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この日の近藤家の夕飯は寿司だった。
外食したわけではない。出前を頼んだのだ。
リビングにあるガラスのテーブルの中央に置かれた丸い漆塗りの器。
そのテーブルに対応した白い四脚の椅子の一つに座った海は、初めて目にしたこの食べ物の食べ方がわからず困っていた。
それを悟った雫が、箸で寿司をつかみ、自身の前に置かれた小皿の醤油をつけ、食べて見せる。
わかった?という意味を込めた笑顔を海に向けると、彼は肯定も否定もせず、黙って寿司に箸をのばし、その内の一つをつかむ、ことは出来なかった。
つかんだと思った瞬間、寿司が箸から落ちてしまったのだ。
海は、今までこうして家族で食卓を囲むことなど、一度としてしたことがなかった。
いや、正確には彼の両親が亡くなるまではしていたのだが、海はそれを覚えていない。
そのため、彼は箸の使い方を誰からも教えてもらったことがなく。
学校で他の人達が使っているのを見て、見よう見まねで使っているめ、箸の使い方がとても下手だったのだ。
何度か挑戦してみるが、どうしても上手くつかめず。
海の横に座り、それを見ていた雫が手を動かした。
――瞬間、海は目を思い切りつぶる。
叩かれると思ったのだ。
「海。お箸はね、こうやって持つのよ」
しかし海が想像していた痛みはこず、代わりに右手が温もりに包まれた。
海が驚き目を開くと、雫の笑顔があって。
自分の右手を見ると、彼女が両手を使って箸の持ち方を直してくれて。
「それで、こうやって」
彼女はそのまま海の手を持ち、寿司の方へと移動させる。
海も、そのまま自分の手を目で追う。
雫は、海が何度もつかみ損ねた寿司の所まで海の手ごと箸を移動させた。
海の手を操りながら、雫は優しく言う。
「こうやってお箸を開いて、こうやって挟んで」
丁寧に、丁寧に。幼い海がきちんと理解出来るように、ゆっくりと雫は説明をする。
「あ、力は入れすぎちゃ駄目よ。お米が崩れちゃうから、優しくね。そう。それくらいの力で」
雫に言われるがままに行動する海。
彼は今、反抗することすら忘れている。
彼は今、夢中になっていた。
今まで上手く扱うことが出来なかった、箸の正しい使い方を学ぶことに。
「そう。それで優しく持ち上げて。でも力を抜きすぎても駄目よ。海、もう少しだけ力を抜いて。そう!そのくらい!」
雫の言葉に従い、力の強弱をつける海。
そうして正しい形で、適切な力加減でつかまれた寿司は、宙を動いた。
「海、お醤油のつけすぎに気をつけて。しょっぱくなっちゃうから。……そう。それくらい。あとはそのままお口に運んで……」
雫に導かれるがままに海は手を動かし、自分の前に置かれた小皿の中の醤油(寿司はわさび抜きになっており、また、海の小皿には醤油しか入っていない)を少しつけ、そのまま口へと運んだ。
途端に海の目が見開かれる。
驚いたのだ。そのあまり美味さに。
彼が口にしたのは鯛だ。旬もので脂ののった鯛は口の中で溶け、あとに残る酸味のきいた酢飯が鼻孔をくすぐる。
海は知るよしもないが、輝が注文をしたこの寿司屋はこの辺りでは名前の知れた老舗。美味いのも当然といえた。
海は感動のあまり、もう一つ食べようと手を伸ばそうとして――途中で動きを止めた。
そして、窺うように輝達の顔を見やる。
「どうしたの、海?」
「……」
雫の問いにも海は答えない。
彼女達の顔色と、寿司達を交互に視線だけが行き来する。
それを見て雫は悟った。
海に笑顔を向け言う。
「好きなだけ食べていいのよ、海。それに、足りないようなら言って。追加するから」
優しい笑顔の雫。海が顔を向けると頷く輝。
それに対し、海はなにも言わない。ただこくんと頷き、先ほど彼が食べたものと同じ寿司に箸を伸ばした。
雫に教えてもらったばかりの、ぎこちない箸使い。
しかし、ぎこちないながらも彼は目的のものをつかみ、先ほどと同じように醤油をつけ、口に運んだ。
一個、二個と、その後も海の箸は止まらず。
海は「美味しい」とは言わない。だが輝達はわかっていた。
海がそう感じているのを。
減っていく寿司の量に比例して、少しずつ上手くなっていく海の箸使い。
その様子を雫は優しく見つめ、輝はそっと席を立ち、追加の電話をいれた。




