25
握られていた輝の手を思い切り振り払い、海は輝を、七歳児がするとは到底思えない冷たく鋭い目で睨む。
「……ふざけるなよ……!なにが家族だ!なにが自由に生きろだ!そうやって言って、どうせお前らも俺を裏切るんだ!」
「海……」
「血が繋がってないんだ!俺達はただの他人なんだ!あんたらにとって俺は邪魔者でしかないんだよ!」
「海。いい加減にしなさい。私達は、本当にあなたのことを息子だと思っているのよ」
雫の声。
それは堕天使でも、般若でも、魔王でもない、純粋な怒りの声。
今まで雫は、一度も海を怒らなかった。
どんなに汚い言葉を使っても、どんなに冷めた態度をとっても。
その雫が、今、明確な怒りの表情と声を海に向けている。
そのことに、海は少し怯む。
が、長年に渡って溜まり続けたストレスは、止まることはなかった。
視線を輝から雫へ。
鋭い視線。
しかし雫はその視線から目を逸らすことはなかった。
海は叫ぶ。
「口ではなんとでも言えるんだよ!そうだよ!結局お前らも口だけなんだ!!」
「そんなことはないわ。私達は……」
「信じられるか!信じてたまるかっ!!」
「――っ!海!」
海は椅子から飛び降り、リビングを飛び出し玄関へ。
スニーカーに足をねじ込み、そのまま玄関から外へと走る。
夜の街を、全力で走る。
頬を撫でる夜風は、とても冷たくて。
行くあてなど、あるわけがない。彼は一人なのだから。
ただ、あの空間にあれ以上居たくなくて逃げ出しただけだ。
「はあ……はあ……」
混乱し、働かない頭ではペース配分など出来るわけもなく。
海の心臓は、早くも悲鳴をあげ始める。
それでも、海は止まらなかった。
止まるのが、怖かったから。
二人に追いかけられてきても怖いし、追いかけてこなくても、怖い。
だから海はひたすら走った。
走って、走って、走って。
息は切れ、心臓は「もう止まれ」と命令を下す。
速度も歩くような速さに変わり、足も引きずって。
それでも、海は止まらない。
一歩、一歩。前へ、前へ。
霞む目。混乱し続ける頭。狭い視野。
その全ての要因が重なり、海は気づかなかった。
前方の十字路に、左から明かりが『近づいてくる』ことに。
飛び出した十字路。それと同時に響く、甲高いブレーキ音。
体を明るい光りが包んだところで、海は初めて気づいた。
自分に迫ってくる、一台の車に。
虚ろな視線を車に向けながら、海は、自分はここで死ぬんだと悟った。
(ろくな人生じゃなかった。そんな俺には、こんな幕切れがふさわしいのかもな……)
自分のこれまでの人生を、海は振り返る。
……だが、浮かんでくるのは輝と雫、二人と過ごした日々だけで。
彼らと過ごしたのは、わずか二週間程度。
海がこれまで生きてきた七年間の中で、唯一思い出せるのがその二週間だけで。
海は小さな笑みを浮かべる。
(……そうか。やっぱり俺は、あいつらと過ごすのが楽しかったんだな……。幸せ、だったのかもな……)
最後の瞬間にそれを知れてよかった。
海はそう思い、笑顔を浮かべたまま目を、閉じた。
近づくブレーキ音にライトの光。
――そうして、海の体を浮遊感が包んだ。
思っていたものとは違う軽い衝撃と、暖かい温もりと共に。
「はあ……はあ……はあ……!」
地面を転がったはずなのに、全く痛くない体。そして自分を包む暖かい温もり。
海は知っていた。
耳元で繰り返される荒い息の持ち主を。この体温の持ち主を。
だが、あり得ないとも思った。
ここにいるわけがないと。自分の命を危険にさらしてまで、自分のことを助けるわけがないと。
おそるおそる、海は目を開く。
……そこにいたのは、海の、想像通りの人物だった。
海のことを上にして、地面に横たわっている輝。
地面を転がった時に石で切ったのか、シャツの右の袖が切れ肌にも傷を作り。
荒い息を繰り返しながらも、彼は優しい瞳を海に向けていた。
「はあ……大丈夫かい、海?」
「え……?あ……」
走り去る車のドライバーからの怒声を無視し、輝は海に笑いかける。
海はそれが信じられなかった。
「……なんで?」
「うん?」
笑顔を崩さない輝。
その笑顔に、海の感情が爆発する。
「なんでお前はこんなことが出来るんだよ!?死んでたかもしれないんだぞ!!」
輝の上で、彼に抱きしめられながら海はほえる。
海の瞳には大粒の涙が浮かんでいて。
海が本気で自分のことを心配してくれていることを悟り、輝は嬉しくなった。
海の頭を優しく撫でながら、輝は言う。
「気づいたら体が動いてたんだよ。海のことを助けたい、そのことしか考えてなかった。それに」
輝は、海の体を思い切り抱きしめた。
今、海に必要なのは、人の温もりだと思ったから。
「それに、息子を守るのに理由が必要かい?」
「――っ!」
海が息をのんだのを聞いてから、輝は彼の頭を優しく撫でる。
「さっきの続きだけどね、僕の言葉を、僕達のことを信じるかどうかは、海がこの先見定めて決めればいい。だからね、焦らないでほしいんだ」
「……」
「焦って、自分を殺して、人に合わせるような生き方はしてほしくないんだ。僕達はそんなこと、望んでいない」
海は言葉を発せず、輝の言葉を真剣に聞く。
彼の言葉の一字一句を逃さないように。
「時間がかかったって構わない。いくら時間がかかっても、僕達は海のことを見捨てない。一人になんかしない」
「……俺は一人だ。あんた達と血だって繋がっていない……」
「そんなこと関係ないんだよ」
輝はそこで海の体を持ち上げ、自分と目線を合わせる。
強い意志の込められた輝の瞳に、海は目が逸らせなくなった。
「血が繋がっていなくたって、家族になれる。僕達が海を息子と認め、海が僕達のことを親と認めてくれれば、それでもう、僕達は親子で家族なんだよ」
真剣な瞳。
真剣な表情で告げられた輝の言葉に、海の胸は暖かくなり、瞳にさらに涙が浮かぶ。
「もう我慢しなくていい。言いたいことは言えばいいし、やりたいことはやればいい。良いことをすれば僕達は褒めるし、悪いことをすれば怒る。普通の親子みたいにね」
「――っ!」
海の瞳からは、もう、涙がこぼれていた。
止めようとするのに止まる気配はなく、それどころかさらに勢いを増して。
そんな息子のことを、輝は優しく、しかし強く、抱きしめる。
「海は、もう一人なんかじゃない。一人になんかさせない。僕達がいる。ずっと、側に」
「……う……うぅ……」
海の頭を撫でる輝の顔に、優しい笑顔が浮かぶ。
それは、紛れもない『父親』の笑顔だった。
「大好きだぞ。海」
「――っ!!ああ……ああーっ!」
『好き』それは人に愛情を伝える言葉。
それは人に認められたのを教えてくれる言葉。
(……ずっと、俺は誰かに『好き』って言ってほしかったんだ……)
輝にそう言われて、海は初めて自分がそう思っていたことに気がついた。
(邪魔でお荷物。なにも出来ない厄介者のガキ。俺はずっとそう言われてきた。俺自身、自分のことをそう思っていた……)
人間は、特に、『自分』というものをしっかり持っていない子供は、暗示にかかりやすい。
いや、この場合は洗脳というべきか。
毎日、毎日。
お前は厄介者だ。いらない子だ。などと言われていれば、いつしかその子は自分のことをそう思うようになる。
自分はいらない存在だと。生きていても仕方のない存在なんだと。
海がまさしくそうだった。
他人を信じても裏切られる。
自分はいらない存在だ。
そんな自分に、明るい未来なんて待っていない。
そうやって、海は自分の人生に絶望した。
だけど……
(今、こいつに好きって言われて、すごく、嬉しかった……。生きていていいんだって、必要としているって。そう言われたみたいで……)
ないと思っていた未来。
いらないと思っていた自分。
それら全てが虚像だったと、ただの思い込みであったと教えてくれた人の胸で、海は泣き続けた。
とても、とても嬉しかったから。
涙はとめどなく流れ。口は意味を成さない声をあげ続ける。
それらを全てを包み、受け入れる輝。
(泣けるだけ泣いてしまえばいい。今まで我慢してきた分、全て)
胸の中で泣きじゃくる息子を抱きしめながら、輝は空を見上げていた。
澄み渡った空。
そこには、星が柔らかく輝いていた。




