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第六話 おさげ髪の少女

 朝の光は、すでに柔らかさを帯びていた。中庭の影が芝を分断し、その縁に私はマットを敷いた。地面のぬくもりが、布越しにじんわりと背に広がる。ロゼルとは少し前に別れた。剣よりも議論を好む彼の舌は、時に刃よりも鋭い。あの口数が、時に剣よりも鋭く感じることがある。

 私は足を開き、ゆっくりと筋を伸ばしていく。股関節の奥でグリッと音がした。痛みではなく、伸びきった証のような感覚。呼吸を深く吸い込みながら、右脚を上げ、膝を伸ばし、肘でつま先を押さえる。筋が静かに軋むたび、身体の輪郭が明確になる。それが心地よかった。

 ここは通り庭と呼ばれている場所で、他の生徒たちも自由に使っている。エンフィリアには、時間割も強制も存在しない。自らの意思で、自らの到達点を選ぶ。そのための学び舎だ。誰もが、どの教官のもとに向かうかを自分で決める。だから、こうして昼下がりにマットの上で柔軟をしている者がいても、誰も咎めはしない。

 私は目を閉じていた。今日の予定を頭の隅で組み立てながら、二の腕に張りついた汗が芝の匂いと混ざっていくのを感じる。けれど、数歩近づいてくる気配で意識が浮上する。

 複数人。空気が微かに張り詰め、肌に触れる温度が変わった。静けさの裂け目に、しなやかな女声が落ちた。


「ここ、使わせてもらってもいいかしら? 今から魔法実技を始めるのだけれど、よかったらあなたもどう?」


 声には理が通っていた。だが、語尾の温度だけが予想より優しかった。私は素早く身体(からだ)を起こし、両手を背に組んで起立する。


「クレナ・イサリアです。ぜひ、ご指導お願いいたします」


 教官は目を細めた。そのまま顎を引いて微笑み、指先で横を示す。私は生徒たちの列のうしろへ移動した。数名が、何も言わず、ただ目で私の動きを追っていた。


 その教官の名は──メルヴェ・トゥレイン。


 長身で、研ぎ澄まされた線の美しさを持つ骨格。灰銀の髪は高く結い上げられ、無数の呪文式を記した黒のグローブを両手にはめている。所作には抑制された知性が滲む。声の奥には、冷間鍛造(れいかんたんぞう)のような決意が覗く。彼女は数式を話すと言われている魔法構築理論の教官だ。


「では、始めましょう」


 彼女はそう言うと、指先で空をなぞった。風もないのに空気が波打ち、空間にふわりと記号が立ち上がる。それは数式のような、回路のような、線と点で構成された記号の羅列。


 ──式。


 発動の瞬間、バチンと稲光が地を這う。芝が揺れ、乾いた匂いが辺りを満たしては、すぐに収まる。


「魔法とは、再編よ。この世にあるものを、記号の織り直しによって構造変換する。ただそれだけの話」


 彼女の言葉に、私はふと、かつて聞いた話を思い出す。


 ──この世界は、文字でできている。


 エンフィリアを創設した者が、あらゆる因果と現象の底に潜るうちにたどり着いた真理。すべての現象は言語で構築されている。式は、それを解読し、改ざんするための鍵に過ぎない。


「君たちが操る式には、癖が出る。心の構造がそのまま式の書き方に現れるから。それは美点にも欠点にもなり得るわ」


 生徒たちは無言で頷く。メルヴェ教官の指先が再び舞う。今度は水の気配が空気に浮かび、淡い結晶が生成される。複雑な立方体構造の中に、私の意識は吸い寄せられた。


 ──世界を操るのではない。世界の語彙に、触れること。


 その魔法観は、剣の思想とは根本から異質だった。けれど、私はそこに同じものを見出す。式も剣も、言葉を持たないまま、何かを伝えるための技術なのだと。

 生徒たちが次々に空中へ式を描きはじめる。皆、まだ未熟で、線は揺れ、記号は滲み、発動までに一拍遅れる。それでも教官──メルヴェ・トゥレインは一度として咎めない。目元のしわだけが淡く変化し、細やかな評価を積み重ねているのがわかる。

 私の番が来た。両指を浮かせる。呼吸を一度整え、空中に式の芯を探る。線を引く。点を繋げる。集中し、意識の端が世界の背骨に触れた感覚があった。魔法が構成され、稲光が一瞬、指先にまとわりついた。式が、かたちになろうとする、そのとき。


「ふぅん。そういう子なんだ」


 意図的に聞こえるように吐き出された声が、空気を斜めに裂いた。列の後方──教官の背後の影から歩み出てきたのは、浅黒い肌に夜色の髪を左右対称に結い上げた少女。濡れた羽のように繊細で、重さを持たない髪。肩から腕にかけては、焼け跡のような古い痕が淡く走っている。装飾を排した制服の袖口を乱雑にまくり、膝丈のブーツを踏み鳴らすたび、空気中の静電気がほんのわずかに震えた。指先に指輪もなければ、腕に巻きものもない。雷撃の扱いに余計な装飾など不要と知っている証だ。

 そのくせ、制服の左胸には異様なまでに緻密な文様刺繍が自作で縫いこまれている。近づくとわかる、アルファベットにも似た式言語の羅列。視線を落とせば、ブーツの縁にも小さく書き込みがあった。恐らく、彼女は自分の衣服すら魔導器として再構築している。


「剣の子が魔法に触れると、こうなるのね。……力づくで式を叩いて屈服させるってやつ?」


 彼女は、半ば呆れたように目を細めて笑う。その眼差しには嘲りよりも、どこか測るような好奇心が滲んでいた。まるで人間を標本のように見ている目だった。興味はあるが、情はない。私は彼女にとって、意識を持つ素材──ただの解析対象にすぎないのかもしれない。


「……あなた、名前なんだっけ?」


「クレナ・イサリア」


 答えると、彼女は「へえ」と頷いた。言葉にしては出さないが、まるで素材にタグを貼るような動きだった。


「聞いたことあるわ。ほら、白に拾われたくて震えてる子。……なんで震えてるのか、ずっと気になってたの。剣のせいか、それとも、もしかして──式に傷ついたから?」


 問いかけではなく、解析に近い語り口。それがどこか奇妙に滑らかで、私の中で(いか)りの引き金に指がかかる前に、別の感情が立ち上がっていた。


 ──私に、興味を持っている?


 脳髄の奥に、未知の温度がじわじわと昇ってくる。そんなもの、いままで一度も持たれたことがなかった。憎しみでも憧れでもない、ただの関心。それが一番厄介だと思った。彼女の目は、初めて見る式を前にした魔法使いのそれだった。


「わたしはノエラ・ゼディア。教えてあげる。魔法はね、世界と対話するものなの。対話が通じなければ、世界は黙って君を焼き尽くすだけ」


 そのとき、私の指先に残っていた微細な電流が空中ににじみ、細い火花を一筋散らした。ノエラは瞬きもせず、それを見つめ、興奮も嫌悪もないまま言った。


「……やっぱり、面白い式だわ。怒ってないのね、あなた。驚いた。普通は怒るところなのに。あなた、そういうふうにできてるんだ」


「ゼディア、生徒間の侮辱は式の乱れを生む。イサリア、君も内に秘めたる衝動を抑えなさい」


 二人とも、即座に「はい」と返した。私はノエラの眼差しから目をそらさず、もう一度、式をなぞる。さきほどよりも冷たく、鋭く。風のない中庭に、一条の光が横殴りに走った。ノエラの異様な観察に、奇妙な温度を感じる。この視線、この距離。この子は……私と同じ場所に沈んでいる。

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