26
「ん……?」
朝、目を覚ました海は、いつもとなにかが違うことに気がついた。
「……明るい……?」
窓から差し込む光。
それは朝の訪れを告げる暖かな光だが、海にとって、それが異常だった。
彼の目覚めは、いつも闇の中だった。
日の出前に自己防衛のために自然と目を覚ますのだ。
だからこそ異常だった。
太陽の訪れたあとに目を覚ましたことが。
それに……。
「誰も……いない……」
寝ていた布団の左右を見ると、そこには誰の姿もなく。
いつもなら起きれば横にいる(いつも近藤家で一番早く目を覚ますのは海だった)二人の姿見えず、海は不安に襲われた。
慌ててベッドから飛び降り、スリッパも履かず二人の姿を探しに走る。
廊下に飛び出して左右に首を振るが、誰の姿も見えず。
海は胸に生まれた不安に突き動かされ、海は足を動かす。
ドタドタと走る海の足音とは別の音がリビングから漏れ聞こえてくるのを聞いた海は、勢いよく、リビングの扉を開けた。
「おや、海おはよう。今日はお寝坊だね」
「おはよう海。どうしたの?そんなに慌てて?」
そこで海は、探していた人物達に優しい笑顔で迎えられた。
求めていた二人が、今までの人達のように自分を置いていなくならなかったことに安心した海。
安堵し落ち着きを取り戻した彼は、ことの次第を理解した。
太陽がおはようと言っているのは、自分がいつもより遅く起きたから。
二人がいなかったのは、こうして朝の支度をしていたから。
海は目をつぶり、頭の後ろをカリカリとかく。
(考えてみれば当然のことだろうが。なんでそんな簡単なことに……。いや、それだけこの二人の存在が大きいってことか)
海は昨日のことを思い出す。
昨日、泣き止んだ海は、輝に手を引かれて家へと帰った。
道中、会話らしい会話はなかったが、そこには確かに穏やかな時間が流れていて。
家へ着いた海を出迎えたのは雫の抱擁だった。
海の隣にいた輝を突き飛ばし海を抱きしめたのは、ある意味お約束と言えよう。
そんな雫だが、夫が怪我を負っているのを見逃すほど愚かではない。
輝に怪我を負った理由を問い、それを知った雫は海の頬を叩いた。
突然のことに反応出来ない海に輝。
そんな二人を置き去りにして、雫は瞳に涙を浮かべて海のことを抱きしめた。
そして言う。
もう二度とそんな危ないことをしないで、と。
雫は、心から恐怖を感じていた。海を失っていたかもしれないことに。
そして、同時に心から安堵していた。
海が、今、目の前にいてくれることに。
海はそれがわかった。
だから彼は、雫に謝りながら再び涙を流した。
自分のことを心配してくれる人が出来たから。
自分のために涙を流してくれる人がいたから。
海は嬉しくて泣いた。自分を受け入れてくれた人の温かい胸で泣き続けた。
そのまま海は泣き疲れて、雫の胸で眠ってしまったのだ。
――そうして向かえた朝。
昨日までと変わりなく自分のことを迎えてくれる二人に、海の胸はとても暖かくなった。
嬉しい気持ち。暖かい気持ち。
こんな気持ちがあることを教えてくれた二人に、自分は一人じゃないと教えてくれた二人に、海はなにかしたかった。
少しでもありがとうを返したかった。
今まで下心がある人間達に囲まれて生きてきた海は、人の心に敏感だ。
だからわかる。二人に下心なんてものがないことに。
恐怖や絶望に目が曇っていたころにはわからなかったが、今なら、わかる。
二人は恩返しがしてほしくて自分のことを引き取ったのではない。
恩を返すようなことを二人は望んでいない、と。
それはわかっている。
わかってはいるが、それでも、海はなにかをしたかった。
今の自分はなに持っていない。なにも返せない。それもわかっている。
でも、唯一、言葉は持っている。
そして敏感すぎる彼の『目』は、雫達が望んでいる唯一のことをあっさり見抜く。
正直に言ってそれはとても簡単で、しかし、海にとってはひどく難しいことで。
けど、海はそれを『言う』ことを強く望んだ。
自分を受け入れてくれたこの二人と、『家族』になりたいと強く願った。
だから――。
海は小さな拳を握り締め、俯き、視線を左右に揺らしてから、覗き込むように雫へと顔を向ける。
そして、羞恥に染まる顔に自然と浮かんだ笑顔を乗せ、口を開く。
「……お、おはよう。…………か……母さん」
――突然だが、雫はそれほど運動が得意ではない。
そして海がリビングに入った時には、彼女はカウンターキッチンの向こう側でコーヒーを入れていた。
ついでに言うなら、リビングの入り口からキッチンまでは、数メートルの距離がある。
それなのに。それなのに、海が『母さん』と言ったその瞬間に、雫は海のことを思い切り強く抱きしめていた。
雫の、決して小さくない胸に顔を押しつけられ、海は恥ずかしさから固まった。
そんな海のことを完全に無視し、雫は満面の笑みを浮かべて輝に顔を向ける。
「輝さん!聞きましたか!?今、海が『母さん』って!」
「ずるい!!」
輝は読んでいた新聞を投げ捨て、海の元に走り寄る。
そして、雫の胸で固まる海の肩をつかみ、無理矢理雫から引き離し自分の方へと体ごと向けさせた。
この時、雫がとても不機嫌そうな、具体的にいえば『大魔王』の顔をしていたのだが、輝は運よく(運悪く?)そのことには気づかなかった。
真剣な眼差しを海に向け、心の底から叫ぶ。
「海!僕は!?僕のことは!?」
「え、あ……」
むろん海は、輝のことも『父』と呼ぶつもりでいた。いたが、過剰な反応を見せる二人に、海の羞恥心が刺激され。
それに、この距離が悪かった。
雫の時のように離れていれば、彼も素直に輝のことを『父』と呼べていたのだが、こんな間近でそう呼ぶのは、あまりにも恥ずかしかった。
「さあ!海!僕のことを『父さん』と呼んでごらん!もしくは『パパ』でもいいよ!!さあ遠慮せずに言ってみたまえ!My Son!!」
さらにいうなら、輝のこのしつこさもいけなかった。
なぜならこれは、海の羞恥心をあおる結果にしかならないのだから。
「さあ、海!」
嬉しそうな笑顔を輝に向けられて、海の恥ずかしさは、ついに限界を超えた。
「うるさいんだよ!この馬鹿『親父』っ!!」
顔を真っ赤にさせ、輝を睨みつけ叫ぶ海。
そんな海の言葉に、輝はショックを隠しきれなかった。
海の肩から手を離し、大袈裟なくらいによろめく。
「お……親父……?」
親父。それは、確かに父のことを指す代名詞だ。
しかし、それは輝が望んだ呼び名ではなかった。
輝は瞳に涙を浮かべ、海の肩を再度つかみ、前後に激しく揺らす。
「なぜだい!?なぜ雫は『母さん』で、僕は『親父』なんだい!?不公平じゃないか!そういうものは、きちんと平等に扱わなきゃいけないんだぞ!!」
「やかましいっ!子供かお前は!」
海が発したその言葉は、奇しくも雫が思ったことと全く一緒だった。
「海ー。お願いだから僕のことも『父さん』と呼んでおくれよー」
「気色の悪い声を出すな!お前なんか親父で充分だ!それにいい加減離せ!酔うだろ!」
「かーいー……」
「いい大人が泣くなー!って、あ、やばい……本当に気持ち悪くなってきた……。か、母さん……助けて……」
「おい。手を離せ」
「了解しましたーーっ!!」
海が雫に助けを求めた瞬間、雫は輝の胸倉をつかみドスの効いた声と凍てつく眼差しで輝を睨みつける。
それを向けられた輝は、『生命』の危機を本気で感じ、海から大幅に距離を取る。
(今の……なに!?大魔王の、さらに上がいた……!?)
今まで見たこともない表情。
今まで聞いたことのない声。
今まで感じたことのないオーラ。
今まで見たことがないくらいの怒りを浮かべていた雫。
それは全て、海のためで。
輝は苦笑いを浮かべる。
(……やれやれ。やっぱり雫だって、充分親馬鹿じゃないか)
今見たものが目の錯覚なんではないかと思うくらい、全く別の、柔らかい笑顔を浮かべて海を抱きしめている雫。
そんな彼女を見て、輝は肩をすくめた。
「海。大丈夫だった?」
「うん。ありがとう。えと……母さん」
「……」
「海……!もう一回呼んで!」
「え……?あ……か、母さん……」
「海!」
「…………」
「うわ!母さん苦しいよ!」
「だって海が可愛すぎるんだもの!それに、今までずっと、抱きしめるのを我慢してきたんですもの!もう我慢しないわよ!」
「………………」
「それとも抱きしめられるの嫌かしら?」
「そんなこと……ないよ。母さん、いい匂いするし……」
「――っ!海っ!」
「わあ!だから苦しいって……」
「やっぱりずるいーー!」
二人の触れ合いを目の前で見せつけられていた(二人は別に見せていたつもりはない)輝の堪忍袋の尾が、ついに切れた。
涙目で、雫ごと海を抱きしめる輝。
それに対して恥ずかしさから叫ぶ海。
そんな二人を、優しく見つめる雫。
それは間違いなく、一つの家族の姿。一つの親子の形。
長い、長い旅をして、海はようやく手に入れた。
ずっと、ずっと欲しかったものを。
海が望んでいたものは、決して特別なものではない。
それはありふれたもの。
一緒に過ごしてくれる家族。
自分のことを、一人の人間として扱ってくれる両親。
それだけ。
誰しもが、とは言わないが、持っていて当たり前のもの。
それを海は求め続けた。
長い、長い間。
そうして、ようやく。
ようやく彼は手に入れた。
大切な、大切な家族を。
以前、雫と一緒に工藤に食事に行き、圭に名前を聞かれた時、海は名前だけを答えた。
だけど、今の彼なら、間違いなくこう名乗るだろう。
近藤海、と。




