第四十話 銀樹の影
舞台を覆うのは、赤と金の饗宴。天井のシャンデリアには幾十もの燭台が吊り下げられ、蝋は流れ落ち、油煙が重たく天井にたなびいている。その霞の向こうで、赤絨毯に縁どられた天井画がかすかに浮かび上がっていた。描かれているのは古い英雄譚――竜を討ち倒す精霊。だが煤と埃に塗り潰され、残されているのは血飛沫の赤だけだった。
鏡張りの壁は観客の姿を増幅させ、艶やかな女たちの笑みと、酔いで頬を紅潮させた男たちの顔を幾重にも映し出している。香水と古酒、汗と煙草の煙。その甘ったるさと苦さが混じり、鼻腔に絡みついた。
音楽が鳴る。低く、艶のある弦の音。拍子木が乾いた音を響かせ、私とノエラは舞台へ歩み出た。視線が一斉に集まる。ドレスは闇を抱く黒に、月光を散らしたような銀糸が走る。裾がひとたび翻れば、膝から足首にかけて白磁のような肌が覗く。私は笑みを仮面のように口元に掛け、ノエラと手を取り合った。
白いドレスが彼女の小麦色の肌をひときわ鮮やかに浮かび上がらせていた。黒く絹のように細い髪は舞台の空気に溶け込むように揺れ、光を吸い込みながら滴るように流れていく。その姿に、一瞬、シェルツの腕に抱かれていた時の感覚が蘇る。だが今、私の前にいるのはノエラだ。少女のあどけなさを抜け、すでに女の体をまとい、まばゆいほどに美しい。
ノエラの頬はまだ緊張に赤く染まっているが、視線は確かに私を追っていた。私の動きに合わせて指先が揺れ、私の腰のひねりにあわせて呼吸が乱れる。その黒曜石のような瞳は、観客ではなく私ひとりに注がれていた。
――彼女の視線が、肌をかすめるように纏わりついてくる。
息を詰める。舞台に立つ私を、ノエラが手放すまいとする熱が確かにある。私はそれを受けとめるように、あえて一歩前へ出て彼女を導いた。その刹那、ノエラの体がしなやかに追従し、彼女自身もまた、私のリードに酔いしれているのが伝わってきた。音楽に合わせて一歩。腰をひねり、腕を広げる。ノエラの指先が私の肩をなぞり、布と布が擦れる音が混ざる。歓声が上がる。
観客の間から金貨が舞う。硬い音を立てて床に散らばり、笑い声と混じる。その響きに、私はふと遠い戦場を思い出し、胸の奥でかすかに笑った。
――人はいつでも、戦場のように金を投げる。
背後で女たちが息を呑む気配がした。ホールの端にいるキャストたちが、踊りを忘れたようにこちらを見つめていた。
「あの二人、絵巻物から抜け出したみたい……」
誰かが囁く声。舞台に立つ私の耳に届き、それさえも演出の一部に変わる。マダムが姿を現した。扇子を胸の前でひらりと返す。その所作ひとつで、ホールの空気はたちまち統率される。赤と黒のドレス、散らした宝石の光。笑みは深い夜の湖のように静かで、しかし誰も逆らえない重さを帯びていた。
――舞台の幕が一度下り、袖の薄暗がりに私とノエラだけが残された。
互いの鼓動がまだ早い。額にはかすかな汗。舞台照明の余熱が二人の肌を赤く染めていた。私はノエラの肩にそっと触れる。
「ノエラ……美しくなったわ」
彼女の目が驚きに見開かれる。頬の赤は舞台のせいか、それとも――。ノエラは唇を噛み、息を整え、それから小さく笑った。
「クレナこそ……頼もしくなった」
その言葉が胸に落ちた瞬間、私は衝動に動かされるように顔を寄せた。闇に溶け込むような口づけ。ノエラの瞳が一瞬揺れ、体を離そうとする気配が伝わった。だが、私はその細い体を強く抱き寄せた。唇を重ね直し、拒絶の力を奪い取るように。ノエラの指先が震え、やがて肩に置かれた手から力がほどけていく。抗いの気配は薄れ、代わりに温もりが返ってきた。
――二人の間に、ただひとつの呼吸が残った。
奥の方で、音もなく、入り口の扉が開いた。低い軋みと共に、黒革の外套を纏った影が現れる。ボスだ。背に刻まれた龍の刺青は今は隠れているが、その巨躯は隠せない。空気が数度、冷え込んだように感じられた。観客は誰からともなく沈黙し、マダムは音もなく身を引く。扇子を半ば閉じ、優雅に頭を垂れた。そのまま彼を奥の間へと導く。女王のような彼女が退くとき、空間は新たな支配者のものへと変わった。
踊りは終わり、舞台の光が背中を離れると、仮面のような笑みは静かに剝がれ落ちる。息を深く吸い込み、肺を満たすのは酒と煙と香の匂い。深夜を過ぎ、客は一人、また一人と去っていった。金貨が残り、グラスには飲みかけの酒が揺れている。シャンデリアの光はまだ燃えていたが、ホールの熱気はすでに静まりかけていた。
キャストたちはソファに横になり、しばし休憩をとっていた。煌びやかなドレスの裾をたくし上げて脚を伸ばす者、化粧を直す者、笑いながら囁き合う者――舞台裏の女たちの素顔がそこにあった。その奥のソファに、私とノエラ、そして制服姿のボーイたちが集まった。ジャロは相変わらず片目の痣を隠すように手で額をさすり、ミゲルは耳の銀のピアスを指で弾きながら、片手でグラスを磨いている。彼らの逞しい体は場違いなほどだが、今では店に溶け込みつつある。
「今日の投げ銭はすごかったな……」
「クレナさんとノエラちゃんのステージ、あれは反則ですよ」
笑いが広がる。ソファの灯の中、マダムが音もなく腰を下ろした。営業が終わると一転して、指先で長い髪を払いのけ、そのまま大胆に胸元をさらす。磨き上げられた宝石のような微笑み。場の空気が一瞬で引き締まる。
私はグラスを持ちながら、ふとノエラと視線を交わした。彼女の瞳はまだ火照りを帯び、けれどもそこに確かな芯の強さが宿っている。頬の赤みは残ったまま――舞台の余韻か、それとも別の熱か。
「……収穫はあったのか?」
私はボスに向き直り、軽く問いかける。踊りのことではない。仕事のことだ。ソファに沈んでいた巨躯が、ゆっくりと体を起こした。片肘を背もたれに預け、分厚い手でグラスを弄ぶ。揺れる琥珀色の液の中に、彼の目は少しも笑っていなかった。
「北に行っていた。観光だよ」
「観光だって?」
私は片眉を上げる。
「そんな趣味を持っていたとは驚きだ」
そこでマダムがすっと割って入った。豊かな胸元をそのままさらし、唇に微笑を刻んで。
「あなたが――銀樹の聖域を信仰しているって噂。本当なの?」
ノエラが身を乗り出す。眉が跳ね上がる。
「銀樹の……聖域? エルフ? まだそんなメルヘンを信じてるの?」
私は笑みをつくりながら、肩をすくめる。
「ボスがそんな童話を信じてるなんて、意外ね」
ノエラも茶化すように笑った。
「ほんと、ロマンチストだよね」
しかし、その笑いを断ち切るように、低い声が響いた。
「――実際に、俺は会ったことがあるんだ」
ボスだった。いつの間にかグラスを置き、真顔で前を見据えている。目の奥に灯るのは、酔いではなく記憶の炎。
「銀樹の奥。白い枝の下で……人ならざる者を。俺は、目の前で見た」
場が凍った。ノエラの笑みが止まり、私は思わず視線を伏せる。軽口ではなく、重い影が胸の奥に落ちる。ボスは語り始めた。まだ子供のころ、迷い込んだ森の奥で、白樹の下に佇む女に出会ったのだと。透き通るような肌、髪は銀糸、目は夜の湖のように深かった。その一瞬で、彼は人の女に抱く欲を失った、と。
マダムが低く笑った。
「だからあなたはいまだに独身なの? 悪魔に魅入られたみたいに……。私はいつでもあなたと添い遂げたいと思っているのに」
ボーイたちが茶化すように口笛を吹いたが、その場の誰もが本気で笑えなかった。ボスの瞳に浮かぶ熱は、酔いの産物ではなかったからだ。私はグラスを唇に運びながら、横目でノエラを見る。彼女もまた、冗談で片づけられないと感じている。その瞳が私と絡み、私の胸の奥に冷たい疑念を刻む。
――北。銀樹の聖域。エルフ。そして黒烏。
まだ見えぬ線が、確かにどこかで結ばれようとしていた。




