表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/1

第一章 君は、私を知らない



その日、五年ぶりに再会した幼なじみは、私の顔を見つめたまま、静かに首を傾げた。


「……誰?」


一瞬、何を言われたのか分からなかった。


病室の窓を打つ雨音も、廊下を行き交う看護師たちの足音も、遠くで鳴っている医療機器の電子音も、すべてが薄い膜の向こうへ消えていく。目の前にいる蒼の唇だけが、ひどく鮮明に見えた。


世界が壊れるときには、もっと大きな音がするものだと思っていた。空が裂け、地面が揺れ、誰もが振り返るほどの音を立てて、私の大切なものは崩れていくのだと。


けれど実際には、何の音もしなかった。


ただ、胸の奥に張りつめていた糸が、誰にも気づかれないまま切れた。


「蒼……?」


私はもう一度、彼の名前を呼んだ。


声にすれば、何かが元に戻るような気がした。これは悪い夢で、蒼が少し驚かせようとしているだけなのかもしれない。昔のように、私が泣きそうになるまで黙っていたあと、「冗談だよ」と笑うのかもしれない。


けれど蒼は笑わなかった。


白い病衣に包まれた身体をベッドの背もたれに預け、困惑した表情で私を見ている。額には小さな包帯が巻かれ、右腕にもいくつか擦り傷が残っていた。それでも、そこにいるのは間違いなく私の知っている蒼だった。


少し癖のある黒い髪。考え事をするとき、わずかに上がる右の眉。何か言いにくいことがあるとき、無意識に握りしめる左手の親指。


どれも昔と変わっていない。


「私だよ。美月」


自分の名前を口にするだけなのに、喉がひどく乾いていた。


「朝倉美月。家が隣で、小学校も中学校も一緒だった。毎朝、蒼が迎えに来てくれて……」


そこまで言ったところで、蒼の目がわずかに揺れた。


私は思わず一歩、ベッドへ近づいた。


「思い出した?」


期待を込めた声は、自分でも驚くほど幼く聞こえた。


蒼はしばらく私を見ていた。忘れてしまった記憶の底を探るように、瞳の奥へ意識を沈めている。その沈黙の間、私は息をすることさえ怖かった。


やがて蒼は、申し訳なさそうに視線を落とした。


「ごめん。本当に、分からない」


胸の中に、冷たい雨が降り始めた。


「美月ちゃん」


後ろから呼ばれ、私は振り返った。


蒼のお母さんが病室の入口に立っていた。昔より少し痩せた頬には疲労が浮かび、私の肩に触れた手はかすかに震えている。


「先生から聞いているでしょう。事故の影響で、蒼は高校時代の記憶をほとんど失っているの」


ほとんど。


その言葉に、私は縋りついた。


全部ではない。


何か一つくらいは、私につながるものが残っているかもしれない。


「小学校のことは覚えてる?」


私は蒼に尋ねた。


「青葉小学校。六年二組だった」


「中学校は?」


「桜ヶ丘中学。サッカー部に入ってた」


蒼は迷うことなく答えた。


この町で育ったことも、通っていた学校も、家族の名前も覚えている。子どもの頃に飼っていた犬の名前も、駅前にあった古い駄菓子屋も、夏祭りで必ず買っていたりんご飴のことも覚えていた。


なのに、そのどの思い出にもいるはずの私だけが、きれいに消えている。


「じゃあ、神社の裏にある桜の木は?」


私がそう尋ねると、蒼は少し考えてから頷いた。


「大きな木だろ。子どもの頃、よく遊びに行った」


「あの木の下に、箱を埋めたことは?」


「箱?」


「十歳の夏に、二人で埋めたの。二十歳になったら、一緒に開けようって約束した」


その瞬間、蒼の表情が変わった。


ほんのわずかだった。けれど、私は見逃さなかった。


彼の瞳の奥に、一筋の光が走ったように見えた。


「二人で……?」


「うん。古いお菓子の缶に、お互いへの手紙と、大切なものを入れたの。蒼は青いビー玉を入れて、私は桜の花びらを挟んだしおりを入れた」


話しながら、十歳の夏が鮮やかに蘇った。


強い日差しの下で鳴いていた蝉。土を掘る蒼の額を流れていた汗。手を汚しながら、秘密基地を作る子どものように笑っていた私たち。


箱を埋め終えたあと、蒼は小指を差し出した。


『二十歳になったら、ここで会おう』


『もし、離れ離れになっても?』


私が尋ねると、蒼は少し怒ったように眉を寄せた。


『離れたって関係ない。俺が絶対、美月を見つけるから』


あのときの声を、私は今でも覚えている。


蒼はベッドの上で目を閉じ、長い間黙っていた。私は彼の口から懐かしい言葉が出てくるのを待った。


箱のことを思い出した。


桜の木を覚えている。


あの約束を忘れていない。


そう言ってくれるだけでよかった。


けれど、蒼はゆっくりと首を振った。


「覚えてない」


その言葉は、鋭い刃物よりも静かに私を傷つけた。


私は笑おうとした。大丈夫だよ、と言わなければならないと思った。


蒼が悪いわけではない。


事故に遭いたくて遭ったわけではないし、私を忘れたくて忘れたわけでもない。責めてはいけない。困らせてはいけない。


頭では、すべて分かっていた。


けれど涙は、少しも分かってくれなかった。


「そっか」


ようやく絞り出した声は、自分のものではないように聞こえた。


「じゃあ、仕方ないね」


鞄の持ち手を強く握る。爪が手のひらに食い込む痛みに意識を集中させれば、泣かずにいられるような気がした。


「美月ちゃん、無理をしなくてもいいのよ」


蒼のお母さんの優しい声が、かえって胸に刺さった。


「大丈夫です。また来ます」


私は深く頭を下げた。


蒼を見ることはできなかった。


これ以上、彼の瞳を見つめていたら、本当に壊れてしまいそうだったからだ。


蒼の瞳は昔と同じ色をしている。夕暮れ前の海を閉じ込めたような、少し灰色がかった青。その目が笑うたび、私は何度も救われてきた。


けれど、今の彼の瞳の中に、私はもういなかった。


病室を出て扉を閉めた途端、身体から力が抜けた。


私は閉じた扉に背中を預け、そのまま廊下にしゃがみ込んだ。膝を抱え、声が漏れないように唇を噛んだ。


五年間、ずっと会いたかった。


蒼が突然この町からいなくなった日から、私は一度も彼を忘れたことがなかった。


高校二年の冬、蒼の家は何の前触れもなく空になった。朝、いつものように家を出ると、隣の家の前に大きな引っ越し業者のトラックが停まっていた。窓にはカーテンがなく、玄関先に置かれていた蒼の自転車も消えていた。


電話をかけてもつながらなかった。送ったメッセージに既読がつくこともなく、何通も書いた手紙は一度も返ってこなかった。


蒼のお母さんからは、「家の事情で遠くへ行くことになった」とだけ聞かされた。


何の事情だったのか。なぜ蒼は私に何も言わなかったのか。


答えのない疑問だけが残った。


友達には、もう忘れたほうがいいと言われた。五年も連絡がないのだから、蒼は新しい場所で新しい人生を始めているのだろう、と。


それでも私は待っていた。


いつか蒼がこの町へ戻ってきたら、最初に言う言葉まで決めていた。


「おかえり」


ただ、それだけでよかった。


どうして黙っていなくなったのか、問い詰めるつもりはなかった。手紙を返してくれなかったことを責めるつもりもなかった。


蒼が無事に帰ってきてくれたなら、それでよかった。


なのに、彼は帰ってきた。


私を忘れて。


制服の胸元に手を当てると、服の下に隠していた小さな鍵が指先に触れた。


細い銀色の鎖に通された、古びた鍵。


神社の桜の木の下に埋めた箱を開けるためのものだった。


蒼は自分の鍵を、高校に入った頃に失くしてしまった。それでも私が持っていれば大丈夫だと、彼は笑っていた。


『美月は物をなくさないからな』


『蒼がなくしすぎるだけでしょ』


『じゃあ、俺の分も持っててよ』


そんな何でもない会話まで、私は覚えている。


忘れたくても、忘れられない。


「嘘つき」


声にした途端、堪えていた涙が頬を伝った。


絶対に見つけると言ったのに。


離れても関係ないと言ったのに。


私だけが、あの夏の日に取り残されている。


そのとき、閉じた扉の向こうから、蒼の声が聞こえた。


廊下には誰もおらず、雨音も先ほどより弱くなっていたため、病室の中の会話がかすかに届いた。


「母さん」


「どうしたの?」


「さっきの子、本当に幼なじみなの?」


心臓が強く跳ねた。


私は立ち上がることもできず、扉の前で息を潜めた。


「ええ。あなたにとって、とても大切な子だったわ」


「大切な子……」


蒼はその言葉の意味を確かめるように繰り返した。


少しの沈黙が落ちた。


「でも、変なんだ」


「何が?」


「顔も、名前も思い出せない。話していた内容も、何一つ記憶にないのに」


蒼の声は、戸惑っていた。


「声を聞いたら、胸が苦しくなった」


私は銀色の鍵を強く握りしめた。


「苦しい?」


「ああ。息ができなくなるような感じじゃない。もっと……懐かしいのに、思い出せない感じで」


蒼は言葉を探していた。


そして、ゆっくりと続けた。


「まるで、ずっと探していた人に、やっと会えたみたいだった」


指の中で、鍵が小さく震えた。


雨音が遠ざかっていく。


失われた記憶の奥深くから、蒼が私を呼んでいる。そんな気がした。


記憶がなくても、心のどこかには私が残っているのかもしれない。


まだ、すべてを失ったわけではない。


私は制服の袖で涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。


蒼が私を忘れてしまったのなら、もう一度出会えばいい。


二人で過ごした日々が消えてしまったのなら、私が一つずつ伝えればいい。


春、学校へ向かう坂道に舞っていた桜。


夏、海辺で見上げた花火。


秋、帰り道に半分ずつ食べた肉まん。


冬、冷えた私の手を包んでくれた蒼の手の温度。


初めて名前を呼ばれた日も、初めて喧嘩をした日も、初めて好きだと気づいた夜も、私は全部覚えている。


何度忘れられても、私は蒼を見つける。


今度は、私の番だ。


私は病室の扉にそっと手を当てた。


「待ってるから」


扉の向こうには届かないほど、小さな声だった。


「蒼が思い出すまで、何度でも会いに来る。記憶の向こうで、ずっと待ってるから」


窓の外を見ると、いつの間にか雨がやんでいた。


厚い雲の切れ間から柔らかな光が差し込み、濡れた町並みを静かに照らしている。屋根や道路に残った雨粒がきらきらと輝き、まるで世界がもう一度、息を吹き返したように見えた。


私はその光景を見つめながら、胸元の鍵を握りしめた。


このときの私は、まだ知らなかった。


蒼が失ったものが、ただの記憶ではないことを。


五年前、彼が何も告げずにこの町を去った本当の理由を。


私たちが桜の木の下に埋めた箱の中に、二人の運命を変える秘密が眠っていることを。


そして蒼が事故に遭う直前まで、何度も私の名前を呼び続けていたことを。


すべてが始まったのは、五年前の冬だった。


けれど物語が再び動き出したのは、きっとこの日だ。


私を忘れた蒼と、蒼を忘れられなかった私が、もう一度出会ったこの日から。


第一章を最後までお読みいただき、ありがとうございます。

五年ぶりに再会した蒼は、美月のことだけを忘れていました。

覚えている側と、忘れてしまった側。

同じ思い出を持っていたはずの二人が、ここからどのように向き合っていくのか。そして、蒼が突然町を去った理由や、桜の木の下に埋められた箱には何が隠されているのか。

二人の止まっていた時間は、再会したこの日から、少しずつ動き始めます。

次章では、美月が再び蒼のもとを訪れます。しかし、蒼の記憶を取り戻したいと願う美月に対し、ある人物が思いがけない言葉を告げます。

この物語の続きを見届けていただけましたら幸いです。

感想や評価をいただけると、今後の執筆の大きな励みになります。

次章も、どうぞよろしくお願いいたします。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ