サバの味噌煮定食
始りはたぶん自分の欲からだ。
人より上にいたい。人には負けたくない。そんなプライドが私を突き動かした。
結果は最高のものだった。中学では学校創立で初めての三年連続学年一位を取り、生徒会長もりっぱに果たし、高校入試もトップの成績で合格することができた。周りから褒められて、尊敬された。
けど、それと代償に何か大きなものをなくしてしまった。
――それは私の理解者。
周りは私がなんでもできると言って羨ましがる。
そんなわけがない。裏では必死で努力している。周りが友人と遊んでいる間にいち早く家に帰って机に向かっているんだ。
努力もなしになんでもできる人間なんて、それこそ天才以外にいない。
私は天才じゃない。ただの見栄っ張りな努力家だ。
周りにはそれを理解してもらえない。
後戻りも、それを伝えることも出来ず、私は周りの期待に答えるために努力を続ける。
そんな生活をしていると、たまに自分がわからなくなる。自分が何をしたいのかも、何のために努力しているのかもわからない。
だんだんと努力することが無駄に思えて、全てを放り投げたくなる。
そして私は初めてずる休みというものをした。
家から高校までの通学路。そこに灯台のある海岸がある。コンクリートで作られた道に私はたたずむ。授業はすでに始り、一時間目が終わろうとする時間帯。私は特に何もするわけでもなく、ボーと海を見つめる。
すると私の後ろを通り抜ける人影が一つ。歳は私とそう変わらない、16歳ぐらいの男の子だ。ジーパンに柄のない真っ白なTシャツというなんともシンプルで面白みのない格好をしている。そして釣竿とクーラーボックスを肩にかけ、私から少し間があるところで黙々と釣りの準備を始めた。
けど、問題はそこじゃない。どう見ても高校生くらいにしか見えないという処だ。つまり、彼も学校をずる休みして釣りをしようとしているわけだ。
私はなんだかイラッときた。私はこんなにも悩んでいるのに、どうしてコイツは能天気に学校をずる休みして釣りを楽しんでいるんだ、と。後で思えば完全な八つ当たりなのだけど。
その時機嫌の悪かった私はその男の子に厭味を呟いてしまった。
「学校をずる休みして、こんな所で釣りなんていいご身分ね」
男の子は針を投げ入れる手を止めた。そして私を見て、今度は周りを見渡して、また私を見た。
「もしかして俺に言ってるのか?」
「アンタ以外に誰がいるの? 幽霊でもいる?」
男の子は針を海に投げ入れる。赤と黄色の浮がぷかぷかと波に揺れる。その後、クーラーボックスを足で引きずりよせ、その上に座った。
「そういうお前はずる休みじゃないのか?」
もっともな反撃をもらった。
確かに私もずる休みだ。いつも品行方正で通していたから、今の私ずる休みしていることを忘れてしまっていた。
私は何も言えず黙ってしまう。
「図星か。自分こそずる休みしてるくせに人のこと責められるのか」
「わ、私はいつも真面目で優秀で優等生だから、たまにはずる休みしたっていいのよっ」
「ずる休みしてる時点で、真面目じゃなし、優秀でもないし、優等生でもないな」
揚げ足を取られてムッとなる。
なんだ、コイツは。ずる休みして釣りしているくせに。私はずる休みしても負い目を感じてなんにもできないんだぞ。だから私の方が少しだけ真面目なんだ。
と団栗の背競べと逆切れ。
「ふ、ふんっ。アンタはみはわからないだろうけど、これは意味のあるずる休みなの。だから、私のとって必要なことなの」
「へぇ~、それはどんな意味があるのか、ぜひ聞かせてもらないたいな」
コイツと話していると維持を張ろうとして、底なし沼のようにどんどん抜け出せなくなる。
「それは……自分探しとか」
「自分探しね」
と鼻で笑われた。
ムカつく。コイツ、ホントにムカつく。
なんでこんな見た目からして不真面目そうな奴に笑われないといけないのよ。どーせ、こういう奴は将来、親の臑を齧って生きて行くんだわ。
「それで海見つめて自分は見つかったか」
そんなことを考えていたから、コイツがこんなフザケタような話に乗ってくるとは思わなかった。
「え、そ、そうね。まだかしら」
返しも空返事になってしまった。
「そうか。ま、自分なんて自分が一番わかってなかったりするから、深く考えるなよ」
彼はそう言って釣りに集中し始めた。
面喰うというのはこういう事なのだろう。最初は意地が悪かったのに最後になぜか優しく(?)された。しかもこんな八つ当たりや逆切れをする私に。自分で言うのもなんだが、さっきの私は最悪の部類に入る人間だった。
それなのに彼は怒るわけでもなく、ただ揚げ足を取って鼻で笑うだけだった。
釣りをしている男の子が私よりもずっと大人に見える。
なにか私には知らないようなことを彼は知っている気がする。人生を長く生きている人が知っているような、哲学的ななにか、お婆ちゃんの知恵袋みたない感じのなにか。
だから、思い切って私は彼に訊いてみた。
「アンタは自分が何をしたいのかわからない時ってある?」
釣りをしながらこっちを見る。目で「なに言ってんだ、コイツ」と訴えかけてる。
訊くんじゃなかった、と言った後で後悔しても遅い。
「お前、なんか思春期の女子って感じだな」
ホント訊くんじゃなかった。
「変なこと訊いて悪かったわ。ゴメン」
ここにいずらくなった。別に所に行くか、学校に行こう。今なら遅刻ですむ。
「そうムキになるなよ。俺が悪かった。質問にはちゃんと答える」
彼がそう言うので留まった。答えも気になるし。
「俺はそんなこと考えたことなかったよ。いや、考える暇がなかったって言った方がいいな」
「考える暇がない……」
それはどういうこと、と考えていると彼が見透かしたように答えてくれた。
「俺、家を早く出て自立したかったんだ。それで躍起になって、自分のことなんて考えてなかった」
「え、自立ってじゃあ」
「ああ、俺、中卒。高校には通ってないよ」
その言葉を聞いて、さっきまでの自分が凄く恥しくなった。相手の事情もしらないで、上から物を言ってなんて子供なんだろう。
タイムスリップして過去の自分を殺したい。
「あの、ごめんなさい」
とりあえず、過去の自分の過ちを謝っておいた。そうしないと自分の腹の虫が納まらない。
「別に気にしてない。俺みたいな奴がこんな朝っぱらから釣りしてたら誰でもそう思うだろ」
なんとも寛大な人だ。
「それで自立するために中三の時に住み込みで働ける所探して今にいたる。結果的に自分で自分を追い詰めて、自分の可能性を狭めることになったけどな。自業自得って奴だ」
そんなことはない。それでちゃんと自分の道を進んでるんだ。今の私は人に流されるままに進んでるだけ。
「どうだ。参考になりそうか?」
「うん、どうかな。アンタみたいに自分で行動できないから参考にならなかったかも。周りから期待されてそれに答えなきゃって必死で努力して、気付いたら自分のやりたいことも見つからなくなっちゃって、それで努力する意味もわからなくなった。行動の理由は全部他人からもらったもの。自分でこうしようなんて決めたことない。曙高校に入学したのも私なら入学出来て当然と思われてるから、委員長を請け負ったのもやれて当然と思われてるから、テストで一番になるのもなれて当然と思われてるから。ホント私って何がしたいんだろう」
なんでか、言ってるうちに泣きたくなった。膝を抱えて頭を埋める。こんな初めて会った人に泣き顔なんて見られたくなし、なにより弱ってる自分を見られたくなかった。
涙がコンクリートに染みる。
涙を拭いたら、さっさと立ち去ろう。彼もこれ以上私にいられても迷惑だ。
そう思っていると、いきなり手を引かれた。
「お前、朝飯食べた?」
「え?」
いきなりそんなことを訊くので、なんとも間抜けな声が出てしまった。
「朝飯食べたかって訊いてんの?」
「た、食べてないけど……」
そう告げると彼は「よし」と呟き、私の手を握ったまま歩き出した。釣り道具も投げ出して。
私は戸惑いながら彼に引かれるがまま歩き出す。
「え、え、ど、どこ行くの?」
「付いてくればわかる」
彼はそれしか言わず、私もそれ以上訊けなかった。
戸惑ってたというのもあるけど、男の人に手を握られたのが初めてで恥しかったのが大部分だ。
彼の手は大きくて私の手なんて握ったら見えなくなる。少し力を入れれば握り潰されてしまいそうだ。
でも、私の手を握る手は凄く優しくて暖かい。私のことを思い遣ってくれてることがよくわかる。
彼が足を止めた場所は『みやの食堂』という一軒の定食屋さん。先程の海岸から目と鼻の先。
「ここは……」
「俺の働き先だよ」
そう言って躊躇いなく入った。店の中にはテーブルを拭く、白いエプロン姿のおばさんがいる。
「すいません。昼の時間はまだ――って仁人くんか」
ひとし。それが彼の名前。
ぼーと彼ことを見ているとおばさんの視線を感じた。目が合うとニコッと嫌な笑みを浮かべる。
「なんだい。仁人くんも隅に置けないねぇ。もうこんなに可愛いカノジョさん作ったのかい」
「――っ!!」
カノジョと言われてびっくりする。
どうしてよう。多分今の私、顔真っ赤だ。
慌ててる私に比べて仁人くんは平然と「違いますよ」と否定した。
なんだか、私が恋愛対象として見られてないみたいでイラッときた。
「それより厨房貸してください。あと食材も」
「いいよ。その代わり今日も魚のお裾分けよろしくね」
厨房に消えた仁人くんから「わかりました」と返事がくる。
「さて、それじゃ、お譲ちゃん。そこらへんに座って待ってな」
「あ、はい」
一番近くのテーブルの席に座る。するとおばさんも同じテーブルの席に座った。
「それで仁人くんとはどういう関係」
「え、いや関係と言われてもさっき会ったばかりで」
そんな関係と言える関係はない。
「あら、じゃあ、仁人くんにナンパされたの?」
と嬉しそうに、そして楽しそうに言う。
「いえ、そういうわけじゃ……」
最初に絡んだのはこっちの方だ。
ナンパというより逆ナン?
そんなつもりは全然なかったけど。
「でも、少し安心した。仁人くん、友達いないんじゃないかと思ってたから」
「え」
「彼ね。四月から働き始めてんだけど、一度も友達連れてこないのよ。普通、あのぐらいの歳ごろだったら、連れてくるでしょ」
え、四月からってことは、仁人くん私と同い歳!?
最初はそう思ったけど、話してる途中で年上かと思ってた。
「だからおばさん心配してたの」
「そうなんですか」
おばさんは仁人くんのお母さんみたいだ。
「それで仁人くんとは何処まで行ったの?」
「ふぇ? いや、だから私たちは別にそういう関係じゃ」
「それは聞いた。でも、ここまで黙って付いてきたんだから、その気がないわけでもないんでしょ」
あれは仁人くんが無理やり連れてきたわけで、私の意思じゃないし、けど確かに黙って付いてきたのは事実だけど、あれは手を繋がれて恥しくて言い出せなかっただけだし、というか仁人くんも私の手握っといてなんかこう反応があってもいい気がする。私はこんなに恥しがってるのに、あっちだけ無反応というのは負けた気分になる。
「そうかそうか、若いっていいね」
おばさんはなぜか答えてもいないのに、納得した顔をして仁人くんが行った厨房に消えて行った。
それと入れ違いで仁人くんが出てくる。なぜかお盆を持って。
「八千枝さんなんだかニヤニヤしてたけどなんかあった?」
「いやなにも」
としか言いようがなかった。
彼も「まぁ、いっか」と言ってお盆を私の前に置いた。
その上にはご飯とみそ汁にお新香、そしてサバの味噌煮が乗っていた。つまり、サバの味噌煮定食だ。
「それじゃあ喰え」
「え、でも私、お金持ってないわよ」
「いい。俺の奢り」
そんなこと言われて「はいそうですか」と言えるほどずうずうしくない。
「でも、仁人くんに悪いし」
彼は「仁人くん?」と頭を軽く傾げる。少しして「ああ、俺のこと」と呟いた。
この場に他に仁人くんがいるのか。
「気にするな。このサバは俺が釣った奴だし、ご飯とみそ汁は朝の残りだ。それにお前は出された物を残す無礼者なのか?」
そんなことを言われたら、食べないわけにはいない。
箸をとってサバを口に運ぶ。
「おいしい」
おいしかった。
今まで食べたサバの味噌煮の中で一番おいしかった。
心の底からそう思っていると、仁人くんが「よし」とガッツポーズをしていた。
「実はそれ。俺が作ったんだ」
「え!?」
これを、仁人くんが、驚いた。
すごい。
「これが俺の二か月の成果だ」
「二か月……」
「ああ、自分を追い詰めて進んだ先で俺はサバの味噌煮定食が作れるようになった」
これを二カ月で……。
さらに驚いた。
「それで、俺は悪くないと思ってるよ。自分で狭めて無理やり進んだけど、この定食屋で働けること。だからお前もあんまり悩む必要はないと思うぜ」
そこで海岸の話題に戻った。
仁人くんはそれを知ってもらうためだけにここに連れてきたのか。
なんて演出に凝る人なんだ。
「確かに今は不安かもしれない。他人に流されてる自分が惨めかもしれない。でもいつかはやりたいことを見つけて、自分で進めるようになる。お前、今何年生?」
「え、高校一年生だけど」
「てことは三年、自分のやりたいこと探せる時間がある。それだけあれば見つかるよ。やりたいことって望んでると見つからないくせに、望んでないと見つかるもんだ。俺だって望んでないのに見つかった」
「え、なに?」
仁人くんがやりたいこと。
すごい気になる。
「ここの定食の作り方を全部マスターすること」
と仁人くんは言った。
それはなんとも平凡で、いつでも出来るようなことだけど。
でも、今の私にはすごいことだと思った。なんせ、こんなにもおいしいものが作れるようになるんだから。
「だから、お前も肩の力抜いたらどうだ。そっちの方が楽だし、楽しいぜ。それでも悩んだら、ここに来い。愚痴くらいなら聞いてやるし、またサバの味噌煮定食喰わせてやるよ。次は代金はもらうけどな」
そう言って仁人くんは私の頭を撫でた。
その瞬間、肩の荷が下りたようにすっきりして、これまでに感じたことがない安心感に包まれた。
だからだろう。また涙が出た。今度は自分の不甲斐なさからじゃない。だから、顔を隠さなかった。そんなことよりも早くこのサバの味噌煮定食を食べたかったのだ。こんなにもおいしいものはそうそう食べられないのだから。
そしてその時食べたサバの味噌煮の味は忘れられないものになった。