某アプリケーションをデフォルトで備えている子
……店舗にいる、紗佐はといえば。
「あっ、お優さん」
お優さんがやって来たのに、舞奈さんが気づいた。
「舞奈ちゃん、この子達に、どこまで話した?」
「狼君の生い立ちまで。細かいことは端折ったけど」
「大体全部ね。それなら話が早くて助かるわ」
お優さんは、私たちが座っているテーブルの前に立つと、その銀色の瞳で私たちを見回した。前に会った時は蒼かったけど、今は目の色も、纏っている雰囲気も別人のように違う。
「単刀直入に言って、舞奈ちゃんの話は本当。狼は馬鹿げた実験の産物で、あなた達とは根本から異なる存在よ。まあ、言われなくとも自分の目でしっかりと見てたでしょうけど」
舞奈さんから聞いた話。そして、あの場所で出会ったおぞましい存在。あれが向坂君だったって、頭では分かっていても、心がまだそれを受け入れられないでいる。向坂君は、確かに人とは違う。いや、既に人ですらない。だけど今までだって、そんな得体の知れないのがやって来たことだってあった。―――いや、今までとは違う。今までは、私は何もして来なかった。安全な場所に隠れて、後で事の顛末を聞くだけだった。今日みたいに、実際にこの身で体験することはなかった。あんな危険な目に遭うことも、あれほどまでの恐怖を感じたことも、まったくなかった。……前に舞奈さんに言われたこと。知るための覚悟というのは、こういうことを想定したものなのだろうか。確かにこんなこと、覚悟もせずに体験したら、トラウマなんてものでは済まないだろう。事実、今だって体の震えが止まっていない。ただでさえ苦手な向坂君なのに、この様では、まともに同じ空気を吸えないのではないか。それも、大袈裟ではない気がしてきた。
「あの子は今、精神的に参ってるはずよ。私や舞奈ちゃんは最初から知ってたことだから今までとあまり変らないけど、あなた達はどうかしら?」
どう? どう、って言われても、答えようがない。それに気づいたのか、お優さんはもう一度、分かりやすいように言い直してくれた。
「もし、あなた達があの子を受け入れられるなら。具体的に言えば、今までと変わらず接してくれるなら、私は心からあなた達に感謝して、その上でお願いするわ。あの子の支えに、なってほしいって。だけど、もしも受け入れられないのなら、今すぐここから出てって頂戴。そして、二度とあの子と係わらないで。酷いことだとは思うけど、あの子の秘密を知った上で、あの子を受け入れられないなら、あの子との縁を切ってもらうしかないわ。必要なら、転校や退学も考える。勿論こっちがだけど。そのくらい本気なの。受け入れてくれないのに、傍にいたら傷つくだけだから」
つまり、向坂君を受け入れられないのなら、彼との縁を切って姿を消せと、そういうことらしい。
「……そんなの、決まってるよ」
闇代ちゃんが、真っ先に声を上げた。
「どんなことがあったって、狼君は狼君だもん。わたしは、狼君が好きだから、大好きだから。たとえ狼君がどうなっても、どんな秘密があっても、この気持ちだけは変らないし、寧ろ狼君のことをもっと知ることができたって思う。だから、受け入れるとか、そんなこと言う必要すらないよ」
向坂君に対する真摯な気持ちを、はっきりと伝えてくる闇代ちゃん。闇代ちゃんが向坂君を好きなのは薄々分かってたけど、まさか、こんなに真剣に、彼を想っていただなんて……。
「少なくとも、これしきのことでとやかく言っていては退魔師など務まらんダロウ」
一片さんも、それに賛同するかのように言った。それは向坂君のことを思っての発言なのか、それとも単に自分の胆力を誇示したいのか。―――私は、前者だと思う。だって、一片さんはちゃんと他人のことを思いやれる人だから。
「……あたしも」
上風ちゃんも、しっかりと顔を上げ、お優さんと向き合うように言う。
「あたしも、こんなことくらいで動じない。だって、狼は幼馴染で、小さい頃から一緒で、もう家族みたいなものだから。それに、昔、狼があたしを庇って取り返しのつかないことをしてしまった時に決めたから。どんなことがあっても、あたしだけは狼の味方でいるって。それが、あたしにできる唯一のことだから」
そう話す上風ちゃんは、何か重い過去を背負っているようだった。それに比べて、私にはそんなものもない。向坂君に、強い思いもなければ、一緒に過ごした長い時間も、何もない。だけど―――
「―――私は」
それが、彼から逃げる理由になるのだろうか。過去の積み重ねがないから、強い思いがないから、だから逃げてもいいということなのだろうか? 私は今まで、色んなものから逃げてきた。怖いものから、苦手なことから、危ないことから、自分が、嫌な思いをすること全部から。勉強が苦手だった。だから、それから逃げて、入学当初はクラスで最低の成績だった。運動も苦手だった。だから、今でも登下校だけで息が切れる。だったら自転車に乗ればいいと思うかもしれないが、その自転車も、こけるのが怖くて乗れなかった。列車事故のニュースを見てからは電車に乗れなくなったし、ドラマで母親に毒を盛られる子供を見てからは、母さえ信用できなくなったりもした(そのお陰で、料理が得意になったのだけど)。そんなつまらない理由で、私はずっと逃げ続けていた。向坂君もそうだ。『クインテット・ナイツ』に選ばれたあの時、彼の起こした突然の行動のせいで、私は彼と距離を置いて、いつも怯えていた。その後、向坂君は私に勉強を教えてくれたり、他にも色々、陰で助けられていた。そうだ、彼はそういう人なんだ。さっき私は、一片さんがちゃんと他人のことを思いやれる人だって思った。でも、向坂君だって、他人を思いやっていたじゃないか。そうじゃなきゃ、闇代ちゃんがあんなに向坂君を想ったりしない。上風ちゃんが、ずっと味方でいるだなんて言ったりしない。お優さんが、あそこまで彼のことを考えたり、しないのではないか。
「私は正直、向坂君が苦手でした。けど、向坂君は優しくて、思いやりがあって、私が怖がっても嫌な顔一つしなくて、それどころか私に勉強を教えてくれたり、他にも色々なことを教わって―――今、やっと分かったんです。彼は、怖い存在じゃない。怯えるような相手じゃない。優しくて頼りになる、立派な人だって、分かったんです。だから、私は―――」
そうだ。何で気づかなかったんだろうか。いや、今回のことで、ようやく見えたのかもしれない。今まで、私は人を怖がっていた。だから、私は向坂君の怖い部分にしか目がいってなかった。だけど、人は、怖いわけじゃない。それを、今知った。
「向坂君を、受け入れます」
その言葉に、お優さんは優しく微笑んだ。
「よかったわ。あの子の理解者が、一人増えたみたいで」
思考時間はほんのちょっとだったはずなのに、かなりの間考えていたような気がして、そこで今更ながら、頭を知恵熱が支配しているのに気づいた。……もしかして、変なこととか口走ってないかと心配になってきた。私の言葉によっては、向坂君が学校を辞めるかもしれないのに……。もっと冷静に考えて喋ればよかった。
「……紗佐ちゃん」
すると、闇代ちゃんがこっちを向いて、
「狼君は、渡さないよ!」
物凄く勘違いをしているような台詞を吐いた。……もしかして私、恋敵と思われたのかな?
「はいはい、女の戦いはまた今度ね」
ま、まさか、お優さんにまで勘違いを……?
「そんな感じだから、安心して出てきなさいよ、狼」
えっ?
「狼君っ!」
「狼!」
店の奥から、向坂君が顔を覗かせていた。といっても、顔の上半分は暖簾で隠れて見えないけど。
「この子達はいつも通り。あんたが心配するようなことは何もないの。それより、早く顔を見せてこの子達を安心させてあげなさい」
そう言われて、向坂君がこちらのほうへ入ってくる。するとすぐに、闇代ちゃんが彼に駆け寄った。
「狼君っ、もう大丈夫なの!?」
だけど彼女の視線が彼とぶつかり、表情が固まってしまう。
「狼君、泣いてるの……?」
「泣いてねえ」
そう言う向坂君は、袖で顔を拭っていた。……本当は泣いていたんだろうけど、それを言うのは野暮かもしれない。
「そういえば、まだ言ってないことが一つだけあったわ」
「何だよ……?」
お優さんは微笑むと、突然向坂君に抱きついた。
「なっ……!」
そして、焦る向坂君の頭を撫でながら、こう言ったのだった。
「おかえりなさい、狼」
向坂君はしばらく面食らっていたけど、やがてこう返した。
「ああ、ただいま」
どうでもいいことなんだけど。そういえば、一片さんも最初は結構怖かったのに、割とすぐ、普通に接することができたのは、何でだろう?




