16
「海。ケーキを買って帰りましょう」
「ケーキ……?」
工藤で昼食を済ませ(本格的な和食というものに、海の箸は始終止まることがなかった)店を出るなり、雫は海にそう笑いながら言った。
彼女の言葉に海は眉を寄せる。
海はこのまま帰ると思っていたし、彼にとってケーキというのは特別な日に食べるものであり(もっとも海は食べたことはなかったのだが)今がそれにあたるとは思わなかったからだ。
そんな海の内心を気にとめず、雫は海の手を引き、賑わいを見せる商店街へと歩を進める。
「今から行くケーキ屋さんはシュクレっていう名前なんだけど、シュークリームがとても美味しいの。海もきっと気に入るわ」
そう語る雫の表情は、とても嬉しそうで。
本当にそこのケーキが好きなんだと、海にも伝わってきた。
だが、と海は思う。
好きなのは伝わってきたが、なぜ買うのかの理由は、やっぱりわからない。
それなので、海は直接雫に聞くことにした。
雫の横を歩きながら、彼女の顔を見上げ口を開く。
「……ねえ」
「ん?なあに?」
海に声をかけられ、雫は笑顔を海に向ける。
その笑顔が再び胸をざわつかせるが、海はそれを黙殺し、しかし視線を逸らし続けた。
「なんで、ケーキを買って帰るの?」
「あら?ケーキは嫌いだった?」
海の言葉の『本当の意味』を雫は理解していたが、あえて勘違いしたふりをし、足を止め海に尋ねる。
それに海は、首を横に振りながら答える。
「食べたことないからわからない……。そうじゃなくて、今日は別に特別な日じゃないだろ?それなのになんでケーキを買って帰るの?」
海の言葉は雫の想像通りだった。
満足に食事を与えられなかった海に、ケーキなどの嗜好品をわざわざ与えるわけがない。
雫はそれに気づいていた。気づきながらあえて気づかないふりをしたのは、海に同情していると思われたくなかったからだ。
与えるのは等身大の愛情だけでいい。
そこに同情はいらない。
雫はそう考えていた。
海の言葉の前半部を聞き流し、雫は後半部だけに返答をする。
「特別なことがなくてもケーキは食べていいのよ。でも、そうね。あえて理由をつけるとしたら」
雫は言葉を止め、しゃがみ、海と目の高さを合わせ、微笑みながら言う。
「海と一緒に美味しいケーキを食べたくなった。それが理由かしら」
「……」
自分の頭を優しく撫でながら笑顔を向けてくる雫のことを、海は不思議そうに見ていた。
(特別な理由がないのにケーキを食べる?俺と一緒に食べたい?……こいつはいったいなにを言ってるんだ?)
雫の言葉の内容を、海は全く理解出来ない。
それはそうだろう。
人間というものは、自分の知っている『世界』とは違うものを簡単に受け入れることは出来ない。
そして、それ以前に海の『世界』は狭すぎた。
……なんでもない日に家族でケーキを食べるという、ありふれた風景に疑問を挟むくらいに。
雫は思う。海の狭い世界を、母親として広げてあげたいと。
(この子は、もっといろいろな世界を知るべきだ。今まで海が体験してきた、悲しい世界だけが全てじゃないってことを教えてあげたい)
雫はいまだに眉を寄せている海の頭を撫で、立ち入り再び彼の手を取った。
「さあ海。行きましょう」
促され、海は頷く。
納得したわけでも答えが出たわけでもないが、とりあえず保留にしておくことにした。
それよりも、今まで一度も食べたことがない、しかし食べたいと夢見ていたケーキを買ってもらえることに海は興奮していた。
いくら未来を諦めたと、自分の人生に絶望したといえ、彼はまだ七歳。
ふとしたことで年相応の感情が顔を出す。今がまさにそれだった。
本人の意思とは無関係に速まる足。
垣間見えた少年の行動に、雫は目を細めていた。