顔、申し訳無く思う。……非礼を詫びさせてくれ」
冑の中は、彫りの深い壮年の男だった。
遠目にも巨大だと思ったが、間近で見ると格別に大きい。縦にも横にも大きい。太く高い鼻に、もっさりとした灰色の短い髪が相まって灰色狼のよう。 特に左を眼帯で覆われ、ひとつしかない灰緑色の瞳は、捕食者の鋭さ。どう見ても肉食獣だ。子供が見たらきっと泣く。
彼は肉食獣の目をぎょろりと向けて言った。
「メア・カテドラーレで、間違いないか」
びりびりと頭の芯から腹の底まで響く、聞く者に畏怖を覚えさせる声。
頭からばりばり食べられてしまいそう、と他人事のように思いつつ、メアは静かに彼を見上げた。
祖母の教えが支えてくれる。全て受け入れる覚悟をくれる。震えは引き潮のように静かに消えていく。
メアは、忘れ物のハンカチを届けて貰ったかのような、ほのぼのとした笑顔を浮べて頷いた。
「はい、私がメアです」
灰色狼のような男が面喰らう。メアは組んだ手を膝の前にたらし、おっとり小首を傾げた。
「王家直属の、高貴なる近衛騎士様方。風車の街へようこそ。歓迎します」
矢を打ち込んだ少年騎士が素っ頓狂な声を上げた。
「ど、どうして分かったんですかっ!?」
男が叱るように睨んだが、少年は気が付かない。ぱたぱた胸や腰を叩き、空色の目をしばたたく。
「ど、どこにも近衛騎士の紋章なんて下げてないし、鎧も安物だし、変装は完璧だった筈なのに!」
「あ、矢羽根の形が、意匠化された王家の雪花紋章でしたからー。あれを武器に帯びるのを許されているのは、第三位までの近衛隊しかいませんし」
「へーー! 知りませんでした! 矢羽根六枚もあって豪華だなって思ってましたけど、そんな意味があったんですね!」
「ルーク」
「あ、はいすみませんっ!」
ぱっと直立不動になった少年に、男がため息をついて眉間を揉む。
ルークと呼ばれた少年の顔は、思いの外幼かった。
さっきまで、夕闇の加減か真っ黒に見えていたが、焦げ茶の巻き毛は柔らかく、よく日に焼けた頬は柔らかそうだ。人懐っこい子犬のような顔立ちで、狼のような男と並ぶと親子に見える。
近衛騎士は、どんなに早くても十九歳からしかなれないから、確実に成人はしている筈だが、どうにも幼さがぬぐえない。
「察しの通り俺は氷の国王立騎士団第一位近衛隊隊長、ベルクだ。雪輝王陛下の勅命に従い……」
ベルクと名乗った男は、重々しく告げた。
「白輝の都の王城より、あなたを迎えに来た」
まあ、とメアはのんびり頬に手を当てた。
「そんな遠い所から、はるばるご苦労様ですー」
一瞬、何とも言えない沈黙が下りた。
「……あの、そりゃ隊長の顔見て叫んだり泣かれたりしたら困りますけど、もうちょっとこう、驚き方ってものがあるんじゃないですかぁっ? 僕達、これでも王家の使いなんですけど!?」
「ルーク」
「でも隊長ぉっ! 僕だって色々緊張したり申し訳無く思ったり複雑な感情をですね……!」
「私情を挟むな」
「いやだってでも隊長っ! こんな近所のお裾分け貰いましたー、みたいな感覚で歓迎されたって、僕困りますって!」
メアはにこにこしながら付け足した。
「白輝の都に比べれば恥ずかしい程の田舎ではありますけれど、ゆっくりしていってくださいねー」
「ほらああああ! 隊長おかしいですって! 僕達こういう反応求めてなかったですよ! もっと、こう……『わ、私が!?』とか『人違いでは……』とかそういうまっとうな対応をですね!」
「ルーク、少し黙れ」
ひとつしかない目にぎろりと睨まれて、ルークがひいっと後ずさる。老狼に睨まれた子犬のようだ。
「まあまあ、そんな怖い顔なさらずにー。もう夕暮れですし。お夕飯でも食べていかれませんか?」
まるで久しぶりに帰郷した孫を引き留めるおばあちゃんのようなメアに、ルークは顔を覆い、うっすら涙すら浮べている。彼とは対照的に、ベルクは眉ひとつ動かさずにメアを見下ろした。
「申し訳無いが、あなたにはすぐ来て貰わなければならん。時は一刻を争う」
「あらあら。それでしたら、やっぱりお夕食食べていかれた方がいいですよー。お腹が減るのはいけないことです。今日きちんと休んで明日元気一杯に進んだ方が安全ですし、結果的に早く着きますよ」
「気持ちはありがたいが……」
ぎゅぅう。
高らかに鳴り響いた腹の虫に、視線が集る。
「……あはっ」
ルークはお腹を押さえて赤い頬を掻いた。
メアはくすくす笑みを深めると、ベルクは額に手を当てて深いため息をついてから頭を下げた。
「……部下が失礼した。ご厚意に甘えさせていただけないだろうか」
もちろんですよーと頷いて、メアは一旦船に降りて荷物を引き上げると、二人を伴って家へ向かった。
家の前には二頭立ての白い鳥車が停まっていた。水陸両用らしく車輪と船縁を備え、毛並みの良い大海烏が大人しく地面に座り、主を待っている。
大海烏は氷の荒野にしか生息しない、飛べない鳥だ。ずんぐりした黒い巨体と太いヒレのような翼を備え、水中を翼で舞い、氷上を腹で滑り、陸を黄色の脚で駆ける。王家直営の飼育所がある程、氷の国とは関わりの深い鳥で、氷の国の騎士の相棒と言えば大海烏を指す。
二頭を見て、これはあの子達が嫌がるわけだわ、とメアはひそかに思った。
大海豹に張り合うほど巨大な獣は氷の国で大海烏だけ。彼らはお互いに繁殖期に子供を獲物とする天敵同士だ。よく見ると、大海烏の方も大海豹の匂いが染みついた家が気に入らないのか、僅かに羽毛を逆立てている。
メアは彼らを刺激しないように大回りで家に向かい、玄関の前の細い階段を上がった。
冬になると一階が雪で埋まる氷の国の家には、大抵、玄関が一階と二階両方にある。客人は大抵、二階の扉を案内して居間に直接通すのが礼儀だ。
筋肉で出来た岩山のような隊長は狭そうに身をかがめ、ふわふわの子犬のような騎士はきょろきょろしながら、二階の扉をくぐっていった。
「どうぞ暖炉に当たってくつろいでくださいねー。あ、お手洗いは居間を出て右です」
メアは二人を居間へと通し長いテーブルに座らせると、今日買って来た物を足下に降ろした。暖炉を掻き起こして、エプロンを身に纏う。
がこん、がこんと風車の回る音がする。
物珍しいのかしきりと周囲を見回していたルークは、興味に耐えきれなくなったように、お手洗いを借りるという理由で居間から出て行った。
彼は、お手洗いにしては随分と長い時間を使ってから、ぱたぱたと足音高らかに戻ってきた。頬を紅潮させたまま、骨をくわえた飼い犬よろしくベルクの方へと駆けていく。
「隊長っ! 凄いです、この家! 取っ手を引くと水が出て、出したものが流れてくんです!」
「そうか」
「それからそれから、手を洗うところが別にあって、そこも取っ手で水が出たり止まったりして、もう僕楽しくなっちゃって何回も流したり止めたり流したりしちゃって、不思議で凄くて」
「そうか」
帰りが遅かったのはそれが原因らしい。
この家は、風と螺旋の力で小川の水を屋根の水槽に汲み上げているので、取っ手のあるところならいつでも水が出るのだ。
便利だけどこのあたりでは珍しくも何ともない、至って普通の造りだ。風車の街ではどこの家も大抵そうなっている。むしろこの家が一番旧式。発明したのがメアの父だから。
メアはくすっと笑って暖炉脇の取っ手を引いた。
「こっちはお湯が出ますよー」
水の流れるパイプを暖炉の後ろの壁に通しているのだ。駆け寄って来て指先でぬるい湯を受けたルークは、きらきらした瞳で頬を紅潮させた。
「すごいっ、凄いです! これで朝顔洗う時も怖くない! 故郷に持って帰りたいなぁ……」
「ルーク。ここも氷の国だ」
「あっ、すみませんっ」
咎めるような声に、ルークが直立不動になった。
彼がうっかりそう口を滑らせるのも無理はない。風車の街は、険しい原生林と山脈に阻まれ、王都白輝の都からほとんど隔絶している。もとより王都の人間にとって、氷の国とは城下だけなのだろう。
「別にかまいませんよー。田舎なことは事実ですし。はい、簡単ですけれど召し上がれ」
メアが次々と皿を並べていくと、ルークがきらきらと顔を輝かせて歓声を上げた。
「うわああああっ! 美味しそうーーーっ!」
こんがりと炙った黒麦パンを盛った籠。花びらのように薄切られた豚の塩漬けや、荒砕きの岩塩と胡椒、橄欖油のかかった雪の色のクリームチーズ。宝石のように真っ赤なベリーに、とろんと濃い蜂蜜と発酵乳をかけた木の器。
「食べて良いですか! 食べていいですか!」
テーブルにかぶりつかんばかりの勢いで訪ねるルークの襟首を、ベルクが掴んで椅子に座らせた。
「……失礼。いただこう」
「どうぞどうぞー」
あちち、と呟きながら、ルークが指先でパンを割り、立ち上る湯気を顔に受ける。
「はい、これもいかがですかー」
メアが串に刺して炙ったチーズを差し出すと、ルークがパンを受け皿に差し出した。ぶくぶくと泡を吹く真っ黄色のチーズが、スプーンで搔き出されて、どろっと流れていく。ルークは零れ落ちそうなチーズを舌で受け止め、がぶっとパンにかぶりついた。
「おいひーですぅぅぅ」
パンと口の間にチーズの糸を引いたまま、少年騎士は満面の笑みで言う。
よかった、とメアは微笑んで、薄く煙がたった平鍋に向き直り、じゅわぁっと厚切りの豚の燻製肉を小気味よく焼いた。ふちがカリッと焦げ、たっぷり油が染み出したあたりで、黄身がぷっくり盛り上がった卵を割り入れる。白身は甘く柔らかく、黄身がふるんと半熟のところで引き上げて、豚の燻製肉ごと皿につるっと滑らせた。
「うわぁぁ罪深い! 罪深いぃぃっ!」
香ばしい匂いに身悶えしているルークを、咳払いしたベルクが咎めている。
「冷めないうちにどうぞー」
「あっ、ありがとうございます! ほら隊長もどうぞ! あちっ! 痛っ!」
「いや、いい。自分でやろう……」
「あっ、そうですか!? ううううわぁぁ美味しいぃ黄身と肉がパンと絡む辛い罪深いぃぃー」
香草がほどよく混ざった白い腸詰めが、足つきの網の上でじりじりと音を立て始めた。ばりっ、ばりっと次々に皮が縦に弾けて、溢れ出した肉汁が薪に滴ってじゅっと煙を上げている。
腸詰めをトングで陶器の大皿に並べ、酸っぱい刻み酢漬け野菜や甘い千切りの茹で玉菜を添えて出す。
また目を輝かせて、美味しい美味しいと騒ぐるルークの横で、ベルクまで、ぶちっと音を立てて千切れる腸詰め(ソーセージ)を、驚きの目で見詰めていた。
「よかった」
メアは洗った手をエプロンで拭きながら微笑んだ。
本当は、赤鱗魚に酒を振って蒸し焼きにしたものも出したかったのだが、魔の海近海で獲れた魚を食べれば呪われると都会の人は信じている。
一通り調理を終えたので、メアも彼らの前に腰掛けて塩漬け肉と酢漬け野菜、クリームチーズを乗せたパンをざくっと噛んだ。肉の塩気と野菜の酸味が絡まって、滑らかなクリームチーズが舌に甘い。
ところで、ときちんと飲み込んでからメアがひょいと小首を傾げた。
「私が王宮に向かう理由ですけれど、特に逃げるつもりもありませんから、教えてくれませんか?」
唐突に問われて、ルークがむせた。
まあお気を付けて、とメアはおっとり薄荷のお茶を差し出した。ベルクは静かに背中を撫でる。
「……あなたのお祖母様を覚えているか」
「はい、勿論」
テーブルの上で出を組み、ベルクは静かに告げる。
「彼女は、ヴィリディス皇女殿下……。先代である銀月王陛下の、腹違いの妹君でいらっしゃる」
重々しく、低い声。
「つまりあなたは、現王陛下の従兄弟違いにあたる、この国で三番目に身分の高い女性なんだ」
メアは頬に手を当てた。
「あらまあー。お婆ちゃんってば情熱的ー」
「どおおおしてそうも反応薄いんですかぁぁっ」
ルークがばしばし机を叩くが、まあそう嘆かれずに、と豚の燻製肉と卵の上に、溶けたチーズと玉菜を乗せてパンに挟んで差し出したら、うわぁぁ美味しいぃぃっと、嘆く口調を引きずりながら悶えていた。忙しくも素直な少年である。
「そうですねぇ、嘘をつく理由もなさそうですし、私が王家の遠縁ということはわかりました。……で、それはまあ、ひとまず置いておいて」
「置いちゃダメですよ本題それですから!!」
よいしょ、と空中で物を隣に置く仕草をするメアに、ルークがその見えない荷物を押し返して叫ぶ。
何とも言えない顔をしているベルクに、メアはふわっと微笑んだ。
「今日、突然いらっしゃったということは、何か理由があるのでしょう?」
駆け落ちをした皇女の孫。
ずっとほったらかしにしていた田舎の娘。
メアの父も祖父も平民だ。身体に流れる血の、実に四分の三は庶民で出来ている。
血統的には明らかに劣っているメアを、今更になって迎えに来た、というその不自然さ。
「私、どうして必要になったんでしょう?」
まさか、従兄弟違いにあたる国王が、突然メアに会いたくなった訳ではないだろう。
「私、何の役割を求められているんですか?」
こんな田舎の、絶縁状態にあった遠縁を引っ張って来なければならない、その理由。
ルークが唇を噛む。ベルクは深く頭を下げる。
「氷の国の、安寧たる日々の為……」
苦いものを噛み潰した声で、静かに告げる。
「あなたには、帝国の第皇子。メディクス殿下に嫁いでいただく」
メアは笑みを崩さず立ち上がる。
「なるほどー。じゃあ、荷造りしますので、ちょっと待っててくださいねー」
「だからどうしてそんなに軽いんですかっ!」
ルークが耐えられずに、また叫んだ。
*
ちゃぷん、ちゃぷんと水が打ち寄せる。
薄暗い水路。貝殻で出来たランプを灯し、メアはしゃがみ込んで水面を照らした。
子守歌のような、口笛。
ぽこん、ぽこんと、つるんとした顔が浮いてくる。メアはランプを置いて手をさしのべた。
カロラは、ルルルル、と甘えた声を出して寄って来て、掌に頭をすり寄せた。アウルは傍から離れたことを恥じたように、控えめにガララと鳴いて、メアの膝頭に頭を押し付ける。
昇ったばかりの月が、アーチ状の出入り口から差し込んでいる。水面が銀に輝く。清かな水の音を聞きながら、メアは二頭を平等に撫で続ける。
その表情は静かだった。
葛藤も、不安も、喜びも、動揺もなく、風のない朝の海のように凪いでいた。
ふいに、大海豹達の顔が歪んだ。鼻に縦の皺をぎゅっと寄せ、低い低い警戒音を発する。
背後で扉が軋む。ちゃりっと鎖帷子が擦れる。
メアは振り返らずに言った。
「……心配しなくても、逃げたりしませんよ」
ベルクは遠雷のような声で応じた。
「望まぬ婚姻を強いられた挙げ句、身を投げた女を知っている」
「恋人だったのですか?」
不躾な物言いに、ベルクは少し黙ってから、低く簡素に応じた。
「……従姉だ」
好きだったんだろうな、とメアはそれで察した。
アウルとカロラが、短い毛を逆立てている。メアが口笛で宥めると僅かに緩んだが、ベルクがもう一歩前に進んだ途端に、二頭は水路から躍り出た。
滝のように水が流れ落ちて白く砕ける。
おとぎ話に出てくる巨人の門番のように、二頭はメアの前に立ちふさがって牙を見せる。
メアは振り返ってベルクに忠告した。
「危ないですよ。自分より小さくて動くものは、みんな餌だと思いますから」
岩山のように巨大な騎士も、二頭に比べれば頭一つぶん小さい。
大海豹の別名は海の狩人。間抜けな顔に油断してはいけない。彼らは雑食で、魚は愚か大抵の小動物は美味しく頂いてしまう。油断していると腕や足など簡単に食い千切られる。
ましてや彼は、天敵である大海烏の匂いをさせているのだ。
ベルクは老狼のように油断のない目で呟いた。
「あなたは危険では、ないのか」
「野生の子は危ないですよ。だけどこの子達は私のことを群れの仲間だと思っているので、襲いません。それに、挨拶程度なら野生の子とも交わせますから、対応さえ間違えなければ素通りして貰えます」
「もし、対応を間違えたら」
「餌になりますねー」
間違えれば相応の対価を支払わねばならないのは当然のことだ。
さらりと告げたメアの背後で、二頭の大海豹が臨戦態勢で呻っている。
「……敵意がないことを伝えるには、どうすれば」
「しばらくじっとしていてください」
メアは短い毛の生えた身体を撫でて、高く低く口笛を吹いた。微かに拍子をつけて、歌うように。
『大丈夫、大丈夫、心配ないから……』
フンッとアウルが鼻を鳴らしてから呻るのをやめた。カロラはまだ不満そうに毛を逆立てているので、メアは背伸びをして鼻を撫でてやった。彼は、しぶしぶといったていで警戒音を小さくする。
ベルクが感嘆したように小さく息をついた。
「……懐いているんだな」
「弟妹みたいなものです」
「良い騎士だ」
ふっと笑った顔は思いの外優しかった。
彼を見てメアは、これから向かう白輝の都を好きになれたら良いと思った。
アウルとカロラを順番に抱き締めて、足下のランプを拾う。丸く黄色い灯りが壁に映って揺れる。
長く長く、甲高い口笛が響く。
『お願いがあるの。聞いてくれる?』
二頭の大海豹は、再び水路へ潜っていく。身体をメアより低くして見上げるというのは、メアのお願い事を聞いてくれる時の体勢だ。
メアはランプを水路に掲げ、その形を覚えさせた。
『蒼の姉様に、これを』
いつもの手紙の交換かと、アウルが請け負う。
『それが終わったら、友達と遊んでいていいよ。ずっとずっと遊んでいていい』
アウルもカロラもきょとんとしている。つやつやの黒い瞳は、まだ何も理解していない。
明日もまたメアがいつものように毛並みを整え、口笛を吹いてくれると当然のように信じている。
メアはもう一度口笛を吹く。
『できる?』
彼らは答える。大丈夫、と。
安心したようにメアは微笑み、そして灯りから手を離した。
ざぶんと落ちたランプは、一瞬水中で月のように輝き、すぐに消えた。
辺りが一瞬真っ暗になる。水面で銀に輝く月明かりが、急に明るくなったように感じられる。
カロラがランプにじゃれかかったのが、跳ねた飛沫でわかった。アウルはどこか不安そうに鳴いている。メアが優しく口笛でその鳴き声に唱和する。
ふうっと音が消えた時、二頭は水路を通って外海へ向かっていった。
メアは闇の中その姿を見送り、小さな声で呟いた。
「……元気でね」
*
翌日の朝は真綿のように柔らかい曇り空だった。
盛夏には珍しい肌寒さ。白々と明ける薄闇の中、メアは慣れ親しんだ家に別れを告げた。
「忘れ物はないか」
「はい、大丈夫です」
重々しく訪ねるベルクに微笑むと、彼は頷き、メアの足下にあった大きな旅行鞄を手に取った。軽々と持ち上げ、それから僅かに眉をひそめる。
「……何が入っているんだ?」
「え、本ですよ?」
むしろそれ以外に何を入れるんですか? と言わんばかりのきょとんとした顔で見詰め返されて、ベルクはしばらく黙った後、
「……そうか」
深く追求しないまま、荷物を運んでくれた。
鳥車は水陸両用なので、窓より上部に扉がある。普通、外から梯子を掛けて乗り込むのだが、彼らは持って来ていないようだ。どうするのかと思って見ていたら、鞄だけ先に中に入れた後、ベルクはその場で膝をつき、車体に手を当ててメアを見た。
「乗ってくれ」
子供が見たら泣きながら逃げ出しそうな怖い顔をして、遠雷のような低い声で告げる。
見た目にそぐわぬ紳士っぷりに、メアはほのぼのと笑顔になった。ちらりとルークを見ると、子供が親を自慢するような口ぶりで囁いた。
「あれ、天然なんですよ。うちの隊長」
ルークは悪戯っぽく笑って、メアへ手を差し出した。流れるように優雅な仕草だった。
メアは少しはにかみながら、ルークの手に捕まると、ベルクの膝と腕に足を乗せ、鳥車に乗り込んだ。
貴人のお忍び用なのだろう。粗末な見た目に反して、中は壁紙や調度品が深い緑と銀に統一され、高級感のある落ち着いた雰囲気だった。数段のみの急な階段を降りて、革張りの椅子に座ると、脚が半分埋まる程に沈んでゆく。
メアが腰を落ち着けた頃を見計らって、灰色狼のような騎士の、太く強い指笛が鳴り響いた。
大海烏が甲高く鳴き応える。鳥車はゆっくり走り出し、水飛沫を上げて水路へと滑り込んだ。
鞄を膝の上に乗せて抱え、メアは静かに窓を見詰めた。瓶底のような分厚い眼鏡に、朝日に波打つ海原と風車の街が映り、やがて小さくなっていった。
長距離の耐久ならば大海豹、短距離の速度なら大海烏というのは風車の街っ子ならば常識だ。しかし、ベルクの操る大海烏は一等高速獣であるようで、半日泳いでも速度を落とさなかった。
潮目を越えると海の色が変わる。二回休憩を挟んで影が最も短くなった頃、急に海原は澄み、寒さが忍び寄ってきた。
氷の国は大陸の北西に位置する半島だ。猫の前足を横から見たような形をしている。爪の部分が風車の街、白輝の都は猫の前足の付け根に存在する。
ベルクの操る鳥車だと、半島沿いを半日北上すれば、白輝の都への中継地点に着いてしまった。
ベルクは港の端に鳥車を繋留すると、御者台から桟橋に飛び移って、港町へと歩いて行った。
「隊長、お昼買ってくるそうです」
ルークの声が御者台からかかる。
はい、と返事をしたメアだったが、残念ながら窓からは桟橋の裏側しか見えない。
元より風車の街から出たことの無い田舎者だ。初めて見る他所への興味が抑えきれず、席を立ち、小さな階段を上ると顔の幅だけ扉を開いた。
地図でしか見たことのない、黒の港。
豊かに産出する石炭で栄える、荒くれ鉱夫達の街。
血の気が多く喧嘩っ早いが義理と人情に厚く、熱気と喧噪が渦巻いて街を動かしていると聞く。
ちょっとだけでも、とどきどき顔を出したメアは、
「……まあ」
寂しげに眉を下げてため息をついた。
港に面した大通り。風車の街ならば最も賑やかで喧噪の満ちている筈の場所は、ほとんど人気がなく、閑散としていたのだった。
色鮮やかな壁の塗料は剝がれ、あちこちに閉店した店が目立つ。道行く人は皆痩せて風体が悪い。
昼間から酔って千鳥足の者や、猫背で俯き足早な者。何人かは、繋留されている鳥車を胡乱げな眼差しで一瞥し、不快そうに唾を地に吐いていた。
「メア様。危ないですよ、顔引っ込めてください」
ルークにたしなめられて、メアは寂しげな顔のまま御者台の彼を見上げた。
「黒の港の鉱夫達……。姿が見えないようですけれど、炭鉱へ出掛けているのですか」
ルークが軽く驚いた顔をした。
「知らないんですか? 黒の港は、三年前あたりから鉱脈が枯れ始めたんです。今では最盛期に比べたら絞りかすくらいにしか石炭が出てなくて……。ほとんどは、他所の街に逃げちゃいましたよ。風車の街は交易が盛んですから、噂も早いと思ってましたけど?」
「……私、まだ酒場に行けませんし……。黒の港の人達は、あまりこちらに流れてきませんから」
「ああ、風車の街は、知性が高い者達しか暮していけないって思われているんですよ。しかも、陸路で行くには|凍針連山が厳しすぎますし、鳥車は高価。結局、行きたくても行けないみたいです」
メアは自分の世間の狭さに顔から火が出る思いで俯いた。風車の街の研究者達を笑えない。
メアだって、大海豹に構けるばかりで、外の情報を仕入れようとしていなかったのだ。各国の本を読んで知識を深めたつもりになっていたが、その実こんな近くの街の現状も知らなかった。
「何にも知らないんですね、私……」
消え入りそうな声で呟いたメアに、御者台からルークがからりと笑いかけた。
「じゃあ、これから知ればいいじゃないですか」
メアは、ばっと顔を上げる。
――なれば、これから知れば良い。
少年の顔が、かつてそう言ってくれた幼い少女の面影と被って見えて、首を振る。
「どうしたんですか?」
「いいえ……。ありがとうございます」
メアは、今は遠き砂漠の国へ泳いでいるであろう弟妹と、文通相手の姉にぼんやり思いを馳せた。
アウルとカロラは、今どこに居るのだろう。彼女に手紙を渡せただろうか。
別れの痛みは虚ろで、漠然とした不安に似ている。
もう一度どこかで会えるかも知れないと思う期待が、悲しみをどこかぼんやりとしたものに変えてしまうのだ。そのせいで、昇華しきれなかった感情が、喉の奥につっかえて小さなしこりとなる。
「あー、ちょっとスイマセェン」
その時、粘っこいのにキンキンと高い声がして、メアは顔を上げた。
桟橋の向こう側から、誰かが走ってくる。
がりがりに痩せて鎖骨の浮き出た、出っ歯の男だ。骸骨のように頬骨が出ていて、鼠に似ている。
「メア様、鳥車の中へ」
鋭く囁いたルークに、メアはすぐさま従おうとしたが、僅かに遅かった。
滑り込んできた男が、腰に吊っていた黒い棒を、扉の間にねじ込んだのだ。
「スイマセェン、ちょっとお話あるんすけどォ」
「あれー、何か御用ですか? お話なら、お嬢様じゃなくって僕が聞きますけどー。お嬢様にあんまり近付きすぎると、色々危ないですよー」
ルークがわざとぽやんとした口調を作り、ほがらかに笑って見せた。だが、男はルークを鼻で笑い、あからさまに警告を無視すると、黄色い出っ歯を見せてメアに顔を近付けた。
「ちょっと気になっちゃったんですけどォ。アンタ方、通行料払いましたかァ? つうこーりょー」
メアは、下手なことは言うまいと決め、にこにこ微笑んだ。風車の街は治安がいいので、こういった輩のあしらい方は慣れていない。
しかし、微笑んでいるメアを都合良く解釈したのか、そもそも話を聞く気がないのか、ルークが何かを言う前に男が大袈裟にため息をついた。
「いやぁ、払ってくれないと困っちゃうなァ。ほら、他人の土地勝手に通ったらさァ、怒られちゃうデショ? 悪いことしたら、ちゃんと償わないとォ」
煙草と酒と垢の匂いが絶妙に混ざり合った息は、控えめに言って、一度肺に入れたら胃の中身を吐きたくなる強烈さだ。メアはひそかに息を止めた。
代わりに、ルークがことさら明るく手を叩く。
「わぁ、僕達ってば歓迎されてるー」
「そうそォ、俺達優しいからさァ、来てる人は歓迎しなくちゃいけないんだよねェ。特に最近、鳥車とか中々見ないしィ? こりゃぁ、おもてなししてやんないとなァって思っちゃったわけよォ!」
ルークは子犬のような顔を無邪気にほころばせた。
「うん、そうだよね。すごく面白いおもてなしだよ。鼠が人の言葉を喋るなんて見世物、他所じゃなかなか見れないもん! でも、どうせなら泥鼠じゃなくて、綺麗な白亜鼠がよかったなー」
「んだとォ?」
「あっ、ごめんなさい、訂正します。あなたを鼠に例えるなんて、失礼でした。全世界の汚れた路地を這い回ってる鼠さん、ごめんなさい!」
男の顔にさっと血が上った。
あぁ? と、おぉ? の間くらいの発音で威嚇をすると、黒い棒の手元をさっと振る。
その途端、じょきん、と不吉な音を立てて、黒い棒の尖端から刃物が飛び出した。男は、今までとは打って変わったドスの利いた口調で激しく怒鳴る。
「舐めた口利いてんじゃねえぞ、クソガキが! このダッセェお嬢様の顔ぐちゃぐちゃにされたくなけりゃ、とっとと出すモン出せや!」
メアは、飛びだしてきた鈍く輝く刃を見て、ほう、と残念そうにため息をついた。
「あら、やっぱり私ってダサく見えるんですねー」
田舎者の自覚はあったが、はっきり言われるとわりと傷く。お婆ちゃんは気品があったんですけど、としみじみしているメアに、一瞬男がどうしていいか分からない顔をする。メアの首筋には小さくはあるものの刃物が突きつけられているのだから。
「みつあみと眼鏡がいけないのでしょうか……。ルークさん、どう思います?」
「えー、僕はそのままでも可愛いと思いますけど」
「まあ。嬉しい」
「和んでんじゃねえぞクズ共がぁ!」
男が喉一杯に叫んで、棒を真横に振った。刃はメアの襟を引き裂いて扉にぶち当たり、大きな音を立てた。男に襟首を掴まれ、メアは爪先立ちになる。襟元に結んでいたリボンが水面に落ちていく。
開いた扉の縁に、男の穴の空いた革靴がかかる。
「人の屑というのは」
ふいに、身体が持ち上がり、男は目を見開いたまま息を呑んだ。彼は決して小柄ではない。痩せては居るが長身な方だ。しかし今、足は地面から離れ、ぶらんと浮き上がっている。
男は喉の奥で息を潰しながら首を巡らせた。
目の前には強面の眼帯。筋肉で出来た岩山。
遠雷の低音でベルクは呻る。
「お前のような輩を言うんだ」
男はまさしく猫を前にした鼠のように恐慌した。
獲物の棒をがむしゃらに振り回そうとしたが、あっさりベルクの片手に受け止められ、奪われる。
ベルクは腕の力だけで男を投げると、奪った黒い棒を両手で持ち、彼の心と一緒にばきばきと折った。
「ひ……い……っ!」
青ざめて尻餅をついた男に、ベルクはゆっくりと歩み寄る。腕とかかとだけで後ずさる彼の前で、ベルクは静かに膝をついた。
懐に手を入れ、両手で顔を庇う男の前に、拳を指しだし、そっと開く。濡れて汚れた男の手に、ぽとんと一枚、鈍く銀貨が落ちる。
「家族が泣くぞ。帰れ」
男は涙と鼻水で濡れた顔でぽかんと口を開けた。
ベルクは立ち上がって男に背を向けた。
メアの怪我の有無を確認して昼食のパンを渡すと、壁に刻まれた足がかりに爪先を引っかけ、御者台へと軽やかに座る。
見事な指笛に従って、大海烏が鳴き鳥車が滑る。 あらまあ素敵、と扉を閉めて引っ込んだメアが、頬に手を当てて小首を傾げた時、
「馬鹿にしやがって! 馬鹿にしやがって!」
扉越しに、金切り声。メアは窓硝子に指をつけた。
遠ざかる桟橋に男が立っていた。足下には、握らされたばかりの銀貨が転がっている。怒りでか、青白い顔が真っ赤だ。
男は、血を吐くように絶叫した。
「もう、俺に家族なんかいねぇよ!」
男が足下の折られた棒を拾って、鳥車目がけて投げつけた。
棒は回転しながら飛んで来たが、ルークが放ったであろう矢に弾かれて、飛沫を上げて海中に没した。
桟橋の男が小さくなっていく。
彼の顔はもう見えない。けれど憎しみの眼差しは、未だ鳥車に突き立っているように感じて、メアは目を閉じた。
ここは違う。何もかも、風車の街とは違う。
メアは、遠ざかる黒の港の、枯れた植木鉢を見詰めながら、襟首を掴んで来た男の、幅広かった手のことを考えた。
もしかしたら、あれはツルハシやスコップを握り続けた炭鉱夫の手だったのかも知れないと、今更になって気が付いたのだ。
それからまた一度休憩を挟み、大海烏は川を泳ぎ続ける。朝が早かったせいかうとうとしていたメアは、ふっと眩しさで目を覚ました。
窓から夕陽が差し、喧噪が耳の奥を揺らしている。
「まあ」
外を覗いたメアは、思わず華やいだ声を零した。
いつの間にか川幅が広くなり、周囲は大海烏の引く帆船や数人乗りの船が行き交っている。
積み荷を満載した商船が多いが、中には豪奢な銀縁取りをした貴人の鳥車もある。皆一様に川を遡り、行く手に構える街を目指していた。
夕陽に染まって海は赤い。その向こうに薄紅色に染まった、色とりどりの壁を持つ巨大な街が見えた。
無数の窓が刻まれた白い防壁は歴戦にして不落。
あれは戦乱の時を駆けた白輝王の大長壁。
防壁の向こうに聳える、鐘楼と尖塔は雪上の芸術。
あれは刹那の華を謳った銀月王の雪花城。
アーチを描く巨大な石橋の上行き交う無数の馬車。
あれは外交上手の現王、雪輝王の白鳥橋。
メアは小さく呟いた。
「白輝の都……」
氷の国の首都が、その姿を現していた。
都は、伝説の大工が残した無数の設計図が産んだ。
大長壁の生みの親でもある天才大工。彼は、人を守る防壁を建てはしても、人を殺す兵器を造ることを拒んだ。それらは王家への反逆とみなされ、地位、財産、名誉の全てを取り上げられ都を去った。
戦乱の時代は終わり、当時まだ皇子だった銀月王は、工房に残ったまだ見ぬ幾多の建造物に恋をした。
元より、銀、鉄鋼石、石炭、錫、岩塩等の地下資源の豊かに産出する国。帝国より守り抜いた山脈は、和平を結んだ後に渡ってきた高い技術によって富となり、やがて栄華なる都に姿を変えた。
大長壁の関所で札を見せ、内部の長い通路を泳いだ鳥車は、やがて巨大な川へと辿り着いた。
様々な大きさ、形の船が行き交う目抜き水路だ。
細い路地のような水路だけではなく、あちこちに水路から直接乗り上げられるような煉瓦の陸路も繋がっている。
そのうちの、一際大きな通りに乗り上げ、鳥車は坂道を上っていく。雪花城は丘のてっぺんにあるのだ。城から放射状に六つの大通りが伸びている。
水かきのついた黄色い足では、車を引くことなど出来ないのではとメアは心配したが、杞憂のようだ。
大海烏は首を上下に動かしながら、実に力強く坂道を上っていく。白鳥橋を横目に見ながら、大通りはいくつもの水路を越え、やがてゆるい傾斜をつけた建物の屋根の上を走り始めた。
人の多い街でしかできない、暮している人の熱で、道の雪を溶かす技法だ。その存在は本を読んで知っていたが、実際に通ってみるのとではまた全然違う。両脇に雪を落とす水路が流れているのを見ると、ここが屋根の上にあるとは思えない。
道の上から見下ろせば、白輝の都の街並みが広がっている。水路と屋根上の通路が交差し、時折小さな広場が見える様は、雨上がりの蜘蛛の巣のようだ。通路が蜘蛛の糸で、広場が雨の粒。
本で読んだ地図を元に、メアは大雑把に今の位置を把握した。どうやら、正面から向かわずに雪花城の東側から迂回しているらしい。
有名な教会広場が見えて来た。想像したよりずっと小さい。広場の中央に、薄闇の中佇む、からくり仕掛けの赤い鐘楼がある。剣のように鋭く長い、特徴的な屋根だ。暮れゆく日の中、メアはくっきりと輪郭を残す鐘楼に目を奪われた。
「真珠姫の塔……」
悲劇に彩られた塔だ。
不遇の王女、真珠姫が身を投げた塔。
数十年前、白輝王は停戦の証として、帝国から嫁いで来た姫を第二妃とした。帝国妃と呼ばれた彼女の孫が、清廉な美貌と名高かった真珠姫だ。
真珠姫は、謙虚で繊細な心優しい姫であったらしいが、その祖母帝国妃は野心家だった。
正妃の息子、銀月王に王位を譲ったと見せかけて、数年後白輝王が崩御するなり、己の息子である白銀公と共謀し、銀月王の暗殺を行った。彼女の策は綿密で、銀月王の在位は僅か三年だった。
しかし、当時王太子だった雪輝王によって、白銀公が即位をする前に悪事は暴かれ、実行犯だった白銀公は国王殺害の咎で処刑。帝国妃は僻地に流され間も無く獄死した。
僅か数年の間に、叔父、父、祖母を相次いで亡くした真珠姫は心を病み、ある日、白銀公が処刑された教会広場の鐘楼から身を投げた。
以来、あの鐘楼は真珠姫の塔と呼ばれるのだ。
窓にかじりついていたメアの耳に、からぁん、からぁんと、悲しげな鐘の音が鳴り響く。
あれは真珠姫の嘆く声。悲劇の中死んだ悲しき姫が、道連れを求めて街を彷徨い、泣いている。
鐘の音に耳を傾けるメアの前に、やがて壮麗な門が現われた。びっしりと蔦や小鳥が浮き彫りになった柱。最上部に、過去の男神と未来の女神に両側から支えられた大時計が嵌め込まれている。
何事か御者台での遣り取りを終え、門をくぐり抜けた鳥車は、華麗な尖塔をいくつも備えた雪花城へと入っていった。
城の中に入ってしばらくすると、細い通路に入ったのか、窓から見えるのは煉瓦の壁ばかりになってしまった。どこをどう走っているのかよく分からないまま、しばらく。
ようやく鳥車を降りた頃、メアは足がくたくたになっていた。地面に降りたっても、まだ揺れているような気がする。自分が降りたのがどこかも分からないまま、メアはベルク達の案内に従って雪花城の城内へと足を踏み入れた。
どうやら人気のない裏口のひとつから入ったらしく、長い廊下は冷え冷えと静かだった。中は薄暗く、入っている灯りも最小限だ。
足下もおぼつかない中では、先導するルークの持つ角灯が頼りだ。ゆらゆら揺れる丸い灯りについていくと、やがて客間らしき部屋へ辿り着いた。
「今日はもう遅いので、ここで休んで……」
言いながら扉に手をかけたルークを、ベルクが無言で制する。彼は素早く扉の前に立つと、左右に視線を走らせながら、口の動きだけで、雑談を続けるように指示を出す。
「……くださいね。明日また迎えに来ますから。明日からしばらく勉強の日々が続きますけど、風車の街出身のあなたなら大丈夫でしょう。帝国の王子が来訪する日取りは……」
素早く意図を汲んだルークが、何でもない口調で続ける。ベルクは少年騎士から受け取った角灯を掲げ、柄に手をやりながらゆっくりと扉を開ける。
背中からぴりぴりと滲む緊張。けれど、彼は半歩部屋に入った途端に、すうっと力を抜いた。
ベルクが角灯を前に突き出す。メアは彼の巨体から顔を覗かせて、灯りに映し出された足を見た。
「何故ここにいらっしゃるのですか」
ベルクが深い深いため息の後に、低く問うた。はっはっはっは、と闇の中から楽しそうな笑い声。
「怒るな、怒るな。いやまあ、愛想良くニコニコしているお前なんて気色悪いだけなんだがな、しかし私はお前に怒られるのを喜べる程変態でもない。そんな訳で、やっぱり怒るな」
ぺらぺらと回る口調は軽やかだが、声は渋い。
どうしてお部屋に愉快なおじさんが居るのでしょう、とメアが小首を傾げている間にも、ベルクはただでさえ低い声を更に低くしている。
「怒るなどという不敬は致しません。ただ、御身を案じてお諫めしているのです。私がお送りいたしますので、今すぐお戻り下さい」
「あー、戻る戻る。お前に言われなくても、彼女に挨拶したらすぐにでもな」
どうやらメアに用事があって来たらしい。
「あらあら、どちらさまですか?」
のんびり尋ねると、角灯の照らす光の中に、髭面の精悍な男が歩み寄ってきた。
後ろでルークが「こく……っ!?」と叫びかけて、両手で口を塞いでいる。
「ああ。そちらのお嬢さんか」
ひらっと手を振って微笑んだのは、細いが筋肉のよくついていて威厳がある、壮年の男だった。茶色い巻き毛がそのまま顎を覆う髭まで繋がっているせいで老けて見えそうなのに、悪戯っぽく光る灰緑色の目の為か、まだまだ働き盛りに感じる。
「長旅で疲れているのに、突然来訪をする無礼を許せ。どうしても、今日君に会っておきたかった」
彼は、瓶底のような眼鏡をかけたメアを見て、少し眉を上げたが、すぐに破顔して大きな手を差し出した。反射で握手に応じると、指に飾り気はないが上質な指輪が嵌まっているのが見えた。
銀細工の台座に嵌まった青い石は、特殊な削り方をしているのか、光が差し込むと中に雪の結晶のような模様が現われる。
あらどこかで見ましたこの宝石、とメアは少し考えて、頭の中の膨大な図書館を探る。
結果はわりとすぐに出て来た。王立銀細工連盟が毎年出している新作発表の冊子。その巻末に必ずついている、連盟創業者が作った指輪だ。
「そうか、そうか。君が父さんの話していた、ヴィリディス様の……」
感極まったようにぶんぶん手を上下する男に、メアが振り回されてぴょんと跳ねる。
たたらを踏んで体勢を整えたメアは、にっこり笑って、彼を真っ直ぐ見返した。
「こんばんは、国王陛下。御機嫌麗しゅう。まさか拝謁叶いますとは、夢にも思いもしませんでした」
創業者の傑作「白輝」は、王家に献上されたのだ。
現在の持ち主は、雪輝王その人である。
「祖母から、従妹同士でよく遊んだと、昔話をよく聞いておりました。お父様は、あなたに蜂に刺された痕を見せてくださいましたか?」
ほがらかに尋ねるメアに、後ろでルークが潰れたような声を出している。
雪輝王は、しばらく灰緑色の瞳を見開いていたが、きょとんとした顔のまままばたきをした。
「蜂の痕? ……さあ、父さんは子供らの前でズボンを脱いだりするような人ではなかったからな」
「あらあら、国王陛下は御冗談がお好きですね。どうして蜂に刺された痕が、ズボンで隠れる場所にあるだなんて御存知なんですか?」
しばしの沈黙。
髭面のもじゃもじゃ男と、眼鏡の三つ編み少女は、二人は、お互いに微笑みながら握手して見つめ合う。
先に堪えきれなくなったのは雪輝王だった。
ぶっと噴き出すと、あっはっは、と快活な笑いを弾けさせる。心底楽しそうに、岩山のような騎士を振り返って、目の端に滲んだ涙を拭った。
「ベルク! これは良い、俺達の従妹違い殿は子栗鼠のふりをした猛禽だ。なかなか食えないぞ!」
心底楽しそうに言われて少し複雑だった。
確かに、メアもメアで、まあ、いい性格をしてらっしゃるわ、とひそかに思ったからお相子なのだが。
「ああ、確かに父上は臀部に蜂に刺された痕がある。まあ、至上の恥として絶対に俺達に見せなかったがな。しかし、酔いが回るとすぐに、親友であり初恋の君、従妹のヴィリディス様の話をしたから、そのあたりの話は一通り聞いているよ。……それにしても、どうして俺のことがすぐに分かったんだ?」
「はめてらっしゃる指輪は、銀細工連盟の永遠の誇りとなっているんです」
「なるほど、博識だな。流石は風車の街の出身だ。確かにこれで俺は、貴女を本物だと確信して、王族としての対応をせざるを得ない。いや、まあベルクが間違うことはないと思っていたがな、それでも煩わしい確認の流れは必要なくなる。素晴らしい!」
言ってから、また面白そうに笑い続け、メアの手を離してから晴れやかに言った。
「ああ! やっぱり来てよかった。バルコニーにぶら下がって侍従長の目を盗んだ甲斐があった!」
ベルクが、雷鳴の声で咎める。
「陛下。二度とされませんように」
「ああ、わかっている。わかっているさ。ただ、俺はこの機会を逃したら、個人的にはもう彼女と話せないんだ。見逃せ、ベルク」
「ですから、陛下の御意向は全て私がお伝えしますと以前から申し上げております」
「お前に、俺の代わりとして頭を下げさせるなんて御免だな。ただでさえ心労で男前が痩せ狼なのに」
「私などの些事に陛下がお心を砕かれるなど、もっての他でございます」
「馬鹿言え。王であろうと俺は俺だ。凍った鉄より頑固な弟を心配して何が悪い」
さらっと告げられて、メアは頬に手を当てた。
兄弟だったのか。道理でベルクが饒舌だ。
王家の人々は名前や動向はあまり庶民に伝わらないが、王弟は臣籍を賜って騎士になった、程度の話は聞いている。
言われてみれば、王と瞳の色が同じだ。ただし、灰色に染まった髪と眉間にしっかり刻まれた皺のせいで、どう見てもベルクの方が年上に見える。
じっとベルクを見詰めたら、気まずそうに顔を逸らされた。
「血が繋がっていようとも、臣下は臣下でございます。……それから、話を逸らさないで下さい。ただでさえ寝ていませんのに、これ以上……」
「あー、分かってる分かってる。お前が心配してるのは知っているから、そう睨むな」
「睨んでなどおりません。地顔です」
「いや怒ってるだろその顔は絶対。……まあ、いい。とりあえず、彼女に会えただけで良しとしよう。淑女の部屋にいつまでも野郎がたむろしているのも問題だ。もう、出て行くよ」
雪輝王はベルクをいなしてから、ひたとメアを見詰めて、すっと真面目な顔をした。
「メア・カテドラーレ。我が祖父の曾孫殿」
はい、と返事をして居住まいを正したメアに、彼は簡素に謝罪をした。
「すまない」
メアは微笑んでスカートの裾をつまむと、町人の作法で一礼した。
雪輝王が、ベルクに伴われて出て行った後、ルークは角灯を持って室内を案内してくれた。
「こっちは、応接間なんです」
暖かい光に、メアが住んでいた家のベッドより大きなテーブルや、灯りの消えた華奢なシャンデリアなどが照らされる。金と綠が交差した緻密な模様をした壁に、ミルク色の石で出来た暖炉に飾られた、豊穣と婚姻の神の浮き彫刻。
そこだけでメアの家の広さを越える応接間を突っ切って、重たい焦げ茶の扉を押して入ると、ルークは真っ先に部屋へ灯りを入れてくれた。
寝室の方は、応接間よりもやや小さい、暖色を基調とした可愛らしい部屋だった。小さな花の刺繍が入った、布張りの椅子。落ち着いた赤茶の煉瓦で出来た暖炉と、運命の女神の織られたタペストリー。ベッドには、白地に金と赤の花模様がついた天蓋が、靄のように薄いレースと共に掛かっている。
ルークは、灯りを置くと一旦応接間に戻り、よろよろしながら両手でメアの荷物を持って来てくれた。
「寝間着はクローゼットに用意してあります。もしも慣れなくて眠れないようでしたら、持って来たものを使っても大丈夫ですよ」
「いいえ、お借りします。持って来てないので」
荷物に入っているのは本と筆記具と紙のみである。
潔い回答が面白かったのか、そうですか、とルークはくすくす笑って壁際の小さなテーブルへ歩み寄った。彼はテーブルに乗っていた、天使をかたどった銀の鈴を持って来て、渡してくれる。
「僕、護衛の為に続き部屋に居ますからね。用があったら鳴らしてください」
「はい。ありがとうございます、ルークさん」
「さん、はつけなくていいですよ」
微かにはにかんで、ルークはメアの手を両手で包むようにして、鈴を手渡した。小さいが皮の厚い、温かい手が、メアの手をじんわりと包む。
きゅっと手に力を入れて、ルークは真剣に告げた。
「安心してくださいね。あなたは必ず、僕が守りますから」
目をぱちくりさせたメアが何か言う前に、ルークはさっさと手を離してしまう。リン、と鈴が鳴った。
「それじゃあ、僕はこれで失礼します。明日も早いですから、なるべく寝て下さいね」
少し早口で小言めいたことを言った後、ルークはぺこりと一礼した。
そのまま、メアが呼び止める間もなく、小走りで扉の向こうに消えていった。
ぱたん、と扉が閉じる。メアは、角灯が照らす高価な調度品ばかりの部屋を見回した。
鞄の中にある本を読もうかとも思ったが、流石に疲れていたのでやめた。
ベッドに歩み寄って、カバーの上に畳んでおいてあった寝間着に着替える。分厚いのに柔らかく、しっかり掴んでいないと手から零れ落ちてしまいそうな手触りは、庶民のメアにも果てしない高級品だとわかった。そもそもベッドが、メアが十人転がってもまだ余裕がありそうな程、広い。
夏といえど朝は寒そうなので天蓋を閉めようかと留め紐を解いたら、布地の重みでよろける程、びっしりと金刺繍がしてあった。
ぽてん、とベッドの上に座り込んで、メアはぽつんと呟いた。
「凄いところに来ちゃった……」
なんだかどっとくたびれてしまって、のそのそと上掛けの中に入り込み、角灯を吹き消し眼鏡を外す。
こんなところで眠れるかしら、と不安になりながら、ひとまずメアは目を閉じた。
すぐに寝付いた。
《どんなに願っても》
「ねえ、ルーク。神はいらっしゃると思いますか」
彼女は色のない唇で囁いた。
彼女の祖母もまた、生まれ故郷の帝国で、その名と美貌を轟かせていた。けれど、真珠と讃えられた清廉な姫君は、その祖母よりもなお、美しかった。
既にこの世のものではないような、白い肌。心労で一夜にして真っ白になった、銀の髪。
その美しさは精神を煩うことで衰える気配はなく、ぞっとする程冴え冴えと輝いていた。
彼にとって、世界で一番美しい人。
神が居るとしたら彼女のようなのかも知れない。
幼き日と同じ感想を、彼は抱く。
額から血を流した見習い騎士の前に、ドレスのまま膝をつき、そっとハンカチを当ててくれた美しき姫君。彼女と初めて言葉を交わした昼下がり。
――まあ、ひどい傷。目を閉じて。
近衛騎士となった彼は、あの時と同じ感想を、あの時と真逆の気持ちで抱く。
秘めた熾火のような想いだけが、時を越え同じ形のまま胸の底で熱を持っている。
言葉に詰まる彼を前に、彼女は唐突にそらんじる。
「疑ってはなりません、何故なら信じた時、既にあなたは救われているからです。疑うということは、天上への道を自ら遠ざけることと同じなのです」
それは彼女の祖母と父の信ずる、帝国の神の教え。
分厚い革張りの本にびっしりと隙間なく詰め込まれた教義を、彼女は息をするようにそらんじていた。
くるりと彼を向く顔。彼女は再び問う。
「信じた者は救われると思いますか」
彼とて、神を知らぬ訳ではなかった。
氷の国で生まれ育ち、土地に息づく神々の逸話を寝物語に育った。
守護者の運命を知り、心正しくば救いをもたらす運命の女神。努力に祝福を与える健康と愛の神。信徒を害する者に制裁を加える復讐の神。
あるいは、帝国で信じられている、最上の天上神。
光に満ち全てのものを愛し、世界の始まりとはその御方が生まれた時だと言われている。
彼女が求めているのは、そういった、清い行いをすればそれ相応に報いてくれる神のことなのだろう。
絶対的で、裏切らず、心を全て預けられるような。
「ねえ、答えて。答えてください、ルーク」
細く細く、やせ細った指。肉のそげ落ちた手首。
腕が頼りなくゆらめいて、彼女は袖を掴んで握り込む。たまらなくなって、その手を両手で取った。
痛々しい程小さく見える、やせ細った手。
かつて、彼の髪を梳いてくれた手。絶対に似合わないと何度も言っているのに、彼の茶色い髪に白いリボンを結んできて、可愛い可愛いと喜んでいた。
二度と戻らぬ光景が頭を過ぎり、胸を締めつける。
彼女が今、微笑んでくれるなら、何でも差し出すのに。髪でも、腕でも、命でも。
ルーク、と彼女は囁く。喘ぐように。
「神は本当にいらっしゃると思いますか」
真っ暗な、瞳。
「神は私をお救いくださると思いますか」
騎士は答えられなかった。
神の言葉も。
彼女の希望も。
苦境を払う力も。
ひとつたりとも、彼は持っていなかったから。
姉様、私は今雪花城に居ます
それからメアは、満月が三回過ぎる程の時間を雪花城で過ごした。
家庭教師に宮廷作法を徹底的に叩き込まれ、帝国へ嫁ぐのに恥ずかしくない娘へと矯正されたのだ。
元より、知識に関してはそこらの令嬢など吐息で吹き飛ばしてしまうようなメアだ。歴史や詩歌、言葉遣い、しきたりなどは三日で教師を飛び越える程に覚えてしまった。
何にそんな時間を費やしたかというと、作法である。別に、メアが田舎者で粗暴だった訳ではない。
致命的に、運動が出来なかったのだ。
特にダンスは壊滅的だった。音感はあったが身体がついていかない。体力はあったが身体が硬い。
その酷さたるや「皇子が雪花城に来るまで猶予がなければ、首を吊りかねませんでした」とダンスを教えた教師がしみじみ言った程だ。
お陰でメアは、雪花城での日々を、与えられた部屋と練習室の往復で過ごした。
楽しみは、朝と夕方に出来る僅かな休み時間に、持って来た植物全図大図鑑を読むくらいだ。
それでも、根気よく教われば、少しずつ転んだり臑を蹴ったり後ろにひっくり返ったりする回数は減ってくる。花のような氷の国の夏を踊り明かして過ごしたメアが、何とか見られるようになったのは、そろそろ雪もちらつこうかという秋の頃だった。
メアと、帝国の第三皇子の顔会わせは、遊学に来た彼の歓迎会という名目で行われた。
未来の夫となるべき人に会う日の朝、メアは朝からメイドにサウナへ叩き込まれ、あちこち肌を擦られた。沢山汗をかいて冷水で冷やされた後、粉っぽい匂いのする軟膏を顔にすり込まれ、髪は香油で梳かれた後、頭の後ろでまとめられた。
身支度が全部終わったのは、夕方になってからだ。
全身ぴかぴかになったメアは、肌から甘い匂いを立ち上らせて、美しく髪を結い上げ、ついでに眼鏡も外せと厳命されて、椅子に座っていた。
身につけたのは、この日の為に寸法を測って仕立てた伝統的なハイウエストのドレス。
深い緑のベルベットで、裾が二段になっていて回ると広がる。肩にかけたケープの襟はたっぷりとフリルがついていて、亜麻色のリボンを喉元で結ぶ。
フェルトのバレッタは紺。耳で揺れるのは銀細工の王家の雪花紋章。
メアの着付けをした、赤毛で年かさのメイドは、最後の確認にとメアを立たせ、むーんと唸って腕を組んだ。彼女は、どうにも味のしまらないスープの鍋を前にした主婦のように鼻に皺を寄せてから、ぱっと思い付いたように、花瓶から一輪白い花を抜き取り、髪に飾る。
星のような五枚花弁。
生花は夏を過ぎたら宝石よりも贅沢品だ。
赤毛のメイドは満足げに頷いて鏡を見せる。
「ほらっ! どうです? 完璧でしょう?」
メアはぱちくりとまばたきをした。
「まあ」
そこに居たのは、たおやかで優雅。碧の瞳が麗しい淑女だった。
人の形をした花だった。
「化けられるものねぇ……」
メアは頬に手を当てて感嘆の息を吐いた。
元がぶっといみつあみに瓶底のような眼鏡。流行もへったくれもないもっさい田舎ドレスだったので、落差がすごい。
メイドの素晴らしい手腕にしみじみ感心していると扉が叩かれ、そのまま会場へ向かう運びとなった。
メアは、眼鏡がないと歩けないとメイドに頼み込み、移動の最中だけはかけることを許して貰った。
既に廊下は招待客が笑いさざめきながら行き交っている。軽々しく顔を出せないメアは、廊下ではなくいくつものサロンや応接室、ギャラリーを抜けて、大広間へ向かった。
小さな控えの間で待つことしばらく。
「メア様、お待たせしました!」
いつもより上質で装飾の多い鎧を身につけたルークが、子犬のように転がり込んで来た。
正装のメアを見るなり、ぱっと顔をほころばせて、「お似合いです!」と叫ぶ。それから苦笑いして、
「……眼鏡がなければ、もっと」
と付け足した。メアは、御礼だけ言って、眼鏡の件は聞かなかったことにし、微笑んで流した。
大勢の前でこの眼鏡を外してはいけないと、祖母から何度も言われていたから。
誤魔化せるところまでは、誤魔化しましょう、と密かに心の中で決意しつつ、メアは護衛のルークに伴われて、目立たない場所からするりと会場へ入っていった。
大広間は星空のようだった。
薄暗い。天井から下がったシャンデリアは半分しか火が灯っていない。
燭台の数も、手元がやっと見えるかどうか。お陰で広間の全景がよく見えない。
招待客の貴人達は皆、自分で持って来たのか、趣向を凝らした、小さな銀細工の手燭を持っている。
灯火は人のさざめくたびに揺れて夜空の瞬きのようだ。天井から垂れ下がった銀の緞帳は、天の川。
メアはこそっとルークに囁いた。
「素敵な演出ですね……」
空にぽんと投げ出されたような心地になる。
宴だと思えばひどく暗いが、夜だと思うと途端に明るく美しい星月夜に思えてくる。
ルークは曖昧に頷いて、テーブルの端にあった手燭を取った。彼は大広間の内装がどうなっているか全て分かっているらしく、的確にメアを先導する。
王座は、最も星がひしめく場所にあった。
一段高くなった、半円状の広い空間で、雪輝王が誰かと話している。その背後に巨木のように控えているのは、遠くからでも分かる。ベルクだろう。
雪輝王もベルクも、光を跳ね返す銀の細工物を身につけていて、この会場に相応しく綺羅綺羅しい。
けれど、彼らと話している男は、それ以上だった。
腰までの短いマントと、腿まである長い襟詰めの上着。それら全てに、上質な金刺繍と、小粒の宝石が縫い留められている。従者が掲げた手燭は、金鎖が長短をつけて何本も下がっており、金色の細い滝のようだ。
雪輝王がこちらに気付いて顔を向ける。掌で示されて、歓談していた男が振り向く。
まあ美形、とメアは他人事のように感想を抱いた。
天才彫刻家が銀の塊で青年像を作ったら、そのあまりの美しさに芸術の神が命を吹き込みました。それが彼の出生です、と自己紹介をされても何の違和感もない。手足はすらりと長く、顔は小さい。うなじで括った背中までの銀髪。片眼鏡の奥の青い瞳。
人の血が通っているのが信じられないような、冷たい美貌だ。
そんな存在が、生きて、動いて、呼吸をして、メアに視線を留めて――軽く微笑む。
ざわりと周囲がざわめいて、一斉にメアに視線が集った。
誰に言われずとも、彼の名前などわかってしまう。
メアは、叩き込まれた足取りで滑るように前に出ると、淑女の作法で礼をした。
「お初にお目にかかります。遠き帝国から、はるばる氷の国へようこそおいで下さいました」
顔を上げ、己の婚約者を真っ直ぐ見詰める。
「メア・カテドラーレと申します。メディクス皇子殿下、お会い出来て光栄です」
メアの名を聞いて、噂にさざめいていた人々の間から、悲鳴じみた声が漏れる。周囲の紳士淑女がさりげなく後退し、潮のように引いていく。
――やだ、なにあのみっともないの。気持ち悪い。
――正気かしら? 恥ずかしくならないの?
――真似できませんな。私なら外に出られない。
ひそひそと持ち主の分からない侮蔑の声がする。
無視しようとしても勝手に入ってくる言葉の棘に、ひんやりと心が冷えていく。ルークが彼らを不愉快そうにチラッと見たことで、少しだけほっとした。
メディクスは、周囲の声など聞こえなかったかのように、品のある足取りでメアに近付いてくる。注目を受けるのに慣れた、自然な動きだ。
「初めまして、メア。お会い出来て嬉しいですよ。貴女は御存知ないでしょう。私は、ずっとこの時を心待ちにしておりました」
そつのない挨拶を返しながら、メディクスがメアの手を取って甲にくちづけを落とす。
メアは一瞬手を引っ込めかけて、何とか耐えた。ひとまず笑顔は崩さないでいられたが、頬は熱い。
帝国風の単なる挨拶だと分かってはいても、彫刻のような美形にやられると、何やら、稀少な動物と偶然触れあえたかのような謎の感動が湧いてくる。
「まあ、私には勿体ないお言葉です。一体、何人の貴婦人にそう仰っているんですか? お優しい挨拶と分かっていても、舞い上がってしまいそうです」
「つれないことを言わないでください。こんな言葉を告げたのは、勿論、貴女一人ですよ」
宮廷会話の教科書に出て来そうな会話の遣り取りをしていると、周囲の視線が二人の一挙一動をじっと観察しているのが肌で感じられた。
闇の中を無数の目が浮きあがって、じっとこちらを見ているような錯覚に陥る。
閉塞感で息が詰まって、口の中が粘つく。背中にじっとりと汗が滲む。メアはにこにこと微笑みながら、そっと深呼吸をした。
その時、ふいに天井から光が差し込んできた。
思わず招待客達は顔を上げる。大広間をぐるりと取り囲んだ二階のバルコニーに、楽団が控えている。
彼らの背後は天井まである巨大な窓。本物の星空から月明かりが差し込んでいる。
楽団員達は手持ちの楽器を調整すると、指揮に合わせてしっとりとした舞曲を奏で出した。
高い天井に音が反響して、音楽は天から降るようだ。一糸乱れぬ澄んだ音は、今日の星空の宴に相応しく、静かな感動と胸の震えを呼ぶ。
「ああ、これは素晴らしい。こんな舞曲で座っているなんて嘘だな」
一度しんとした会場に、雪輝王の楽しげな声がした。彼は、三、四歳女の子を抱いてあやしていた、上品な貴婦人に手を差し伸べている。
「どうだ、オティーリエ。若い頃を思い出して、少し俺に付き合ってくれんか」
「やだ、今もまだまだお若いですよ、あなた」
「何だ、嬉しいことを言ってくれるな」
「自分の為ですよ。だってそうでないと、私がおばさんになってしまうじゃありませんか」
「なるほど! それはすまなかった!」
雪輝王は快活に笑い、妃は娘を護衛に預けて夫の手を取る。力強く鮮やかに、国王夫妻は踊り出す。
広々と空いた中央に、窓から差し込む月光が差し込んで、水晶と銀で作られたダンスホールのようだ。
自分達の王が踊り出したことで、周囲にざわめきが戻って来た。招待客達は、薄青い闇の中で、互いに目を見交わしながら、相手を見付けて踊り出す。
メアは自分の周囲に粘つく視線が薄くなったのを感じて、雪輝王の踊る方へ静かに一礼をした。
メディクスが、メアに後ろから声を掛ける。
「少しここは騒がしいですね。端の方でお話をしてもよろしいですか?」
振り返って了承したメアは、彼に手を引かれて壁へ歩いて行った。ルークを含む、護衛らしき人は何人か付いてきたが、さっきよりも格段に気が楽だ。
メディクスが、ゆったりした長椅子をメアに勧める。御礼を言って座ろうとした時、ふいに彼がよろめいた。
「おっと……」
芸術品のような長い指先が、メアの眼鏡を引っかけた。瓶底のような古い眼鏡が弾け飛ぶ。
あっと思う間も無く、視界は一気に明瞭になる。
思わず、メアは唇を噛みしめた。
「ああ! 失礼。怪我はありませんか?」
メディクスは慌てたように謝ってメアに近付き、そして突然、顎を掴んだ。
無理矢理顎を仰向けられて、目が合う。
「ああ、やっぱり……」
うっそりと笑んだ美しい顔。彼は確信を持って唇を吊り上げる。紅の三日月に似た赤い口。
「宝石の眼!」
何よりも尊いもの呼ぶ口調で彼は言った。甲高い声。陶酔さえ感じられる、狂気の滲む声。
「麗しき宝石の眼! 手にした物の華なる栄華を約する幸福の予言者。至高の瞳!」
メアの遮る物のない瞳を、舐め回さんばかりに凝視して、歓喜の声を上げる。
「呪わしき宝石の眼! その眼を欲し血潮は大河となり、大地を穢した絶望の導き手。魔性の瞳!」
キョキョキョキョ、と夜中に鳴く黒い鳥のような音が響く。メディクスが肩を震わせているのを見て、メアはようやく彼が笑っていることに気が付いた。
「初代皇帝も熱望した宝石の眼! 古王国に起源をを発する、栄光を呼ぶ瞳! 宝石の眼の嫁いだ家は、必ず花のような栄華を得た! 農夫も、商人も、技師も、皇帝ですら、例外なく!」
メディクスの指が頬に食い込む。薄闇のような濃い青の瞳が、糸のように細められる。
「皇子殿下、お戯れが過ぎます」
とうとう、ルークが我慢出来ずに間に入ってきた。
宴会場の為武器こそ持っていないが、その視線は険しく、返答によってはてこでも動かない構えだ。
メディクスの方の護衛は、逆にひどく静かだ。微動だにしない。それが人形めいて不気味だった。
ルークに遮られ、メディクスはメアからあっさり身を引いて謝罪した。
床に落ちていた眼鏡を拾い上げ、メアに返却する。
メアは礼を言って受け取って眼鏡を掛けた。
度の入っていない、ただ外界から自分の瞳を隠す為だけにしている眼鏡。
視界が少し狭く、濁って見えるようになるが、それを掛けただけで、メアは吊り橋を渡り終えたように胸を撫で下ろした。
「いやはや、失礼いたしました。いやあ、本当に嬉しい。この目で宝石の眼を見ることが出来るなんて。翡翠姫が宝石の眼でしたから、孫の貴女もそうかも知れない、なんて期待していたんですけど」
キョキョキョと悦に入ったように笑っていたメディクスだったが、話している間に白熱してきて、
「いやぁ……。まさかねぇ、まさか本当にそうだなんて! 本物の、生きた宝石の眼だなんて! ああ、私ってば何て幸運なのでしょぉおお!」
最終的に、床と水平になる程仰け反りながら快哉を叫んだ。
「愛によって澄み、血によって穢れる聖なる瞳! その手が汚れた時に輝きが失せるというのは本当なのでしょうか! ぜひ実験して貰いたい! 伝承は本当なのか、この目で確かめたいっっ!」
「そっちですか!?」
警戒していたルークが思わず叫んだ。
「それ以外に何があるんでしょう!」
間髪入れずに叫び返した、メディクスはバネ人形のように身体を跳ね戻し、ぎらぎら光る眼差しで息を荒げて近寄って来る。
「ああ、ああ、何て美しい碧の瞳……。もしも貴女が不慮の事故で死んだあかつきには、ぜっひっとっも、その瞳をくり抜いて防腐処理を施して保存したい! 構いませんよね!? お願いです、どうか、はいと言って下さい! 研究室の一番良い棚をあけておきますからぁぁぁあ!」
メアはにこにこ笑いながら素直な感想を吐いた。
「まあ。父さんと母さんにそっくり」
ほのぼのとした様子に、ルークが若干引いた目でメアを見た。
だが仕方無い。メアの出身は『貧乏学者の吹き溜まり』風車の街だ。
メアの両親は、多岐に渡る知性を蓄えていて、街の人と協力して建造物を作ったりしていたが、基本的には陸上生物の病気に関しての研究に傾倒していた。帝国から特別に取り寄せた硝子の眼鏡で、目に見えない小さな命の性質や習性をそれは楽しそうに探求していたし、新しい発見をしようものなら、夜中であろうと奇声交じりの高笑いを上げていた。
メアのもっぱらの役割は、祖母の膝の上で「楽しそうだねぇ」とにこにこ見守っていること。
風車の街ならそういった人はあまり珍しくないので、両親が特別奇特なのではないと思っている。
メアは居住まいを正してメディクスを見上げた。
「仰る通り、私は宝石の眼です。不慮の事故にはちっとも遭いたくありませんけれど、看取ってくれるお約束をくれるなら、いつか私が冥府の神の子供になった時に、この瞳は差し上げます」
「メア様っ!」
「本当ですか!? ありがとうございます! ああ、生きていて良かった! 感謝いたします最上の天上神! 今日は最高の日だ!」
ルークの悲鳴じみた批難と、メディクスの歓喜の叫びが重なる。メアは落ち着いたまま続けた。
「メディクス様。私達はこの先長く一緒に居ることを定められてしまいました。それはもう仕方のないことで、どうしようもありません。だからせめて私、あなたを好きになれるようにしますね。あなたもどうか、少しだけ歩み寄って下されば嬉しく思います。まずは、お近づきの印に……」
おや、と意外そうな顔になったメディクスに、メアはにこりと微笑み、素朴に手を差し出した。
「私と踊って頂けますか、婚約者様」
*
メイドの血と汗と涙の成果であるところの「何とか形にはなっている」ダンスを終えて、メアは一旦メディクスと別れた。彼は話すべき人が沢山居るようだったので、あまり独占していたら邪魔かと思ったのだ。それに、慣れないダンスでくたびれていて、一人になりたかった。
宴も終わりに差し掛かり、会場は気怠げなざわめきに包まれている。ルークは、疲れているメアを気遣って、食べ物を取ってくると席を外した。
それなりに雪花城には居たが、こうして一人になると全てが嘘っぽく感じてまだ現実感が湧かない。
周囲を行き交う貴族達は豪奢な衣装に身を包み、小さな灯りの前を通るたびに美しく煌めく。
まるで夢でも見ているようだ。
もしも目が覚めたら、あの見慣れた小さなベッドで、温かな木枠の天井を見るのだろうか。こんな夢を見たの、と街の人に話して笑われるのだろうか。
きっと、ようやくドレスや宝石やら、華やかなものに興味を持ったのかと喜ぶ人も居るだろう。
会う度に、おしゃれをしろ、と口をとんがらせていたお婆さんのしわくちゃの顔が、声が、パンの匂いが胸に込み上げてきて、メアはきつく唇を噛んだ。
それは、思い出してはいけないことだ。
メアはぱっと立ち上がり、飲み物だけでも貰おうとテーブルのひとつに近付いた。
砂糖漬けの香草が飾られた細いグラスは、淡い黄色の液体が満たされて涼しげだ。けれど、手に取ろうとした瞬間、横合いから別の手が伸びて、するりとグラスを攫っていってしまった。
振り返ると、宝石箱から出て来たような淑女達が、労働を知らない指先でグラスを弄びながら、くすくす笑い、メアを見ている。
「素晴らしいダンスでしたわ」
「本当、どこでお育ちになったのか気になります」
「私達、きっと誰一人としてあんな風には踊れません。ねぇ?」
皆それぞれに美しかったが、小動物をなぶるような残酷な愉悦の表情がそっくりで、見分けがつかない程によく似て見えた。それから、襟ぐりが大胆に開いたドレスや、鎖骨に飾られた水晶の首飾り、睫毛に銀色の粉を撒いたような化粧の仕方も、揃いであつらえたのかと思いたくなる程共通している。恐らく、流行ものなのだろう。
メアは、銀の粉を定着させている接着剤の正体について想いを馳せながら、にこっと笑った。
「ご存知ないですか? 風車の街から来ました。とても良い街ですから、いつか皆さんも来て下さい」
淑女達は、きゃあっと同時に悲鳴じみた嘲笑を上げて、かまびすしい小鳥のように、メアを無視して、それぞれで話を始めた。
「まあ! やっぱりあんな田舎からいらっしゃったのね、通りで私達と違う筈だわ」
「羨ましい、あやかりたいものだわ。私なんか伯爵家の生まれですのに、ちっとも良い殿方からお声が掛からなくて……」
「あら、だけど、財産目当ての方を引き当てないように気をつけないといけませんわ。私はお父様にちゃんとお願いしているけど、やっぱり孤児はそういうところ、何も出来ないようですし……」
「そうね、私は身売りなんてごめんだわ」
彼女達は、友達同士で話しているようなのに、ちっとも声を控えるつもりはないらしく、ちらちらこちらを見ている。
まあわかりやすい、とメアはちょっと感心した。
帝国は大国だ。戦が締結したのは三代前まで遡り、今のところ氷の国で最も国交が深い。
年のいった年配の貴族は剣を交えた時代を覚えていても、若い者にとっては洗練された憧れの地。
そんな国の、第三とはいえ皇子が、ぽっと出の田舎娘にかっ攫われたら、確かに夢見る年頃の令嬢達にとっては面白くないだろう。
「御用があるんでしたら聞きますよー」
わかりやすい陰口を真っ向から返すと、淑女達は僅かに鼻白んだが、あっと言う間に取り繕った。
「いいえ、貴女がお綺麗だって話をしてたのよ」
「本当にお美しいわ。田舎らしく、古臭い格好をしているところとか、とてもお似合い」
「ええ、本当にね。流石は雪花城の使用人だわ、素材にこだわらない仕事をしてくださるのね……あら、襟のところがよれているみたい」
令嬢の一人が、メアにするりと近付いた。別にいいです、と言う間も無く、手が大きく降られる。
あっ、と思う間も無く、メアはグラスの中身を頭から被っていた。
「あら、ごめんなさい」
ぽたぽたとメアの頭から冷たい液体が落ちる。堪えきれない嘲笑が周囲でさざめく。
それは、令嬢達だけでなく、メア達を見守っていた周囲の貴族達からも聞こえてきた。
鼻先から滴る雫を舌で受け止めると、爽やかな香草の香りがして、メアはこれが飲めなかったのを残念に思った。後で同じものを探して飲もう、とひそかに決心しているメアに、くすくす笑いながら令嬢達は近付いてくる。
「失礼。だってあなた、とっても嫌な匂いがしたんだもの。香草で匂いくらい消したくなっちゃうわ。ダメよ、ここは田舎じゃないんだから、臭かったら礼儀に反するのよ。気をつけてくださいね」
令嬢はハンカチを取り出して、メアの手を無理矢理取って握らせた。ハンカチには薄紙が挟まっていて、大きく「売女」と書かれている。
「どうぞ。これは差し上げますわ。……では失礼」
この世の穢れなど全く知らなそうな可憐な微笑みを浮べて、令嬢達は立ち去っていく。
あまりにも一方的で唐突過ぎて、メアはぼんやりその姿を見送ることしか出来なかった。首筋を伝う雫が体温で温まって生温い。
「……メア様っ」
忠犬のように駆け戻って来たのはルークだった。
両手には美味しそうな牛肉の薄切りやサラダの皿を持っていたが、メアの姿を見るなり、皿を置いてハンカチを出す。
「酷い! ……っ誰に、どこの馬鹿にやられたんですか? 僕、見付けて来て……」
「ねえ、ルーク」
「なんですか」
「令嬢って、暇なんですねぇ」
子犬がする毛繕いのようにせっせとメアの髪や服を拭いていたルークが、一旦手を止める。
「これわざわざ自分で書いたのかしら。こっそり紙も用意して、頭も捻って……。随分一生懸命みたいだし、とっておいてあげた方がいいでしょうか?」
しみじみハンカチを眺めるメアに、ルークがきゃんきゃん怒鳴り散らした。
「そんなの捨ててくださいさっさと! あ、いややっぱり証拠になるから取っておいて下さい! 後で追い詰める時に使います!」
「きりがないですし、ほっといても……」
「ああいう馬鹿は、最初に徹底的に叩いておかないと、際限なく増長するんです! あなたは、王家に連なる者で、国賓です! すぐに隊長に報告させていただきますからっ!」
「あらあら。ベルク様の心労が増えてしまいます」
「どうせこれ以上白髪になんかなりようがないくらい真っ白なんだからいいんです! 元々責任感の塊で心労拾って歩くのが趣味みたいな人なんです、何も報告されない方がよっぽど負担になりますよ!」
「まあ。お顔の通り苦労されているんですねぇ」
言いながら、悪意に満ちたハンカチに目を落としたメアは、ふとそれが妙に膨らんでいる事に気が付いた。何かしらとめくってみると、中にはうごうごと伸び縮みする柔らかい生き物が入っている。薄緑色と黒の斑点の、一列の足を持つ芋虫だ。
「……!」
メアは声をなくしてハンカチを凝視した。ルークがさっと顔を怒りの朱に染めて、令嬢達が立ち去った方を凝視する。
「大丈夫です。あいつらにはいずれ自分達の愚かさをたっぷり後悔……ってあれどこ行くんですか?」
振り返って叫ぶルークを置いて、メアはぱたぱたと彼女達を追って走って行った。先程の三人の令嬢のような人々は、会場内を見渡せばいくらでも居る。
何度か違う人に話しかけそうになりながら、ようやく、クリームをたっぷり使った菓子をぱくつきながらお喋りをしている令嬢達の姿を発見した。後ろには、親らしい婦人の姿も見える。
彼女達は、メアの姿を見留めると、あからさまに眉をひそめたが、メアが持っているハンカチを見て、自分達の所行を言い付けられると思ったのだろう。にわかに慌てて、母親らしき婦人の腕を引っ張った。
「お母様、どうしよう。私、さっきあの子の傍を通ったら、お水を掛けられそうになったの。彼女は間抜けだから、結局自分で被っちゃったんだけど……きっと、私のせいだと思っているのよ。怖いわ」
娘に耳打ちされた途端に、婦人はみるみる目を吊り上げると、靴音高くメアに近付いた。
今はグラスのことで来ているんじゃないんですけれど、と言う暇もなく、婦人は手にしていた扇子でメアの頬をばしっと張った。
「臭い田舎者が、国王陛下のお目に掛けていただいているというのに、何と言う恥知らずな真似をするのかしら! 出て行きなさい、そして二度とうちの娘に近付かないで!」
熱い。痛い。じんじん痺れる。きっと痕がついた。
親子揃って話を聞かないんですねぇ、と遺伝の神秘について想いを馳せつつ、メアは眼鏡のつるを触って壊れていないか確かめる。幸い、曲がっても割れてもいないようだ。
安堵はしたが、問題は解決していない。目の前の婦人にはどう説明しても伝わらなさそうだ。
さて、どうしましょう、と対応を決めあぐねていると、彼女はキンキン声でまくし立てた。
「まあ、気持ち悪い。何とか言ったらどうなの。お前は私達に謝らず、のうのうと暮していられる立場ではないのよ! 汚らわしき悪女、帝国妃の血を引く女などが、よくもこの雪花城に恥知らずにも足を踏み入れたわね! 真珠姫に呪われてしまえ!」
ああ、とメアは手を打ちたい心地になった。ようやく周囲の態度が腑に落ちる。中々解けなかった数式が分かった時のようにすっきりして、微笑んだ。
「なるほど、そのせいだったんですね」
三代前の国王、白輝王には妃が二人居た。そしてどちらも男女一人ずつの子供に恵まれたのだ。
正妃の王子は銀月王になり、姫は砂漠の国へ嫁いでいった。
帝国妃の王子は公爵となったがやがて銀月王暗殺を企てる反逆者になり、姫はまだ若い頃に行方不明となった。
彼女は、狩りの最中で道に迷い、発見されなかったと外には発表されていたが、本当は王立付属の学府で有名だった学者と駆け落ちをし、遠い半島の先まで逃げたのだとメアは知っている。
そしてきっと、宮廷に居る誰もが、皆。
宮廷作法を学んでいる間、ほとんど練習相手のメイド以外と話せなかったのは、雪輝王の気遣いだろう。せめて、皇子と会うまでこれ以上の負担をかけさせまいとしたのだ。メイド達は仕事に誇りを持って従事していたから、主の気遣いを無にさせるようなことはせず、メアにも親身に接してくれた。
けれど、貴人の淑女達はそんなことなど知らない。
華やかで社交的だった銀月王を暗殺した女の血筋。
加えて、今まで社交界を何も知らなかった、庶民。
どちらもメアを排除するに十分な理由だ。
「群れている動物は異物を嫌いますものねぇ……」
やはり人間も動物だわ、と思い切ればそこまで腹も立ってこない。
特に傷ついた風もなくぽつりと呟いたメアに、婦人が不気味そうな顔をする。メアは婦人を見上げて穏やかに尋ねた。
「お話は終わりですか? 私、娘さんに忘れ物を届けに来たので、失礼しますね」
メアが攻撃される理由を教えてくれたのは有益だったが、本来の目的の方が優先だ。さっと令嬢に向き直って、小走りで彼女に近寄った。
メアが殴られ、罵倒される姿を楽しそうに見ていた彼女は、ぴくっと眉を跳ね上げて身を引いた。不気味そうな彼女の態度に構わず、メアは更にもう一歩踏み出してハンカチを差し出した。
「はい、この子、忘れちゃっていますよ」
そっと丁寧に開いたハンカチの中で、芋虫が身体をくねらせている。メアはぐっと拳を握りしめ、キラキラと輝く瞳で令嬢を見詰めた。
「凄いですね、この種類はもうこの季節、野生では居ませんし、温室から連れて来たんですか? もしかして、偶然廊下で運命の出会いをして、連れてきてしまったとかですか? 可愛らしいですよね、芋虫。私も、大好きなんです。この健気に歩く小さな足とか、頬ずりしたくなる柔らかな胴体とか、愛らしいつぶらな艶々の瞳とか……!」
力を込めて語るあまり詰め寄ってしまった先で、令嬢の派手な悲鳴が響いた。
「いやぁぁぁぁあああそれ近付けないでぇぇ!」
きょとんとしたメアに、婦人が顔を真っ赤にして、再び扇子を振り上げた。
「お前、うちの娘に何を……!」
しかし、その拍子にメアの可愛い芋虫を見てしまったらしく、婦人まで青くなって絶叫。今までの剣幕はどこへやら、扇子を捨て娘を放って凄い勢いで逃走していく。歩きにくさの極地のような靴でよくぞこれほど、と感心したくなる逃げっぷりだ。
逃げ遅れた令嬢は「あっ、お母様ひどい!」と涙ぐんで婦人を追いかけていった。婦人には敵わないが、彼女も中々の速度であった。
周囲がざわめきながら、一人ハンカチを手に乗せたまま取り残されたメアを見ている。
メアは、肩を落としてぽつんと呟いた。
「同志では、なかったのでしょうか……」
こんなに可愛いのに、としょんぼりするメアの背後で、追いついたルークが腹を抱えて笑っていた。
「ルーク、勝手なことをしてすみません」
丁寧にハンカチでくるんで芋虫を保護し直したメアが謝罪すると、ルークはひくひく痙攣しながら首を振った。
「いえ……構いません、良い物を……見せて……頂き、こちらこそ……くくっ」
「あらあら。楽しんで貰えたら何よりです」
「というかメア様、元気そうですね」
「まあ、心配してくれたんですか? ありがとうございます、ルーク」
ちゃんと心から心配してくれるのなんか、彼だけだ。胸の内がほんのり温かくなって、メアはほのぼのと微笑みかけた。
「ああ、よかった。落ち込んでたら、そういう時の受け流し方をお教えしようと思っていたんです」
「まあ。気になります。どう考えれば?」
首を傾げるメアに、ルークは何度か咳払いをして息を整えた。僕はいつも辛い目にあったらこう考えるんですけど、と前置きをして、
「どんなに偉そうな人も、どんなに腹の立つ人も、どんなに嫌味を言ってくる人も、皆平等に……」
柔らかな巻き毛を揺らし、天使のように微笑んだ。
「後ろから刺せば、死にます」
なるほど、とメアはひどく感心した。
《遠き砂漠の国で》
地鳴りがする。
咆吼のような軍勢。砂埃を掻き分け、金と欲に目の眩んだ叔父がやってくる。
瑠璃の湖に浮かぶかのごとき白大理石の宮殿。黄金の屋根と滴る綠の庭園。最奥に輝く歴史ある王座。
王宮の周囲に広がる砂色の街。そこに住まう十万の民。母なる大河に潤された牧草地。無数の家畜。
永遠なる王都、黄金の都。
その全てを食らい尽くさんと、炎駱駝を操る私兵達が、猛り狂って駆けてくる。
先陣は既に大通りを駆け、後続は砂漠にもうもうと高い土煙を上げ、灼熱の青い空へ登らせていく。
狂乱に染まり血に飢えた彼らは、ここに辿り着くなり、欲望の赴くままに略奪を行うだろう。
王宮でもっとも高い処にある窓枠から、街の様子を眺め下ろす。
街は死んだように静かだった。
ある者は扉を閉めて、鍵を掛け、叔父に服従する意味の旗を揚げて沈黙している。またある者は女王の指示に従い、船に乗って母なる大河の下流へと避難した。国軍の守る船団は、今頃海上だろう。
女王は、静かに土埃を見ている。
私室に最も高い塔をと望んだのは、まだ両親が存命だった頃だった。国が一望出来るから、不便であっても構わないと。
支配し守るものの姿を、常に見ていたい、と。
その言に王の資質ありと見て、王であり父であった者はこの部屋を与えた。
祖母だけが、「そこは確かに王宮で一番高いけどね、この国で一番高い所に行ったって、氷の国は見えやしないわよ」と言ってにやりとした。小さな王女の裏の企みを見抜いたのは、彼女一人だった。
女王の瑠璃よりなお蒼い瞳は、静まり返る街も、賊軍の上げる土煙も、灼熱の砂漠さえも見透かして、もっと遠い遙か彼方を見ていた。
彼女の肩に止まった、極彩鳥が、気遣うように頬へ顔を擦りつける。女王はその首筋を優しく搔くと、手首に乗せて窓の外へといざなった。
「ゆけ。妾の碧の妹の元へ」
色鮮やかな翼が広がる。翼を広げれば大人の身長をも軽々と越す巨大な鳥は、主の命を受けて大空へと羽ばたいていく。その足首には、金色の筒。あそこには何気ない日常が綴った手紙が入っている。女王が己に許した、唯一の『王である以外の自分』が。
「陛下、今からでも遅くはありません。お逃げ下さい。私が命に代えましてもお守りいたします」
女王の背後から声が掛かる。彼女は振り返った。
最後に残った将が、翡翠の床で跪いている。乳兄弟であり、最も信ずる臣下だ。
金に目が眩んで雪崩打って裏切った家臣の中で、彼らの一族だけは、忠義のまま働き、女王の為に生き、そして半数が死んだ。
彼女に国を託し、満足して死んだ。
女王の両親と、同じ様に。
「サッギール。お前の一族は、妾を失った後、あの男に取り込まれるまでどれ程持つ」
「私だけなら|冥王の天秤に掛けられる(アーラムアルアムワート)までお側に。しかし、一族となれば、もって二年かと」
「そうか。ならば二年じゃ」
臣下が意味を聞き返す前に、王宮の正門が、暴虐の徒によって大きく開かれた。
女王は傲慢な笑みを浮べて命じる。
「叔父上のお着きじゃ。歓迎の準備を整えよ」
編み込んだ黒髪に飾った宝玉がしゃらしゃらと揺れる。臣下が低く服従の意を表して立ち上がった。
長い階段を降り、しんと静かな回廊を回り、玉座の間に辿り着くと、堂々と優雅に腰を下ろす。
一軍がそのまま入り込める巨大な広間と階段に、激しい蹄の音が鳴り響いた。臣下を背後に控え、女王は退屈そうに頬杖をつく。
轟音蹴立てて、とうとう炎駱駝が姿を現した。
先頭に立った小柄な男が、女王を目にして下卑た歓喜に顔を輝かせる。
「おお、我が麗しき宝石の眼! お前が生まれた時より今を待っていた。とうとう私のものだ!」
女王は、この叔父が、初めて会った時から大嫌いだった。どんなに綺羅綺羅しく飾り立てても、どこかから黒い靄のようなものが湧き、彼につきまとった。幼い頃から彼を排除するように言い続けていたのに、信じてくれる者は祖母だけだった。
宝石の眼を信じない周囲に納得させるのがあんなにも時間が掛からなければ、こんな事態は招かなかったのだろうに。
後から続いてきた炎駱駝達が、次々と王座の間に乗り込んできて周囲を囲う。
部下達を手で制して、男は黒い炎を燃したような瞳で女王に笑んだ。分厚い唇をべろりと舐めて、女王の肢体を舐め回すように見詰める。
「お前は、絶望している時の顔が一番美しい……。さあ、お前への手土産だ! その美しい顔が歪む様を私に見せるがいい!」
男は、炎駱駝の鞍につけていた丸い塊を、無造作に床へと放った。ごろん、と重たい音をさせ石床で弾んだそれは、何度か転がって玉座の前で止まる。
背後の臣下が息を呑む。男は荒い息でにやつく。
女王は、眉ひとつ動かさずそれを睥睨した。
「ほう。これはこれは。……随分とまあ、豪勢な手土産を用意したものじゃの」
老女の、生首であった。
黄金の都の烈女と名高い、女王の祖母。
かつて氷の国から嫁ぎ、子を産み、守り、育て、国の発展に尽力した賢女。
そのなれの果ての姿が、玉座の間で転がっている。
「モルガン様ぁぁあっ!」
臣下が耐えきれなかったように叫ぶ。しかし、女王はすっと手でそれを制して立ち上がった。
しゃん、しゃんと宝玉が鳴る。まだ年若き女王の覇気に気圧されて、その場に居た者は誰一人として動けない。
彼女は誰に急かされることもなく、邪魔されることもなく、王者の歩みで生首へと近付いた。
首は目を見開き、凄絶に笑んだまま硬直している。
祖母を両手で掬い上げると、女王は蓮でも愛でるかのようにころころと笑った。
「気に入った。我が寝室にでも飾ろうぞ」
彼女は、格下の者に謁見を許したかのような、寛大な態度で炎駱駝の上の叔父を見上げた。
「ああ、おまえ。大義であった。下がってよいぞ」
周囲の者は一瞬、臣下の礼を取るのを抑えねばならなかった。
品格、覇気、気骨。
どれを取っても、王であるのが誰かは明白だった。
男が怒りで顔を赤くし、女王の頬を張り飛ばす。細い身体は木の葉のように軽々と吹き飛び、真後ろへ倒れた。臣下が身を投げ出して受け止め、石床を滑る。
己を抱えた臣下の耳に、女王は密かに囁いた。
「サッギール。二年じゃ」
男が部下に怒鳴り散らしながら命じる声で掻き消され、彼女の声は臣下以外に届かない。
臣下が女王をさっと見詰める。主はついっと口の端を吊り上げた。
「二年で戻る。待て」
浮かんだ凄絶な笑みは、彼女がしっかりと抱える、生首の祖母と同じだった。




