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星の織りなす物語 COCYTUS  作者: 白絹 羨
第五章

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第四十一話 外套の下、火は青く

 夜は熟し、(みせ)はいつもの体温で呼吸している。赤い絨毯を滑る靴音、氷の割れる高い音、笑いが泡立ち、天井の燭台でほどける。私は卓をひとつ回し、常連の紳士に「ごきげんよう」を置いてゆく。


「今宵もお帽子が凛々しくてよ。月よりお似合いだわ」


「はは、君にそう言われると月が嫉妬する」


「嫉妬なさる前に、月に一枚、ここに置いて行って?」


 金貨が指先で鳴り、卓へ柔らかく落ちた。ノエラは隣の卓で、いつもの調子だ。


「グラスは私が持ちます。あなたは――話を、どうぞ。……ただし長くなるほどおかわりが必要ですよ?」


「こりゃ参った、財布が軽くなる」


「軽いのは財布だけにして。舌の方は(おも)めで」


 笑いが輪になってひろがる。まだ率直すぎる。だがそれはもう粗さではない。磨かれた素直――この店でいちばん高くつく資質だ。私は目配せひとつでテンポを揃える。ノエラも小さく顎を引き、次の卓へと滲むように移った。

 そのとき、外扉が一度だけ短く鳴った。夜風(よかぜ)がひとかたまりで流れ込む。三つの影が、外套に夜を抱いたまま敷居をまたぐ。濡れた革の匂い。歩幅は同じ、足音も同じ、呼吸だけが微妙にずれる――軍の歩き方だ。マダムが視線だけで場を整える。私は最短の笑みを携えて入口へ向かった。


「ようこそ、鐘楼(ときのとう)へ。外套は夜向き――ここでは、肩の月をお脱ぎください」


 言葉の着地に合わせて、三人は外套を解いた。内側から現れた黒――深い藍に(きん)の縫い取り、肩章は獣の紋、襟元には細い刻印。布の落ち方に躾がある。袖口の真円の金具が、ふとした角度で符の光を返す。


 ――帝国魔導士団。


 胸の奥で、ひとつ呼吸が空転する。仮面は崩さない。私は一歩近づき、舞台の声で言う。


「舞台の半影、四号室がよろしければ。差し支えなければ、相方と私が同席いたします」


 中央の男が薄く笑い、外套を腕に掛けたまま頷く。隣の女は、白金の髪を襟足で編み上げ、瞳は灰。三人目の青年は、指先で無意識に何かのリズムを刻んでいる――兵站の符、あるいは点呼の癖。半個室。短い幕が揺れ、灯りは低い。私は片手でカーテンを押さえ、もう片手で客椅子を引く。ノエラは笑みを薄くして水を置いた。


「まずは喉を潤して。言葉はあとから」


「ご親切に」


 白金の女が、声だけで笑う。


「こちらの作法に通じていらっしゃる」


「舞台の作法は戦場と似ていますの。順序が命取りになること、よく存じておりますから」


 ノエラの靴先が、膝にそっと触れる。私は笑みの角度を一枚だけ落とした。


「では、ひとつゲームを」


 青年が指先でグラスの(ふち)をはじく。音がひとつ、輪になって広がる。


「私たちの素性を、三つの質問で当ててみてください。外したぶんは――今夜のボトルでお支払いを」


「まあ、素敵。挑発には弱いの」


 私は脚を組み替え、ノエラに目を投げる。彼女は肩をすくめ、唇だけで笑った。


「第一問」


 私は卓上のランプに視線を落とす。


「あなた方の靴、踵が同じ高さ。歩幅も同じ。ただし呼吸は少し乱れる方がいらっしゃる――長旅の帰りですね?」


 青年が目だけで女を見る。女は水をひと口、喉の筋肉が動く。


「ご名答。では次は?」


「第二問」


 私はナプキンを開き、そこに折り目を三本つける。


「この折りで兵幕の畳み方ができますわ。あなた方の外套の裏地――縫い目が同じ」


 白金の女の口元が、わずかにほどけた。


「――続けて」


「第三問」


 ノエラが割って入る。


「あなたの指、右手の中指と薬指の間、火傷の古い跡。火を手で扱う人。だから、魔導士団」


 青年の指が止まる。中央の男は、肩の息を笑いに変える。


「降参だ。よく見ている」


 彼が懐から小さな金属を取り出す。紋章。翼と書板――帝国魔導士団、調査課。ノエラが目を丸くし、私の脛をもう一度蹴った。痛い。でも仮面は崩さない。


「北をご存じ?」


 私は氷の音を立てずに問う。


「銀樹の噂が、こちらまで」


「噂は、白いまま流れてきます」


 白金の女が視線を上げる。


「枝は歌い、月は落ち、森は人を返さない――そんな歌」


「お伽噺ですね」


 ノエラはすぐに切って捨てる。


「神さまがいるなら、東のアンデッドはもう片付いてる。違う?」


 青年が笑った。


「片付くなら、私たちの仕事は静かになる」


「それはそれで、酒場は困りますわ」


 私は軽く肩をすくめる。


「物語が減ると、酒も薄まりますから」


「あなたは信じる?」


 女が私を射抜く。


「銀樹の聖域を」


 喉の奥で言葉がひとつ回る。私はそれを飲み込んで、舞台の声に置き換えた。


「夢を見るのは、女の特権ですもの。けれど――夢の入口に番人がいるのも、よく知っております」


 ノエラが肘で私をつつく。ぼかしすぎ。私は目だけで『あなたは真っ直ぐすぎるの』と返す。

 会話は踊る。三人は名を明かさない。代わりに癖が名刺になる。中央の男はグラスの脚を親指で撫でる――決裁の癖。現場より机に近い時間が長い。青年は指先に一瞬、火を遊ばせる――無意識。灯りに近づけずに消した。女は笑うたびに肩章が鳴る――重さを忘れない。肩章には微細な傷、剣ではなく鞄の金具に擦れたもの。旅と記録の人。


「北の道は、雪だけが敵ではない」


 男がぼそりと言う。


「道標が嘘をつく」


「東の道標は?」


 ノエラがすかさず乗る。


「アンデッドの方がよっぽど親切じゃない? 放っておくとこっちに来るし」


「だから(さく)を作る。火を置く。祈る」


 青年が指で空中に円を描く。炎の輪が、ほんの針先だけ灯って、すぐに消えた。私とノエラは、同時に笑う――何も見なかった、の合図。


「祈りは効く?」


 ノエラが挑発をひとさじ。


「あなたたちの祈りは、現金より効き目があるの?」


「現金は、だいたい神の次に強い」


 白金の女が即答して、わずかに唇を曲げた。ノエラが「好き」と小さく言う。彼女はこういう女を嫌いになれない。


「そういえば」


 青年が軽く身を乗り出した。


「黒い剣士団――あれが、消えたらしい」


 卓の影が濃くなる。私は氷を音のしない速さで回した。


「理由は?」


 声が上擦らないよう、音程をひとつ下げる。


「同士討ち。自滅。噂はいつも饒舌だ」


 彼はナプキンの端で指を拭う。


「敵は敵のまま死ぬのが美しい――誰かの言葉だ」


「美しいかどうかは、置いておきましょう」


 私は笑む。


「遺体を運ぶ靴は、泥に沈むばかりですもの」


 白金の女が私の横顔を見た。視線が薄く触れる。見ている。ノエラはすぐに空気を跳ね上げる。


「噂話に金は払えないよ。新しい話はないの? デーモンとか、エルフとか」


「見たことがある、と言う人もいる」


 男がグラスを置いた。丁寧に、音を立てず。


「白い枝の下、月の落ちる穴。そこには――」


「そこには?」


 ノエラが身を乗り出す。


「案内人が立つ。人ではない。けれど、人の手で金を受け取る」


 私の喉がひとつ、空を切った。ノエラは肩をすくめる。


「やっぱりメルヘンじゃない」


「メルヘンは、税がかからない」


 白金の女が立ち上がる。マントではなく、薄いショールを肩に落とした。


「いい夜でした」


「お見送りは不要?」


 私は立ち上がる。笑みは、舞台のもの。


「不用。道は知っている」


 男が外套を腕に掛ける。去り際、黒い小片が指から滑り、卓に乾いた音を残す。封蝋――割れた印章の欠片。翼。ノエラが手を伸ばしかけ、私が先に拾う。笑顔のまま、掌で反転させてポケットに落とした。


「お忘れ物。……預かっておきますわ」


 三人は何も言わない。幕がまた、短く揺れた。閉店前。灯りがひとつ、またひとつと落ち、(みせ)は夢の抜け殻みたいに静かになる。控え室。ベッドに背を投げ、私は靴を脱いだ。ノエラが隣で髪をほどき、枕に頬を押しつける。


「ねぇ、さっきの三人。怖かった」


「楽しそうに見えたけど」


「楽しかったよ。怖くて、楽しい。……私の悪い癖」


 私は笑って、彼女の(ひたい)に指で小さな円を書く。火傷の跡なんて残したくない。ポケットから欠片を取り出す。割れた封蝋。黒い翼。


「黒烏?」


 ノエラが目を細める。


「……似てる。でも、ただの鳥かも」


「鳥は空で羽ばたくもの――」


 私は欠片を掌で閉じる。


「けれど、この黒は机の上でも飛ぶ」


「詩人ぶらないで」


 ノエラは笑って、私の肩に顔を寄せる。


「神さまがいるなら、アンデッドは全部寝かせてくれる。いないなら、私が寝かす。……それでいいでしょ?」


「ええ」


 私は灯りを片方だけ落とす。部屋は半分だけ夜になる。


「もし、それでも本当にいるなら――森の奥にも、机の奥にも」


「じゃあ、明日は机の方から探そう」


 ノエラが欠片をつつく。


「マダム経由で帝国の印章台帳。ミレイユにも」


 名を口にした瞬間、胸の中で何かがきしんだ。ミレイユ――。監査局。


「続きは、明日」


 ノエラが毛布にもぐり、私の腕に脚を絡める。


「ね?」


「ええ。明日」


 私は彼女の髪に口づける。呼吸が同じリズムに落ち着く――仮面のないリズム。外で風が一度だけ扉を叩く。夜の声。私は目を閉じた。欠片は掌で、冷たい翼のまま。

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