第四十二話 舞台の外の夢
夜の名残が屋根にまとわりつき、白い朝靄がゆるやかに街を洗っていた。鐘はまだ鳴らない。鐘楼は、遠景に沈黙し、石畳には昨夜の雨が残る。滴が光の粒を連ね、濡れた匂いと古い煙、煮詰まった酒の残滓が入り交じり、街はなお夜の余韻を抱いていた。
キャバレーの裏口から、二つの影が現れる。クレナとノエラ。舞台化粧を洗い流し、素顔を風にさらした彼女たちは、夜の華やぎから一転して、ただの旅人のように路地を歩いていた。身に纏うのは黒を基調とした簡素なパンツスタイル。革紐で締めた上衣は体に馴染み、腰には小さな鞄を吊るしている。動きやすさを最優先にした装いは、かつて剣士として荒野を渡り歩いた頃の自分を思い出させる。
「やっぱり黒だと落ち着くわね」
クレナが小さく笑い、軽やかにステップする。ノエラも頷き、肩の力を抜いた。二人の目の前には、目を覚ましたばかりのスラムが広がっている。夜露で湿った石畳。歪んだ木造家屋。壁には雨漏りの痕が黒い筋となって走り、煙突からは細い煙がちらほらと立ちのぼる。煮炊きの匂いが朝の空気に溶けていた。
路地の奥では鍋をかき回す金属音が響き、酸っぱい匂いが風に乗る。布を干す女は無言で二人を見送り、洗濯桶の中で揺れる布切れからは赤茶の水が滴り落ちていた。裸足の少年は瓶のかけらを拾い集める。足裏は硬く、血がにじんでも気にとめない。その隣では、年端もいかぬ少女が石畳に指で線をなぞっていた。文字にはならない線――けれども、その真剣な顔は学びを渇望していた。ノエラは足を止めかけたが、すぐに首を振って歩を進める。子供たちが裸足で駆け出し、泥に跳ねられた足跡を次々に残していった。
バラック小屋は歪んだ背骨のように傾き、屋根からは布切れが垂れている。木板の隙間からは煙がこぼれ、廃材を積んだ壁には人が寄りかかっていた。ぼろ布に包まれた乳児をあやす女。道端に座り込む老人。さらに奥では裸足の子供たちが排水の溜まりに飛び込み、泥にまみれながら笑い声を上げていた。その笑いは軽やかだが、空気の奥には重たい響きを残す。ノエラは小さく息をもらした。
「ねぇ、クレナ。こんな夢みたいな仕事も、いつか終わるのかな」
クレナは足を止めず、濡れた路地に視線を落としたまま答える。
「夢は消えないわ。幕の向こうに、また続きがある」
その声は抑揚を抑えた舞台の声。夜に観客を操った声が、今は冷えた朝の石畳にだけ響いていた。ふいに、五、六人の子供たちが駆け寄ってきた。泥に染まった顔で、目だけが澄んでいる。小さな声が次々に上がる。
「お姉ちゃんたち、あの大きい建物で働いてる人?」
「兵隊さんみたいでカッコいい服!」
「お人形さんよりも、きれいな顔……」
ひときわ小さな少女が、泥にまみれた人形を抱きながら言った。
「わたしもね、大きくなったらお姉ちゃんみたいにきれいになりたい!」
クレナは膝を折り、少女と目線を合わせる。濡れた睫毛、泥の跡を残す頬。少女の瞳は曇りひとつなく、未来を真っすぐに見上げている。
「大きくなったら……きっと、なれるわ。いいえ、なるのよ。約束して」
その言葉に、少女は顔を赤くして頷いた。笑顔は歯抜けで、けれども宝石よりも強く輝いていた。クレナの背後で、ノエラが腕を組んで呆れたように言う。
「ちょっと……何考えてるのよ。子供にそんな夢を見せて」
「私たちも、そうだったでしょ?」
クレナは静かに答えた。
「舞台がどこにあるかは関係ない。生きているなら、立てるはず」
ノエラは一瞬口を噤んだ。だが次の瞬間には肩をすくめ、子供たちに笑顔を向ける。
「まったく……あなたって人は」
そのやり取りを聞いていた別の男の子が、急に手を挙げた。
「俺、行く!」
少女も負けじと声を上げる。
「わたしも!」
だが周囲の大人たちの顔は硬いままだった。痩せた母親が子の腕を掴み、かすれ声でつぶやく。
「夢なんて食べられないよ……」
近くの老人も唾を吐き捨て、「夢など無駄だ」と低く呟いた。重たい言葉が路地に沈む。クレナはその闇を正面から受けとめ、微笑を返した。
「夢は無駄じゃない。ただ舞台を変えるだけ。だから、見ていて」
その一言で子供たちの瞳が再び光を宿す。ひとりの少年が首をかしげて見上げた。
「……お姉ちゃん、剣士だったの?」
クレナは目を細めて頷く。
「そうよ。でもね、剣より――笑顔の方が人を動かすの」
子供たちは目を丸くし、次いで笑顔を弾けさせた。子供たちの中で、一人の少年が小声で呟いた。
「昨日まで一緒だった弟は、今朝、市場に連れていかれたんだ」
それは売られていったことを意味していた。彼の声は涙を拒み、ただ事実を述べる冷たさを帯びていた。クレナはその横顔を見下ろし、ほんのわずかに拳を握った。未来を選ぶとは、こうした声を背負うことでもあるのだ。周囲の子供たちは不安そうに顔を見合わせる。行きたい気持ちと、ここに残るしかないという諦め。その狭間で揺れる小さな肩。だが、元気な声が均衡を破った。ノエラは大げさにため息をつき、軽口を投げる。
「仕方ないわね。……ボスに手配してもらいましょ。あの人、子供嫌いじゃないもの」
笑いながらも、彼女の手は真剣に子供の手を取っていた。その掌の温かさに、子供の指は驚いたように震え、やがて力強く握り返した。しかし、別の子供が不安げに口を開いた。
「……でも、ご飯はあるの? 寝るところは?」
ノエラはわざと大げさに肩をすくめ、冗談めかして答えた。
「うちのご飯はね、薄いスープと固いパン。ベッドはきしむし、枕は石みたいよ」
一瞬、子供たちは顔を曇らせた。だが次にノエラが片目をつむり、「でも、笑うのはタダ。そこだけは最高でしょ?」と付け加えると、子供たちは声を揃えて笑った。笑い声は、路地の煤を振り払うように高く響いた。その響きに、ノエラが小声で囁いた。
「ねぇ……子供を連れて行くのはいいけど、黒鳥のことはどうするの?」
クレナは歩きながら、昨日の魔導士団の青年の言葉を思い出す。
――黒い剣士団。あれが、消えたらしい。
クレナはまっすぐ前を見据え、少しだけ笑った。
「過去を引きずるよりも、未来のことしか考えないって、今決めたの」
ノエラは半ば呆れ、半ば安堵したように息を吐いた。胸の奥にはなお黒鳥の影が巣くっている。だが隣を歩くクレナの足取りは揺らがず、まるで鐘の振り子のように一定だった。その背を見つめるうちに、恐怖の輪郭は薄れ、代わりに小さな希望が芽生える。
「無茶ばかり言うんだから……でも、そこが好きよ」
クレナは小さな手を強く握り返す。未来は消えない。繋ぐ意思さえあれば。朝日はゆっくりと街を照らし始めた。崩れかけた屋根も、濡れた壁も、剥がれた看板も、すべて同じ光に包まれる。ふと風が止み、鐘楼が黒い影を落とした。街は耳を澄ませ、次に鳴る一撃を待つ観客のように静まり返る。その影は、希望と恐怖の両方を孕んでいた。ノエラが笑いながら言う。
「ほんと、こんなところで夢を拾うなんてね」
クレナはその横顔に微笑む。
「夢はね、捨てられても、拾えば生き返るのよ」
子供たちの足音が、石畳に弾む。濡れた水溜りに飛び込み、光を砕きながら進んでいく。クレナとノエラはその後ろ姿を見守り、やがて肩を並べて歩き出した。
――夢は終わらない。ただ舞台を変えるだけ。
今日からの舞台は、未来。鐘がまだ鳴らぬうちに、街は静かに次の幕を迎えていた。
— 完 —




