13
「海!帰ったら絶対一緒に遊ぼうね!」
「輝さん。もうその台詞、何回目ですか?いい加減海も呆れていますよ」
雫の言葉通り、海は呆れていた。
約二時間前、近藤家の定時通りに起きてきた輝は、リビングに入るなり発狂した。
これは比喩でもなんでもない。本当に発狂したのだ。
楽しそうに話す二人の姿(海はぼそぼそと無表情で話していたのだが、輝にはそう見えた)を見て、輝は叫んだ。
抜け駆けだとか、ずるいだとか。
そういうことを無秩序に叫ぶ輝を止めたのは、雫だった。
ただ一言。
笑顔で「黙れ」と言っただけで、発狂していた輝は黙った。
その時輝が青ざめて震えていた様子を見た海は、雫にはなるべく逆らわないようにしようと心に決めたのだ。
そうやって数分間、黙って用意された朝食を食べていた輝だったが、やがて立ち直り、海に切り出した。
「雫とだけ仲良くするのはずるいから、仕事から帰ってきたら一緒に遊ぼう」と。
仲良くしていた覚えのない海はあっさりと断った。
そのまま朝食として出された苺ジャムがたっぷりと塗られた食パンをかじる。
――が、もちろん輝は納得しなかった。
「なぜだい!?どいしてだい!?僕は除け者かい!?ずるいじゃないかー!」
声を大にし、身を乗り出し海の手をつかむ。
彼の瞳には涙まで浮かんでいて。
海は驚いた。
今まで邪魔者扱いしかされなかった自分に、一緒の時間をとりたいと懇願される日がくるなど思いもしなかったから。
「どうしてだい!?どうしてなんだい!?」
固まる海の手を握りながら、輝は半泣きで続ける。
驚きためにフリーズしていた海だが、大人の男が半泣きになりながら自分の手を握っているという事態に、だんだんイライラしてきた。
(なんだこいつ?頭悪いんじゃないのか?)
海の目が冷たくなって、迷惑だというオーラが出ているのにも関わらず、輝は手を離さない。
いや、そもそも海のそれらが見えていないのだ。
(なんだっけ?たしかこういう奴にぴったりな言葉があったような……)
過去言われた言葉の中から、今の輝を示す単語を探す海。
ほどなくして、それは見つかった。
輝の目を見据え、言い放つ。
「あんた。うざい」
その時、まるで雷に打たれたような衝撃を受けた。理由はもちろん、愛息子の言葉だ。
輝は冷たい視線の海から逃げるように立ち上がり、ふらふらとした足取りでリビングの隅へと向かう。そしてそのまま座り込み、膝を抱えた。
この日から、輝がリビングの隅で膝を抱えるのが日常となったのは、また別の逸話。
――そんな喜劇から立ち直った輝は、懲りた様子もなく海に「遊ぼう」と迫り。
それから二時間、それはこうして輝が仕事に行く時間になる今まで続いた。
これは海でなくとも呆れるだろう。
「呆れられてもいいのさ!それでも僕は海と遊びたいんだよ!」
(……アホだこいつ)
輝の叫びに、海は心の底から呆れた。
海がそうやって冷めた視線を送っているのにも関わらず、依然として輝は止まらず。
そうやって続く暴走を止めたのは、彼女だった。
「……輝さん」
ただ名前を呼んだだけだった。顔は笑顔だった。
それなのに……輝も、そして海も、背筋が凍った。
海に向けていた視線を、ゆっくりと、首ごと、ギギギと音を立てて雫に向ける。
彼女の笑顔を見て、輝の額から冷や汗が流れ出す。
海は見れなかった。
彼女の方を見たらいけないと、培った防衛本能が激しく警鐘を鳴らしていたのだ。
そんな恐怖の対象は、そのままの笑顔で輝に言う。
「海が呆れてるの、わかりますよね、輝さん?」
「……はい……」
「息子が出来て嬉しいのはわかりますけど、ちょっと暴走しすぎじゃないですか?」
「……はい。おっしゃる通りです……」
輝の返答に、雫は満足したように頷く。
「じゃあこれからは控えてください。わかりましたか?」
「……わかりました……」
「よろしい」
そう雫が笑った時、彼女から発せられていたプレッシャーは霧散した。
それと同時に輝の体から力が抜ける。
スーツが皺になるのにも構わず、輝はリビングの床に膝をついた。
そんな輝の姿を、海は情けないとは思わなかった。
あのプレッシャーの中でよくも会話が出来たものだと、むしろ感心したくらいだ。
雫はリビングのかけ時計を見て、輝に言う。
「輝さん。そろそろ出ないと遅刻してしまいますよ」
「ん。そうか」
雫の言葉に、輝は彼女と同じようにかけ時計を見る。
確かに家を出る時間になっていたのを確認した輝は立ち上がり、スーツを整え、海の頭に手を乗せ、言う。
「それじゃあ海。行ってくるね」
先ほどの壊れっぷりが嘘のように大人の対応を見せる輝。
雫の方を窺い見ると、彼女もあの優しい空気をまとっていて。
(……変な大人)
別人のように雰囲気が変わっているというのに、自分に実害が今のところはないということでそのように割り切れる海は、達観しているというか、ある意味大物だった。
むろんそれは、昨日一日彼らのことを『観た』上での判断だ。
この二人なら、こういう一面があってもおかしくない、そう海は、二人のことを認識していた。
「海」
輝の言葉になにも返さない海に、雫は言う。
「輝さんに『行ってらっしゃい』って言わなきゃ」
「え……?」
求められたものが、海は理解出来なかった。
今まで空気のように、もしくは邪魔者扱いしかされてこなかった海。
当然『行ってらっしゃい』も『お帰り』も言われことがなかったし、海も言ったことがなかった。
だから自分がなにを求められたのか、海は理解出来なかったのだ。
輝はしゃがみ、海と視線の高さを合わせ言う。
「海。行ってきます」
「え……?あ、え……?」
視線を右へ左へ。戸惑いを隠せない海。
海はしたことがないが、引き取られた家の家族達がそうするところを見ていたので、ここまでされればどうすればいいのかはわかる。
わかるが、自分が『それ』を言う姿を想像出来なかったし、なにより恥ずかしかった。
そんな理由から、なかなか返事をすることが出来ない海。
輝も雫も、そんな海になにも言わず、彼の返事を待った。
十秒。二十秒と沈黙が時を刻み。そうして一分が過ぎようとした時だった。
「…………行って、らっしゃい……」
ぼそぼそと、あまり口を開かずに言った小さな挨拶。
不慣れな、物心ついて初めてする挨拶に、海の顔は真っ赤だった。
それを聞いて、見て、輝も雫も嬉しそうに笑った。
海を両手できつく抱きしめ、言う。
「行ってくるよ!My Son!」
「や、やめろ!抱きしめるな!暑苦しいんだよ!」
「あははっ!海は可愛いなあ!」
「やめろって、言ってるだろ!離せ馬鹿!」
「あははは!馬鹿だから海の言ってる意味がわからないよ」
「――っ!わかってるからそういう言葉が出てくるんだろうが!」
「あら。海は頭がいいわね」
「うん!将来がとても楽しみだよ!」
「あら。輝さんたら」
照れ、頬を赤くさせている海の言葉など気にしもせず、輝と雫は勝手に盛り上がる。
海を抱き上げ嬉しそうに笑う輝。
そんな輝を見て、口元に手を添え上品に笑う雫。
そんな話を聞かない夫婦に、ついに海はキレた。
「話を聞けって言ってるだろうが!この馬鹿共がー!」
自分の親に向けるようなものではない暴言。
けどそれが照れからくるものだと、輝も雫もきちんとわかっていた。
だから二人は怒らない。
むしろ愛息子が照れているという事実に喜びを感じていた。
――自分の意見が無視される。
今まで体験してきたこととなに一つ変わらないのに、どうしてもこんなに感じが違うのか、海は不思議で仕方なかった。
ただ挨拶をしただけなのに、なぜこんな暖かい気持ちになるのか、海は理解出来なかった。
今までと全てが違う家。大人。生活。
それらに戸惑いながら、警戒しながら、海の近藤家での新しい一日が、こうして始まった。