第九話 森の試練
朝の冷たさは、喉の奥だけを残してもう消えていた。訓練広場の砂は乾き、靴底で鳴る音が軽い。私は実剣を腰に差していた。刃は曇りがない。ノエラが前夜、式で微細な刃の欠けを滑らかに埋めてくれたからだ。
あの集中は、壊れた骨を繋ぐ医者のそれだ。私が力で削った分を、彼女は音もなく埋め戻す。その優しさは、本来なら戦いの外にあるはずなのに、彼女は迷わず戦いの中へ持ち込む。そうやって、私たちは少しずつ互いの領域を交換してきた。私は魔法の起動を学び、彼女は間合いの呼吸を憶えた。ロゼルは遠くから私たちの隙間を埋めるように、「緩衝材」としてよくしてくれた。
その朝、名を呼ばれた。エダン・フロスト教官。黒の長衣に、膝までの防護革。飾り気はなく、声は低い。白を嫌う者、という評判と、任務で死者を出すことを躊躇わないという噂。私の中で、この人は勝手に「白の眩しさに目を焼かれた人」だと思っていた。羨望が焼け焦げに変わると、こういう無表情になるのだろうと。そしてその焼け跡を、わざと見せつけてくる人間なのだと。
「外縁の影森に侵入する。アストラ班とイサリア班にわかれて行動する。私は指示のみ。死んでも驚くな。いいな」
誰も返事をしなかった。返事を促す目ではなかったからだ。私は息を整え、ノエラとロゼルの位置を確認する。ノエラは私の一歩後ろ、左。ロゼルは右外。三人の足幅が自然と揃う。
影森は学園の北側を縁取る、昼でも薄暗い丘陵の帯だ。木々が瘤のように絡み合い、苔が湿って、風は地面に這う。枝の屈曲が視界を裂いて、足場は柔らかいのに、踏み間違えると鋭い根が脛を撫でる。境界線に立ったとき、私はヴェルダ教官の声を思い出す——自分の動きで相手を動かす。私はうなずき、指先で鞘を叩いた。
最初の気配は、湿った土の下から立ち上がった。黒い背を丸めた獣。牙は短いが、脚が速い。二、三、四。ノエラの靴先が半歩下がる。空気が薄く撓んで、足元の落ち葉の重みだけが軽くなった。
式の薄膜が足元で揺れる。獣が飛び込む寸前、私は低く潜り、顎下に刃を滑らせた。温い抵抗が走り、血の匂いはすぐに湿った土へと溶けた。ロゼルの剣が、私の脇を掠めるように通って、もう一体の肩を割る。音が小さい。三人の呼吸が、戦いに向いているときの静けさを保った。
その後もいくつかの群れに遭遇したが、問題はなかった。私たちは互いの癖を知っている。ノエラは、相手の「次の一歩」の足場をずらす。私はそれを嗅ぎ取り、刃の角度を変える。ロゼルは斬るより押す。押されて崩れたものは、もう立てない。
アストラ班の生徒たちも、最初はぎこちなくとも順応していった。エダン教官はずっと後方、木の幹にもたれ、時折、短い言葉を投げるだけだった。
「声を上げるな。血を見ても止まるな。それだけで十分だ」
白の魔法剣士を嫌う者が言いそうな言葉ではなかった。美名や儀式を拒むだけでなく、彼は必要な言葉以外を切り捨てる。ヴェルダ教官の削り方が詩なら、エダンのそれは切断だった。
森がわずかに低くなり、湿地に変わる。水鏡の上に薄い皮膜が張って、踏み出すと、内側の泥が牙を立てる場所。アストラが手をかざし、進行方向にマーカーの粘土を投げた。沈む速度で深さを読む。良い判断だ、と私は思った。しかし、風が変わった。鉄と獣毛の混じった重い匂い。ノエラが肩で合図する。左。私は頷き、身を引いた。
出てきたのは、狼の形を借りた、何か別の獣。肩が広く、首の付け根が二重になっている。爪の先に、黒い膜が揺れている。式が縫い込まれた肉。古戦場の残滓が、ここで繁殖したのだ。群れは六。先頭の一体が、水面を傷つけないまま滑る。エダンの声が、背後で一度だけ鳴った。
「崩すな、分けろ」
私は前へ出る。ノエラが後ろで式を編む音を、空気で聴く。右側の地面が僅かに柔らかくなり、獣の脚が沈む。私は左に誘い、喉を狙う。硬い。刃が弾かれ、肩に重い衝撃が走る。すぐにロゼルの押しが入って、獣の側面が傾く。私は二度目の角度で肋を割った。血が少ない。ぬるい液体が刃を濡らし、手の中の重さが変わった。私は刃を一度だけ払う。
後方で、叫びが上がった。アストラ班の一人が、泥に膝を取られ、そのまま首に食いつかれる。アストラの式が間に合わない。エダンは動かない。彼はただ、数を数えるように視線を移した。
私は視界の端でそれを見て、喉の奥に小さく熱を感じた。いま助ければ、二人は助かる。いま助ければ——そう思ったときには、もう遅い距離だった。
胸の奥で何かが裂ける音がした。刃を選ぶ前に足が動くはずだったのに、今日は動かなかった。視界の端で沈んでいく姿を見ながら、私は背後の二人を思い浮かべた。助ければ、今度は彼らが沈むかもしれない――その計算が、私の足を縫い留めた。
私の正しさは、今、背後にいる二人のためだけに狭まっている。それが悔しいのか、怖いのか、自分でも分からない。
私は前を斬る。目の前の死角を残せば、ノエラを失う。ロゼルが私の背を、無言で守った。背中に、友達の体温が一瞬だけ映る。私は刃を押し込み、抜く。式が割れる音がする。獣が崩れ、泥が跳ねる。
二人目の叫び。別の生徒が脇腹を裂かれ、倒れる。名が呼ばれたが、水に落ちて消えた。エダンが低く言う。
「止まるな」
私は止まらない。止まれば、次に落ちるのは自分だ。ノエラの式が、私の足首を軽く撫でた。滑り。私はその滑りを利用して、踏み込みの角度を変え、三体目の顎を裂く。ロゼルの剣が、四体目の目を潰す。
自分の呼吸だけが、耳の奥で増幅されていく。五体目が逃げ、六体目が躊躇う。私たちは追わない。アストラが地に膝をつき、血に触れて名を呼ぶ。私は刃の血を拭う。
戦いはそれで終わった。仲間は二人が死んだ。森はすぐに静かになり、鳥の声が戻ることはなかった。私は死体の指に、泥が詰まっているのを見た。ノエラが短く息を吸い、吐いた。彼女の指先だけが震えていた。彼女は震えを隠そうとしない。隠せないものは、隠さないからだ。
それが彼女の強さでもあり、弱さでもあると私は思う。嘘を塗らない指先で剣を整えるように、自分の感情も整えずに出す。私はその正直さを羨ましいと思った。
エダンは前に出て、仲間の靴紐を結び直した。彼は祈らない。ただ、靴紐を結ぶ。結ばれたそれは、もう歩くことのない足を整える動作だった。
「生きて帰ることだけが正しさだ。それ以外は、美徳でも、罰でもない」
それが、彼の総括だった。私はその言葉に、初めて真正な反発を覚えた。白の魔法剣士が掲げる正しさは、刃の重さや構えの角度の中に宿るものだと思っている。それを「生きて帰ることだけ」と切り捨てられるのは、私にとって剣を抜く意味を半分奪われるのと同じだ。
彼は白を嫌う。栄誉を嫌う。今の彼が嫌っているのは、白そのものではなく「物語」かもしれない、と私は思った。
学園へ戻る道、ロゼルは何も言わなかった。ノエラは一度だけ私の袖を引いた。立ち止まる。彼女は私の手の甲をとって、式の薄い膜で小さな切り傷を閉じた。痛みはなかった。閉じられていく感覚だけが、指の骨に響いた。
「あなた、さっき、行こうとしたわね」
「助けに?」
「うん。あなたはそういうふうにできてる。わたしは、行けなかった」
「正しさの置き場所が違うから」
ノエラは頷いた。その頷きは、肯定でも否定でもない。観測者の頷きだ。私は深く息を吐き、影森の匂いを肺から追い出す。追い出し切れない匂いが、喉の奥に残った。
門をくぐる前、エダンが振り返った。彼は初めて、私をまっすぐ見る。
「イサリア。お前は白に向いている。だが、白はお前に向いていない」
言葉は短かった。怒りではなく、呪いでもない。ただの判断。私は反射的に言い返しそうになって、やめた。
シェルツ・エリファス。あの剣は美しかった。私を壊し、到達へ導く光だと信じた。それは今も揺らがない。だが、エダンの「白はお前に向いていない」は、私の胸に細い針を残した。嫉妬では説明できない痛み。白を嫌う理由が、別の層にあるのなら——私の剣が届くべき場所は、ほんの少し、輪郭を変えるのかもしれない。
夜、部屋で、私は刀を膝に置いた。ノエラから借りた練習帳の端に「重さを分散」「足場の位相ずらし」と走り書きがある。それを眺めていると、ロゼルがノックし、扉の隙間から声を落とした。
「……名前、覚えてるか」
「覚えてる」
私は二人の名を声に出さないまま、胸の奥で並べた。忘れたくない。物語に溶かしたくない。
ロゼルは、本来なら誰一人見捨てない男だ。以前、遅れた一年生を背負って丘を越えたことがある。彼の目はいつも周りを見て、置き去りにしないために動く。それでも今日、私の背を守ることを選んだ。それは見捨てたのではなく、私を落とさないための選択だったと分かっている。
助けられなかった重さは、きっと彼も同じだけ抱えている。その重さの下で立ち続けるのが、彼という人間だ。
私は目を閉じ、刃の重さを確かめる。生きて帰ることだけが正しさ。ならば、私はその正しさを、刃の中で定義し直す。助けに行ける距離を、次は縮める。そのために、まだ削れるものがある。
窓の外で、遠く雷の気配がした。音は鳴らない。空気だけがわずかに震え、肌に触れて、消える。私は鞘に刃をおさめ、灯りを落とした。