第四十一話 外套の下、火は青く
夜は熟し、店はいつもの体温で呼吸している。赤い絨毯を滑る靴音、氷の割れる高い音、笑いが泡立ち、天井の燭台でほどける。私は卓をひとつ回し、常連の紳士に「ごきげんよう」を置いてゆく。
「今宵もお帽子が凛々しくてよ。月よりお似合いだわ」
「はは、君にそう言われると月が嫉妬する」
「嫉妬なさる前に、月に一枚、ここに置いて行って?」
金貨が指先で鳴り、卓へ柔らかく落ちた。ノエラは隣の卓で、いつもの調子だ。
「グラスは私が持ちます。あなたは――話を、どうぞ。……ただし長くなるほどおかわりが必要ですよ?」
「こりゃ参った、財布が軽くなる」
「軽いのは財布だけにして。舌の方は重めで」
笑いが輪になってひろがる。まだ率直すぎる。だがそれはもう粗さではない。磨かれた素直――この店でいちばん高くつく資質だ。私は目配せひとつでテンポを揃える。ノエラも小さく顎を引き、次の卓へと滲むように移った。
そのとき、外扉が一度だけ短く鳴った。夜風がひとかたまりで流れ込む。三つの影が、外套に夜を抱いたまま敷居をまたぐ。濡れた革の匂い。歩幅は同じ、足音も同じ、呼吸だけが微妙にずれる――軍の歩き方だ。マダムが視線だけで場を整える。私は最短の笑みを携えて入口へ向かった。
「ようこそ、鐘楼へ。外套は夜向き――ここでは、肩の月をお脱ぎください」
言葉の着地に合わせて、三人は外套を解いた。内側から現れた黒――深い藍に金の縫い取り、肩章は獣の紋、襟元には細い刻印。布の落ち方に躾がある。袖口の真円の金具が、ふとした角度で符の光を返す。
――帝国魔導士団。
胸の奥で、ひとつ呼吸が空転する。仮面は崩さない。私は一歩近づき、舞台の声で言う。
「舞台の半影、四号室がよろしければ。差し支えなければ、相方と私が同席いたします」
中央の男が薄く笑い、外套を腕に掛けたまま頷く。隣の女は、白金の髪を襟足で編み上げ、瞳は灰。三人目の青年は、指先で無意識に何かのリズムを刻んでいる――兵站の符、あるいは点呼の癖。半個室。短い幕が揺れ、灯りは低い。私は片手でカーテンを押さえ、もう片手で客椅子を引く。ノエラは笑みを薄くして水を置いた。
「まずは喉を潤して。言葉はあとから」
「ご親切に」
白金の女が、声だけで笑う。
「こちらの作法に通じていらっしゃる」
「舞台の作法は戦場と似ていますの。順序が命取りになること、よく存じておりますから」
ノエラの靴先が、膝にそっと触れる。私は笑みの角度を一枚だけ落とした。
「では、ひとつゲームを」
青年が指先でグラスの縁をはじく。音がひとつ、輪になって広がる。
「私たちの素性を、三つの質問で当ててみてください。外したぶんは――今夜のボトルでお支払いを」
「まあ、素敵。挑発には弱いの」
私は脚を組み替え、ノエラに目を投げる。彼女は肩をすくめ、唇だけで笑った。
「第一問」
私は卓上のランプに視線を落とす。
「あなた方の靴、踵が同じ高さ。歩幅も同じ。ただし呼吸は少し乱れる方がいらっしゃる――長旅の帰りですね?」
青年が目だけで女を見る。女は水をひと口、喉の筋肉が動く。
「ご名答。では次は?」
「第二問」
私はナプキンを開き、そこに折り目を三本つける。
「この折りで兵幕の畳み方ができますわ。あなた方の外套の裏地――縫い目が同じ」
白金の女の口元が、わずかにほどけた。
「――続けて」
「第三問」
ノエラが割って入る。
「あなたの指、右手の中指と薬指の間、火傷の古い跡。火を手で扱う人。だから、魔導士団」
青年の指が止まる。中央の男は、肩の息を笑いに変える。
「降参だ。よく見ている」
彼が懐から小さな金属を取り出す。紋章。翼と書板――帝国魔導士団、調査課。ノエラが目を丸くし、私の脛をもう一度蹴った。痛い。でも仮面は崩さない。
「北をご存じ?」
私は氷の音を立てずに問う。
「銀樹の噂が、こちらまで」
「噂は、白いまま流れてきます」
白金の女が視線を上げる。
「枝は歌い、月は落ち、森は人を返さない――そんな歌」
「お伽噺ですね」
ノエラはすぐに切って捨てる。
「神さまがいるなら、東のアンデッドはもう片付いてる。違う?」
青年が笑った。
「片付くなら、私たちの仕事は静かになる」
「それはそれで、酒場は困りますわ」
私は軽く肩をすくめる。
「物語が減ると、酒も薄まりますから」
「あなたは信じる?」
女が私を射抜く。
「銀樹の聖域を」
喉の奥で言葉がひとつ回る。私はそれを飲み込んで、舞台の声に置き換えた。
「夢を見るのは、女の特権ですもの。けれど――夢の入口に番人がいるのも、よく知っております」
ノエラが肘で私をつつく。ぼかしすぎ。私は目だけで『あなたは真っ直ぐすぎるの』と返す。
会話は踊る。三人は名を明かさない。代わりに癖が名刺になる。中央の男はグラスの脚を親指で撫でる――決裁の癖。現場より机に近い時間が長い。青年は指先に一瞬、火を遊ばせる――無意識。灯りに近づけずに消した。女は笑うたびに肩章が鳴る――重さを忘れない。肩章には微細な傷、剣ではなく鞄の金具に擦れたもの。旅と記録の人。
「北の道は、雪だけが敵ではない」
男がぼそりと言う。
「道標が嘘をつく」
「東の道標は?」
ノエラがすかさず乗る。
「アンデッドの方がよっぽど親切じゃない? 放っておくとこっちに来るし」
「だから柵を作る。火を置く。祈る」
青年が指で空中に円を描く。炎の輪が、ほんの針先だけ灯って、すぐに消えた。私とノエラは、同時に笑う――何も見なかった、の合図。
「祈りは効く?」
ノエラが挑発をひとさじ。
「あなたたちの祈りは、現金より効き目があるの?」
「現金は、だいたい神の次に強い」
白金の女が即答して、わずかに唇を曲げた。ノエラが「好き」と小さく言う。彼女はこういう女を嫌いになれない。
「そういえば」
青年が軽く身を乗り出した。
「黒い剣士団――あれが、消えたらしい」
卓の影が濃くなる。私は氷を音のしない速さで回した。
「理由は?」
声が上擦らないよう、音程をひとつ下げる。
「同士討ち。自滅。噂はいつも饒舌だ」
彼はナプキンの端で指を拭う。
「敵は敵のまま死ぬのが美しい――誰かの言葉だ」
「美しいかどうかは、置いておきましょう」
私は笑む。
「遺体を運ぶ靴は、泥に沈むばかりですもの」
白金の女が私の横顔を見た。視線が薄く触れる。見ている。ノエラはすぐに空気を跳ね上げる。
「噂話に金は払えないよ。新しい話はないの? デーモンとか、エルフとか」
「見たことがある、と言う人もいる」
男がグラスを置いた。丁寧に、音を立てず。
「白い枝の下、月の落ちる穴。そこには――」
「そこには?」
ノエラが身を乗り出す。
「案内人が立つ。人ではない。けれど、人の手で金を受け取る」
私の喉がひとつ、空を切った。ノエラは肩をすくめる。
「やっぱりメルヘンじゃない」
「メルヘンは、税がかからない」
白金の女が立ち上がる。マントではなく、薄いショールを肩に落とした。
「いい夜でした」
「お見送りは不要?」
私は立ち上がる。笑みは、舞台のもの。
「不用。道は知っている」
男が外套を腕に掛ける。去り際、黒い小片が指から滑り、卓に乾いた音を残す。封蝋――割れた印章の欠片。翼。ノエラが手を伸ばしかけ、私が先に拾う。笑顔のまま、掌で反転させてポケットに落とした。
「お忘れ物。……預かっておきますわ」
三人は何も言わない。幕がまた、短く揺れた。閉店前。灯りがひとつ、またひとつと落ち、店は夢の抜け殻みたいに静かになる。控え室。ベッドに背を投げ、私は靴を脱いだ。ノエラが隣で髪をほどき、枕に頬を押しつける。
「ねぇ、さっきの三人。怖かった」
「楽しそうに見えたけど」
「楽しかったよ。怖くて、楽しい。……私の悪い癖」
私は笑って、彼女の額に指で小さな円を書く。火傷の跡なんて残したくない。ポケットから欠片を取り出す。割れた封蝋。黒い翼。
「黒烏?」
ノエラが目を細める。
「……似てる。でも、ただの鳥かも」
「鳥は空で羽ばたくもの――」
私は欠片を掌で閉じる。
「けれど、この黒は机の上でも飛ぶ」
「詩人ぶらないで」
ノエラは笑って、私の肩に顔を寄せる。
「神さまがいるなら、アンデッドは全部寝かせてくれる。いないなら、私が寝かす。……それでいいでしょ?」
「ええ」
私は灯りを片方だけ落とす。部屋は半分だけ夜になる。
「もし、それでも本当にいるなら――森の奥にも、机の奥にも」
「じゃあ、明日は机の方から探そう」
ノエラが欠片をつつく。
「マダム経由で帝国の印章台帳。ミレイユにも」
名を口にした瞬間、胸の中で何かがきしんだ。ミレイユ――。監査局。
「続きは、明日」
ノエラが毛布にもぐり、私の腕に脚を絡める。
「ね?」
「ええ。明日」
私は彼女の髪に口づける。呼吸が同じリズムに落ち着く――仮面のないリズム。外で風が一度だけ扉を叩く。夜の声。私は目を閉じた。欠片は掌で、冷たい翼のまま。




