第一章 君は、私を知らない
その日、五年ぶりに再会した幼なじみは、私の顔を見つめたまま、静かに首を傾げた。
「……誰?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
病室の窓を打つ雨音も、廊下を行き交う看護師たちの足音も、遠くで鳴っている医療機器の電子音も、すべてが薄い膜の向こうへ消えていく。目の前にいる蒼の唇だけが、ひどく鮮明に見えた。
世界が壊れるときには、もっと大きな音がするものだと思っていた。空が裂け、地面が揺れ、誰もが振り返るほどの音を立てて、私の大切なものは崩れていくのだと。
けれど実際には、何の音もしなかった。
ただ、胸の奥に張りつめていた糸が、誰にも気づかれないまま切れた。
「蒼……?」
私はもう一度、彼の名前を呼んだ。
声にすれば、何かが元に戻るような気がした。これは悪い夢で、蒼が少し驚かせようとしているだけなのかもしれない。昔のように、私が泣きそうになるまで黙っていたあと、「冗談だよ」と笑うのかもしれない。
けれど蒼は笑わなかった。
白い病衣に包まれた身体をベッドの背もたれに預け、困惑した表情で私を見ている。額には小さな包帯が巻かれ、右腕にもいくつか擦り傷が残っていた。それでも、そこにいるのは間違いなく私の知っている蒼だった。
少し癖のある黒い髪。考え事をするとき、わずかに上がる右の眉。何か言いにくいことがあるとき、無意識に握りしめる左手の親指。
どれも昔と変わっていない。
「私だよ。美月」
自分の名前を口にするだけなのに、喉がひどく乾いていた。
「朝倉美月。家が隣で、小学校も中学校も一緒だった。毎朝、蒼が迎えに来てくれて……」
そこまで言ったところで、蒼の目がわずかに揺れた。
私は思わず一歩、ベッドへ近づいた。
「思い出した?」
期待を込めた声は、自分でも驚くほど幼く聞こえた。
蒼はしばらく私を見ていた。忘れてしまった記憶の底を探るように、瞳の奥へ意識を沈めている。その沈黙の間、私は息をすることさえ怖かった。
やがて蒼は、申し訳なさそうに視線を落とした。
「ごめん。本当に、分からない」
胸の中に、冷たい雨が降り始めた。
「美月ちゃん」
後ろから呼ばれ、私は振り返った。
蒼のお母さんが病室の入口に立っていた。昔より少し痩せた頬には疲労が浮かび、私の肩に触れた手はかすかに震えている。
「先生から聞いているでしょう。事故の影響で、蒼は高校時代の記憶をほとんど失っているの」
ほとんど。
その言葉に、私は縋りついた。
全部ではない。
何か一つくらいは、私につながるものが残っているかもしれない。
「小学校のことは覚えてる?」
私は蒼に尋ねた。
「青葉小学校。六年二組だった」
「中学校は?」
「桜ヶ丘中学。サッカー部に入ってた」
蒼は迷うことなく答えた。
この町で育ったことも、通っていた学校も、家族の名前も覚えている。子どもの頃に飼っていた犬の名前も、駅前にあった古い駄菓子屋も、夏祭りで必ず買っていたりんご飴のことも覚えていた。
なのに、そのどの思い出にもいるはずの私だけが、きれいに消えている。
「じゃあ、神社の裏にある桜の木は?」
私がそう尋ねると、蒼は少し考えてから頷いた。
「大きな木だろ。子どもの頃、よく遊びに行った」
「あの木の下に、箱を埋めたことは?」
「箱?」
「十歳の夏に、二人で埋めたの。二十歳になったら、一緒に開けようって約束した」
その瞬間、蒼の表情が変わった。
ほんのわずかだった。けれど、私は見逃さなかった。
彼の瞳の奥に、一筋の光が走ったように見えた。
「二人で……?」
「うん。古いお菓子の缶に、お互いへの手紙と、大切なものを入れたの。蒼は青いビー玉を入れて、私は桜の花びらを挟んだしおりを入れた」
話しながら、十歳の夏が鮮やかに蘇った。
強い日差しの下で鳴いていた蝉。土を掘る蒼の額を流れていた汗。手を汚しながら、秘密基地を作る子どものように笑っていた私たち。
箱を埋め終えたあと、蒼は小指を差し出した。
『二十歳になったら、ここで会おう』
『もし、離れ離れになっても?』
私が尋ねると、蒼は少し怒ったように眉を寄せた。
『離れたって関係ない。俺が絶対、美月を見つけるから』
あのときの声を、私は今でも覚えている。
蒼はベッドの上で目を閉じ、長い間黙っていた。私は彼の口から懐かしい言葉が出てくるのを待った。
箱のことを思い出した。
桜の木を覚えている。
あの約束を忘れていない。
そう言ってくれるだけでよかった。
けれど、蒼はゆっくりと首を振った。
「覚えてない」
その言葉は、鋭い刃物よりも静かに私を傷つけた。
私は笑おうとした。大丈夫だよ、と言わなければならないと思った。
蒼が悪いわけではない。
事故に遭いたくて遭ったわけではないし、私を忘れたくて忘れたわけでもない。責めてはいけない。困らせてはいけない。
頭では、すべて分かっていた。
けれど涙は、少しも分かってくれなかった。
「そっか」
ようやく絞り出した声は、自分のものではないように聞こえた。
「じゃあ、仕方ないね」
鞄の持ち手を強く握る。爪が手のひらに食い込む痛みに意識を集中させれば、泣かずにいられるような気がした。
「美月ちゃん、無理をしなくてもいいのよ」
蒼のお母さんの優しい声が、かえって胸に刺さった。
「大丈夫です。また来ます」
私は深く頭を下げた。
蒼を見ることはできなかった。
これ以上、彼の瞳を見つめていたら、本当に壊れてしまいそうだったからだ。
蒼の瞳は昔と同じ色をしている。夕暮れ前の海を閉じ込めたような、少し灰色がかった青。その目が笑うたび、私は何度も救われてきた。
けれど、今の彼の瞳の中に、私はもういなかった。
病室を出て扉を閉めた途端、身体から力が抜けた。
私は閉じた扉に背中を預け、そのまま廊下にしゃがみ込んだ。膝を抱え、声が漏れないように唇を噛んだ。
五年間、ずっと会いたかった。
蒼が突然この町からいなくなった日から、私は一度も彼を忘れたことがなかった。
高校二年の冬、蒼の家は何の前触れもなく空になった。朝、いつものように家を出ると、隣の家の前に大きな引っ越し業者のトラックが停まっていた。窓にはカーテンがなく、玄関先に置かれていた蒼の自転車も消えていた。
電話をかけてもつながらなかった。送ったメッセージに既読がつくこともなく、何通も書いた手紙は一度も返ってこなかった。
蒼のお母さんからは、「家の事情で遠くへ行くことになった」とだけ聞かされた。
何の事情だったのか。なぜ蒼は私に何も言わなかったのか。
答えのない疑問だけが残った。
友達には、もう忘れたほうがいいと言われた。五年も連絡がないのだから、蒼は新しい場所で新しい人生を始めているのだろう、と。
それでも私は待っていた。
いつか蒼がこの町へ戻ってきたら、最初に言う言葉まで決めていた。
「おかえり」
ただ、それだけでよかった。
どうして黙っていなくなったのか、問い詰めるつもりはなかった。手紙を返してくれなかったことを責めるつもりもなかった。
蒼が無事に帰ってきてくれたなら、それでよかった。
なのに、彼は帰ってきた。
私を忘れて。
制服の胸元に手を当てると、服の下に隠していた小さな鍵が指先に触れた。
細い銀色の鎖に通された、古びた鍵。
神社の桜の木の下に埋めた箱を開けるためのものだった。
蒼は自分の鍵を、高校に入った頃に失くしてしまった。それでも私が持っていれば大丈夫だと、彼は笑っていた。
『美月は物をなくさないからな』
『蒼がなくしすぎるだけでしょ』
『じゃあ、俺の分も持っててよ』
そんな何でもない会話まで、私は覚えている。
忘れたくても、忘れられない。
「嘘つき」
声にした途端、堪えていた涙が頬を伝った。
絶対に見つけると言ったのに。
離れても関係ないと言ったのに。
私だけが、あの夏の日に取り残されている。
そのとき、閉じた扉の向こうから、蒼の声が聞こえた。
廊下には誰もおらず、雨音も先ほどより弱くなっていたため、病室の中の会話がかすかに届いた。
「母さん」
「どうしたの?」
「さっきの子、本当に幼なじみなの?」
心臓が強く跳ねた。
私は立ち上がることもできず、扉の前で息を潜めた。
「ええ。あなたにとって、とても大切な子だったわ」
「大切な子……」
蒼はその言葉の意味を確かめるように繰り返した。
少しの沈黙が落ちた。
「でも、変なんだ」
「何が?」
「顔も、名前も思い出せない。話していた内容も、何一つ記憶にないのに」
蒼の声は、戸惑っていた。
「声を聞いたら、胸が苦しくなった」
私は銀色の鍵を強く握りしめた。
「苦しい?」
「ああ。息ができなくなるような感じじゃない。もっと……懐かしいのに、思い出せない感じで」
蒼は言葉を探していた。
そして、ゆっくりと続けた。
「まるで、ずっと探していた人に、やっと会えたみたいだった」
指の中で、鍵が小さく震えた。
雨音が遠ざかっていく。
失われた記憶の奥深くから、蒼が私を呼んでいる。そんな気がした。
記憶がなくても、心のどこかには私が残っているのかもしれない。
まだ、すべてを失ったわけではない。
私は制服の袖で涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
蒼が私を忘れてしまったのなら、もう一度出会えばいい。
二人で過ごした日々が消えてしまったのなら、私が一つずつ伝えればいい。
春、学校へ向かう坂道に舞っていた桜。
夏、海辺で見上げた花火。
秋、帰り道に半分ずつ食べた肉まん。
冬、冷えた私の手を包んでくれた蒼の手の温度。
初めて名前を呼ばれた日も、初めて喧嘩をした日も、初めて好きだと気づいた夜も、私は全部覚えている。
何度忘れられても、私は蒼を見つける。
今度は、私の番だ。
私は病室の扉にそっと手を当てた。
「待ってるから」
扉の向こうには届かないほど、小さな声だった。
「蒼が思い出すまで、何度でも会いに来る。記憶の向こうで、ずっと待ってるから」
窓の外を見ると、いつの間にか雨がやんでいた。
厚い雲の切れ間から柔らかな光が差し込み、濡れた町並みを静かに照らしている。屋根や道路に残った雨粒がきらきらと輝き、まるで世界がもう一度、息を吹き返したように見えた。
私はその光景を見つめながら、胸元の鍵を握りしめた。
このときの私は、まだ知らなかった。
蒼が失ったものが、ただの記憶ではないことを。
五年前、彼が何も告げずにこの町を去った本当の理由を。
私たちが桜の木の下に埋めた箱の中に、二人の運命を変える秘密が眠っていることを。
そして蒼が事故に遭う直前まで、何度も私の名前を呼び続けていたことを。
すべてが始まったのは、五年前の冬だった。
けれど物語が再び動き出したのは、きっとこの日だ。
私を忘れた蒼と、蒼を忘れられなかった私が、もう一度出会ったこの日から。
第一章を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
五年ぶりに再会した蒼は、美月のことだけを忘れていました。
覚えている側と、忘れてしまった側。
同じ思い出を持っていたはずの二人が、ここからどのように向き合っていくのか。そして、蒼が突然町を去った理由や、桜の木の下に埋められた箱には何が隠されているのか。
二人の止まっていた時間は、再会したこの日から、少しずつ動き始めます。
次章では、美月が再び蒼のもとを訪れます。しかし、蒼の記憶を取り戻したいと願う美月に対し、ある人物が思いがけない言葉を告げます。
この物語の続きを見届けていただけましたら幸いです。
感想や評価をいただけると、今後の執筆の大きな励みになります。
次章も、どうぞよろしくお願いいたします。




