38
どんよりと厚い灰色の雲が太陽と下界とを分断し、大粒の雨を流し続ける。
それはまるで、人に会えない太陽が泣いているようで。
――梅雨前線が活発化し、アンニュイな気持ちにさせる六月下旬の朝。
近藤家のテーブルには、以前までとは異なる料理達が整列していた。
やや焼きすぎ気味の目玉焼き。 少し焦げた焼き鮭。 味の薄い、豆腐とワカメの味噌汁。 そして唯一まともな白米。
今まで常に食パンが置かれてい場所に並ぶ料理達は、全て海が作ったものだった。
海が信に師事して約二週間。
毎日工藤に通った海は(工藤の定休日は月曜日だけなのだが、信に「ランチとディナーの間の休憩時間にも面倒みてやらぁ」と言われ、海はそれの言葉に甘えることにしたのだ。むろん明日香には内緒である)わずか二週間で、完璧には程遠いが、一人でここまで料理を作ることが出来るようになっていた。
指を切る回数も減ってきているし、回数を重ねるごとに料理を作るスピードもあがっている。
そんな息子の成長を、輝も雫も心から喜んでいた。
……雫は、若干複雑な気持ちにもなっていたが。
また、明日香との関係も良好だった。
物怖じない彼女の前では海も自然体でいられたし、明日香もまた、海からなにかを学んでいるようでもあった。
そんな風に、今の気候とは打って変わり順風満帆な毎日を過ごしてきた海。
そんな彼はこの日。輝が休みのこの土曜日に、あの日、明日香に言われてついた決意を、大切な両親に打ち明けることにした。
「親父。母さん。話があるんだけど、いいかな?」
朝食を作り終え、食卓に座った途端、そう海は切り出す。
今日の予定は、特にない。 むろん工藤で料理教室があるが、それはいつも三時以降のことで。
朝一番、しかもこれから朝食を食べようとする矢先に話す必要性なんてないのだが、海はそれに気づかなかった。
今から輝達に伝えることに緊張しているのもあるし、なにより、気負いすぎていたのだ。
海の言葉を受け、輝と雫は顔を見合わせる。 一瞬のアイコンタクトをし、口を開いたのは輝だった。
「なんだい?海」
読んでいた新聞を畳み、真剣な眼差しで海を見る輝。
背筋を伸ばし、優しい笑顔を向けてくれる雫。
そんな両親の態度から、海は、二人が自分の考えを見抜いていることを悟った。
せっかく意気込んだのに、と思ったりもしたが、わかられているなら緊張する必要はないな、と肩の力を抜く。
小さい息を一つ吐き、海は再度二人に真剣な眼差しを送る。
「親父。母さん。……俺……学校に、通いたいんだ」
「……海。私は以前、学校に通いたかったらいつでも言っていい、そう言いました。だから海が通いたいと言うなら私は反対しません。でも、海。あなたがそう思った理由を聞いてもいいかしら?」
アルカイックスマイルを浮かべながら、しかし真剣な瞳でそう聞いてくる雫を見て、海は『いつ』自分の決意が見抜かれたのかを悟った。
近藤夫妻が息子の考えを見抜いていたのは、海の態度がわかりやすかった、からではない。
もちろん、毎日真剣に、一日でも早く料理に慣れようと努力する海の態度からなにかを感じ取るのは容易ではあったが、そうではない。
海が初めて明日香と出会ったあの日、息子の目に決意の光りが灯ったのを雫は見ていた。
その時、雫は見抜いたのだ。海が学校に通う決意をしたことも、そしてその理由も。
海はそこまで雫が見抜いていることを悟り、同時に、なぜ雫がそこまでわかりながら聞いてくるのかも悟った。
雫は試しているのだ。海の覚悟を。
「……話す前に、これだけはわかってほしい。俺は母さん達に出会えて、近藤海になれてとても良かったと思ってる。それをわかった上で、最後まで、俺の話を聞いてほしいんだ」
海は真剣な眼差しを雫へ、そして輝へと向けながらそう言う。
二人はもう一度顔を見合わせて、頷く。
「わかりました。海が話終えるまで私達は口を挟まないわね」
「……ありがとう」
優しい雫の笑みに、海は笑みを返す。
そうして一度目を閉じ、自分の心を落ち着かせてから再度目を開く。 その時の海の瞳は、あの時工藤で見せたものと同じ、とても大人びいたものだった。
「……この世界にはさ、『普通』なんて定義はなくて、『普通』だと思ってることが案外異常だったりすることもある」
海の口から飛び出した哲学のような言葉に、輝は目を見張る。
もともと海はいろいろな言葉を知ってはいたが、それは全て罵声などの汚い言葉に関してだ。 その海の口から『定義』などという単語が出れば驚かない方がおかしい。
輝は海の言葉に耳を傾けながら、横目で雫を見やる。
(まったく……。君はいったいなにを教えているんだい?)
海が学校に通うまで、平日の勉学は雫が教えている。
つまり、海の口から出た罵声以外の言葉などは、全て雫が教えたことになる。
(海が物覚えがいいことは知っていたけど……。七歳児に過剰な知識を教えた雫を怒るべきか、それともそれを理解し使いこなしている海を褒めるべきか……)
輝のそんな苦悩を雫はわかっていたが、その上で黙殺することにした。 なぜなら、彼女自身も驚いていたからだ。
(まさかここまで頭が良かっただなんて……)
最初雫は、普通に七歳児が勉強するものと同じ教科を教えていた。 しかし、海の飲み込みがあまりにも速いので、つい調子に乗ってしまい、一度だけ趣味で持っていた哲学の本や、輝が使っていた医術の本などを試しに読ませたことがあるのだ。
その時、やはり海は理解出来ず雫に絶えず質問をぶつけては首を捻っていた。
だから理解していないものばかりだと思っていたのだが……。
(まったく……。あの後も私の知らないところで勉強していたのね。今後は気をつけなくちゃ駄目ですね)
知識に飢えている海がなんにでも興味を持つことを雫は知っていた。しかし、これ程までとは思ってもなく。 息子の成長に喜びながらも、雫は今後の行動を考えさせられるのだった。
そんな両親の内心など知るよしもない海は続ける。
「でも、世間には暗黙の『普通』っていうものが、やっぱり存在するんだよ。……その定義でいうと、俺は……やっぱり普通じゃないんだ」
普通じゃないと言った息子への反論を、夫妻はなんとか飲み込む。
おそらく海は、自分が言った言葉に両親が反論する未来が見えていたのだろう。 だから前もって釘を刺しておいたのだ。
だから夫妻は気持ちを抑え、海の言葉の続きを待った。
「血の繋がりなんてなくても家族になれる。それはわかっているし、親父と母さんは、俺の大切な家族だと思ってる。……けど、世間はそうじゃない。 信さんや圭さんみたいな大人もいるけど、世界はそんなに綺麗じゃない。俺達のことを『偽親子』だって後ろ指を指す人だって、いる」
海のその言葉に、輝と雫の二人共が怒りの感情を宿す。
それは海に向けてではない。 どうせ理解出来ないだろうと、海にも聞こえるように陰口を吐いた醜い大人達へ、だ。
そんな両親のことを誇らしく思い、海の口元に自然と笑顔が浮かぶ。
そして、両親を安心させるように穏やかな声で言う。
「親父。母さん。ありがとう。でも俺は大丈夫。そんなもの気にしてないし、それになにより、俺達は『偽親子』なんかじゃないから」
息子の穏やかな声色と笑顔で、夫妻は落ち着きを取り戻す。
落ち着いたところで、二人とも息子の言葉ににやけそうになるが、それを全理性を総動員して制し真顔で息子の言葉の続きを待った。
輝達の怒りが収まったのを確認した海は、自分も顔を真面目なものへと戻す。
「俺はそんなことを気にしない。それに母さん達も、気にしない、そう、言ってくれたよね?」
「当たり前だとも!」
「ええ。海は私達の可愛い息子です」
「……ありがとう」
海の問いに即座に返答をした輝に雫。 そんな二人に嬉しさを感じ、誇りに思う海。
自然に緩んだ頬を海は引き戻し、改めて真剣な眼差しを両親へと向ける。
「俺も、そして親父達も、周りの声を、視線を気にしない。それはわかってる。……わかってるけど……俺は嫌なんだ。それを母さん達に向けられるのが」
海の、優しくも強いその言葉に輝と雫は目を見合わせる。
短い目での会話を終え、口を開いたのは輝だった。
「それが、理由かい?」
目を細め、真面目な表情で問う輝。 彼の隣にいる雫も、同様に真面目な顔をしていた。
学校に通いたい理由がそれだけだったなら、輝達は反対こそしないが難色を示すつもりだった。
自分達を思いやってくれることは嬉しいが、息子の『枷』にはなりたくない。それが夫妻の共通の気持ちだったから。
海は小さく笑い、首を横に振る。
「確かにそれも理由の一つ。だけど、一番の理由は……明日香だよ」
「明日香ちゃん……?」
海の言葉に、雫と輝は顔を見合わせる。先ほどまでのようなアイコンタクトではなく、本当にわからず、顔を見合わせたのだ。
海は続ける。
「あいつは、すごく楽しそうに学校のことを話すんだ」
海が明日香と共に料理を学ぶ月曜日。明日香は海にいろいろな話を聞かせた。
友人のこと。教師のこと。勉強のこと。行事のこと。
その全てが海にとって新鮮で、同時に、悔しかった。
「……羨ましいんだよ。あいつが……」
同年代の子供達に囲まれ、毎日を楽しく生きている明日香。
それはかつて海が夢見た日々。そして……諦めた日々。
雫達家族に出会えて、海の心は満たされた。 けど、明日香と出会い、海は欲しくなったのだ。
――諦めていた『普通』の日々を。
(……自分がこんなにも欲張りだったなんて、親父達に出会ってなかったら一生知らなかったな……)
ちっとも欲張りなんかじゃない、普通の人ならそう答えるであろうことを思いながら、海は思いを言葉にする。
「俺は普通じゃない。多分、学校にも簡単には馴染めないと思う。もしかしたら一人になるかもしれない。そう思うと、すごく、怖い……。 ……けど、それでも俺は欲しいんだ。 朝起きて、学校に行って、友達と遊んで、学んで、帰宅して家族に今日の出来事を話す。そんな、日常が……!」
「海……」
海の胸の内を聞き、雫はそう、彼の名前を呟いた。
そして夫妻はようやく理解した。 海がなにを考え、なにを求め学校に通いたいと言ったのかを。
一つ目の理由は、輝達両親のことを悪く言われたくないからだ。
孤独を知る海は、誰よりもそれに敏感で。 自分のせいで両親が悪く言われ、周囲の大人の輪から省かれることを恐れた。
大切な人だから幸せになってほしい。 なんとも海らしい理由。
そしてもう一つの理由は、今まで過ごすことが出来なかったありふれた毎日を、今度こそ送りたいと思ったから。
孤独ゆえに周りの、それこそ大人達からでさえも疎まれ、辛い日々を過ごしてきた海。 自由になれた今だからこそ、海はそれを強く求めた。
ありふれた時間は特別なものだと知る、これまたなんとも海らしい理由だった。
二つの理由を聞き、輝は思う。これなら大丈夫だ、と。海の思うがままに行動させてあげたい、と。
隣の雫に視線を送る。 彼女も輝を見、アルカイックスマイルを浮かべながら頷いた。
雫と意見が一致し、輝も笑みを浮かべ海に言う。
「……わかった。じゃあ学校への転校の手続きをしよう。家から通い易いところをいくつか候補として選んでおいたから、その中から海が通いたい学校を選んでもらいたいんだけど、いいかな?」
輝の言葉に、海は満面の笑みを浮かべるのだった。




