23
「な、揺れ……!?しかも高く……!?」
観覧車が次第にその高さを増していくにつれ、海は次第にパニックになっていった。
ジェットコースターとは違い体を固定するものはなにもなく、不安定に揺れる小さな箱。
ゆっくりと高度を上げていく観覧車に、海はジェットコースター以上の恐怖を感じた。
パニックに陥り、落ち着きをなくす海に、輝は苦笑いを浮かべながら言う。
「海。動く方が余計に揺れるよ」
彼のその言葉が海に届いた瞬間、彼は動きを止めた。
まるで、そこにいるのが海の等身大の人形のように、ぴくりとも動かない。
それを見て、雫は彼の手に手を伸ばす。
「海。動いても平気よ。暴れたりしない限り、そんなに揺れないようになっていますから」
「……本当?」
涙目になり、普段は決して見せない怯えた表情を雫に向ける海。
雫はそれを見て、海のことを思い切り抱きしめたくなった。
(可愛い……!本当に可愛いわ!)
両頬に手を添え、目を輝かせる雫。
彼女もまた、親馬鹿の一人だった。
そのまま欲望に身を任せ海を抱きしめたかったが、そうすると海が嫌がるのを彼女はわかっていた。
だから彼女は自重する。そこが輝との違いだった。
海にアルカイックスマイルを向け、触れていた手を改めて差し出す。
「ええ。これはね、『観覧車』っていって、ゆっくりと外を眺める乗り物なの。だから、激しく揺れるようには出来てないのよ。それでも不安なら、私と手を繋いでいましょう」
「……うん」
海は素直に頷いた。
いろいろな葛藤よりも恐怖が上回ったのだ。
ぎゅっと、強く雫の手を握る海。
その姿に、雫は一人、胸中で悶えた。
にこにこと幸せそうな笑顔を浮かべる雫。
むろん、それを目の前で見せつけられ、黙っている輝ではない。
「二人ともずるい!僕も――」
腰を浮かせ、海達の方へ(この観覧車の椅子は、入口のところだけ開いたC字型の椅子になっている)向かおうとする。が――
「立つな!動くな!馬鹿かお前は!?」
海の三段突っ込みが炸裂し、輝は元の席で膝を抱える。
雫はその姿を見て、やはり笑っていた。
「海。外を見てみて」
「……なんで?」
雫の言葉に、海は眉を寄せる。
雫の手を握り、多少恐怖を抑えているとはいえ、今も高さと揺れによる恐怖は健在だ。
出来ることなら俯き、一つの恐怖をなくしていたいと、海は考えていた。
雫は微笑む。
「見せてあげたいの。あなたに、広い世界を」
「え……?」
雫の言葉。
それは昨夜、彼女が言っていた言葉だった。
世界は広い。
嫌なところは、世界の一面でしかない。
彼女は確かにそう、言った。
そして、いつかわかる日がくると。そうも彼女は言った。
海は確かめたかった。
雫が言っていた言葉の真偽を。
空いている方の手をぎゅっと強く握り、同様に目を閉じてから、彼はゆっくりと目を開き、顔をあげた。
「――」
そこは、海の知らない世界だった。
頂上付近まで登った観覧車。
高さが日本一と謳われているその頂上から見る世界を、遮るものは何一つなく。
夕日に照らされ、紅い化粧を施した家にビル。それに海に空。
広い世界。美しい世界。そして、どこか優しい世界。
海の瞳に涙が浮かぶ。
雫の言葉が正しかったことを、自分の目で、しかりと見たから。
(本当に、世界は広かった……。こんな綺麗な世界、俺は知らなかった……)
広く美しい世界に心を打たれながら、海は今日一日のことを思い返す。
(昨日言った通り、こいつらは本当に俺から離れなかった。俺を一人にしなかった。 ……だから、遊園地は怖くなかった……)
今日までのことを改めて振り返って、海はついに認めた。認めざるを得なかった。
(……こいつらは、本当に俺のことを……子供と、息子として見てくれている……)
メリット、デメリットを考えず彼らが海にいろいろとしているのは、彼らが本当に海のことを息子として見ているから。
海と進んで関わろうとしていたのは、海のことをよく知り、本当の家族になりたかったから。
辛辣な言葉や生意気な態度を取っても海に変わらない笑顔を向けていたのは、海のことが好きだから。
自身の猜疑心を取り除き、ありのままを受け入れ考えれば、海の今日までの疑問の答えはすぐに出た。
(そして、俺も……)
同時に。海はついに自覚した。自覚してしまった。
自分は無意識の内に、心のよりどころを、家族を求めていたことに。
心に癒えぬ傷を負いながらも、何度も信じてみたいと思ってきたのはそれの現れだった。
無意識に渇望していたからこそ、ふとした瞬間にそれは現れて海を苦しめてきたのだ。
だが、その苦しみも終わりを告げる。海がその渇望を自覚『してしまった』から。
(――怖い……!怖いよっ!)
――そう。新たな苦しみの始まりだった。
初めて出会った優しい世界。
海はそれに恐怖を覚えた。
この世界だけを知っていたならいい。そうすれば怯えるものなど何一つない。
だが、海は、もう一つの世界を。
長年い続けた、暗く冷たい世界を知っていた。
(もう、嫌だ……!あの世界には戻りたくない……!)
新しい、美しく穏やかな世界を知った海は、元の世界に戻ることに過剰な恐怖を感じた。
それはそうだろう。
誰だって、辛い世界より幸せな世界の方がいいに決まっているのだから。
(本当にこいつらは裏切らない……?この暖かい世界に一緒にいてくれるのか……?)
裏切りに暴力。
常にそれらに囲まれていた海は、人を信じることが出来ない。
どんなに信じたいと思っても、本能に刻まれた経験が常に警鐘を鳴らし続ける。
海は今日まで、輝達のことを『信じてみたい』と思ったことは何度かあった。
その度に警鐘に従い保留にしてきたが、今度こそ海は思ってしまった。『信じたい』と。
言葉にすれば些細な違いだが、海の中では全く異なる意味合いを持つ。
『信じてみたい』と彼が思った人物は、かつて何人かいた。
それは初めて引き取られた時の家族に対してだったり、優しくしてくれた人に対してだったり。
……その全てに、海は裏切られてきた。
その度に心に傷を負ってきた。
もう誰も信じないと、その度に思った。
しかし人間は、『一人』というものに弱い。
海に限らず、人という生き物は常に誰かに心の拠り所を探している。
しかも海はまだ七歳だ。
誰かに支えを求めるのは当然といえた。
信じてみたい。だから信じる。そして裏切られる。
その負のスパイラルを繰り返してきた海は、いつしか、『信じてみたい』と思うことは、『信じないための予防線』になっていた。
信じてみたいと思う度に、裏切られるから信じるな、そう自分に言い聞かせるようになっていた。
実際、輝達に引き取られた時もそうだった。
そんな海が、今、初めて強く願った。
この二人を『信じたい』と。
そこに予防線はない。心からの願いなのだから。
――だが。
(もし……もし、この二人に裏切られたら、また……あの世界に戻ることになる……)
皮肉にも、新しい世界を知ってしまったことが、海に壮絶な恐怖を与えることになった。
(信じたい……信じたい!……でも……でも、でも……!)
次第に壊れていく海。
そんな海に、雫も輝も声をかけることが出来なかった。
この葛藤だけは、自分で解決しないとどうにもならない問題だから。
信じて。
この場でそう言えば、確かに海は彼らを信じることになっただろう。
が、それは果たして本当に彼の意思なのだろうか?
答えは、否だ。
追い詰められて、与えられた答えに飛びつくことに本人の意思はない。
ただ楽になりたいが故の『逃げ』だ。
それを悪く言うつもりはないが、輝達は海にそうなってほしくはなかった。
どんなに苦しくても、自分で答えを出し、それに身を任せる強さを持ってほしかった。
ぴたりと止まった観覧車内の会話。
自分の世界にこもってしまった海。
そんな海のことを、『親』として優しく見つめる輝と雫。
海は気づかない。その視線に。
だから気づけない。自分が感じている恐怖が、ただの妄想でしかないことに。
初めての観覧車。
初めて知った広い世界。
しかし海は、それをもう、楽しむことは出来なかった。




