本作の見所はここより後だと思います
……優達がセンサーを作動させたことにより、あの手術室にけたたましいサイレンが鳴り響いた。
「何事?」
女性は近くの内線を使って、誰かと会話している。
「侵入者ですって? なら、出入り口を完全に封鎖。使用しない通路も全部封鎖しなさい。ここで邪魔されたら、全部水の泡よ」
指示を出した後、内線を切って再びガラスの向こうへ目線を移した。
「さあ、あなたの力を見せて頂戴」
この透明な板を挟んだ向こう側、手術室の方では、未だに人狼が吼えていた。
「とりあえず、通路のほうへ誘き寄せて、それからあの、生贄たちがいる部屋へ誘導なさい。通路は一本道になってるから、音で注意を引くだけでいいわ」
すると、手術室の開け放たれている扉、その向こうから、ガサガサという音が聞こえてきた。化け物は吼えるのを止め、そちらの方へ顔を向ける。
「いいわ。そのまま、そっちへ進むのよ」
そして化け物はゆっくりとした足取りで、扉へと歩いていく。彼が扉の前まで来ると、その奥にある通路の、数メートル先でまた同じ音が鳴る。化け物がそれに惹かれるように歩いていき、また更にその奥で音がする。そうやって、化け物は通路を進んでいった。
「さてと、いよいよここからが見物だわ」
女性は笑いながら、傍らのモニターを操作するのだった。
……紗佐達はと言うと。
「……あれ?」
彼女の目を覆っていたものが外れ、紗佐は視界を取り戻した。
「……見える」
隣を見れば、上風も目を開いていた。辺りを見回すと、そこは薄暗い部屋だった。窓や調度品もなく、代わりに塵一つ落ちてないような小奇麗な空間。切れかけた電球だけが、この空間を照らしている。
《どう? 見えるかしら?》
ふと、あの女性の声が聞こえてきた。二人は周囲に目をやるが、声の主の姿はない。
《ああ、天井についてるスピーカーから話しかけてるから、私を探しても無駄よ》
目を凝らしてみれば、確かにスピーカーのようなものが天井に埋め込まれている。
《ついでにその部屋の様子も隠しカメラでばっちり把握してるからね》
恐らく、先程女性がいじっていたモニターにこの部屋の映像が映し出されているのだろう。
「あんた……あたし達をこんなとこに閉じ込めて、何のつもりよ!?」
上風が天井に向かって叫ぶが、女性は笑い声を上げ、暫くしてからやっとそれに答える。
《いい? あなたたちは、私の偉大な研究のために、尊い生贄となってもらうの》
「生贄?」
その言葉に、紗佐は震え上がった。生贄、と言う言葉だけではない、何かおぞましい物を、女性の声から感じ取ったのだ。それは、恐らく『覚悟が必要』な、何か。そうしなければ、絶対に耐えられないような、衝撃。それが秘められているのを、紗佐は無意識のうちに読み取ったのだ。
《もうすぐそこに、私の作品が現れるわ。そして、彼は本能のままにあなたたちを八つ裂きにする。私は、その様を見て歓喜に震えるというわけ》
「何言ってんのか、まったく分からないんだけど」
《その内分かるわ。その為にあなたたちの目隠しを解いたんだから。最近は目隠しも遠隔操作で取れるから楽ね》
少女達の足元には、アイマスクのようなものが落ちている。これが彼女達の目隠しとなっていたのだろう。
《だから、ちゃんと見ておきなさい。自分を殺す者の姿を、ね》
それっきり、天井からの声は止んでしまった。
「何なのよ、一体……?」
呟く上風の隣で、紗佐は酷く怯えていた。
「紗佐、大丈夫? 顔色悪いわよ」
上風に心配されるが、それでも彼女の不安は消えない。寧ろ増したくらいだ。体中に悪寒が走り、ガクガクと震えている。肌は、全身から血の気が引いたかのように青ざめ、まるで病人みたいだ。
そんな紗佐の不安を肯定するかのように、ドスン、またドスンという大きな音が、どこからともなく聞こえてくる。
「な、何……!?」
戸惑う上風。対して紗佐は、ようやく自分の内に渦巻いていた不安の正体に気づいた。来るのだ。よく見知った、彼女達を処刑する執行人が。
物音が、段々と近づいてきている。それに伴い、少女達の緊張もピークに達していた。心臓は激しく鼓動し、毛穴という毛穴から嫌な汗が噴き出す。特に、不安と恐怖に体を震わせつつ、足りなくなった酸素を求めて口をパクパクさせる紗佐の様子は、最早見ていられない。
巨大な音と共に、壁の一部が大きく揺れた。今更ながら気づいたが、壁に四角い切れ目が入っていて、そこが上下左右に動いている。ここが出入り口であり、扉のはずだ。
出入り口を塞ぐ扉が、内側に向けて凹んだ。それも一度ではなく、何度も。やがて、扉はあっけなく破られてしまった。そこから姿を現したのは、最早人ですらなかった。
「う、うる……ふ?」
ここまで変わり果てているのに、上風は一目見ただけで、それが誰なのか分かったようだ。それは長年の付き合いのためか、はたまた単なる勘か。四肢は筋肉でこれでもかと膨れ上がり、そこを黒い毛がびっしりと覆っている。歪な手先には鋭い爪が生えており、それ一本が既に凶器なのではと思えてくる。頭部は完全に形が変わっており、少なくとも人間には見えない。だらしなく開いた口からは涎がただ漏れで、狂気にまみれた黄色の瞳には理性の理の字も見当たらない。―――完全に面影をなくした怪物、元・向坂狼が、そこにいた。
異形の怪物が、一歩、また一歩と少女達に近づいていく。彼が足を踏み出す度、部屋全体が大きく揺れていく。先程までの大きな揺れは、彼の足音だったのだろうか。そんなことを考えてる間に、怪物はどんどん二人の少女に迫ってくる。スピードこそゆっくりだが、それが却って二人の恐怖を煽る。やがて足を止め、少女を見下ろす形になると、怪物が右腕を振り上げた。
「ぃぁ……!」
紗佐が上げた悲鳴は、もう声にすらなっていない。紗佐にとって、これがかつて誰であったかなど、どうでもよくなっていた。重要なのは、今、これが自分たちを、いや自分を、どうするつもりなのかということだけだった。右手の爪は、あまりの鋭さに、鈍い光を放っている。これはもしかしたら、包丁なんかよりもよっぽど切れるのでないだろうか。それが五本もついているのだ。自分の体など、容易く八つ裂きにされるに違いない。そう考えると、もういっそ早く振り下ろして、この苦しみから解き放ってくれとさえ思えてしまう。だが現実は皮肉なもので、怪物はなかなか右手を振り下ろそうとしない。
どれほどの時間が経ったのだろうか。実際はほんの数十秒のはずだが、彼女達には数時間にも、数日にさえも感じられた。しかし、ギロチンの刃はいつまで待っても落ちてこない。ふと、彼の顔を見てみれば、その瞳が自分たちを見つめ返していることに気づいた。―――上風は、これが狼だと言っていた。もしそうなら、これの内にはまだ狼の意識が残っているのだろうか。そうであると願う一方で、例えそうだとしても、ここまで変わってしまったのだから、自分たちのことなど、まして自分のような者のことなど、忘れてしまっているはずと思う紗佐もいた。よくこの一瞬で、ここまでのことを考えられるものだと思う心さえあったくらいだ。時間の制約すら超えてしまえそうなくらい、紗佐はどうにかしてしまったらしい。それ故、この怪物が次の行動を起こしたのは、彼女の主観では数年も後のこととなる。
振り上げられた右腕が、僅かに揺れる。振り下ろす際の予備動作であろうその動きに、紗佐は反射的に目を瞑った。直後、この怪物は少女達の体を無残に引き裂いたことだろう。
「狼君っ……!」
しかしそうはならなかった。聞き覚えのある声に、紗佐は恐る恐る目を開く。その瞳に映ったのは―――
「そんな、どうして……?」
少女達に背を向けて、手に握った刀の鞘で鋭い爪を遮る、勇敢なる幼女―――闇代の姿があった。




