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「それじゃあ海。着替えてお勉強をしましょうか」
玄関まで海の手を引き、彼と一緒に輝を見送った雫は、家に入るなり海にそう切り出した。
雫の顔を見上げながら、海は聞く。
「着替えるのか?この服は?」
海が今着ているのは、昨日雫達が買ったネイビー色のパジャマ。
下は全てネイビーだが、上はネイビーとホワイトのボーダーで、正面でボタンを留めるタイプのものだ。
今までの家ではお古の、しかもボロしか貰えなかった海にとって、これは充分私服に出来るものであり、着替える必要があるのか疑問だった。
雫は言う。
「それはパジャマですもの。パジャマは、基本的には寝る時に着るお洋服なの。だから、例え家の中にいてもうちでは着替えてもらうわ。それに……」
「それに?」
言葉を止めた雫に、海は問う。
そんな彼に雫は満面の笑みを向けた。
「それに、海がいろいろな服を着るところを見たいのよ」
「……」
ものすごくいい笑顔の雫に、海は言葉を返せなかった。
なんとなく、断ったら『酷い』ことになりそうな予感がしたのだ。
「さあ、海。お着替えしましょうねー」
「……」
海が自分のこの判断が間違いではないと気づくのは、当分先のお話。
「それじゃあ、今日のお勉強はこの辺にしておきましょうか」
「……もう、終わり?」
雫の言葉に、海は物足りない反応を返す。
輝を見送り、雫に着替え『させられた』あと、海は雫に勉強を教わっていた。
昨日、デパートで買ったノートとシャープペンシルなどの筆記用具。そして、どこからか雫が持ってきた小学校の教科書。
それらをリビングの食卓(ソファーが置いてあるところにも机はあるのだが、海の身長だと柔らかすぎるソファーに埋もれてしまうので、こちらを選択した)に広げ、定位置になった席に座り勉強を始める。
この日、雫が選んだ教科は、算数に国語、それに社会だった。
小学校と同じようにきちんと時間で区切り、休憩を挟みながらの個人授業。
間違ったり詰まったりしたら怒られないか、と警戒していた海だったが、雫のわかり易い解説と、問題を解く度に大袈裟なくらい褒める飴で、すぐにこの時間が楽しくなっていった。
今まで、海のことを誰も見ようとはしなかった。
テストでいかにいい点をとろうと、体育でいかに優れた結果を残そうと、数人の教師が軽く褒めるくらいで、誰も海のことを褒めなかった。
それどころか、引き取られた家の子供よりもいい結果を残すと、それだけで殴られた。
だから海は努力することをやめた。
授業も聞き流すようになり、体育などの授業も適当にこなした。
そんな海だから、自分を見てもらえることが、なにより、遠慮せずに知識を得られることが楽しくて仕方なかった。
だから不満だった。
もっと、もっと新しい知識が欲しかった。
そんな海の頭を優しく撫でながら、雫は言う。
「もうお昼の時間だからね。それに、一気に根を詰めてやるより、少しずつやっていった方が効率もいいの。また明日、一緒にお勉強をしましよう」
「……わかった」
納得したわけではないが、教師役の雫が終わりにしようと言っているのだから、海は頷くしかなかった。
それに、お腹が空いているのも確かだから。
(あとで今日のところをもう一回やっておこう)
今の海は、自分で新しい知識を学ぶことが出来ない。
応用する力がないため、教科書を進めることが出来ないのだ。
しかし、習ったところをもう一度繰り返し、自分の知識にすることは出来る。
海は今日の予定に復習を盛り込むことで、この件は終わらせることにした。
机の上を片付け、雫は言う。
「それじゃあ海。お昼ご飯を食べに行きましょう」
「……出かけるの?」
海は首を傾げる。
昨日も外食をし、今日も外食をするということに驚いたのだ。
今までの家では(もちろん海は連れて行ってもらったことはないが)外食は多くても一週間に一回だった。
だから二日連続で外食に行くということに海は驚いたのだ。
そんな海を気にすることなく、雫は続ける。
「ええ。近くに美味しい和食屋さんがあるの。お散歩も兼ねて出かけましょう」
「……出かける時はこの格好でいいの?」
決定済みのことのようなので、海は疑問を挟むのはやめた。その代わり、他の疑問をぶつける。
今海が着ているのは、英字が胸の位置に大きくプリントされた、薄緑の半袖のTシャツに濃い緑の長袖のカーディガン。灰色のデニムパンツ。
全て雫が朝選んだ洋服だ。
今まではパジャマが私服のようなものだった海にとって、TPOに合った服の区別はつかなかった。
パジャマからこの服に着替えたように、出かける時にも着替えるのかと海は思ったのだ。
雫は言う。
「ええ。その格好でいいわよ。それとも他の服を着たい?」
雫の問いに、海は首を横に振る。
先のような理由で、海は服の良し悪しの判別がつかない。
だから着替えなくていいのなら、それでよかった。
「じゃあ行きましょうか」
そんな海に雫は笑いながら手を差し出す。
海は少しの躊躇のあと、椅子から飛び降り、その手を握った。