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「それじゃあ、って坊主。そのままの恰好でやるのか?」
「?」
信の前にやって来た海の姿を見て、彼は顔をしかめる。
それに対して海は首を捻り。
(そのままって、なにかまずいのか?)
海の今日の恰好は、黒いパンツにスニーカー、それに白い長袖のTシャツの上から半袖の青いパーカーを羽織っている。
六月初旬、梅雨入り前の恰好としてはどこもおかしくない。
そう。『梅雨入り前』の恰好としては。
信の言葉の意味するところに気づいた雫は、持っていたトートバッグを開きながら声をあげる。
「あ!信さん、ごめんなさい。海、ちょっといらっしゃい」
一人意味が理解出来ず(圭はもちろん気づいている)自分の恰好を見回している海を、雫は呼び寄せる。
海は首を捻りながらも、素直に雫の元へと歩み寄った。
「海。私が料理する姿を見ていたからわかるとは思うけど、料理をすると、その……そ、それなりに汚れるものなの」
目の前までやって来た海にそう告げる雫は、めずらしく引き攣った笑みで。
それの意味するところはきちんと、それこそ『嫌というほど』きちんと理解出来た海は、小さく頷く。
息子が頷いたのを見て、自業自得とはいえ折れそうになる心。
それをなんとかつなぎ止め、笑顔の仮面(海にはそれが偽りの笑顔だとバレバレだったが)をつけ、雫はトートバッグから綺麗に畳まれたエプロンを取り出し、それを海に見せながら言う。
「だ、だからね。料理をする時は、着ている服が汚れないように、エプロンをするのよ」
雫の言葉に、海は疑問を抱く。
「服が汚れたら駄目なの?そのあと洗濯すればいいんじゃないの?」
海は罵声や陰険な扱い、それに暴力に対しての知識は多く持っている。
しかし、それ以外。一般常識などについて知識量は少ない。
真っさらな白紙状態と言っても過言ではないだろう。
きちんと自分の人生を歩き出した海は、このように疑問に思ったことをすぐ口にするようになった。
それは、海の年齢なら知らない方がおかしいと思うくらい幼稚なものから、雫達大人でも調べないとわからないような高度なものまであり、種類にも一貫性がない。
目に留まった知らないものを、片っ端に聞く。そんな感じだ。
長年、自分の人生を諦めていた海。
それが変わった今、彼は知識に飢えていた。
もっと世界を知りたかった。
それを雫も輝も、きちんと理解している。
だから彼らは、海の質問をはぐらかすことなくきちんと答えていた。
今回も例に漏れず、雫は答えるためにしゃがみ、海と目線の高さを合わせる。
「確かに汚れた洋服は洗えばいい。それは間違っていないわ。現に私も、あのあとすぐに洋服を洗いましたからね。でもね、海。考えてみて。料理をする度に着替えて、それらを洗濯するのと、エプロン一枚洗うの。どちらの方が簡単だと思うかしら?」
「……エプロンを洗う方」
「正解」
きちんと考え、答えを導き出した海の頭を、雫はアルカイックスマイルを浮かべながら撫でる。
「それに、汚れの度合い、とても汚れた場合は洗濯しても汚れは落ちなくて、その洋服は着れなくなってしまう場合もあるの。そうならないように、エプロンをするのよ」
先にも述べたが、海の知識は偏っている。年齢に似合わない汚い言葉などは知っているが、それ以外は海と同年代の一般的な子供以下だ。
雫が『度合い』を『とても汚れた場合』と言い直したのはそのためだ。
……そんな雫の言葉に、海は目を細める。
その目に込められた感情は、悲しみと諦めの二つ。
雫達のことを、今では心から信頼している海。そんな風に信頼しているからこそ、悲しいと感じた。
雫達もこれまでの大人達と同じように、世間体を気にすることが。
「……汚れた洋服が着れないのは、世間体が気になるから?」
二人の会話を聞いていた信と圭は驚きを隠せなかった。
『度合い』を知らない海の口から、そんな言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
海の『事情』を、二人はある程度、雫から聞いて知っていた。が、実際にその片鱗を目にして二人は自分達の想像が甘いことを認識した。
雫は海の目を見たまま、首を左右に小さく振る。
「世間体なんてどうでもいいの。私と輝さんが世間からなんと言われようと、私達はそれを気にしないわ。……もちろん、海のことを馬鹿にするようなら、その時は覚悟してもらうけど」
この時の雫の目に、海は恐怖を覚え、同時に嬉しいと思った。
世間体など気にせず、自分のために怒る、そう本気で言った雫に確かな愛情を感じたからだ。
しかしそうなると、やはり海はわからなかった。
首を傾げ雫に尋ねる。
「……じゃあ、なんで汚れた洋服は、着ちゃいけないの?」
海の真っ直ぐな問いに、雫は頬を朱に染め、視線を海から外す。
「……私の趣味、かな……?」
めずらしく抜けた敬語。それが照れているからだと気づけたのは、この場では圭だけだった。
「趣味?」
照れていることも、言葉の意味も理解出来ない海は、首を捻るばかりで。
そんな海に、雫はいつものアルカイックスマイルを……いや、その中に微かな悲しみを秘めた笑顔を向ける。
「海。あなたにはまだ話していなかったと思うけど……私はね、ある病気だったの」
雫のその告白に、海の顔から血の気が引く。
海の鋭過ぎる感性は、雫の口調から、それが重いものだということを悟ってしまう。
大切だと、やっとそう思うことが出来るようになった人が死んでしまうかもしれない。そんな恐怖に海は駆られた。
そんな海の様子を見た雫は、彼に優しく笑いかけ、彼の頭を撫でる。
「大丈夫よ海。その病気は、もう治っていますから」
「……ほんとう?」
「ええ。あなたに嘘なんてつきませんよ」
その笑顔を『観て』、海はようやく安堵の息をこぼす。
雫は嬉しくなった。海が自分のことを心から心配してくれたことに。
そして同時に辛くなった。
そんな優しい海に、病気が残した爪痕のことを説明しなくてはいけないことが。
優しい彼は、きっと、心を痛める。きっと雫に気を使う。
……しかし雫は、ごまかすようなことはしたくなかった。
いつかはわかってしまうことだし、それに、海に隠し事はしたくなかった。
海のことが大切だから。心から海のことを愛しているから。
だから雫は海にきちんと伝えようと思う。
彼女は、海の目をきちんと見つめ、口を開く。
「ただね。その病気のせいで、私は…………自分の子供を産むことが出来なくなってしまったの」
喧騒のない厨房に、海が息をのむ音が響いた。
驚きから目を見開て、口は半開き。
そんな呆然とする海の鼻を、雫はいつものように優しく摘む。
「気にしないで、って言っても無理よね。でもね、大丈夫よ。もう、心の整理はついていますから。それにね、今、私は幸せなの。海。あなたがいてくれるから」
「……」
海は、人の悪意を『観る』ことが出来る。しかし、向けられることに慣れていない善意を『観る』ことは苦手で。
雫の言葉と笑顔に嘘がないことを見抜くことは出来たが、彼女が本当に幸せなのかどうか、今の海に窺い知ることは出来なかった。
だから海は不安になる。心配になる。
……彼女の息子が、本当に自分でいいのか、と。
雫は思う。
(……やっぱり、気にさせちゃいましたね……。それに不安にもさせちゃいました……。……本当に優しい子)
雫は目を一度閉じ、優しい笑顔を、アルカイックスマイルを海へと向ける。
「海。私はね、あなたに会えて本当に良かったと思っているの。あなたが私の子供になってくれて、本当に嬉しいの。だからね、海。不安にならないで。あなたは私の大切な息子よ」
「母さん……」
海の不安に揺れる瞳。雫の穏やかで温かな瞳。
互いの瞳は逸らされることなく相手の目を見つめ続ける。
――海は善意を『観る』ことが苦手だ。相手が幸せかどうかを窺い知ることは、まだ出来ない。
しかし、自分がどう見られているのかは『観る』ことが出来る。
時間をかけ雫の真意を『観て』いた海は、彼女の瞳に確かな愛情を感じ、頬を緩めた。
「……ありがとう。母さん」
彼のその言葉で、海がきちんと自分の想いに気づいたのだと理解した雫は笑顔で海の頭を撫でる。
海はそれに対し、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに目を細め。
それを見た雫の理性は、あっさり吹き飛んだ。
「海!可愛い!」
「え、あ……か、母さん!?」
海を抱きしめほお擦りを始める雫。
先と同じやり取りだが、雫の話を聞いてしまった以上、海は彼女を無下に扱うことが出来ず。
どうしたものかと頭を悩ませる海を救ったのは、意外にも信だった。
「……あー雫さんよぉ。そろそろ料理を始めてぇんだが」
親子の微笑ましい姿を見ても、苛立ちを隠さずに雫にそう告げる信。結果的には海を助ける形になったが、実際は単に焦れただけだ。
まあ、それも無理もないと言える。
工藤は、この街では人気のレストランだ。当然、店は忙しい。
料理長の信にかかる負担はかなりのものだろう。
そんな彼の週一回の休みに突然与えらた予定外の『仕事』。
それがスムーズ行われるようならまだしも、このように何度も邪魔されては彼が苛立つのも当然と――
「俺は腹が減ったんだ。さっさと坊主と一緒に飯を作って、食いながらあんたに貰った酒を飲みてぇんだよ」
――ただ単に彼の欲望のためだった。
雫は信のその言葉に苦笑いを浮かべる。
知っていたからだ。
信は休みを潰されたからといって機嫌を損ねるような人物ではないことを。
外見に反し、人情にあつく、自分に出来る頼み事なら快く引き受けるタイプの人間だということを。
そういう『人種』は、今の『世界』では利用されやすい。
現に、言葉は悪いが雫達も彼を利用する形になっている。
……しかし、雫は彼の厚意に甘えるだけの厚顔無知ではなかったし、ならないように常に心がけていた。
せめてものお詫びとして、彼の好物の日本酒を持参したのがそのいい証拠だ。
……そのお詫びの品の価値が馬鹿高くなり、渡す際に警告を発するなど、詫びよりも息子への愛情の方がはるかに上回っているようだが、それは、まあ、ともかく。
つまり、信が苛立っている時は、たいていお腹が空いている時か、圭や明日香に関する時だけなのだ。
信という人物を一言で言うなら『でっかい子供』これに尽きるだろう。
信に急かされ、雫は海から体を離し、言う。
「ごめんなさい信さん。海。料理の時にエプロンをする理由、理解してもらえたかしら?」
「うん」
雫の問いに、海は今度こそ頷いた。
それを見、雫は海の頭を撫でる。
「いい子ね。じゃあエプロンをつけてあげるから、後ろを向いて」
こくり、と海は頷き、素直に雫へと背を向ける。
雫は持っていたエプロンを海の首に通し、腰紐を背中に回し、綺麗な蝶々結びにした。
「はい。出来たわよ」
海は改めて自分の姿を見る。
自分の体の前部分に新たに加わった一枚の布。
薄青と白のストライプのエプロンは、青いパーカーに埋もれることなく、慎ましい自己主張をしていた。
雫は満足そうに頷く。
「うん。私の見立てに間違いはないわね。やっぱり海には青が似合うわ」
「そうなの?」
「ええ」
抱きしめたい衝動を必死で抑え雫は頷く。ここで抱きしめては先の二の舞になることを自覚していたからだ。
雫は信に視線を向ける。
「すいません信さん。お待たせしました。さあ、海。行ってらっしゃい」
頭を下げ、一礼してから雫は海に笑顔を向け、彼の背を優しく押す。
海は頷き、再び信の元へと歩み寄った。
「これでいいの?」
「ああ。それじゃあ早速始めるぜ」
海の問いに笑顔で頷く信。
紆余曲折。いろいろとあったが、こうしてようやく海の料理教室がスタートするのだった。




