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「信さん。洗い終わった」
「おう。じゃあそれ持ってこっちに来な。いっぺんに持てるか?」
信が今回準備したのは、ジャガ芋が六個に人参が四本。
十人前を作るにはやや多い分量だが、信は具が多いカレーの方が好きなので箱の裏に書いてあった分量をあっさり無視した。無論、海はそんなこと知らない。
海は七歳児の男の子とはいえ、今までまともな食事を与えられていなかったため、同年代の子供と比べると背が低く、とても細い。
近藤家の一員となってから食生活が変わったとはいえ、そんなに簡単に背が伸びたり体格がよくなったりするわけはない。
信の言葉は、そんな海の見た目を見てのものだった。
信のその言葉がカンに障った海(実は身長くが低く線が細いのを気にしている)だったが、反論しても八つ当たりでしかないことを自覚しているので、言葉を飲み込む。
そうして、改めてシンクの中に視線を移す。
ステンレス製のボールの中で佇む、綺麗に洗われたジャガ芋と人参達。重さにして二キロ弱。
大人にとってはなんともない重さだが、子供の、しかも線の細い海にとってはそれなりの重さだ。
だが海に、出来ない、しない、という選択肢はない。
彼は輝と雫、二人の大切な家族に料理をしようと決意したのだ。
重いから持てない、そんな弱音を吐くつもりなど、更々なかった。
信の問いには答えず、海はそれ両手でしっかりとつかみ持ち上げる。
(……重い)
両腕にかかる負荷。今すぐ離したいという衝動が押し寄せる。
しかし海は、それを黙殺し、強がりの笑顔を信へと向ける。
「平気」
「そうかい。じゃあ持って来な」
信は海の強がりに当然気づいている。
しかし、あえて気づかないふりをした。海のプライドを尊重したのだ。
ボールを、一旦立っている椅子に置き、海はそこから飛び降り靴を履く。そうして再度ボールをしっかりと持ち、信の元へと向かう。
重さで小刻みに震える手。奥歯を噛み締め、一歩々々足を踏み出す。
シンクから調理台までの数メートルが、海にはとても長く感じられた。
「持って、来たよ」
ようやく(時間にすれば数秒だが、海はそう思った)信の元へとたどり着いた海は、そこでも強がりの笑顔を信へと向ける。
「おう。ご苦労さん」
誰が見てもわかる強がり。しかし信はそれを見ないふりをし、海からボールを受け取った。
そんな信のことを、海は少しだけ、カッコイイと思ったのだ。
「海ちゃん。はい。椅子」
後ろからかかった声に、海は振り向く。
そこには、今まで自分が乗っていた椅子を持って来てくれた圭がいた。
今から作業を始める調理台はシンクと同じ高さで、やはり海の身長では届かない。
そのため圭は、シンクから調理台の所まで椅子を移動させてくれたのだ。
それを見ていた雫は思う。
(なるほど。こういうさりげない気遣いが出来るから、彼女が女将でお店が回るのね)
また一つ、謎が解けた瞬間だった。
「ありがとう。圭さん」
海は圭にお礼を言い、再び椅子に乗り、信の方へ、調理台の方へと体を向けた。
信はボールの中からジャガ芋を一つ、取り出し左手で持ち、右手に持っていた包丁を添えながら言う。
「いいか、海。普通はよ、こういう野菜の皮を剥く時、皮剥き機、っていう道具を使うんだが、俺はおめぇにそれを使わせねぇ。なんでかわかるか?」
皮剥き機、という名称自体今日初めて聞いた海に理由が想像出来るわけもなく、海は首を横に振る。
「包丁の扱いが上手くならねぇからだよ」
信は料理人の目を、海へと向けながら言う。
「皮剥き機は確かに便利な道具だ。手だって切らねぇし、なにより早い。けどよ、さっきも言ったが、包丁っていうのは手を切って使い方を覚えるもんだ。料理は口で言っても覚えねぇ。実践して、経験を積んで、初めて覚えられるもんだ。だから俺はおめぇに皮剥き機を使わせねぇ。いいか?」
「はい!」
海の返事に迷いはなかった。
彼だって、手を切るのは嫌だし、怖い。
しかし、そんなものよりも目標への想いの方が強かったのだ。
それに、信のことを信用し始めたのも、即答した要因の一つだろう。
海の返事に、信はニヤリと笑みを浮かべる。
「いい返事だ。よしじゃあ早速始めるぜ。一回やって見せるから、あとはやってみな。わからねぇなら聞いてくれぇ」
「うん!」
真剣な表情で頷いた海を見、信は笑顔を浮かべながらジャガ芋へ添えていた包丁に力を入れた。
「大丈夫?海?痛くない?」
「うん。平気だよ母さん」
心配げな表情を向けてくる雫に、海は笑顔を返す。
それは見栄でも強がりでもなく、本心からの笑みだった。
工藤の広い調理場に広がる、カレーのいい匂い。
もう一煮立ちさせて完成しようとしているそれを見てもわかる通り、海の第一回料理教室は、間もなく終わりを告げようとしていた。
今回、信は、本当に海に大半の作業をやらせた。
もちろん料理の知識のない海にいきなりやらせたわけではない。
一度やって見せ、わからなければもう一度やって見せた。
……だが、それ以上のことはしなかった。
ジャガ芋と人参、そして玉葱の皮剥きと切り分け。それに豚肉も海に切らせ。
そのあとの作業、肉と野菜を炒め、煮込むところまで、全て海にやらせた。
そんなスパルタともいえる指導方からもわかる通り、信が作業をしていた時間は海の半分にも満たない。
その結果、海の指は、ある意味当然ともいえるが、絆創膏だらけだった。
海が指を切る度に雫は彼の元へ駆け寄ろうとするが、それは彼女の隣に居続けた圭によって阻止され続けた。
海ちゃんのためにならない、そう言われると、雫は動くことが出来なかったのだ。
だから彼女は、奥歯を噛み締めて我慢し続けた。
そうして今、ようやく圭の許可がおりたので、雫は海の元へと駆け寄り(数メートルも離れていないが)、彼に安否を尋ねたのだ。
そんな雫の心配をよそに、海の胸中は晴々としていた。
確かに何度も指を切り、左手は絆創膏だらけだ。浅い傷もあれば、それなりに深い傷もある。
切った時は痛かったし、今だって痛い。まだ血が止まっていない傷だってある。
けれど、初めての料理を作りあげた達成感で、海の胸は一杯だった。
息子のそんな嬉しそうな笑顔を見ては、雫はそれ以上なにも言えなかった。
彼の頭に右手を乗せ、優しく撫でる。
「そう。よかった」
くすぐったそうに、嬉しそうに。それを受け入れていた海だが、とあることに気づき声をあげる。
「ねえ、母さん?」
「うん?なあに?」
……それが爆弾の導火線だとも知らずに。
「なんで母さんは右手まで怪我してるの?」
「…………え?」
表情が引き攣り、動きを止める雫。
いつもの海ならその表情の変化を見逃さないが、料理を作りきった達成感が、彼の目を曇らせていた。
「俺も実際にやったからわかるんだけど。包丁って右手に持って使うでしょ?だから手を切るとしたら左手だけだと思うんだけど……か、母さん?」
そこまで言いきってから海は初めて雫の異変に気づく。
雫は、まるで輝がするような、落ち込んだ表情と虚ろな目を浮かべていたのだ。
「あはは……。そうよね……。普通は包丁を持つ手なんて切らないわよね……。あはははは……」
「母さん!?」
初めて目にした雫の奇行に、海は戸惑った。
困惑し、助けを求めようと信の方へ振り返るも……。
「コクが足りねぇなぁ。醤油にソースにケチャップを………」
「信さん。海ちゃんが初めて作った料理なんですから、今回はそのままにしておいてください」
「ちっ……。ならせめてスパイスを……」
「信さん」
味見をし、調味料を加えようとする信とそれを止めようとする圭。
海達に背を向けそんな喜劇をしている二人からは、とてもじゃないが助け舟を出してくれそうにはなかった。
困る海。へこむ雫。喜劇を繰り返している信に圭。
混沌とした空間。
これらが解決するのには、しばしの時間が必要だと思われた。
だが――
「ただいまー!パパー!ママー!今帰ったよー!」
――工藤の裏口、調理場の隅にある出入口を勢いよく開け飛び込んできた、太陽のように明るい笑顔の少女がその空気を吹き飛ばした。
「おお、明日香!よく帰ってこれたな!」
「信さん。それはなにかが違いますよ。お帰りなさい。あーちゃん」
その少女、工藤明日香へと向け笑顔を向ける信達夫婦。
そんな彼らに、明日香も笑顔を返した。
「うん!ただいま!あのね、今日ね……」
信と圭の元へと駆け寄り今日学校であったことを話そうとした明日香は、椅子の上に立ち自分のことを見ている見ず知らずの少年、海を視界に納め、疑問の声をあげる。
「だれ?こいつ?」
失礼なやつ。
それが海の明日香に対する第一印象だった。




