普遍と檻
私は普通の人間である。或いは、普通のように振る舞っているだけなのかもしれないが、気弱に思われるかもしれないが、ともかく私は普通に生きている。
私の周りの人間もまた、普通の人間である。普通でない、狂った人間など、中々居ないものである。そのような人間は、きっと、私の知らない所ではありふれているのかも知れない。
今日も私は、電車に乗り込む。比較的田舎であるので、電車内は空いている。窓から見る景色は山ばかりである。
電車に乗る人間は、見る限り全員、暗く俯いている。しかし、これは普遍的なことである。毎日を、希望に溢れた表情でやり過ごすことなど、相当に精神が達観したものしかこなすことができないのであろう。
「どうして働くんだ!どうして働くんだ!」
電車というのは多くの人間が利用するものであるので、時々わけのわからないことを喚いている人間がいる。この中年は毎日この時間に乗っている。
毎朝の光景ではあるのだが、私はこれに慣れることが出来ない。この男の心理は分からない。ただ恐怖でも無い。一つ確かに言えることは、私にとって最も恐ろしく感じられるものは、この男でなく、周りの人間であるということである。周りの人間がいることで、私はこの男を直視できないでいた。
普段通り学校に着く。私はロッカーに重いかばんを何とか押し込み、授業を受ける。
学業は苦手ではないが、学校に行くのは私はとりわけ苦手であった。おそらくだが、私は縛り付けられるのが嫌いなのだ。社会に出て、もっと大きく羽ばたくのだ。そう自分に言い聞かせている。
最近、私は、なるべく周りの人間を見るようにしている。元来、私は他人の顔を見るのが苦手であった。周りのすべての人間が、鬼のような顔をしていると思っていた。しかし案外、他人の顔というものは普遍に溢れているものである。
しかしそれも、その人間が私に興味がない場合のみである。私と喋ろうとする者が稀に現れるのであるが、私はその人間に恐怖を感じてしまう。それも、人数が増えれば増えるたび恐怖は増してゆく。
当たり前なのだが、こんな自分に嫌気は指している。よって、なるべく目立たぬよう、石の下のナメクジのように、生きていくことを決心してきた。しかし、こんな私でも、学業に励み、親の支えを受け、生きているのだ。なるべく目立たぬよう、誰もがする服装に、誰もがする髪型に、誰もが発す言葉を扱っている。これは普通だ。私は普遍的な人間なのである。
私が周りの人間を見るようになって、思う事がある。周りの人間が、最も恐ろしく、豹変する時。それは、何か一つのものに、多くの人間が注目している時である。
まるで、群れで獲物を見つめるライオンのように、私は感じられるのである。私は寒気がする。どうしたら私は、このライオンどもに食い殺されずに済むか。それだけを考えて、私は日々を送っている。
今日も私は、電車に乗る。いつものように電車は空いていて、いつものように乗客は暗い顔をしている。
「どうして働くんだ!どうして働くんだ!」
私は、今日こそは、この中年を直視すると、決めていた。そうしないといけない気がしてやまないからである。
そこで、私は始めて気付いた。その男は、誰に向かっても話していない。どこか遠くを見つめて、喚き散らしている。
そして、周りの人間は、殆どはその男を無視している。驚いた表情をする者もいるようであるが、殆どの人間は見てすらいないようである。私は意外であった。周りの人間は、私のように、奇怪なものを目撃する目をしているとばかり思っていた。
私は安心した。何故かは分からないが、私はその事実に、ひどく落ち着きを覚えたのである。
普段通り学校に着く。しかしこの日は、いつもとは心持ちが違ったように覚えている。
今日も私は、なるべく周りの人間を見るようにした。普通通りの毎日である。目立たぬよう、気付かれぬように、時間が過ぎるのを待つ。しかしこの日、私は気付いた。
誰も、私のことなど気にかけない。気に留めない。私は路傍の石である。
今日も私は、電車に乗り込んでいる。この日の電車は静かであった。
周りの人間は、相変わらず、暗く俯いている。これはいつも通りの、普遍的な事柄である。
私は座席で考えていた。今日は居ないあの中年は、いつからああやって、電車の中で一人で喚くようになったのだろう。
窓の外を見る。毎日見る光景である。しかし、周りに座っている者たちは、いつからこの光景を、見なくなったのであろうか。
この日も学校に着く。かばんを押し込み、席に着く。
「あっ消しゴム落としちゃった。取ってくれない?」
いきなり話しかけてきたその男は、普段から声の大きい男である。私は手を伸ばし、消しゴムを手渡す。
「サンキュ」
やり取りはそれだけであった。
私は、ただそこにあるものである。普通であり、一般的であり、ありふれたものである。この声の大きい男は、私を何か特別に気にしたことは無い。
電車で喚いていたあの男は、あの電車に乗り慣れた者たちから見れば、ありふれたいつもの光景である。毎日の、普遍的な光景である。
然しながら、私とあの男には、決定的な違いがある。それは自由である。普遍的でありながらも、私には自由がない。籠に入れられた蟲のように、私は外の光景を見ながらも、外へ飛んで行くことは出来なかったのである。
私は今日も電車に乗り、学校へ赴き、また帰るを繰り返すのだろう。私は普通の人間である。普通に生きるのみである。
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