もうちょっと文章力があればなぁ、と思うのですが
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それは、とても不思議な感覚だった。ついさっきまで、体中を強烈な苦痛が迸っていたのだが、今はもう、自分の体がどこにあるのかさえあやふやな状態なのだ。まるで、意識と感覚が切り離されたような気になってくるが、それでもただ一つだけ、確かなことがある。……そう、感覚がないはずなのに伝わってくる、この温もり。感覚器官を介さずに、魂に直接流れ込んでくる、暖かなエネルギー。それが更に、曖昧な自意識をぼやけさせてしまう。
はて、自分は一体誰なのだろうか? 名前は? 性別は? 年は? そもそも人間なのか? ―――まったく分からない。『我思う、故に我あり』というが、それならば、この場合の『我』とは誰か? そんな知識は出てくるのに、自分に関する情報が一切思い出せない。
辛うじて呼び起こせたのは、幼い日の記憶。大好きな家族に、笑顔と愛情を与えてもらった。けれども、そのとき自分は一人だった。
同じ時間であるはずなのに、矛盾した光景が脳裏に映る。それを皮切りに、どんどんと蘇る、過去の日々。あるときは両親に抱かれて、しかしその頃は親がいなくて。周りには友達が沢山いて、でも一人の幼馴染しか傍にいなくて。日々の訓練にもめげずに頑張り、それでも心を閉ざしてしまいがちで。母親が目の前で殺され、ようやく人並みの生活が送れるようになって。母親の仇を取ろうと躍起になって、人間関係も落ち着いてきた。そして……母親を殺した少年を追いかけて、いつもと同じように帰宅しようとして。
―――わたしたちは、俺たちは、出会ったんだ。
つまりは。最初から、『自分たち』は一人じゃなかった。ただ、それだけのことで。
「……ん」
目を開ける。その動作は、普段よりもずっと楽に出来た。瞼が軽い、というよりは、瞼がなくなって、代わりに眼球を覆っていたカーテンが開けられたかのようだった。
「……ぁ」
視界を埋め尽くしたのは、一面の白。穏やかで、やわらかい、純白の光だった。その仄かな輝きは、彼らの視界を潰すことなく、ささやかに辺りを照らしていた。
「狼、君……?」
声と共に、目の前に何かが形作られた。それは少女の顔で、黄金の髪に同じ色の眉、くりくりとした愛らしい目と筋の通った鼻、それから綺麗な桜色の唇を持っている。そう、今の彼にとっては、よく見慣れた容貌だった。
「闇代、か……?」
それを認識して、ようやく声を発することが出来た。まるで、それまでは自分の顔すらなかったかのようだ。
「―――うん。闇代だよ」
「そうか……で、何で服着てないんだよ?」
確かに、彼女は服を着ていない。正確には、服を着るための体がないのだ。顔よりも下の部分は、周囲と同じ白が広がっているのみで、輪郭さえも持ち合わせていない。少女は、辛うじて残っていた首を横に振って答える。
「わかんないよ。気づいたらこんな状態だったの。それに、そう言う狼君も服着てないよ」
「マジかよ……」
少年は自分の体を見下ろすが、そこに彼の体らしきものはなかった。やはり、真っ白な光が漂っているだけである。
「なんか、生首になって浮いてるみたいで気持ち悪いな……」
「そうかな? わたしは、狼の顔が間近で見れて、結構嬉しいけど」
少女の率直な言葉に、少年はやや紅潮して視線を逸らした。それを不満に思ったのか、少女は頬を膨らませる。
「そっぽ向かないで」
そしたら、か細い腕が二本、どこからともなく現れて、少年の両頬を押さえて向きを変えた。丁度、二人の目線が交錯するような感じになる。
「おい、どっから手を出した……?」
「そんなの、どうでもいいよ」
腕は、少女の意思に応じるように、少年の顔を少女に近づける。そうして、彼らの距離は更に近くなった。吐息が触れ合い、瞬きによって揺れる睫毛の動きさえ明瞭に捉えられる程に、近く。
「……なんか、不思議な感じだよな。息してる気がしないのに、お前の吐息はちゃんと感じる」
「わたしも、狼君の息づかい、感じるよ?」
少女は頬を上気させ、瞳を潤ませながら答える。そんな彼女の想いに応じるように、腕は更に少年の顔を少女に寄せていった。
「ちょっ、近いっての」
「ううん、まだ遠いよ」
互いの鼻が触れ合うほどに近づき、それでも少女はまだ遠いと言う。
「どうしろって言うんだよ?」
「だって……まだ、狼君に触れられてないから」
「鼻は当たってるぞ」
「そうじゃなくて―――唇」
その言葉は、どこか艶かしくて。けれども少年は、最初、その意味が分からなかった様子だった。それ故に、少女はもう一度繰り返す。今度は、もっと具体的な台詞に変えて。
「ねぇ、わたしとキス、しよ?」
「……何でそうなる?」
顔を顰める少年に、しかし少女は悪戯っぽく微笑んで、こう続けた。
「だって、ここって夢の世界でしょ?」
「まあ、多分、そうなるんかな……?」
「だったら、普段できないこと、してみたい」
屈託のない少女の笑みに、少年は諦め気味に溜息を吐いた。
「それはいいとしても、何でキスなんだよ?」
「だって、狼君としたこと、ないから」
「しただろ?」
「あれは、ほっぺにしてもらっただけだもん。ちゃんと、口と口でしてみたい」
だからね、と。少女は目線を少年の目に向ける。その期待するような表情に、誤魔化したり目を逸らすのは誠実でないと感じたのか、少年は真剣な眼差しを返した。
「言っておくが、そんなこと今までしてねぇから、上手くは出来ないぞ」
「―――いいよ。狼君なら、狼君となら、いい」
了承と同意。それが合図となったかのように、彼らは自然と距離を縮めていく。互いの視線がねっとりと絡み合い、呼吸が荒く激しくなる。無言で見つめあいながらも、今は姿のない心臓を、大きく、強く脈打たせていく。やがて二人は、目を閉じ、その僅かな距離を埋めるように顔を近づけていって。
―――口づけを、交わした。
ただ、それだけの夢だったのだ。