向坂狼の受難①
◇
店の中は割と広い。ヒノキで造られており、カウンター席、テーブル席、座敷もある。窓も照明もないのに明るく、空調設備もないのに室温は快適に保たれていた。
「ゆっくりしていって下さいね」
優は、水が入ったグラスをそれぞれに配った。
「それにしても、うるっちにこんな美人の母ちゃんがいたなんてなぁ~」
羨ましいぜ、と氷室は言った。
「ちげえよ」
狼が、それを否定する。
「えっ……?」
「狼と私は、血が繋がっていないんです」
優が、それを引き継ぐ。
「狼の本当の両親は、この子が小さいときに行方知れずになってしまって、友人だった私が引き取ることになったんです」
「そうだったんだ……」
「目を見たら分かるだろ」
確かにそうだ。狼と優は、髪と瞳の色が明らかに違う。親子でないのは明白だ。
「でも、狼が愛しの我が子であることに変わりはありません」
そんな恥ずかしい台詞も、優は赤面せずに言ってのける。
「ですから、」
「だから、こんなにろくでもない奴になったのか」
戸沢が、いつもの侮蔑の声で呟いた。
「ちょっ、あんた、」
「だいたい、そうやって居酒屋なんかやってるから子供がろくでなしに育つんだ。自分の子じゃないから、仕事の片手間でも平気で育てて、それで子供がろくでなしになる。それをよくもまあ、自分がとても大切にしているように……」
「やめなって!」
縄文寺が、遮った。
「なんだい? 僕は事実を言っただけだ」
戸沢は、しれっと言い返した。
「もう、手遅れ、かな……?」
縄文寺は、優のほうを向いた。戸沢もつられてそのほうを見る。
「うっ、ううっ……」
優は、目に涙を溜めていた。というか泣いていた。
「う、狼……」
「げっ……」
狼は、名前の通り狼のような速さで逃げ出した。
「狼ーーーーーーっ!」
だが、それよりも素早く、優が狼に飛びついた。
「うっ、うるふーーっ! うるふーーーーっ!」
「は、離せ!」
狼は必死に抵抗するが、優がしっかり抱きついていて、逃れることが出来ない。むしろ、どんどん締め付けられている気がする。
「私は絶対! 狼の味方ですからねぇーーー!」
「離せぇーーーーー!」
「何あれ……?」
氷室が、二人を眺めながら呟いた。
「戸沢のせい」
縄文寺が答えた。
「何を言っている? 僕に一体何をしたと言うのだ?」
戸沢は、当たり前といった風に言い返した。
「だって、お優さんは狼のことを悪く言われると一番傷つくんだから。あの状態だと、三十分は収まらないと思うよ」
「ふん、情けない」
戸沢は、悪びれた様子もなく言った。
「いい大人が直ぐに泣くのは感心しないな。それじゃあ、まるで子供だ」
「分かってないね」
今度は縄文寺が、自信の篭った声で言った。
「誰かのために泣ける大人なんて、今時そうはいないよ。まあ、お優さんは度が過ぎてるけど。過剰な愛情表現かな……」
その言葉は、途中からしみじみとした声になっていた。
「さあ、勉強しに来たんだから、さっさと教科書出して」
「はぅっ!」
そしてここから、紗佐にとっての地獄が始まるのであった。