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「じゃあとりあえず、適当にやってみな」
「信さん。海ちゃんは包丁も握ったことがないんですから」
「なぁにー!?ならなんで俺のとこに来たんだ!?」
「信さん。だから、料理を習いにです」
「そーいやそーだったなぁ」
「……母さん。お願いした俺が言うのもあれだけど、人選、間違ってない……?」
「……腕は、確かよ。腕は……」
「……」
工藤夫妻のやり取りを見て、さらに不安の募る海。
そんな海の視線を受け、額に手を添え頭痛を覚えながら遠い目をする雫。
(言わないで、海……。私だって、ちょっと早まったかなー、とか思っているんですから……)
見ず知らずの人に海を預けるのは、雫はとても心配だった。
それに、個人で教えてくれるならともかく、料理『教室』のような多人数のいる場所に海を預けるのは、雫だけではなく輝も反対で。
そのような所に、海のような子供はいない。受講している人の子供、ということで見学している子供はいるかもしれないが、大人に交じって受講する子供は、まず皆無だろう。
子供専用の料理教室というのも今日では出来てきているが、少なくとも雫の知る範囲内には、ない。
つまり、海が仮に料理教室に入ることになった場合、彼は大人に交じって授業を受けることになる。
そこで全員が、海を自分達の子供のように扱ってくれるなら問題はない。
――が、その可能性が低いことを、二人とも悟っていた。
人は好奇心と猜疑心の片方、あるいはどちらかの塊だ。
人全てがそう、とは言わないが、その料理教室にそういう人が一人でもいれば、海は彼、あるいは彼女から向けられることになるのだ。
大人特有の悪意を。
子供の悪意は純粋だ。自分が感じた疑問や思いを、そのまま相手にぶつける。
……それが、どんなにその人を傷つけることになるのか、考えることもなく。
それに対し、大人の悪意は陰険で執拗で。
本人には決して聞かず、言わず。仲間内であることないことを想像し、本人に聞こえるかどうかの大きさの声で陰口を叩く。
言われている本人がなんの反応も示さないようなら、それは次第にエスカレートしていって。
海は、そういう人種の人からしてみたら恰好の標的になるだろう。
孤児で養子。
それだけで、人は身勝手な同情を覚えたり、彼を軽んじたりする。
雫も輝も、それが海に向けられることを恐れた。
過保護、と思われるかもしれないが、海の心の傷は今ようやく癒えようとしているのだ。
そんな彼に新たな傷を負わせたくない。二人はそう考えていた。
そういう点から言えば、信は友人の夫であり、料理の腕も確かだ。
それに『彼女』もいる。
今は小学校に行っていていないが、『彼女』なら間違いなく海のよき友人となってくれるはずだ。
そういう打算的な面も含め、信に海を預けるのは間違いではない。そう、頭ではわかっているのだが……。目の前の寸劇を見ていると、雫は自分の判断に疑問を感じずにはいられなかった。
「さて、坊主」
そんな風に近藤親子が不安に思っていると、件の人物から声がかかった。
海は慌てて顔を信へと向ける。
「え、あ、はい!」
視線を向けた先。そこには真面目な表情をした信がいた。
「今からカレーを作る。なぁに、市販のルーを使った簡単なやつだ。初めてのおめぇでも出来る。心配することはねぇ」
それは間違いなく、一人の料理人の顔で。
海は思わず唾をのんだ。
「だが、何度かは包丁を使う。包丁の扱いを全て叩き込むからそこは安心しろい。……だがな、坊主。それでもおめぇがこの先料理を続けていくなら、いつかは手を切る。皮一枚の時もあれば、ばっさりいく時もあるだろう」
海の目は、自然と雫の手へと向かう。
先日。盛大に料理を失敗した彼女の指には、いまだ多くの絆創膏が貼られていて。
海の視線に気づいた雫は、苦笑いを浮かべながら、自分の手をさすった。
「だがな、坊主。包丁で手を切ることを恐れるな」
続けられた信の言葉に、海は視線を彼へと戻す。
「手を切ったら、なんで切ったか考えろ。なにが原因かを見極めろ。そうやって、手を切らねぇで済む方法を身につけろ。それが包丁上達の極意だ。おめぇにそれが出来るか?」
信は、今、鷹のように鋭い目を海に向けている。
しかし、それは悪意からくる『睨み』ではなく、彼を試すための『眼』だ。
海の決意と、海の意思を見極めようとする眼。
――人から悪意を散々向けられてきた海は、信の目に悪意がないことも、彼の眼差しの意味も、しっかりと理解していた。
だから海は胸を張り、信の目をしっかりと見返し、頷く。
「はいっ!」
それを見た信は、不敵な笑みを浮かべる。
(俺にこの目で見られて、ここまで脅されりゃー普通、大人でも怯むってえのに。肝が据わってらぁ。物になるようならうちで雇う、っていうのもありだなぁ)
信の頭に、労働基準法といったものはない。
海が役に立つようなら、『今すぐ』にでもアルバイト、ないし社員として雇おうなどと考えていた。
……考えていたが、それを見抜いた雫に、魔王モードの凍てつく瞳で睨まれ、その考えを即座に却下する。
雫の恐さを信は知らないが、飲食業をしていて自然と鍛えられた人を観る目が、最大限の警鐘を鳴らしたのだ。
――彼女を怒らせたらまずい、と。
信は身震いを一つして、改めてカレー作りを始めることにした。
彼は知るよしもないが、それは間違いなく賢明な判断だ。
「普段俺ぁ粉からしか作らねぇし、材料も余った食材を好きに入れてるだけなんだが、今回はそうもいかねえんだが……なになに?」
そう呟きながら市販のカレールーの箱の裏側、つまり『作り方』を読んでいるのを見て、二人の不安がさらに高まったのは言うまでもない。
「俺に圭。それに雫さんに坊主。で、あとは明日香、と。五人前だがそれじゃあ足りねえしなぁ……。よし、明日の朝も食うことにして十人前作りゃあいいな。で、材料は……」
しきりに頷きながらルーの箱を片手に、冷蔵庫を見て回る信。
そんな彼の態度よりも、海は彼の言葉に興味を持った。
(あすか……?)
知らない名前。信の口調からすると、それは人物の名前だ。しかも、どうやら今から作るカレーを食べることになる人らしい。
海は雫の袖を引いた。
「母さん。あすか、って誰?」
雫はいつもの笑みを浮かべ、しゃがんで海と目線を合わせる。
「明日香ちゃんっていうのは、信さんと圭ちゃんの子供のことよ。海と同じ、七歳の女の子。きっといいお友達になれるわ」
「ふーん……」
海は頷きながら、かつてのことを思い返していた。
孤児ということで、蔑まれ、のけ者にされてきた日々。
それを思うと、どうしても雫の言葉に疑問を感じてしまう。
そんな海の不安を見抜いた雫が、彼の頭を撫でながら言う。
「大丈夫。だって明日香ちゃんは、信さんと圭ちゃんの娘よ?」
「……」
……いろいろな意味で不安になった海だった。
「坊主!準備出来たぞ!」
「あ、はい!」
調理台の前で自分を呼ぶ信の呼びかけに答え、海は再度雫に向き直る。
そして、強い意思が込められた眼差しを雫へと向けた。
「母さん。頑張るね!」
そんな息子を、雫は眩しそうに見つめる。
信じては裏切られ、裏切られてはまた信じ。そうして心に大きな傷を負った海。
常に周りを警戒し、誰も信じず、自分の人生を諦めて。
雫達が引き取ってからは、親子という関係に戸惑い、海自身の変化に戸惑い。そうして静かに壊れていき……。
そんな海が、雫達と本当の意味で親子になってからたった数日でこんなにも大きく変わった。
強い意志を持ち、痛みを知っているからこそ、人を助けたいと、人のためになにかをしてあげたいと心から思える、強く優しい男の子になったのだ。
日々、たくましく、そして優しく成長を続ける愛息子に、雫は優しく笑いかける。
「ええ。頑張って」
頷き、笑顔で信の元へ駆け寄って行く海の後ろ姿を、雫は、とても感慨深い気持ちで見送っていた。




