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「やれやれ。海は素直じゃないねぇ。雫には膝枕までさせていたくせに」
肩をすくめてそう言った輝に、海は顔を真っ赤にし、ほえる。
「あれは俺がしたんじゃない!こいつが勝手にやったんだ!」
「だったら、僕も勝手にやっていいんだね?」
「は?なに……っ!」
輝は言葉を言い終わるのと同時に車の中に腕を伸ばす。
海が危険を察知し距離を置くよりも早く、輝は海の両脇に腕を入れ抱きあげた。
「――っ!離せ!なにするんだお前は!?」
抱きあげられておとなしくしている海ではない。手足をバタつかせ、精一杯抵抗した。
「いや、海!痛い!痛いってばはぁ!?」
無秩序に振り回される手足が、頭や胸、そしてみぞおちにきまり、輝は息を吐いた。
あまりの苦しさに輝は胸を手で押さえたくなる。しかし、空中で手を離してしまえば海を落としてしまうことになる。
だから輝は気力を振り絞り、海を地面におろし、そしてそのまま胸を押さえながらしゃがみ込んだ。
「か、海……流石にみぞおちは反則じゃないかい……」
「自業自得だ!」
海は肩を上下させながら輝を睨む。彼の顔はまたもや真っ赤だった。
海はこういった肉体的コミュニケーションに不慣れだった。というより体験したことがなかった。
そのため恥ずかしくてしかたなかったのだ。
「まあ。輝さん大丈夫?」
海達がそんなやり取りをているうちに車からおりた雫が、自分の頬に手を添えながら言う。
輝は顔をあげ、雫に苦笑いを向けた。
「なんとか、ね。はは……」
「そう。じゃあ、買った荷物、お願いね」
「え゛……」
天使の微笑みで悪魔の言葉を言う雫に、輝はその表情のまま固まった。
雫はその微笑みを海に向け言う。
「それじゃあ海。私達は先にお家に入りましょう」
「え……あ、うん……」
自然と手を握ってくる雫に、海は流されるようにして頷いた。
振り返り、しゃがみ固まっている輝の顔を見て、自分の手を引きながら歩く雫の顔を見て、海は今度こそ彼ら夫婦の力関係を把握した。
(こいつが強いのか、あいつが弱いのか)
『尻に敷かれる』という言葉を知らない海は、そんなことを考えながらもう一度雫の顔を見て、いまだ固まっている輝の顔を見た。
――この時、海はそれ以上のことを思わなかった。感じなかった。
自分が『手を引かれる』という、肉体的コミュニケーションをとっているというのに。
デパートで最初に手を繋がれた時は、とても居心地悪そうに、不機嫌になっていたというのに、今では自然と手を引かれていて。
居心地の悪さも不機嫌さも彼の顔には見えない。
慣れてしまったのだ。
この半日、輝と雫に何度も何度も手を繋がれたため、彼らと手を繋ぐという行為が、海の中では自然となりつつあった。
もちろん本人に言えば否定し、今すぐ手を振りほどくだろう。
だが雫は、そんな愚行をするような愚者ではなかった。
海の変化を喜び、雫は海を優しい顔で見る。
それを向けられた海は訝しそうに眉を寄せて雫を見返していたが、口を開くことはなかった。
(こんな風に、少しずつ海と親子になっていきましょう。焦ることなんてなにもないわ)
雫はそう思い、海に優しく微笑む。
海は益々訝しい表情をしたが、やはり口を開くことはなかった。
車庫から数歩歩いたところで雫は足を止める。
疑問を浮かべ雫の顔を見る海に、彼女は優しく笑いかけ言った。
「海。ここがあなたが今日から暮らす家よ」
雫に言われ、手で示され、海は初めてそこに家があることに気がついた。
笑顔を向けてくる雫の内心を探ろうとして、彼女の顔ばかり見ていたため、他のことに目がいかなかったのだ。
「……」
海は雫が示した家を見て、驚き声を失った。
海は今までいろいろな家をたらい回しにされてきたので、様々な家を知っている。
平屋。二階建て。マンションの一室。築数十年の家もあれば新築の家もあった。
そんな風に様々な形容の家を見てきた海だが、それでも今目の前にある家には驚いた。
見たことがなかったのだ。ここまで綺麗な家は。
広い庭には緑と季節の花々が見事に咲き誇り。
二階建ての白い家の壁にも窓にも汚れは一切ない。
今まで海が引き取られた家にも庭に木々や芝生、花々がある所もあった。
しかしこの家のそれは、輝きが全く違った。
植物に全く詳しくない海でもわかるくらいに、この家の植物達は丁寧に、きちんと手入れをされていて。
そして、外見を見ただけでわかるくらいに、家を丁寧に掃除しているのがわかった。
一目でわかるくらいに綺麗な家。海が今まで見てきた中で、一番綺麗な家。
ア然とし、口を開いて固まる海を見て、雫はくすくすと笑う。
「海。気に入ってくれた?」
雫の言葉で、海はようやく動きを取り戻す。
一瞬雫の顔を見て、すぐにバツが悪そうに顔を逸らす。
そして不機嫌な表情を作り、言った。
「……別に。家なんて、ただ住む場所だし」
「それは違うわ、海」
海の言葉を、雫は即座に否定する。
彼女はそのまま、海の頭を優しく撫でながら言う。
「家っていうのは、住むためだけの場所なんかじゃない。家族が集まって団らんをする場所なの」
「家族が……集まる……?」
海は眉を寄せる。
雫の言葉の内容を、海は理解出来なかった。意味がわからなかった。
先ほどの海の言葉通り、彼にとって家というのは、ただ暮らすだけの存在でしかない。
寝起きして、雨風を防いでくれる場所。
それが海にとっての家だ。
だから彼は理解出来ない。雫の言葉の一かけらも。
雫はしゃがみ、海と目の高さを合わせ、続けた。
「そう。朝起きて『おはよう』を言い合って。出かける時は『行ってきます』、『行ってらっしゃい』を。帰って来た時は『ただいま』、『お帰りなさい』を。寝るときは『おやすみ』を言い合って。一緒にご飯を食べて、今日あったことを話し合う。それが、本当の家。これからあなたが暮らす家」
「――っ」
そう話した雫の顔が優しくて。
今まで自分の世界の外で行われていた行為に自分が加わることに驚いて。
海は瞳を大きく見開いて、雫を見た。
彼の瞳から目を逸らさず、雫は優しく微笑み海の頭を撫でる。
海は、動けなかった。瞳を逸らせなかった。
彼の体は、完全にフリーズした。
今、彼の頭の中では、葛藤が起きている。その葛藤に、必死になっている。
そのため海は体のコントロールを手放したのだ。
彼の葛藤。それは、信じ、彼らを受け入れるか否か、だ。
彼の知る大人は、彼にこんなことを言ってはくれなかった。
どの家にも居場所なんてなかった。
名前だけの『家族』だった。
しかし、雫は、彼女達夫婦は、自分と名実共に『家族』になろうと言っているし、行動にも現れている。
……嬉しさよりも戸惑いの方が大きかった。
どうしたらいいかわからないし、なにを言ったらいいのかもわからない。
虐待を受け続けてきた彼にとって、虐待が普通だし、日常だった。
海の世界には、それしかなかった。
だから、戸惑う。困る。いきなり、こんな風に優しくされても……。
(わからない……。どうしたらいい……?確かにこいつらは今までの大人とは違うけど……けど……!)
「……そんなの……最初だけだ……」
葛藤に決着がついた海は、雫から顔を逸らし、そう呟いた。
結局、海は拒絶した。自分の世界に引きこもった。
……裏切られるのが怖いから。
それは海の防衛本能の一つだったのだろう。歪んだ防衛本能。
『非日常』な『日常』で育ったがゆえに生まれた歪んだ世界。
海の幼い心は、壊れていた。
……だが、彼はまだ知らない。
壊す存在がいれば、それを癒す存在だっているということに。
雫は海の顔を両手で優しく挟み、自身の方へと向ける。
彼女のそんな行動に驚いた海は、思わず彼女の目を見てしまう。
そして彼は目にした。
強い意志が込められた、優しい、瞳を。
「最初だけかどうか、それはあなたが確かめて。あなたが見極めて。そして、自分で答えを出しなさい。あなたは一人なのかどうかを」
「……」
海は、再び雫の瞳から目を離せなくなった。
先ほどのようにフリーズしているのではない。
魅入ってしまっているのだ。
今まで見たことのない、透き通った綺麗な瞳に。
雫は海の鼻を優しくつまみ、そして彼の手を取り立ちあがった。
「さあ、家に入りましょう」
優しく笑う雫。
そんな彼女の瞳を、海は手を引かれながら、ずっと見つめていた。




