夢から醒めるとそこは―――
◆◆◆
「……ママ」
母親を、探していた。見慣れたはずの町を彷徨い、見たこともない人物の姿を追い求めていた。齢五つもいかないような少年が、たった一人で。
「……ママ」
ただそれだけを口にして。けれど、それでも尋ね人は見つからず。やがて、幼い体力も限界を迎えた。それ以上歩き続けることが出来ず、立ち止まってしまう。
「……ママ」
呼んでも、誰も返事をしない。その内、少年は、ぽつりぽつりと涙を流した。
「ママァ……」
その後はただ、泣き続けるしか出来なかった。泣いて、泣いて、泣いて。それ以上、彼に何か出来るわけでもなかった。―――けれども、その泣き声は、案外早く止まった。
「どうか、しましたか?」
優しく、柔らかな女性の声が聞こえ、少年は泣くのを止めて、顔を上げた。
「悲しいんですね」
その問いに、彼は小さく頷いた。
「待ちましょう、一緒に」
手が伸ばされて、そこでようやく、涙でぼやけた視界に映る相手の、その姿を捉えることが出来た。
「私の名前は―――」
まず、大まかな色彩。髪は茶色くて長め。肌は色白。そして輪郭がはっきりとしてきた。ほっそりとたおやかで、だけど健康的でゆるやかなライン。唇はグロスでも塗っているかのようにふっくらと、しかし化粧っ気は感じさせず。鼻はそれほど高くなく、目元の彫りも深くない。どちらかと言えば、日本人に近い顔つき。そして、双眸に浮かんでいるのは、綺麗に澄んだ蒼。
「優です。優しいという字ですよ」
まだこんな小さい子供に漢字の話を振っていたのは、その名の通り『優しい』人物であった。
◇◇◇
「がっ……!」
男がまた一人、地面に倒れ込む。男の腹には、赤い染みが。その赤は、言うまでもなく血であった。
そこは、人気の少ない通りに面するとある廃墟、その脇にある外階段の一階部分。丁度、通りからは死角になる場所だ。
そこには、五人の人がいた。二人は子供、三人は男。男は全員、体から鮮血を垂れ流している。子供の内、一人はただ怯え、声にならない悲鳴を上げながら泣いている。そしてもう一人は、服の袖から合計五本のロープを出して、呆然と立ち尽くしている。
彼は、両手に握り締めた凶器に目をやり、自覚した。
―――ああ、自分は今、
人を、殺した、と。
◇◇◇
「うっ……」
呻き声を上げながら、狼はむくりと起き上がった。ふと右を向けば、隣の布団で優がすやすやと寝息を立てている。左を見れば、一片が同じように眠っている。そこでようやく、自分が闇代の実家に来ていることを思い出した。昨夜はあの後、何だかんだで宴会状態になって、自分も酒を飲まされて、そのまま潰れたのだった。狼が今いるのは、彼らに宛がわれた客室だ。十分な広さがあったので、優、一片と一緒に使っている。並んで川の字状態なのもそのためだろう。
「……ったく」
狼は小さく呟き、両隣の二人を起こさないように布団から出た。廊下に続く襖を開けて、夜風にでも当たろうと、外を目指す。とはいえ、まだ日が昇らないこの時間に玄関から出るのも躊躇われて、庭の見える縁側に向かって歩く。
その途中、彼は誰かの気配を感じた。まるで、自分の向かう先に何者かがいるかのようだった。
「あれ、狼君?」
その誰かとは、よく見知った、そしてこの家で生まれ育った少女、闇代であった。
「どうしたんだよ、こんな時間に?」
「狼君こそ」
彼女は縁側の雨戸を開けて、夜の帳が下りた庭を眺めていた。狼はその隣に腰を下ろすと、ぽつりと漏らした。
「ちょっと、昔の夢を見てな」
「夢?」
「ああ」
別に聞かれたわけではないが、狼は自然と、その内容を話していた。
「一つは、物心つくかつかないかくらいの夢でさ。あの頃俺は、母親を探して歩き回っていたんだ。そしたら、そこで優に会ったんだ。だからまあ、その時のことを思い出してたんだけどな。もう大分前のことなのに、結構鮮明に覚えてるもんだと思ったんだ」
たまに見る夢ではあったが、ここ最近で一番はっきりしていたと、彼は言った。
「……一つは、ってことは、他にもあるの?」
彼の複雑な家庭事情に言葉を詰まらせた闇代は、もう一つの夢について尋ねた。
「……ああ。出来れば、見たくなかった夢だけどな」
話すのは後ろめたい。そんな風に思ったが、それでも狼は、彼女に話した。
「昔、上風と遊んでたときにさ、普段は行かない辺りまで行ってみたんだ。そしたら案の定、とでもいうべきか、見知らぬ不良たちに囲まれてさ。あん時の俺は弱虫だったから、あいつの陰に隠れて泣いてた。そんであいつが威勢よく突っかかって。で、結局殴られて。―――それを見てたら頭が真っ白になって、次の瞬間には、そいつらを殺してたよ」
闇代が、息を呑む音が聞こえてくるが、狼は構わず続ける。
「まあ、実際には死んでなかったけどな。ただそれは、事態に気づいた優が駆けつけて治療したからで、あいつがただの人間だったら、或いは気づいていなかったら、―――俺は間違いなく殺人鬼だ。子供だったとか、正当防衛とか、そんなのは言い訳にもならねえ。……だから俺は、自分を殺人者だと思ってる」
そこまで話したところで、ふと闇代の顔を見やれば、彼女はどこか、悲しげな表情を浮かべていた。それでも狼は続けた。
「だから俺は、分かるんだ。殺したらどんだけ後悔するか。―――お前に殺して欲しくないって思ったのは、それが原因かもな」
そこまで言ったところで、狼は欠伸を一つ。
「ったく、昔話してたら眠くなってきた」
立ち上がり、客室へ戻ろうとする狼。しかし、闇代が彼の袖を掴んだ。
「何だよ?」
狼が立ち止まり、振り返る。対して闇代は、俯きながら問うた。
「狼君は、まだ―――苦しんでるの……?」
「かもな」
それに対して即答する狼。それがあまりにさらっと出てきたので、思わず口を噤みそうになりながらも、闇代は続けた。
「でも、狼君は上風ちゃんを守ったんだよね? それでも、後悔してるの……?」
「してるさ。だって、今になって考えると、もっといい方法があったはずだからな」
例えば、何かで気を逸らせて、その隙に逃げるとか。大声で助けを呼ぶとか、そもそも、そんな場所には近寄らないとか。殺さなくても、回避する方法はいくらでもあったはず。
「それが取れなかったのは、やっぱり、悔やんじまうよ」
それから、二人の周りに妙な空気が漂っていたが、やがて狼が闇代に背を向けた。
「二度寝してくる」
そう言って闇代の手を振り解き、再び客間に戻ろうとする狼。
「狼君……」
そんな彼を、闇代は、泣きそうな表情で見送るしかできなかった。




