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夕方の国道を、輝が運転するレクサスはスムーズに、しかし丁寧に走っていた。
急ブレーキを絶対に踏まないように、車間距離を充分に空けて走る安全運転。
輝は普段から丁寧な運転をするが、今回は特別丁寧に運転していた。
その理由は、後部席にある。
後部席で、海は雫の膝の上に頭を乗せ、小さな寝息を立てていた。
この体勢は、もちろん海の意思ではない。
彼がドアに体を預け眠っていたところを、雫が抱き寄せ今の体勢にしたのだ。
冷たい瞳と毒舌はなりを潜め、代わりに浮かんでいる幼い表情。
眠る我が子を起こさないように輝は丁寧に運転をし、雫は海の頭を優しく撫でていた。
信号が赤に変わり、輝は車をゆっくりと停車させる。
完全に止まったことを確認し、ギアをニュートラルに入れサイドブレーキを引く。
そうやって完璧な安全を確保してから、輝は後部席を覗き込む。
「熟睡してるね」
「ええ。きっと疲れたのよ。海にとって、初めての外出だったから」
雫の言葉通り、海は疲れきっていた。
自分の知らない大人。
自分の知らない感情。
自分の知らない世界。
そして、初めての選択。
肉体的にも、精神的にも、海は疲れきっていた。
膝の上の重みを感じながら、優しく頭を撫で続ける雫。
彼女の表情はとても愛おしそうで。
妻の膝の上で眠り続ける海に、優しく微笑みかける輝。
彼の表情はとても嬉しそうで。
自らの子供にさえ愛情を抱けない親が急増している今のこの世界。
しかし、彼女には、彼には、確かにそれが存在していた。
自分の血肉を分け与えたわけではないのに、海は心から愛されていた。
我が子を嬉しそうに見つめる輝。しかし、彼は一つ失念していた。
ここが『どこ』であるのかを。
信号が変わっても走り出さない輝の車に苛立った後ろの車が鳴らすクラクション。
それを聞き慌てて運転を再開する様子を、雫は小さく笑いながら見ていた。
(不覚だ……!)
雫に起こされ自分の体勢を理解した時、海は心の底から眠ってしまったことを後悔した。
デパートでいろいろな体験をして疲れていた海は、心地よい車の揺れに次第にまぶたが落ちていくことを自覚した。
眠るものか、と何度か抵抗してみるも、どうしてもそれに逆らうことが出来ず。
仕方なく、彼は体の求める休息をとることにした。
絶対に雫の方に倒れないようにドアの取っ手を握り、そのままドアに体を預け眠りについた、はずだった。
しかし、実際彼が目覚めたのは雫の膝の上で。
海は慌てて彼女から距離を取り、羞恥に顔を赤らめながら彼女を睨みつけた。
「……なんで俺を動かした?」
海は基本的に寝返りをうたない。そういう風に体が『出来て』しまっている。
とある家では動いただけで理不尽な暴力を受けたこともあるし、寝具すら与えられなかったこともある。
そういった理由で、海はどこでも、どんな体勢でも寝られるようになり、寝返りもうたないようになってしまった。
だからわかるのだ。雫の膝の上で寝ていたのは、自分が動いたからではなく、彼女の手によってなされたのだと。
彼女を睨みながら、海は自分自身にも苛立っていた。
(なんでこの女に触られて起きなかった!)
海はかつての経験から、寝ている自分に誰かが触れば自然と目覚めるようになっていた。
その能力がなくなったわけではない。
事実、彼は二日前、熟睡中の自分に教員が触った(正確には毛布をかけようとしていただけなのだか、海はそう認識していなかった)瞬間に目を覚まし、その教員から距離を取ったのだから。
その能力が発動しなかったことに、海はとても苛立っていた。海にとって、あの能力は生きるために必要なものだから。
海の睨みに一切怯まず、雫は笑った。
「だって海ったらドアに寄りかかって窮屈そうに寝ているんですもの。見ていてかわいそうだったし、それに私が海の寝顔を見たかったから。だから抱き寄せて膝枕をしたの」
雫の言葉に海は眉を寄せた。
彼女がなんでこんなことを言うのか全く理解出来なかったし、彼女の言葉の中に知らない単語があったからだ。
「ひざ、まくらって……なに?」
今朝までの海が今の自分を見たら、とても驚いただろう。
彼は自発的に質問をするような子供ではなかった。知らない単語を思わず口に出すことはあっても、それを尋ねるようなまねは決してしなかった。
この半日雫達と過ごしたことで、彼の中で確かな変化が起きていた。
むろん、本人は気づいていないが。
海の質問に、雫はもう驚くことはなかった。
彼が暴力や暴言に詳しい反面、愛情や親しい間柄でするコミュニケーションに疎いことを悟ったからだ。
(だったら私達が教えてあげればいい。そうやって一緒に成長していけばいい)
雫は海に微笑みながら言う。
「膝枕っていうのは、言葉通りよ。さっきまで海が眠っていた体勢のことよ」
「――っ!」
雫のその言葉で、海の顔は再び赤くなる。彼女の言葉で、一瞬忘れていた羞恥がよみがえったのだ。
海が再び雫を睨み出した時、海の座っている方のドアが開いた。
驚き海が振り返ると、そこには笑顔の輝。
彼を見て初めて、海は車が停まっていることに気がついた。
輝は言う。
「海。着いたよ。さあ、降りて」
笑顔で差し出される手。海は輝の顔を呆れた表情で見る。
「あんたもこりないな。いい加減悟れよ」
そう言い、海は輝の手を『三度』叩いた。
そう。輝がこのように海の手を差し出したのは今回が初めてではない。
デパートに着いた時。デパートから車に乗る時。そして、今。
輝は海が車に乗り降りしようとする度に、こうして彼に手を差し出していたのだ。
結果は、毎回一緒だったが。




