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「あーちゃんキーック!」
「どわぁっ!?」
――海が小学校に通い始め、約一週間(転校の手続きなどで海が実際に通い始めたのは水曜日から)経った月曜日。
この日の授業を終えた海は、家には帰らず、そのまま和風レストラン工藤を訪れた。
一度家に帰って着替える時間もあるのだが、彼はそうしなかった。 時間が勿体ないと思ったからだ。
学校に通うようになったため、海は工藤の休憩時間に料理を学びに来ることが出来なくなった。そのため料理を教えてもらえるのは土曜、日曜、月曜の三日間だけとなる。
その内の二日は、休憩時間だけという時間制限あり。
そのため海は、時間を気にせず料理を学ぶことの出来るこの日を心待ちにしていたのだ。
ちなみに、のちほど雫と輝も合流し、近藤家、工藤家の全員で、海と明日香の作った料理を食べることになっている。
裏口から中に入り、笑顔で迎えてくれる信と圭に笑顔で挨拶。 明日香はまだ帰って来ていない、という信の言葉に海は「ふーん」という返事を返しながら背負っていた黒いランドセルを近くの椅子に置き、中からエプロンを取り出す。雫お手製の、あのエプロンだ。
エプロンを身につけ背中で紐を結び(まだいびつな形ではあるが、海は蝶々結びが出来るようになっていた)、手を洗うために圭さんから椅子を借り、黒色のカーディガンの袖を捲りながらそれに登る。
――まさにその瞬間だった。 そんな掛け声と共に椅子に強い衝撃を受けたのは。
その衝撃――明日香の蹴りに椅子は片足をあげ、重力に逆らうことが出来ずそのまま倒れる。 当然、椅子の上にいた海も一緒に。
なんの心構えもなく宙にほうり出されパニックに陥った海だったが、体は自然と受け身を取る体勢に入っていた。
皮肉なことに、虐待を受けていた時に自然と身につけたものだ。
「がはっ!」
工藤の調理場のコンクリートをならしただけの無骨な床に背中を打ちつけ、海は苦痛の息をもらす。
幸いなことに椅子や危険物の上に落ちることはなく、受け身も成功し、頭を守り衝撃を逃がすことが出来た。 ……が、それでも堪えがたい激痛が背中を走る。
事態についていけず固まる圭。あの信までもが、驚いて固まっていた。
……そしてこの惨劇を引き起こした張本人。
ピンクのパーカーを着、ジーパンを履いて赤いランドセルを背負った少女、明日香もまた、片足をあげたまま、つまり蹴りの体勢のまま固まっていた。
痛みに苦しむ海。 困惑する工藤夫妻に明日香。
一番最初に時間を取り戻したのは、明日香だった。
「……あ。ごめん」
「ごめん、じゃねーよっ!」
明日香の軽い謝罪に、海は痛みに堪えながらも大きな声をあげた。
明日香は足をおろし、照れ臭そうに頬をかく。
「いや……まさかあたしのキックがここまでつよいとはおもわなかった」
「お前、ちっとも反省してないだろ!?」
痛みからいまだに立ち上がることが出来ない海は、仰向けから四つん這いの体勢になり、背中を摩りながら涙目で明日香を睨んだ。
その姿を見、明日香はようやく反省の色をその表情に浮かべる。
「……その……ごめん……。まさかこんなことになるとはおもってなくて……。 かい、だいじょうぶ……?」
明日香はそう言い、海の元に歩み寄り、彼の背を摩る。
怒りの感情のまま「いい!」と怒鳴ろうかと思った海だったが、偶然明日香の瞳に涙が浮かんでいるのを見てしまい、その言葉を感情と共に飲み込んだ。
そんな二人の姿を見て、工藤夫妻の時間もようやく動き出す。
「おぉ、海。大丈夫か?」
「海ちゃん大丈夫?あーちゃんがごめんね……」
娘と同様に海の元に寄り、彼の安否を気づかう。
圭は海の背を摩る娘の手を押さえ、海の顔を覗き込む。
「海ちゃん。ちょっとごめんねー」
そう言って、圭が海の着ているカーディガンと白いVネックのシャツを捲ろうとする。 なにをされるのか、と焦った海だったが、圭が自分の背中の様子を見ようとしていることに気づき、抵抗をやめる。
圭は服を捲り、背中を見る。 強打したために彼の背中は赤くなっていたものの、出血している様子はなかった。
「海ちゃん。気持ち悪かったりするー?」
「え……?いや、痛いだけで別に気持ち悪かったりはしません」
「口の中がー、血で一杯だったりしないー?」
「……もしそうだったら、今喋れていないと思いますけど……」
圭の間延びした質問に、やや呆れながら答えた海。
それを聞いて、圭は笑顔を浮かべた。
「私はお医者さんじゃないから詳しいことはわからないけどー、多分大丈夫よー。念のために、あとでお父さんに診てもらってねー」
「はぁ……。わかりました」
間延びし圭の笑顔と話し方に、海は残っていた怒りが全て消えていくのを感じた。
もしかしたら彼女は、この手で客のクレームを処理していくのかもしれない。
海がそんな年不相応なことを考えていると、圭は先ほどまでの笑顔を消し、珍しく、怒りが浮かんだ表情を明日香へと向ける。
「あーちゃん。元気なことはとてもいいことよ。でもね、それで誰かを傷つけるのはいけないことなの。わかるー?」
「……うん」
母の怒りの表情と言葉に、明日香は俯き、頷いた。
圭は続ける。
「あーちゃんのせいで仲の良い友達が、海ちゃんが怪我したら、あーちゃんは嫌でしょ?」
「…………うん!」
明日香の瞳からは大粒の涙が流れていた。 今目の前で起こってしまったことを、自分が起こしてしまったことを思い返し、子供心ながら怖くなったのだ。
自分のせいで海を傷つけてしまったら。 そのせいで嫌われてしまったら。
そう考えると涙が止まらない。 震えが、止まらない。
本当なら、今すぐこの場から逃げ出したい。自分の部屋にこもり、泣いていたい。
……海と会う前の明日香だったら、間違いなくその選択をしていただろう。 自分は悪くない。嫌われることなんてない。泣きながらそういう暗示を自分にかけていただろう。
しかし、海に出会い、明日香は目標を持った。 海のように格好良くなりたいという目標を。
明日香は考える。海だったら、今逃げただろうか、と。 答えは――否だ。
彼は自分のしたことに責任を持ち、悪いと思ったらきちんと反省する。 そういう人間だということを、明日香は海との短い付き合いの中で知っていた。
だから明日香は逃げない。海のように格好良くなりたいから。 それに、もう、同じことを繰り返したくないから。
だから明日香は母の言葉に強く、頷いた。
「多分、だけどー、今回は大した怪我を負っていないと思うわ。でもー、次もそうなるとは限らない。もしかしたら、次は大怪我を負わせてしまうかもしれない。……あーちゃん」
間延びしているものの、真剣な表情で娘を呼ぶ圭。 そんな母親の呼びかけに、明日香は顔をあげ、彼女の目を見返す。
「もう、こんな危ないことはしちゃだめよ。わかったー?」
「うん!」
大きな声で返事をし、頷く明日香。
彼女の瞳は、少し、大人のものへと変わっていた。
それを見、圭は笑顔を浮かべる。 ほんわかとした、いつもの柔らかい笑顔だ。
「じゃあ、あーちゃん。海ちゃんにもう一回謝ってー、仲直りしてもらおう」
「うん!」
圭の言葉に明日香は涙を拭う。そのまま海に向き直り、大きく深呼吸を二回。 そうして、強い眼差しで海を見てから頭をさげる。
「かい!ごめんね!もうしないからゆるして!」
頭をさげている明日香から伝わってくる必死さに、海は戸惑い、そして嬉しくなった。
自分をここまで求めてくれる存在がいることが、嬉しくて仕方なかった。
海はゆっくりと立ち上がる。まだ痛みは残っているが、気力で黙殺した。
明日香の前に立ち、手を伸ばし、彼女の頭に乗せる。 その際に明日香が、ビクッとしたが海が彼女の頭を撫でると、その緊張は霧散した。
「もういいよ。ただ、これっきりにしてくれよ」
「……うん!!」
頭を撫でられていることに戸惑い、顔をあげた明日香の目に映ったのは、苦笑いをしている海の姿。
その笑顔と言葉で、海が自分のことを許してくれたことに気づいた明日香は、満面の笑みを浮かべて海に抱き着いた。
「てめぇ……っ!海!家の明日香に手ぇ出すとはいい度胸だなぁ!えぇ!?」
「まぁまぁまぁ」
その光景を見て、信は、肘の長さまでしかない割烹着の袖を捲るようにしながら激怒し、圭は頬に手を添え微笑んでいた。
明日香の突然の行動に戸惑った海だったが、このままではよろしくないと判断し、彼女を引きはがすべく行動を起こす。
「な、なあ明日香。ところで……な、なんであんなことしたんだ?」
――それが爆弾のスイッチだとは知らずに。
海の言葉を聞き、明日香は海の思惑通り海の体を離した。
そして、海の腕を『つかんだまま』、アーモンドアイをさらに吊り上げ、海を思い切り睨む。
「かい!あんた、なんであたしと『べつのしょうがっこう』にかようことにしたのよ!?」
(……あー、料理を習う時間が短くなる)
海はそんなことを考えながら、明日香にどう説明したものかと頭を悩ませるのだった。




