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ドアをくぐり『その世界』に足を踏み入れた時、海は自分の目を、そして頭を疑った。
自分は今、幻を見ているのではないだろうか?それとも夢を見ているのではないだろうか?
そんなことを真剣に考える。
そんな海の反応は、大袈裟ではなかった。 一般人、いや、それなりに裕福な家の人でも、この光景を見たら海と同じ反応をしていただろう。
床や壁の作りこそ今までのものと一緒だが、『この世界は』、黒羽のパーティー会場は、まるで別世界だった。
天井から吊り下がった、嫌みにならないセンスの良いシャンデリア。
四面の内、二面がガラス張りになった壁からは、テラスに植えられライトアップが施された木々達と、東京タワーやミッドタウンなどの豪華な夜景が顔を覗かせ、室内を飾る。
室内を彩るのは、なにもそんな夜景ばかりではない。
赤、紫、緑に青。 様々な色のイブニングドレスやローブ・デ・コルテを身にまとい、宝飾品で着飾った女性達。
女性を華と称することがある。そのことを海は知らなかったが、室内の女性達を見て、彼は花畑にいるような気分になっていた。
目での情報処理が一通り終わると、今度は耳から新しい情報が入ってくる。
室内に流れるクラシックミュージックだ。
人々の会話を邪魔することなく、しかし消えることのない音量。
海は最初CDでも流しているのかと思ったが、違和感を感じそれに従い顔を動かす。
――そして再び固まった。
部屋の片隅。そこに『彼ら』はいた。
バイオリンにビオラ、チェロに指揮者。
総勢五人からなる弦楽四重奏。
初めて聞く生の演奏。そして様々な楽器達に、海は口を開けて呆然と立ち尽くす。
そんな海を正気に戻すのは、雫の仕事だった。
にこにこといつものアルカイックスマイルを浮かべ、ドレスがシワになるのも気にせずしゃがみ、海の鼻を優しく摘む。
馴染みになりつつある感覚に、海ははっとし、そこでようやく彼らから視線を逸らすことが出来た。
自分の鼻を摘んでいる雫に顔を向け、目を二、三度瞬く。
……そんな海の反応に雫は『萌え』ていたのだが、それを表に出すことはなかった。 もっとも、海がこの反応をもう数秒続けていたら、どうなっていたかは明白であるが。
幸い(?)なことに暴走しなかった雫は、きょとんとしている海に笑顔で語りかける。
「海。もっと近くで見てみたい?」
「……いいの?」
興味を隠しきれない、きらきらと輝く瞳。興奮で紅く染まった頬。 そんな愛息子の愛らしい表情を目の当たりにして、雫の笑顔はとろけた。
「ええ。もちろんいいわよ。 けど、その前に秀一さんにご挨拶しましょうね」
雫の理性は半ば飛びかけていたが、自分達は招待されているという事実が最後の砦となり、暴走を防いだ。
招待されておきながらホスト(主催者)へ挨拶をしないような恥知らずな行動をしたくなかったし、海にもそんな人間になってほしくなかったからだ。
雫の言葉を受け、海は頷く。
「うん。わかった」
「じゃあ行きましょう」
海の頭を優しく撫で、雫は立ち上がり彼と手を繋ぐ。
そして自分達のことを待っていてくれた将之に頭を下げる。
「ごめんなさい、将之さん」
「よろしいのですか?海様がご覧になりたいのでしたら、秀一を参上させますが?」
「いいえ。そんなことをさせるわけには参りません。秀一さんはこのパーティーのホストです。招かれた者が挨拶に行くことがマナーですから」
雫がそう笑顔で告げると、将之は「かしこまりました」と腰を折った。
そんな二人のやり取りを見て、聞いて。海は、自分の行動がこの結果を招いたのだと悟る。
「将之さん、母さん。迷惑かけてごめんなさい」
将之が顔をあげるのを見て、海は彼に、そして雫に頭をさげる。
その際輝が、「僕は……?」と呟いたのを海は聞いていたが、あえて黙殺した。
海に無視され輝は場所もわきまえずに膝を抱えたが、海達母子も、そして将之でさえも構うことはなかった。どうやら将之も、輝の『キャラクター』というものをしっかりと理解しているようだ。
そんな輝を尻目に海の謝罪に対し反応したのは雫、ではなく、意外にも将之だった。
海の前まで歩み寄り、先ほどの雫同様しゃがみ海と目線の高さを合わせる。
そうして彼は、滅多に見せることのない優しい笑顔を浮かべた。
「海様。あなたはとても賢く、お優しく、そして、とてもお強い方です。あなたのその強さは、きっと多くの人を導き、救うことになるでしょう。 どうか、そのままのあなたでいてください」
「……」
将之の言葉の意味を、海は理解することが出来なかった。 謝罪に対してする返答ではないし、なにより将之の言葉には脈絡がなかった。海でなくても混乱しただろう。
要領を得ない海に将之の笑顔は深まる。
「人の言動から物事の本質を見抜き、自分の非を認め頭をさげる。 これは確かに誰でも出来ることです。しかし、同時に誰もが出来ないことでもあります。 外聞や自尊心が妨げになり、それから逃げる人が多いのが今の世の中です。 しかし、あなたはそれを当然のようにやってのけた。それは賢く、優しく、心が強い証拠です。そんなあなただから救える人がいます。救ってもらうのを待ってる人が、必ずいます。 差し出がましいお願い事ではありますが、どうか、そんな強いあなたで居続けてください。あなたのことを、待っている人のためにも」
それは七歳児が理解出来るような内容では、到底なかった。
ただの七歳児では知り得ないであろう単語がいくつも混じっていたし、言っていることも抽象的で的を得ない。
普通ならわからない。そう、『普通』なら。
(俺だから救える人がいる。俺のことを待っている人がいる、か……。考えたこともなかったな、そんなこと)
海は理解し、そう思う。
以前、海は雫に『痛みと苦しみを知っているからこそ、人の痛みと苦しみを理解出来る』と言われたことがある。
海は思う。確かに自分なら『それ』を理解することが出来る。そして将之の言葉が正しいのであれば、自分は彼らを救うことが出来るのだ。
今まで誰からも必要とされてこなかった海にとって、それは甘美なものだった。
誰かが待っている、誰かの力になれる。そんなことを言われれば驕り、天狗になってしまいそうなものだが、海は違った。
本当の意味で孤独を知っているから。人の温もりが、優しさが尊いものだと知っているから。
それになにより、海は救われた側の人間だから。
自分と同じように心に傷を負った者がいたら、海は輝と雫がしてくれたようにその人を救いたい。輝達がくれた優しさを、その人に分けてあげたい。
海は、そう思った。
「……はい。わかりました」
そう頷く海の瞳は、強く、輝いていた。
……この時打ち込まれた楔により、海はまた一つ成長した。
人の内面を『観る』賢さと、自分のことよりも他人のことを大事にする優しさを、そして自分の過ちを素直に認められる強さを持った少年は、新たに『目標』を持った。
助けを求めている人がいて、自分がなにか出来るのであれば、それに応えようという目標を。
それは、当然のことだった。しかし、誰しもが出来ないことでもあった。
今の時代において、当たり前のことを当たり前のように出来る人間は『異質』でしかないのだ。
海は成長した。しかし、それは同時に、彼の『異端さ』が増したことになる。
つまり、海が孤独でいることに拍車をかけたことになるのだ。
誰かを救おうとするがために孤独になった少年。それはもはや、悲劇でしかない。
……だが、しかし。
海がそうだったように、誰かに救ってもらうのを待っている人は、この世界に確かに存在する。
救える力を持った者と、救ってもらうのを待っている者。 彼らは運命によって定められたかのように、引き合い、いずれ出会う。
そうやって結ばれた縁は、次第に強くなり、そして絆へと変わる。
……彼らは孤独ではなくなるのだ。
海の言葉に満足した将之は頷き、立ち上がる。
「では秀一のところへご案内致します。どうぞこちらへ」
将之の言葉に海達は頷き、歩き出す。
――最初の出会いへと向けて。




