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「ふふ。可愛い寝顔ね」
「出来ることなら僕も見たいよ」
背負った息子の顔をなんとか見ようと首を捻る輝の姿を、雫は楽しそうに眺めていた。
ジェットコースターから始まり、コーヒーカップ、ゴーカートにフリーフォール。
様々なアトラクションを、目についたものから順に制覇していった三人。
最初はおずおずとしていた海だったが、昼を回るころには、自然と笑顔を浮かべて、二人を引っ張るようになっていた。
新しい世界が自分を受け入れてくれたことに安心したのだ。
しかし、アトラクションの残りが少なくなるにつれ、海の歩みは疲れから少しずつ遅くなり。
そしてついに、先ほどメリーゴーランドに乗っている最中に海は眠ってしまったのだ。
海を背負い、輝は雫に帰るかどうかの相談をした。
時刻は五時。
ここから家まで一時間ほどかかるので、夕飯を食べて帰るのにはちょうどいい時間といえた。
雫は頬に手を添え考える。
海の最初の遊園地だ。出来ることなら最後まで楽しませてあげたい。
だが、無理して起こすのも、酷というものだ。
長考のすえ、雫は『最後に一つだけ乗ってから帰る』という結論を出した。
今、三人はその最後の一つ、観覧車に乗るための列に並んでいるところだ。
海の寝顔を見ることを諦めた輝は、海のことを背負い直し、目の前にそびえ立つ観覧車を見上げる。
「しかしでかい観覧車だね」
「そうですね。なんでも、今の日本で一番大きい観覧車らしいですよ」
輝の独り言に律儀に返事をする雫。
彼女のその言葉に、輝は呆れたような表情を浮かべる。
「確か他にも日本一のものがあるんだろ?」
「ええ。ジェットコースターの長さや、フリーフォールの高さも、日本一らしいですよ」
雫の言葉に、輝はシニカルな笑みを浮かべ、肩をすくめる。
むろん、海を起こさないように注意しながら。
「日本一のものが数多くあって、しかも遊園地の名前が『ノワール・ル・ヴォル』って、どれだけ『親バカ』なんだよ。あいつは」
その発言に、雫は口元に手を添え、くすくすと笑う。
「あら。輝さんに人のことが言えるのかしら」
「それは、まあ……」
海を引き取ってから今日までの一週間。
輝は毎日、彼のためにお土産を買って帰ってきた。
あの日のラジコンから始まり、テレビゲームに本。
自転車を買って帰ってきた日は、流石の雫も呆れたものだ。
そのことからわかるように、輝は海のことを溺愛している。
だから雫の言葉に、彼は苦い顔を浮かべたのだ。
「でも、仕方ないですよ。だって、可愛いんですから」
優しく、まるで聖母のような笑みを浮かべて海を見つめる雫。その視線は輝が嫉妬を覚えるくらいで。
だが、それも仕方ないか、と輝は一人胸中で納得をする。自分もここ最近、海のことばかり考えているのだから。
自分自身に呆れ、ため息を一つ。
だが、彼は省みるつもりはないのだろう。
なぜなら、彼の顔には笑顔が浮かんでいるのだから。
そんな、ありふれた親子の時を刻みながら、列は少しずつ前へと進む。
一歩。また一歩。
そうやっていよいよ観覧車に乗る、といったところで、タイミング良く海が目を覚ます。
「ん……?」
雫は笑う。
「海。おはよう」
「……?」
雫に向けられているのはいつものアルカイックスマイルだが、海はそれに疑問を抱いた。
(おはよう……?俺、いつ寝たんだ?それに、ここはどこだ?それにこの揺れは……っ!?)
寝ぼけた海の頭がゆっくりと起動し、少しずつ状況を確認していく。
そして、今自分がいるところを理解した瞬間、一気にパニックに陥った。
「海。おは――」
「動くなっ!」
「――ぼほらっ!?」
そのことを知らない輝が、雫と同じように海に挨拶しようとして首を動かした途端、落ちることを恐れた海の拳が頬を打つ。
火事場の馬鹿力を惜しみなく発揮している海の一撃は、大人である輝の三半規管を強く揺さぶり、彼の足はおぼつかないものになる。
ふらふらと揺れる輝。
彼の背にいる海は、それにより強い恐怖を感じ、輝を握る手に、いつの間にか彼の首に伸ばされた手に力を入れた。
「か……かい……し、しぬ……」
首を絞める海の手を引き離そうと輝が手を伸ばすも、三半規管の揺れた状態の輝と、パニックから普段以上の力を発揮している海では勝負にすらならなかった。
それを見て、雫は笑う。
「あらあら、まあまあ」
頬に手を添え、呑気に微笑む雫。
確かに自分に害のこない、対岸の火事ではあるのだが、自分の夫が目の前で苦しんでいるのを見てする態度ではない。
まあ、確かにいつものことではあるのだが。
むろん、いつものことで済まないのが輝だ。
命の危機にさらされているというのに笑っている妻に向かい、輝は非難の視線、もといSOSを出す。
「雫……たす……けて……」
「まぁまぁまぁ」
輝の必死のSOSに、雫はようやく行動を起こす。
むろん、いつもの笑み(アルカイックスマイル)を浮かべたまま。
「海。こっちにいらっしゃい」
海の肩に手を添え自分のことを認識させてから、彼女は彼に向かい手を広げる。
海はそれに飛び込んだ。
いつもの彼なら絶対しない行動だが、今はそれどころではなかったのだ。
雫は、出来るならこのまま海を抱いていたかったが、このままでいると輝の二の舞になることが目に見えていたため、ゆっくりと海を地面へと降ろし、そのまま彼の手を握った。
「はあ……はあ……」
「まあ、海。大丈夫?」
荒い息を繰り返す海に、雫は心配そうな声と眼差しを向ける。
むろん、彼の隣で彼以上に荒い息を繰り返している輝には、一切の関心を払わない。
そのことに文句を言わず(言っても虚しくなるだけだということを輝は学んだ)代わりに海に向かい非難を飛ばす。
「……海。いきなり酷いじゃないか……」
「それはこっちのセリフだ!」
非難たっぷりの輝の瞳を、海は鋭い目で見返す。
「またお前は勝手に……!落ちたら危ないじゃないか!」
「そんなー。落とすわけないじゃないかー」
「そんなのわからないだろ!?」
以前デパートでされた肩車。
途中から恐怖は感じなくなったが、それでも、慣れたわけではない。
今まで経験したことのない高さ。
それを支えるのは、心を許していない他人。
もしかしたら落とされるのでは、そんな疑心暗鬼に海は陥っていた。
叫ぶ海の声に、周囲の視線が集まる。
だが、そんなものなど感じていないように、雫は海の手を引きながら、優しい声をかける。
「海。前にも言ったと思うけど、私達は決してあなたを落としたりなんかしないわ」
「……でも、今お前支えてなかったじゃないか」
パニックに陥っていたとはいえ、自分の背中に手が添えられているかどうかぐらいはわかる。
そして、今回それがなかったのを、海は確信していた。
鋭い視線で雫を睨む海。
しかしそれを、雫は微笑んで見返す。
「だって、今回輝さんがしていたのはおんぶですもの。おんぶは支え手がなくても落ちませんから」
「……おんぶ?」
知らない単語に眉を寄せる海。
肩車を知らなかった時点で予想はついていたが、おんぶを知らないという悲しい事実を突きつけられ、雫も輝も怒りを覚えた。
むろん、今まで海を引き取ってきた人物達に。
納まらない怒り。
だがそれを引きずっても仕方ないことを、彼らは知っていた。
今、海を虐げてきた人達に会えるわけも、この怒りをぶつけることも、出来ないのだから。
その代わり、彼らは怒りを別の感情に変えて発散することを選択した。
そう、怒りとは真逆の、海を愛する、という感情に。
輝は海に笑顔を向け、ある親子を指差す。
「海。あれがおんぶだよ」
輝の顔を見てから、海は彼の指の先を追う。
そこにいたのは、ありふれた一枚の風景だった。
一日中連れ回され、疲れた表情を浮かべている父親。 彼の隣で、そんな夫に対し文句を言っている母親。
そして、父親の背中で寝息を立てている一人の少女。
ありふれた一枚の風景。
それを見て、海は寂しさを覚えた。
……自分には、決してないものだから。
彼のそんな心情は表情になって表れる。
それを見た雫は、繋いでいる彼の手に、少しだけ力を入れ、自分の存在を誇示する。
輝も同様に、海の頭に手を置いた。
海に、決して一人ではないことを知ってもらうために。
そんな二人の行動に、海は弾かれたように顔を彼らへと向ける。
そこにある、紛れもない父親と母親の笑顔を見て、海は慌てて視線を逸らした。
自分の気持ちを悟られたことと、『安心』してしまったことが恥ずかしかったから。
「海。あれがおんぶ。あんな風に、肩車とは違って体全体を支えているから、おんぶされている人が暴れない限り絶対に落とすことはないのよ」
「そう。だから安心しておんぶされたまえ!海!」
いい笑顔を浮かべ、再度海をおんぶしようとしゃがみ背中を向ける輝。
そんな輝に、海は一言だけ告げた。
「うざい」
輝はその場で体育座りをしていじけ、雫はそんな輝を『空気』として扱った。
輝を一発KOした海は、自分の心境の変化に戸惑っていた。
(今、俺は安心した……?安心したのか?この女達が俺の側にいることに……?)
一人でいることが当たり前だった。
名前だけの家族だった。
温もりなど感じたことなく、常に自分を守ることに必死だった。
当然、家の中の他人を見て、安心したことなど一度もなかった。
彼らを見てするものは、いつも警戒だけだった。
(そんな俺が安心した……?側にいることに安心した……?)
今まで雫達と一緒にいて、海がそう感じるような前兆は何度もあった。
それは、朝起きた時、決まって自分に優しい笑顔を向けてくれる時であったり、自分の考えを言ってもきちんと聞いてくれる時だったり。
その度に海は暖かく不思議な気持ちになっていたが、その正体を、海は今、知ってしまった。
海は安心していたのだ。彼らと一緒にいることに。
それはつまり――
「海」
「――っ!?」
海がある考えに至った時、彼の体を浮遊感が襲う。
「な、な、なっ!?」
パニックに陥る海。
そんな海に、背後から声がかかる。
「さあ海。僕達の番だよ」
そこにいたのは、いつの間にか立ち直った輝で。
そこで海は理解した。
自分が後ろから抱きかかえられているのを。
「なにするんだ!それに番っていうのは……」
「これよ」
横にいた雫が、指を指しながら言う。
海はその指をたどった。
そこにあったのは青い色の丸い箱。
海はそれがなにかわからなかった。
雫は言う。
「観覧車っていうのよ。さあ。乗りましょう」
そう言い、まずは雫が観覧車内に乗り込み、次に海をかかえた輝が乗り込む。
これがどういったアトラクションなのか全く知らない海は、頭にクエスチョンマークを浮かべながら雫の隣に座らされ、輝は彼らの正面に、近藤家の食卓の位地に座った。
「それでは、行ってらっしゃーい」
係員の女性に笑顔で見送られ、海達の観覧車の旅が始まる。
そしてすぐに、海は再びパニックに陥るのだった。




