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明日香に向き直り、海はより深い色になった瞳を向ける。
「俺の名前は近藤海。暴力を振るおうとしてすまなかった」
「う……」
明日香は、今度こそ戸惑った。
信の娘である明日香は鋭い眼光や視線を見慣れている。
だから海の怒りを含んだ瞳にすら怯むことはなかった。
しかし、今海が明日香に向けている瞳は、明日香が今までに見たことがない種類のもので。
それに、改めて海のことを見ると、彼は明日香のクラスの男子、いや、学校の男子とは比べものにならないほど格好よくて。
さらさらの髪の毛にくっきりとし、意志の強さが窺える二重の大きな瞳。
背が低い。線が細い。色が白い。
それらの短所が気にならないくらい、落ち着いた少年の姿は格好よく、明日香の目に映った。
その王子(明日香命名)が事もなげに自分の非を認め頭を下げている。
それが余計に明日香を戸惑わせた。
(なんなのこいつ……?)
彼女達の年齢の少年少女は素直に謝ることが苦手だ。 どうしても恥ずかしい、という感情が先に出てきてしまう。
それなのに王子は素直に、そして堂々と頭を下げていて。
(……へんなやつ。けど、おもしろいやつだ!)
それが明日香が戸惑いの結果たどり着いた海に対する感想だった。
直毛で艶のある黒毛のショートボブの下にあるアーモンドアイと小さな口が不敵な笑みを作る。
将来、間違いなくバレンタインデーにチョコを『貰う側』になるであろうボーイッシュな美少女のその笑みは、父親のそれによく似ていた。
「わかればいいのよ!それであんたはなんで……」
「あーちゃん?」
機嫌よく回していた明日香の舌は、圭のその一言でピタリと止まった。
冷や汗を頬に浮かべながら、明日香は錆びついた首を圭の方へゆっくりと向ける。
(ママが怒ってるーっ!)
圭の笑っている口元とは対照的に笑っていない目を見て、明日香は戦慄を覚えた。
近藤家の人間は知るよしもないのだが(海はいずれ知ることになる)工藤家で一番強いのは信ではなく圭だ。
普段おっとりぽわぽわしている彼女だが、怒る時は信よりも容赦がなくなる。
「海ちゃんは謝ったんだよ、あーちゃん。あーちゃんは?あーちゃんは椅子を蹴ったことを謝らないの?」
「え……いやそれは……」
「謝らない、の?」
それは最終通達だった。 謝らなければ怒る、という。
それを悟った明日香の行動は、とても迅速だった。
海に向き直り、渋々ながらも頭を下げる。
「……あたしも、けってゴメン……」
明日香はその見た目通り気の強い性格をしている。 そんな彼女だから、余計に頭を下げ謝ることに抵抗があった。
――が、そんな子供特有のプライドは、圭の怒りの前ではなんの意味もなさなかった。
そんな明日香に、海は笑顔を向ける。
「ああ。もういいさ。けど、もうやらないでくれよな」
あっさりと謝罪を受け入れた海に、明日香はまたもや変なものを見るような眼差しを向けた。
先にも述べたが、彼らの年代の子供は謝るのが苦手だ。そして同時に、謝られるのも苦手なのだ。
明日香が海の謝罪を受け流した理由も、そういうところにある。
しかし明日香の目の前にいる少年は、またもやそんな前例を覆し。
不機嫌から戸惑いへ。そして明日香の瞳は、またもや輝きを取り戻した。
(やっぱりこいつおもしろい!)
先ほど自分が謝ったことへの羞恥など綺麗に消え去り、明日香は海への好奇心でいっぱいになった。
明日香は目の前にいる海にさらに一歩、ずずっと歩み寄り、瞳を輝かせながら言う。
「あたしはくどうあすか!ねえかい!あんたおもしろいやつね!あたしとともだちになりなさい!」
「と、友達……?」
一方の海は明日香の急な接近と言葉の内容に、一歩足を引く。
それを見た明日香は目をさらに吊り上がらせ怒鳴る。
「なに!?いやなの!?」
「い、いや……」
「いやですって!?」
「その『嫌』じゃねえよ!」
そうじゃないが、と続けるはずだった海の言葉は、誤解した明日香の叫びに遮られた。
海は戸惑う。 自分の瞳と雰囲気を見ても離れるどころか近づき、なおかつ友達になろうと言った奇矯な少女に。
どう答えようかと頭を悩ませ雫に助けを求めるも、彼女は静かに微笑むばかりで。
手を出すつもりはないと悟った海は、心中でため息をつき、再度明日香へと向き直る。
「お前はさ……俺のことを変だとは思わないのか?」
答えが出せなかった海は、これ以上悩んでもラチが明かないことを悟り、直接明日香に問いただすことにした。
自分のことをどう思い、どういう考えで友達になろうと思ったのかを。
海の問いに明日香はあっさりと頷く。
「おもってるわよ。へんなやつだって」
「だったら……」
なんで友達になろうと思ったんだ、という海の言葉は、またもや明日香の言葉によって遮られた。
「けど、あんたはおもしろいやつだ!」
「……は?」
明日香の言葉に海は固まる。
基本的に、海は自分が無愛想で面白みのない人間だと自覚している。
嬉しいとか楽しいと思った時に笑顔が浮かぶようになったが、それはつい最近のことだ。
だから面白いと言われ、海は完全にフリーズした。
そんな海に明日香は不敵な笑みを向ける。
「あたしはおもしろいことがすき!あんたはへんでおもしろい!だからあたしのともだちになりなさい!」
(……すげー上から目線……)
それが再起動した海が思ったことだった。 雫もそう思ったのか、海の後ろで苦笑いを浮かべている。
だが、しかし。海はこの高圧的な物言いの少女のことを嫌いにはなれなかった。 それどころか、好意を抱いた。
自分のことを認め、その上で友達になろうと言ってくれた初めての存在だったからだ。
海は嬉しそうな笑顔を浮かべ、右手を明日香に差し出す。
「俺でよければ喜んで。よろしくな。明日香」
「うん!」
海の意図するところを悟った明日香も同様の笑顔を浮かべ、海の手を勢いよくつかみ、握った。
――九年後。 明日香はこの出会いを、海と友人になれた幸運を、神に感謝するようになるのだった。




