第五話 打擲と崇拝
シャワーの水が背中を打つたび、世界が皮膚の奥へ削れていく。鉄と石鹸の匂いが混じり、蒸気が輪郭を溶かしていく。手足の節々が軋む。今日の稽古は、痛みと歓びの境界線をすこしだけ超えていた。痛みは証だ。私は確かに、あの人──ヴェルダ教官の眼の中にいた。剣の中に、映っていた。
濡れた髪を束ね、濡れたままの身体にシャツを通す。冷たさに肩が跳ねる。黒の制服は、肌を覆うというより、皮膚の一部として張りついている。着るたびに思う。この布は私を守っていない。私を定義しているだけ。
タオルで軽く髪を巻き、鏡の前に立つ。瞳が、思ったより深く沈んでいる。頬に汗が残っていた。ヴェルダの木刀が顎に触れた瞬間、私は快楽に似た何かに襲われた。ふざけている。私は真剣に強くなろうとしているのに。
更衣室を出る前に、深呼吸を一つ。重い扉を押すと、冷えた外気が肌に触れた。肩が自然とすぼまる。訓練所の壁に寄りかかって、ロゼルが立っていた。目が合いそうになって、彼が咄嗟に視線を外す。その不器用な仕草が、なぜか少しだけ心地よかった。
「まだ、だろ?」
手にしていた包みを私に差し出す。彼はたまに、こうして誰かの空腹を思い出す。器用なようでいて、それしかできない不器用さ。
「サンドイッチ、昼まで保つと思ったけど、ほら」
私は答えず、水筒の蓋を外す。口の中に残る金属の風味が、眠っていた感覚を呼び起こす。ロゼルのもとへ歩み寄ると、彼は気を遣うように数歩だけ後ずさった。……馬鹿正直なやつ。差し出されたパンを受け取る。指先が少しだけ触れたけれど、ロゼルはその一瞬に目を向けなかった。気づいていて、気づかないふりをする。それが彼のやさしさであり、臆病さでもある。
一口噛むと、冷たいトマトの酸味が舌の裏にしみて、喉の奥がうずいた。私は飢えていた。食べ物にも、会話にも、触れられるという感覚にも。訓練所の裏手へ回りこむ。湿り気を帯びた石壁に沿って歩く。足音はぬかるんだ地面に吸い込まれ、空はまぶしく、雲間から差す光が、剣のように地を裂いていた。
パンを頬張ったまま、ふと地を払うように一歩跳ねる。肩をまわし、脚をひねり、視線だけで線をなぞる。
──ヴェルダ教官の残像が、骨の奥に貼りついていた。
教官の身体は毒と詩で編まれていて、動くたびに軋むような快感を残す。私はそこに近づきたい。あの人のように、誰にも許されず、誰にも背中を預けず、それでも剣を振るう者に。
ロゼルはずっと黙って歩いている。ちらちらと、こちらを盗み見るようにして。それでも声をかけてはこない。私が食べ終えるのを待っているのだ。
講堂の前へ出たとき、空気が変わる。白の魔法剣士たちが立っていた。二人。氷を彫って形づくったような無表情。白銀に縫われた外套は、風のないこの場所で微かに揺れている。あれは防具でも衣装でもなく、「隔たり」の象徴だった。黒装の生徒は、あの講堂に立ち入ることすら許されていない。
私は一歩だけ、歩みを遅らせた。白と黒。境界線は、私の中にも確かにある。サンドイッチを最後まで口に運ぶと、ロゼルがようやく問いかけてきた。声は低く、小さく、音のない水音のようだった。
「……君は、白に行くのか?」
私は噛み終え、飲み込む。
「だとしたら?」
ロゼルの視線が揺れる。足元の草を蹴るようにして、わざと目を逸らす。
「知ってるよ。君、シェルツ様に会ってるだろ。講堂の裏で。……みんな知ってるよ」
名前が喉を焼く。シェルツ・エリファス。その人の剣筋は、今も夢のなかに現れては、触れた瞬間すべてを断ち切るような、氷のように澄んだ光を放つ。
ヴェルダ教官の剣は、私の肉体を震わせた。打たれるたびに正され、暴かれ、快楽と痛覚の境界が曖昧になる。教官の木刀は、私の「未熟」を一撃ずつ刻み込む。あの人の剣は、罰であり、教育。私の渇きを知っていた。
だが、シェルツの剣は神話だった。美しさを痛みの媒介としてではなく、ただ構えただけで空気を変える沈黙の象徴として纏っていた。
ヴェルダには「打たれたい」と願ったが、シェルツには「壊されたい」と心が動いた。あの剣が私を裂くなら、それは滅びではなく、到達になる。そう確信できた。
焦がれる──シェルツの一閃を目にしたとき、それを初めて知った。焦りでもなく、憧れでもない。たどり着けるはずもない頂に向かって、靴の紐を結び直すような、愚直で滑稽なまでの執着。その背中が遠すぎるほどに、私は歩きたくなる。
あの場所へ。たどり着きたい。ただ、剣を届かせたい。
「剣が届けば、ね」
「違うよ。……白に必要なのは、上手さじゃない。あいつらは……孤独な子を連れていくんだ。誰にも馴染めなかったやつを。誰にも縋れなかったやつを。改造して、変えてしまう」
「私は、孤独なの?」
私は問い返す。これは怒りではない。確認だ。彼が私をどこまで見ているのか、それを知るための。
「そうだよ。……君は、誰も寄せつけない。あえて、そうしてる」
私は視線を落とす。まぶたの奥に蘇るのは、訓練場で打ちつけられた冷水の痛み。痛みも、沈黙も、私には心地いい。傷つくのではなく、削れていく感覚。それが好きだと認めれば楽なのに。ロゼルの声は、そんな私の奥に届いてくる。
「君は、深いところにいる。僕らよりずっと下の方に沈んでる。……でも、そんな君でも、手を伸ばせば届くかもしれないって、思ってるやつがいる。だから、僕は言っておきたかった」
彼は正面を見つめたまま言った。
「孤独ってのは、飼い慣らされたら終わりだよ」
その言葉が、胸にひびいた。私は息を呑み、白装束の二人を見た。彼らは彫像のように、動かない。呼吸もない。目すら合わない。まるで、生の輪郭すら失った模造品。
それでも、私の目はその先を探していた。シェルツ・エリファス。唯一、私が美しいと思った剣。唯一、私が殺されたいと願った背中。
──あの場所へ、剣を届かせたい。
それだけが、私という存在を脈打たせていた。