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第八話 残る熱

 木刀が横薙ぎに止まり、反動が腕から肩、背中へと波のように返ってくる。空気がぴしりと裂け、その震えが皮膚の内側にまで沈み込む。私の呼吸は喉の奥で熱を持ち、胸の奥まで脈打つ。汗が首筋を伝い、鎖骨を越えて服の内へ落ちた。ヴェルダ先生の眼差しはまだ私を射抜いている。その無言が、声をかけられるよりもずっと重く、ずっと甘い。


 ──削られている。削られ続けている。


 筋肉が悲鳴をあげるたびに、私の輪郭が研ぎ澄まされていく。痛みは罰ではなく、私をこの世界に繋ぎとめる鎖だ。


「終わり」


 木刀を肩に乗せたまま、ヴェルダ先生がこちらに歩み寄る。その視線が一瞬だけ私を通り越し、稽古場の端に立つノエラをとらえた。わずかに目を細め、彼女の呼吸の速さと頬の色を読み取ったようだった。


「あなた、見学しているだけじゃなかったわね」


 低く落とされた声に、ノエラが瞬きをする。


「次からはあなたも入りなさい。打ち込まれる感覚は、立って受けねばわからない」


 その口調は叱責ではなく、淡々とした諭し。けれど、その中に、私が味わった痛みを彼女にも刻もうとする意図があった。その一言と同時に木刀が降ろされ、私は膝に手をつき、喉の奥で短く声が漏れる。焼けつく空気を吸い込み、土の匂いを胸いっぱいに満たす。肺の奥まで溜めた熱を吐くのが惜しい。

 視線を横にやると、稽古場の端にノエラが立っていた。頬や制服の裾に砂埃をつけ、(ひたい)にかかる髪を乱したまま。その目が私をまっすぐにとらえた瞬間、胸の奥を、針の先で内側からなぞられるような感覚が走った。


 ──見られている。単なる興味じゃない。


 ほんのわずか、口角が上がっていた。形だけの笑みなのに、その奥にあるのは、私が打たれ、押さえつけられ、削られていく様を愉しむ色。彼女がその瞬間を待っていたのだと錯覚するほどの視線。


「本当に……容赦ないわね」


 表情を変えずに言う声が、どこか濡れた響きを帯びて耳に残る。見学していただけのはずなのに、息が浅くなっているのがわかった。


「これでも軽い方だよ」


 口の端に自然と笑みが浮かぶ。唇の内側には、噛んだときの砂と木の繊維の味がまだ残っている。その痕跡すらも、戦果の一部のように思えた。

 ノエラの視線が、私の肩から指先までゆっくりと移動する。まるで痣や擦り傷の位置を測っているみたいだった。そのあとで、低く、抑えた声が落ちる。


「……あなた、打たれるのが好きなんじゃないの?」


 挑発とも、からかいともつかない。けれど私には、刃の背で皮膚をなぞられるような感触が走った。否定する気は起きなかった。ただ肩で息をしながら、(ひたい)の汗を拭った。好きかどうかじゃない。必要なのだ。痛みと限界の向こうにしか、私の剣は立てない。


「どうだろうね」


 答える代わりに木刀を腰に戻す。足を擦る音が響き、稽古場の空気が締まる。

 ノエラの目はまだ私に向けられていた。そこには、私の答えよりも、これからまた痛みの中に立つ姿を見たいという光があった。


「行きましょう、約束の場所へ。汗が乾く前に」


 ノエラが促す。私は駆け足で彼女の横に並んで歩き出す。歩幅が自然に揃う。土の感触が足裏に残り、全身の奥で疲労がじわじわと広がる。その重さが、心地よくて仕方なかった。

 旧温室跡は、学園の敷地の端に沈むように建っていた。鉄骨はところどころ赤錆を帯び、ひび割れたガラスの隙間から、午後の光が細く差し込む。床にはかつての鉢植えの残骸が散らばり、土は乾ききっているのに、湿った匂いがまだ残っていて、空気が服と肌の間にまとわりつく。髪の先にも、かすかな湿気が指を這うように触れる。

 歩を進めるたび、靴底が砕けたタイルを踏み、わずかな音を立てる。その響きがやけに大きく感じられたのは、隣を歩くノエラに自分の歩幅や息遣いまで意識させられていたからかもしれない。


「ここなら、誰にも邪魔されない」


 ノエラはそう言いながら、窓際の陽だまりに立った。陽光に透ける髪は淡い銀灰色で、細い指先が空中に浮かぶ埃を払う。彼女の動きは、稽古場で私を見つめていたときの視線と同じ──相手を計測するような正確さを帯びている。


「まだ息が荒いわね。……でも、その方がいい。余計な力が抜けているから」


 近づいてくるノエラの足音が、砂を踏むたび柔らかく沈む。私の肩の高さで止まると、指先がわずかに動いた。空中に淡い光の線が描かれ、輪郭を持たない式が揺れた。


「剣は重さで届かせる。でも、魔法は軽さで潜り込むの。ほら、見てて」


 彼女の声は抑えられていたが、そこにある自信は隠そうとしていなかった。彼女の吐息を感じながら、その式がどう動くのかを目で追った。

 光がひときわ強くなり、足元の影が細く揺れる。瞬間、空気が私の頬を撫で、髪を持ち上げるほどの微細な衝撃が走った。それは打たれる痛みではなく、皮膚をなぞるような感触だった。けれど、なぜか胸の奥がざわめく。

 ノエラは私の反応を見逃さなかった。唇の端が、稽古場でのそれと同じ形にわずかに上がった。


「ほら……痛くなくても、動かせるでしょう?」


 耳元でそっと囁かれた息が、うなじの産毛を震わせる。反射的に短く息が漏れ、胸の奥が熱くなる。その熱を、私はなぜか剣で打たれたときと同じ場所で受け止めていた。

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